2017年12月30日土曜日

北朝鮮制裁と中ロ両国

12月18日にトランプ米大統領は政権初の国家安全保障戦略を発表した。そこでは中国とロシアを現状への「修正主義勢力」として厳しく批判し、中ロ両国はこれに激しく反発した。しかし、これにより米国と中ロとの関係が今後悪化するとの予測は当たらないのではないか。

確かに米国はロシアとの間にクリミア併合以来の厳しい対立があり、中国との間には海上の支配権をめぐっての争いがある。しかしイスラム過激派によるサンクトペテルブルグの寺院の爆破計画が米国の通報により未然に防がれたことは、来年の大統領選挙で再選を狙うプーチン氏にとっては、本心からの感謝に値する。トランプ政権がプーチンのロシアに本当に敵対的であればわざわざテロ情報をロシアに知らせるはずがないからである。他方、中国にとっては米国は海上発展上の手強いライバルであるが、経済的には多大の利益をもたらす相手国でもある。

プーチン氏や習近平氏のようにえげつない手段を使ってでも権力をつかんだ指導者は、オバマ氏の人道主義よりもトランプ氏の本音の「取引」の方が共感しやすい。いわゆる「ケミストリーが合う」と思う。

それにしても米国にとっては北朝鮮の核やミサイルの脅威の除去こそが最大の目標であり、その点で9月と今月の二回の安保理の北朝鮮制裁決議案への中ロ両国の賛成は大きい。もっとも経済制裁の有効性には疑問視する向きもあり、中ロ両国の今後の対応次第の面もあるが、両国とも北朝鮮のために対米関係を悪化させたくないはず (  経済面だけでも ) 。個人的願望も混じるが、私は中ロ両国とくに中国が本気で北朝鮮制裁に協力すると思う。

P.S.    すでに投函した来年の年賀状は写真版の表面にボールペンで題名の記入が困難なため、墨の?ベンを使いましたが、こすると簡単に汚れます。最初から汚れたのは一枚も出していないことをブログ読者だけでも知って欲しい!

2017年12月26日火曜日

大相撲の混迷

日馬富士の暴力事件に発した大相撲の騒動は貴乃花親方の処遇を除けばほぼ終結しそうである。当事者の立場により細かい部分の真相は食い違っているが、もう意外な結末ということはあるまい。

これまでこのブログで書いたように私は日馬富士の相撲が好きであり、人物も真面目と感じていた。今でもその評価は変わらないので彼の引退は残念であり、本人も国籍を変更してまで親方になる方向だったと聞く。しかし横綱が暴力行為に及んだとすれば引退は止むを得ないかも。

白鵬がその場に居合わせながら制止しなかったとして減俸処分となるという。俊敏な日馬富士の突発的行動をどの程度制止出来たかには疑問もあるが、最近の白鵬の横綱らしからぬ取組やその後のマナーには目に余るものがあると感じていた。今場所も頻発した張り手とかちあげ (  特に前者 ) は48手では認められているかもしれないが横綱としては見苦しかった。とりわけ遠藤との取組は彼の高い人気が気に入らないのか張り手にかちあげと気品も何もあったものではなかった。優勝40回し一人横綱として角界を支えたとメディアが持ちあげ、本人もそう思っているようだが、相撲の評価は100米を何秒で走ったというような絶対的な基準ではない。彼がいなければ日馬富士や鶴竜や稀勢の里の優勝回数が増えただけである。

貴乃花親方はモンゴール出身力士の現状に危機感を抱いて頑なな態度をとってぃるのかもしれない。しかし国籍が問題なのてはなく、あくまで個人が問題なのである。もっと説明を尽くす必要がある。観客席も日本人力士に一斉に拍手を送るといった行動は慎まなければならない。


2017年12月24日日曜日

「シェール革命」のもたらすもの

今日の読売新聞に、「『シェール革命』地政学激変」との見出しの米国の著名な政治学者ジョセフ・ナイの論文が2ページにわたって載っており、米国におけるシェールオイルやシェールガスの生産が中東諸国との勢力バランスを同国に有利に変えつつあると説いている。ナイはトランプの米国大使館のエルサレム移転決定に直接には言及していないが、シェール革命が米国の自信を回復させたことを強調し、それが「地政学( の) 激変」をもたらしたと説いているのである。

これまで米国を含めて世界中が中東の石油に大きく依存しており、中東諸国の政治が腐敗しておろうが女性の人権が無視されていようが内政には口を挟まなかった ( 挟めなかった )。それどころかアラブ民族の統一による原油価格決定力の上昇を恐れてその政治的分立を助長してきたとさえ言えよう。しかし、「このシェールブームは米国をエネルギー輸入国から輸出国の座に押し上げた」「要するにエネルギー地政学における地殻変動が起きているのだ」とナイは説く。

今後も中東における政治動乱で原油価格の上昇が起こることはあろう。しかし、ナイによれば「シェール開発では井戸は小規模かつ安価で、価格の変動に応じて開くのも閉めるのも簡単」である。つまり米国は石油の価格決定力をある程度中東から取り戻したのである。

トランプ氏の米国大使館のエルサレムへの移転決定は第一には彼自身の国内評価の向上を狙ったものだろう。しかし石油をめぐるこの地政学的変動がトランプとその背後の米国を大胆にしたことは十分考えられる。中東原油への依存度が極めて高い我が国にとって米国の価格決定力の強化は望ましいが、同時にそれが中東諸国の遅れた政治の近代化を促すよう国際協力に努めるべきだろう。

P.S.  前回、「国境線の交代」としたのは「国境線の後退」の誤りです。単純なミス!

2017年12月20日水曜日

四川省の奥地に生きる

12月10日に放映されたNHKスーパープレミアム『秘境中国  謎の民  天頂に生きる』を録画で見た。四川省の楽山 ( 省都成都の南 ) のさらに奥地、標高3000メートル余りの大涼山の中腹に住む少数民族イ族の現在を紹介したルポルタージュである。

世界の四大文明の発祥地といえば、エジプト、メソポタミア、インドと並んで黄河流域が歴史教科書の常識だった。しかしごく最近、黄河文明とほぼ同時期に長江文明が存在したことが明らかになりつつある。古蜀国とも呼ばれるこの文明は北からの秦、ついで諸葛孔明の蜀の攻撃を受け突如歴史から姿を消したが、現在のイ族がその末裔であるとの説が有力となりつつある。

寒冷地で蕎麦と放牧で生計を営むイ族の生活は厳しく、子供たちは麓の町の寄宿舎に住み学校に通う。そこで中国語を習得する子供たちは他郷に職を求めることになる。わが国で先ごろ放映された『ひよっこ』の時代を思わせる。

町で始めた焼肉商売で1ヶ月に村の1年間の収入を稼いだ村長の息子は、村の発展のため食肉工場を誘致する計画を立てるが、父親はそれによる貧富の差の拡大、共同体の崩壊を恐れて許さない。

今や米国に次ぐ経済大国となった現代中国の多様さを教えてくれる力作だった。この国を統治する政治家の課題の複雑さには同情を禁じ得ないとも感じた。国が大き過ぎるためとも言えるが、国境線を交代させる国家指導者を許す国民は少ないだろう。マイノリティ文化は大いに保護されるべきだが、彼らに対する中国語教育が少数民族の子女の活躍の可能性を拡大する側面は否定できない。ともあれ、困難な生活条件の中で学ぶ子供たちの明るい未来を願うばかりである。

2017年12月17日日曜日

「横断歩道 止まらない?」日本

今朝の朝日新聞に「横断歩道   止まらない?」との見出しで、投書をめぐっての読者との討論全三回の初回「実感は」が載っている。発端はロンドン生まれで在日20年以上の英国人が、日本人の運転する車が信号のない横断歩道で歩行者のため停止しない、オリンピックで来日する外国人の人身事故を招きかねないとの投書である。「あなたの実感は」との質問に日本人回答者346人の3分の2がイエスと答えている。

誠にもっともな忠告であり回答である。私自身、20年ほど前スイスで交通道徳の高さに感心した記憶がある。ところがそのまた10年ほど前の中国江南ツアーで、東京では車がきちんと止まってくれたと女性ガイドが目を輝かせて語り、中国は歩行者優先ではなく「勇気優先」なのですと語った。  中国旅行の経験者には説明不要だろう。

もっとひどい国があるから安心しろというのではない。しかし、加藤雅之著『あきれた紳士の国イギリス』( 平凡社新書 2017年 ) は、「車に乗ればクラクションを鳴らしまくり、狭い道も猛スピードで通りぬけ。警察官も守らない歩行者信号」と英国の交通モラルの低さを罵倒?している。「あとがき」に感想を歓迎してメールアドレスが載っているので反論したら丁寧な返事があり、1960年代と2010年代の違い、大学都市とロンドンの違いということで双方が納得して矛をおさめた!

加藤氏の住むウインブルドンは高級住宅地のはずだが、最近のマンション火事で多くのマイノリティ住民が亡くなった現地でもあり、ここでも時代の変化は激しいのだろう。英国のEU脱退の原因も昔のおっとりした空気を懐かしむ気持ちが働いたのか? 牽強付会と言われれば反論する気は無いが...........。のこる2回が気になる。

2017年12月13日水曜日

トランプのギャンブル

トランプ大統領による米国大使館のエルサレム移転宣言から一週間が過ぎた。中東諸国だけでなくヨーロッパ諸国からも反対されたこの行動には、パレスチナでの抗議行動の激化との予想と、それが長続きしないとの相反する予想があった。まだ結果は見通せないが、どちらにせよ中東和平の仲介者としての米国の立場は大きく損なわれた。

もっともこれ迄の米国の仲介者的立場は心ならずもだった。今度のトランプの行動が米国内での彼の危うい立場を逃れるためのギャンブルだとしても、米国議会は20年前には大使館移転を決定しており、半年前には大統領に実行を迫る上院決議までしていた。我々は米国におけるユダヤ系移民の影響力の巨きさを再認識すべきなのだろう。

新聞各紙の解説記事にあるように、イスラエル国家成立の発端はパレスチナへのユダヤ人の帰還を訴えた19世紀のシオニズム運動にあり、第一次大戦中のバルフォア宣言が大国イギリスの支持をもたらした。しかし大戦後のパレスチナを委任統治した英国はアラブ系住民との紛争激化を恐れてユダヤ系移民の抑制に努めた。米国映画『栄光への脱出』( 1960年 ) は英国の妨害を跳ね除けてのユダヤ人の帰国事件 ( 1947年 )を扱っている。

翌1948年の国連決議によるパレスチナの分割 ( イスラエルの建国 。エルサレムは国際管理下に置く ) は、ホロコーストに対するヨーロッパ人の負い目とおそらく関連しており、アラブ系住民にとっては不本意の極みだったろう。しかし、その結果としての数次の中東戦争はアラブの立場をますます不利にした。とりわけ1967年の第三次中東戦争はイスラエルによるエルサレム支配を生む結果となった。当初、イスラエルが追いつめられたように見えたとき、PLO指導者シュケイリ ( アラファトの前任者 ) は、解放戦終了後、生存ユダヤ人たちは生まれた国々への帰国を許されるが、「私の見るところでは生存者はいないだろう」との不気味な予言をしていた。

現在望まれる解決は当初の「エルサレムの国際管理」だろうが、パレスチナ人による東エルサレムとイスラエルによる西エルサレムの統治が現実的解決なのだろう。そのためにもイスラエルによる入植地拡大に米国は口先だけでなく本気で反対しなければなるまい。

2017年12月11日月曜日

「さらばハイセイコー」

先週の朝日新聞別刷の「be」(  12月9日 ) の連載「もういちど流行歌」は1975年3月の読者のベスト15で2位となった「22才の別れ」の誕生の裏話が載っている ( 1位は「年下の男の子」)。「22才の別れ」も心に残る曲だと思うが、個人としては8位の「さらばハイセイコー」が忘れられないのは当時のハイセイコー人気を懐かしむ故だろうか ( 6位の「昭和枯れすすき」も嫌いではない!)。

地方競馬 ( 大井 ) で勝利を重ね異例の?中央競馬昇格を果たしたハイセイコーの人気は競馬場に十数万人が詰めかけるほど。メディアがブームを作った面もあったが、根本的には非エリートの大衆にとってエリートの馬たちを次々に敗るハイセイコーに自らの願望を重ね爆発的人気となったのであり、私にもよく分かる!

しかし、中央競馬で連勝したのち出場したその年の日本ダービーでは期待を裏切り3着だった。長距離が得意でなかったのだろうか。結局、ハイセイコーの活躍は半年と続かなかったが大衆人気は衰えず、2年後の引退に際し騎乗の増沢末夫騎手の歌う「さらばハイセイコー」がベストテン入りした ( オリコン9位とか ) 。のち子どもの「カツラノハイセイコ」( 馬名は9字までの制限 ) がダービーで優勝し父の悲運?を償ったエピソードはこのブログで紹介したような気がする。 

同じように非エリートからのし上がった田中角栄が「今太閤」として大衆の人気を集めたのもこの頃である。しかし、当時大新聞の記者と話したら彼は「角栄なんて」という態度だったので驚いた。今から思えば、熱心な日中友好派だった彼の新聞はすでに角栄のいかがわしい金作りの裏面を知りながら「日中友好のため」に今太閤人気に協力していたように思う。のち日中国交回復を実現した角栄は同紙にとりすでに用無しとなっていたのではないかとの疑念を禁じ得ない。

2017年12月6日水曜日

「実感」はあてにならない

前例のないほどの金融緩和をすすめたアベノミクスは成功だったのか、そうでないのか。新聞各紙の世論調査ではアベノミクスに対する肯定的評価は最近になって否定的評価を多少とも上回るようになって来たようだ。公約の2%のインフレは実現しそうもないが景気の拡大はゆっくりとだが続き、失業率の低さは先進国の中で断トツと言ってよい。肯定的評価が高まったのはうなずける。

ところが一部の世論調査では相変わらず景気回復の「実感がない」との項目が高いパーセンテージを占めている。それを利用してとまでは言わないが政府も野党も消費税の2%増税の政党間合意を先延ばしすると選挙公約に掲げ、事態はその方向に向かいつつある。

今朝の朝日新聞のコラム『経済気象台』で、「穹」とのペンネームの筆者が「実感なき景気の拡大」と題して書いている。タイトルの与える印象とは逆に筆者は「日本経済は好調だ」とし、「景気は実感ではなく成長率などの客観的な指標で判断する必要がある」「実感に乏しいからといって、いつまでも財政赤字を続けているようでは、生まれてくる子どもたちに合わせる顔がない」と主張している。私も同感である。

私はこれまでのアベノミクスは評価できると考えている。しかし、実感などという客観性のない印象に基づきこれ以上財政緩和を続けて行って良いとは思わない。国民の実感と言っても多分にメディアに吹き込まれたものではないのか。安倍内閣は総選挙で絶対多数を得た今こそ、安易な人気取り政策と訣別すべきであり、さなければアベノミクスへの後世の評価は低いものになるだろう。

2017年11月29日水曜日

大企業の検査不正

口火を切ったのは自動車産業だった。日産ついでスバルで法規違反の検査逃れが明らかになった。と思ったら神戸製鋼、三菱マテリアル、東レと日本を支える大企業で似たような検査違反や品質違反が存在したと報道されている。

素材産業などのことは私には分からない。しかし自動車産業では米国での信頼度調査のベストテンの半数以上はいつも日本車である。検査不良のはずの日本車の評価が高いのはなぜか。それでは欧米の自動車はどうなのか。

聞くところによれば、米国では我が国のような最終検査はしないとか。ヨーロッパは国により違いはあろうが、今回の事件で日本の自動車会社に対する損害賠償の動きがあるとは聞かない (タカタの場合のように ) 。少なくとも我が国のメディアの報道にも問題があるのではと私は感じていた。
今日 ( 11月29日 ) の毎日新聞は、「完成車検査  『実効性』を」との見出しで「現行制度は形骸化しているとの指摘もある」との記事を載せている。

同紙によれば、「車の生産管理や部品の精度は年々進化を続けており」、「このため完成品検査で見つかる不具合はほとんどない」。今回の事件により政府は検査体制の再検討を約束しているが、「自動車メーカー側には........検査自体の簡素化を求める声もあり、単なる規制強化には反発も予想されるという。

何のことはない。検査体制そのものが時代に合致しないものになっているらしい。それなのに「世論」に弱い役所が規制強化に乗り出せば、屋上屋を架すことにならないだろうか。メディアももっと実態にそくした報道をすべきではなかろうか。

2017年11月26日日曜日

改元は宮内省の専権事項ではない

平城天皇の退位にともない政府は改元の期日と態様を早急に決定せねばならない。最近まで、年初の1月1日か年度がわりの4月1日が有力と伝えられていたが、このところ意外にも5月1日が有力視されているという。納得できない。

1月1日は年末年始の儀式や宮中祭祀が立てこむとの理由で宮内庁が反対し、4月1日は予算案審議や統一地方選挙と重なるので避けたいとの政府の意向だという。しかし世論調査でも1月1日支持が圧倒的だった。いつまでも旧来の宮中祭祀を墨守することなく簡素化すれば良い。だいたい、昭和から平成への移行に際しても宮中祭祀など国民にろくに説明もされなかったと記憶する。国民の利便と納得を優先すべきである。

それ以上に問題なのは退位後の両陛下の待遇である。読売新聞 ( 11月25日 ) によれば、宮内庁は財政当局などに「30年間天皇を務められた方にふさわしい予算と体制」を要望しているという。そして「政府内では『尊重せざるをえない』との声が強い」とある。具体的には「天皇、皇后両陛下を支える79人 ( 今年4月現在 ) の『侍従職』をほぼ『上皇職』に移す方向となっている」という。

そんな理屈の通らない話があろうか。高齢で仕事が重荷になったから退位する人 ( それは理解できる ) に何で在位中の人員を配置する必要があるのか。宮内庁が自分の権能を維持 ( 実質的には拡大 ) したいだけではないのか。私はそれは両陛下のご意向に反すると固く信じる。

君主制廃止論者でない私でも到底納得しかねる。他紙はなぜ問題として報道しないのか。それとも『読売』の記事は誤報なのだろうか。



2017年11月23日木曜日

アマゾンの脅威

アマゾンの脅威と言っても南米のアマゾン川の氾濫でもなければ密林の過伐採でもない。インターネットを利用して流通革命を起こしたアマゾンのことである。

中小の書店が街から姿を消しつつある ( 書店だけではないかも )。最寄り駅の周辺の三軒が一軒になった。私など買う前に一度手にとって見ないで新刊書を買う気になれないが。しかし、アマゾンの脅威はそれだけではない。

多年世話になってきた蔵書もあの世に持っては行けないので就活の一環として手放そうと思ったが、状況がこの十年間に一変していた。遠方 ( と言っても都内 ) の古書店は十年前には引き取りに来たのに、今回は宅配便などを利用して送ってくれないと引き取れないという。止むを得ず以前葉書をもらった隣市の古書店にとりあえず和書だけでも引き取ってもらったが、価格は昔の十分の一。入手価格と比べれば雀の涙としか言えず、それでも感謝して引きとってもらった。

いまどき大学や研究機関はタダでも受け入れたがらない。同学の後輩や教え子ら若い人たちはたいていマンション住まいなので欲しくても受け入れるスペースがない。

なにより、古書の売買を生業にしている古書店がタダに近い商品を仕入れたがらないのは珍現象としか思えない。これが流通業の進歩や改善とどうして言えるのか私には不可解である。

2017年11月20日月曜日

俳句評論とは?

今朝の毎日新聞に櫂未知子なる俳人の「俳句月評」という文章が載っていた。私自身は俳句も短歌も詠まないので新聞の俳句欄と短歌欄はいつも素通りする。まして俳句論や短歌論を読むことはない。しかし、「鶏頭」という見出しが目に入ったので、子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」をどう論じているのか気になって読んだ。ご存知の通り病臥中の子規が庭の鶏頭を詠んだ平明過ぎるほど平明な句である。

櫂氏の文章は、予備校で古文を教えている松王かおりという人が第37回現代俳句評論賞を受賞したことを紹介している。松王氏は古文解釈の観点から「ぬべし」は「きっと~するだろう」、「~するに違いない」という「未来に向けての視点」であるとし、「『未来』、それも自らが不在となって庭の鶏頭に思いを馳せた句だといえるのではないか」と評しているという。櫂氏はこれを優れた解釈と評価するようだ。

面白い( 深い?)解釈ではある。しかし古文解釈はともかく、「ぬべし」はこの場合「だろう」程度の軽い意味で使われているのではないか。私には単純な叙景詩としか解釈出来ないが、それでは「俳句評論」にならないかもしれない。

しかし、私には平明ではあるが何処か心に残る句で十分である。無論、「柿食えば......」ほどの名句ではないだろうが。原文も読んでいない、そんな単純な読みしかできない素人と言われれば一言もないが。

2017年11月19日日曜日

プチ・ナショナリズムもほどほどに

数日前、スピードスケートW杯のヘーレンフェイン大会の女子500メートル ( 1000メートル?)で小平奈緒選手と高木美帆選手が一位と二位を占め、朝日新聞の夕刊にかなり大きな ( ハガキ大 ) カラー写真が載った。しかし二人の隣に写っている三位の選手の名前も記録もどこにも載っていなかった。翌日の朝刊でようやくそれらを知ることができた。他紙も大同小異だった。

今日の朝刊に小平選手のスタバンゲル大会での500メートル優勝のニュースが大きく報じられた。高木選手の記述がないのは出場しなかったためか。二位と三位の選手の名前も記録も載っておらず、写真は小平選手一人のものだった。他の全国紙では一紙だけが二位の選手を紹介していた。

たかがスポーツと内心は思っているのかもしれない。読者は求めていないと弁解するかもしれない。しかし自国選手と他国選手でこれほど差をつけるとは.......。真のスポー精神に欠けると私には感ぜられる。記者が何かの元スポーツ選手だったらライバルの健闘にも配慮したのではないか? 新聞が金メダル至上主義を助長してはなるまい。

わが国でも各種の国際スポーツ大会が相次いで開催される時代である。自国選手の活躍に拍手を送るのも度を過ぎては国家国民の品格が疑われよう。

2017年11月17日金曜日

ジンバブエの政変

アフリカ大陸南部のジンバブエでムガベ大統領に対する軍部のクーデターが起こった。さいわい未だ流血事件に至ってはいないが、やはりクーデターと呼んでよかろう。

1965年秋、私が留学先の英国に着いて新聞を手にするとUDIという大活字が紙面におどっており、意味がつかみ兼ねた。二、三日してようやく英国の植民地南ローデシア ( 当時 ) の白人政権のスミス首相が、英本国からの白人支配改革要求に反抗して「一方的独立宣言」Unilateral Declaration of Independence を明日にでも発する事態と理解できた。こうして英国からの独立が実現するが、けっきょく数年後白人政権は倒れ、以後30年以上続くムガベ政権が誕生した。

当時ムガベ氏は独立闘争の英雄と遇されたが、その後人気取りのため同国経済の主体である白人経営の大農場を没収し農民に分配した。しかしこれ迄企業経営の経験を持たぬ現地農民に農場の経営が出来るはずもなく、ジンバブエ経済は大混乱に陥り、「天文学的数字」と称された第一次世界大戦後のドイツのインフレをしのぐインフレを生んだ。さらに超高齢の自分の後継者に妻をつけようとして今回のクーデター騒ぎとなった。

これまでのこのブログの読者なら、私が独裁とくに開発途上国の独裁に甘いと感じておられよう。内戦やそれに近い混乱に比べれば独裁イコール悪とまでは言い切れないし、先進国側のからの独裁批判がそうした内戦や混乱を産んだとき、先進国が責任を取れるとは思えないからである。

とはいえ、自分や一族の安寧や栄耀栄華のため国民の幸福を忘れた政治が正当化されることはない。今回のジンバブエ軍部の行動が流血なきムガベ支配終焉に結果するよう願うばかりである。

2017年11月16日木曜日

紅葉の季節

紅葉の季節となり、NHKの朝のニュース番組で連日? 各地の紅葉名所を中継している。これまで京都の天龍寺と南禅寺と京都以外のどこか一箇所 ( 地名は忘れた!) の中継を見た。昨今の京都は内外の観光客の到来で宿の確保もままならない状態と聞くので、行けない人たちには良いプレゼントになったろう。

私自身は秋の紅葉よりも春の新緑の光景を好むので京都の紅葉の記憶はあまり無いし、同じ紅葉でもひとが植えたのではない山地の紅葉ほどには写真に撮りたいとは思わない。

今秋は、結果は大した事でなかったが病院での検査に日数を取られたので遠隔地は断念し、遅まきながら奥日光に一泊旅行に出かけた。平地では台風一過の秋晴れで、東京では初木枯らしが吹いたが、日光に近づくと天候が一変し、いろは坂からは粉雪が舞いだした。中禅寺湖畔の紅葉もベストの時期を過ぎていた。夜には雪が止んだので積雪量は大した事はなかったが、チェーンの用意はなかったので帰路の不安は走り出すまで続いた。

私の乏しい経験では紅葉の名所として大雪山の銀泉台がスケールが大きかったが、日光の紅葉はそれほどとは思わなかった。しかし数年前、中禅寺湖の遊覧船に乗って、日光が紅葉の名所であることを納得できた。船上で紅葉に向けてカメラを構えたら、同じようにカメラを構えた隣の男が、一週間前はもっと良かったとのたもうた。親切な男というべきか、嫌味な男というべきか!

2017年11月6日月曜日

北朝鮮の核とミサイルへの対処方法

トランプ米大統領のアジア歴訪が始まった。その目的は北朝鮮の核問題と中国や日本との貿易不均衡問題の解決であるとは衆目が一致している。我が国にとってはとりわけ前者が深刻な問題である。

『毎日』( 11月5日 )は「トランプ歴訪と北朝鮮問題」と題して社説で論じている。我が国にとっては米国が自国を攻撃されないとの条件で北朝鮮の核保有を容認するならば最悪の「解決」であり、社説も「核武装を容認すれば北朝鮮は国際社会の善き一員となり、日本にも友好的な態度をとるというのか。逆により威嚇的になる危険性を考えるべきである」と反対する。私も全く同感である。

さらに社説は「相手の要求を簡単にのめば、さらに理不尽な要求を突きつけてくるかもしれない。これはナチス・ドイツに対する欧州諸国の領土妥協が裏目に出たミュンヘン協定 (1938年)の教訓だ。北朝鮮に対しても安易な「融和政策」は危険である。私たちは緊張緩和にも対話にも反対しない。だが脅威を後世に残さないためには細心の注意が必要だ」と続ける。

「ミュンヘンの宥和 ( 融和 )」に対し最も早く批判の書を著した一人はジョン・F・ケネディである。彼の最初の著作『英国はなぜ眠ったか』(  邦訳 日本外政学会  1963年刊 )はハーバード大学の卒業論文に手を加えて出版された。それ以来、「行動にはつねに危険や代償が伴う。しかしそれは、行動せずに楽を決めこんだ時の長期的な危険やコストと較べれば、取るにたらない」は彼の生涯の信念であった。

のち、キューバ・ミサイル危機に際して米国大統領としてケネディはこの信念に従って行動し、ソ連がキューバに配備したミサイルの撤去を要求してキューバを海上封鎖した。息づまる米ソの対決でケネディはフルシチョフに勝利した。その時の安堵感を覚えている人は少なくないだろう。フルシチョフの英断? ( ソ連の核兵力は宣伝ほどには強力でなかったとので譲歩せざるを得なかったとの説もある ) に対しケネディはやがてトルコ配備の中距離ミサイルを撤去してフルシチョフの体面が保てるよう配慮した。

2017年11月3日金曜日

知識人の陥穽

以前に一度紹介した多摩地方のミニコミ紙『週刊もしもししんぶん』連載の「シルクロードをつっぱしれ」の最近号 ( 11月3日 )はトルコからギリシアへの空路による移動だった。アテネのレストランの印象は「イスタンブールと大違い。ぼろうとしない。釣りもちゃんと返ってくる。大体、価格表示がきちんとしている。ギリシアとトルコは、歴史的に因縁が深く、互いに影響しあったのに、どうして、こんなに差がついちまったんだ」とある。アテネに住んだことのある人は「それほどには違わない」と言うかもしれない。私には比較できない。

1970年代の中ごろ、さるイギリス史研究者がインド訪問記を著し、読書界でかなり注目された ( 吉岡昭彦 『インドとイギリス』 岩波新書 ) 。著者がインドへの機内で隣席のイギリス人女性に、「インドの今日の貧困は、イギリスの責任を抜きにしては考えられない」と訪印の目的を語ったのに対し、相手は「あなたは、イギリスがインドに進んだ文明をもたらし、良い統治を持ち込んだことを忘れてはなりません」、「インドに港をつくり、鉄道を敷設し、道路をつけたのはイギリスです」と反論した。彼女の物質文明中心の反論が自己満足的で鼻につくとして本書が読書界で共感されたのであろう。

しかし、その後何年かして某出版社のPR誌で著者が西欧からトルコまで、当時は共産圏だった東欧諸国を旅した報告記が載った。著者は西欧から遠ざかるほどに強まる役人の腐敗 (袖の下の要求)や非能率に怒りを募らせていく。かつてアジアにもたらした諸悪の元凶として西欧を糾弾した人が.......。

今回のブログに誤りがないよう、『インドとイギリス』を久し振りに手に取ったら、ラジモハン・ガンジー (マハトマ・ガンジーの孫 )教授の「アジアの悲劇と流血は自らにも責任」との見出しのインタビュー記事 ( 『朝日』1995年6月25日 ) の切り抜きが挟まれていた。印パ紛争、カースト制度、女性差別などを例に彼は「西欧諸国がアジアに対して不当に横暴だった時期が過去に何度もあったのは確かだ。だが、アジア自身も自らの分断と抑圧に加担したことを忘れてはならない。民族や宗教の対立が悲劇と流血の源であることがわかっていながら解決されないのはなぜか。協定や合意がなぜ守られないのか。それは、和解をもたらす術と知恵の進歩が伴わないからだ。アジア人としてこのことを真剣に考える必要がある」と自己批判している。

2017年11月2日木曜日

訂正

前回に「会稽の恥をそそぐ」と書いたのは「会稽の恥をすすぐ」の誤りでした注意されたのではなく自分で気づいたことは信じて!!

2017年10月29日日曜日

言葉や文字は文化遺産 やたら変えるな!

「その昔私は恋愛結婚をした。戦争で連れ合いを亡くし、苦労して夫と義弟を育てた義母との同居生活......」と今日の新聞の投書欄にあった。先の戦争で未亡人となったとは気の毒にと同情したら、「昨夏、夫は80歳、私は72歳になっていた」とあり、一瞬頭が混乱した。「連れ合いを亡くした」のは義母であると理解するまで何度か読み返した。

いつからか活字の世界で分かち書きが横行?するようになった。今日の投書も分かち書きでなかったら戸惑うことはなかった。文章をやさしくとの配慮かもしれないが、分かりにくくするのは改悪ではないのか。

記述の仕方ではないが最近は「真逆」という表現が支配的になってきた。昔から「正反対」という言葉があるのに。1字節約して何のいい事があるのか。『広辞苑 第4版』にも小学館の『国語大辞典』にも真逆など載っていない!「更なる」も辞典にはない。以前は「一層の」と言っていた。

言葉は生き物だとは理解している ( せざるを得ない )。戦争直後、「カナモジ会」という日本文から漢字を無くせ」と主張する会があったし、ローマ字表記にせよとの動きもあった。韓国や北朝鮮は漢字を追放しハングルだけにした。しかし漢字が元の語句の表記を変えて果たして理解しやすくなっただろうか?  

まだ、中国の都会の朝、自転車の大群が特徴だったころ、紹興の町で「会稽山公園」という看板が目に入り、ここが越王勾践と呉王夫差がしのぎをけずった攻防の舞台、「会稽の恥をそそぐ」の故地かと思い、中国に強い親近感を覚えた。日本語表記が仮名やローマ字化していたら果たして感慨を覚えただろうか。

2017年10月27日金曜日

習近平体制の確立を歓迎する?

中国共産党の党大会がようやく ( 私にとっては ) 終わり、習近平の独裁体制が完成したようだ。独裁完成の指標として、党規約に習近平の指針が「思想」と表現されるのか、「理論」と表現されるのか、習の個人名が折り込まれるのかなど新聞の予想は賑やかだった。結局、江沢民や胡錦濤をしのぐ最高の形で決着がついた。

われわれ日本人にはメディアに解説してもらわなければ微妙な違いはわからないが、中国人にとっては明らかな違いなのだろう。むかしソ連指導者たちの党内演説 ( 今回同様やはり長かった ) は当然「拍手」されたと報じられた。しかし実はその上に「熱烈な拍手」、「長く続く熱烈な拍手」の二種があり、使い分けられていた。そうした微妙な違いを知るための「クレムリン学 ( クレムリノロジー )」という学問?があった。

独裁強化が言論の自由の抑圧に至るのは問題だが、習近平がこの五年間に追求した汚職幹部の追放は大衆に支持された。私も、幹部たちのひどい汚職が放置される限り共産党が大衆の不満を外国とくに日本に向けると考えるので、日本としても習近平による汚職の徹底追及は望ましいと考えてきた。また、習の権力の安定は米国との協調を追求することにもプラスになると考えてきた。その意味では、党大会終了で習近平には大胆な対米協調が可能になったのではないかと考える。願望に過ぎないと言われれば否定しないが...........。


2017年10月24日火曜日

政治記者の勝ち?

「疑惑隠し解散」「自己保身解散」などと正当にもアダ名された今回の衆院解散の結果は自民党の大勝に終わった。本ブログ ( 9月27日 ) で、政治部記者たちは解散が与党を利する、社会部記者たちは逆に野党を利すると予想しているとの佐藤優氏のコラム評 ( 『東京』9月22日 )を紹介したが、みごとに政治部記者たちに凱歌が挙がった。

与党勝利の理由は何より野党の分立、一本化の不成立にあるとのメディアの主張は正しい。しかし、今回と前回  ( 2014年 )の総選挙時の小選挙区での自民党の得票率はどちらも48% (『東京』10月24日 ) 、比例区での今回は前回に90万票の上乗せ ( 『産経』同 ) となると、その説明では不十分である。首相を利したのは北朝鮮の脅威か、アベノミクスの効果か、理由はどうであれ一部のメディアの主張ほどには安倍1強政治は警戒されていないということではないか?

保身のため「希望の党」に走った人たちと比べ、枝野幸男氏と彼に従った立憲民主党候補者たちがこれまでの主張を曲げなかったことは立派であり、好感が持てる。しかし、無所属を選んだ人たちを加えても野党勢力は小勢力にとどまる。戦後間も無く社会党の片山内閣の失態により次の総選挙で共産党が大躍進したことがあった。同党が大喜びしたことは無理もないが、躍進と言っても極少数派であることに変わりはなく、逆にその後の長い自民党長期政権の始まりとなってしまった。

ピュアであることは美徳ではあるが、政治とはそれが常に有効であるとは限らない世界であるということだろう。残念なことであるが..........。

2017年10月22日日曜日

教育無償化は正しいか

総選挙の結果はあと半日で大勢が判明する。昨日、今回の選挙での各党の主張が項目ごとの一覧表として新聞に載っていた。いまさら丁寧に読む気にもならなかったが、教育の項目だけは元教員として無関心というわけにもいかず目を通した。結果は各党間に大きな違いはなく、財源無視の恩恵のオンパレードだった。それでも効果が明らかなら財源だけを絶対の基準とも出来ない。

先ず、保育園や幼稚園を利用する幼児をかかえる家庭への援助だが、原理として反対する人は少ないだろう。少子化の趨勢へのブレーキともなりうる。しかし現在でも低所得者家庭への負担軽減策はあるようだし、親たちの第一の願いは希望者全員の受け入れではないか? 立地に困難はあっても財源をそちらを優先すべきだろう。

私立高校生の学費無償化も財源問題だけではない疑問がある。少なくとも東京圏では公立中学よりも有名私立の中学・高校への進学希望が近年圧倒的と言って良い ( 今なら公立校出身の私でもそう考える ) 。高校だけでも学費を無償化すれば6年間の親の負担は半減するので、私立中学志望に拍車をかけるだろう。結局は貧富による教育の差別化を促進する結果になろう。それでは改善というよりも改悪だろう。

大学生への奨学金の増額や給付金化は望ましい。社会人へのスタートにあたって借金返済のハンディを負って欲しくはない。しかし、高等教育 ( 大学や高専 ) を受けた人と受けない人の生涯賃金は数千万円の差がある。すべての奨学生への返金免除が正しいとも言い切れない。利子をゼロにすればゆっくり生涯かけて返却出来るはずである。あくまで利子ゼロでなければならないが。ヨーロッパでは教育費完全無償の国がいくつかあるらしい。しかし、高福祉高負担の国と我が国を比較するのが妥当だろうか?

2017年10月17日火曜日

日本は「小康社会」?

新聞各紙の総選挙予想はほぼ一致して自民党の勝利を報じている ( あくまで予想に過ぎないが )。メディアで自民優勢の理由として挙げられている野党の分立や「希望の党」の突然の失速が自民党を利していることは疑いないだろう。しかし、一部のメディアがこれでもかというほど安倍一強政治の危険を説いているのに、国民とくに若年層に与党支持が多いとされるのは何故か?

日曜夜のTBSの「週間報道 LIFE」を一昨夜初めて見た。9時で寝るのも早すぎるのでたまたまチャンネルを回したのだが、中央大学の学生9人が司会者の質問に答えていたので上記の疑問への解答が見つかるかもしれないと思った。

何より印象的だったのは9人全員が与野党の逆転を望まなかったこと。アベノミクスで促進された近来にない「人手不足」で新卒者の就職状況が大きく好転したことがやはり物を言っていると感じた。就職を一、二年後にひかえた大学生は景気動向に最も敏感な人たちであることを割り引いて考える必要はあろう。しかし全員が現状維持を望むとは..........。今朝の東京新聞の第一面は「アベノミクス   果実はどこに」との見出しが躍っている。果実は国民に及んでいないと言いたいらしいが、メディアはどれだけ国民の実感を伝えているかと疑いたくなる。

中国政府は2020年ごろまでに「小康社会」( いくらかゆとりのある社会 ) を実現しようとしていると聞く。わが国の若者がリスクを取ろうとしないのは日本がすでに小康社会 ( それとも中康社会 ?)を実現しているからとも解釈できる。海外留学希望者が昔ほど多くないと聞くのもやはり小康社会であることと関係があるのだろう。あまり小康に安んぜられても心配なのだが..........。

2017年10月14日土曜日

日米関係のリアリズム?

知人に薦められ、矢部宏治著『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』( 集英社インターナショナル ) を読んだ。

沖縄で米軍が事故を起こすたび、日本政府が形だけの申し入れをし、うやむやのうちに終わることを毎度繰り返しているが、矢部氏によれば日米地位協定をはじめとする日米間の取り決めはすべて当初から米軍に何の制約も課しておらず、米軍の地位に関する限り占領時代が今も続いている。私は法律の専門家ではないので氏の主張に反論するつもりはないし、事態は大体本書の説く通りに推移していると感ずる。

他方、本書によれば日本国憲法を始め昭和天皇の「人間宣言」などはマッカーサー司令部の起草した英文原案に多少の修正を加えたものに過ぎない。わが国の憲法学者たちはしきりに幣原氏らリベラル派政治家の戦争への反省の産物と説くが、それは事実ではない。したがって憲法第9条は米国製であり、改正すべしと主張する。

日本国憲法が基本的にマッカーサー司令部作成の英文をもとに作成されたことは今では何ら秘密ではないし、日本が東アジアで米国のライヴァルにならぬよう考えられていることは確かだろうが、昭和天皇の「人間宣言」までマッカーサー司令部製だったとは初耳だった。無血占領を実現して天皇の利用価値を再認識したマッカーサーが連合国に根強い天皇戦犯論を抑えるための方策が「人間宣言」だったのだろう。

それにしても、日米関係の現実を知れとの著者の指摘は鋭いが、「中道リベラル」と名乗る矢部氏はそれでは日本は具体的にどうすべきと考えるのか。氏は米国との交渉で基地を撤廃させたフィリピンを理想としているようだ。しかし、それが南シナ海のフィリピンの海洋利権を危うくしたとの説の正しさは即断できないとしても ( その後フィリピンの米軍基地は一部復活した )、中国本土から遠く離れたフィリピンと朝鮮半島と一衣帯水の日本との事情は同じではないだろう。

2017年10月9日月曜日

アンカレッジ空港

休日のテレビの「世界の秘境」的番組 (予告編らしい)でアラスカのアンカレッジ空港の場面があり、なつかしさを禁じ得なかった。中継地として利用しただけだったが。

私が初めてヨーロッパを訪ねた1965年頃には南アジア回りの船旅は終わりを告げていた。アンカレッジ経由の北回りの空路 ( 北極空路 ) はすでに存在していたが、ナホトカ航路でソ連に入国し、そのあとは航空機( アエロフロート) かシベリア鉄道を利用するのが最も経済的なルートだった。間もなく五木寛之の『青年は荒野をめざす』が世に出て一躍若者のあこがれのルートになったらしい。

帰国して9年後、やっと私のヨーロッパ再訪が実現したが、やはり北極空路は敷居が高く、サイアム航空でバンコク旧空港 ( ドンムアン ) 乗換の南回り便だった。往復とも空港で半日、乗り換え便を待たされたが、とくに帰国時は東京行きの日航機の乗客を二度見送ったのはさすがに情けなかった。空港ビルの外に出ることは許されず、食堂のカレーの辛さに驚いた思い出しかない。

その後ようやくアンカレッジ経由便を2回か3回利用した。最後の回の頃はアラスカを経由しないヨーロッパ直行便も運行していたが、学会出張の同業者たち?はやはりアンカレッジ便利用が少なくなかった。

アンカレッジ空港の周囲は荒涼としていたが、空港ビル内には土産物品のショップやレストランがあり、うどん屋には日本人乗客の行列が出来ていた。あと数時間我慢すれば寿司でも何でも食べられるのに ( 当時、和風の機内食は稀だった )  と私は行列に加わらなかったが、戦時中の「代用食」の記憶を引きずる私が麺類を好まないためだったかも。

土産物店も暇つぶしに眺めることが多かったが、一度だけパリの自炊生活への褒美としてオメガの腕時計を購入した。クォーツ時計全盛時代だったのでオメガも大した価格ではなかったが、毎年のように電池を交換するのがわずらわしくなり、十年ほどのちに自動巻のオメガを買い現在も使用している。日本経済の向上の「ドリップ効果」がようやく我が身にも及んだということか!


 


2017年10月7日土曜日

ノーベル賞のトリビア

ノーベル賞ウィーク?が終わった。わが国ほどメディアがノーベル賞を大きく報道する国は少ないらしいが、各部門の受賞者の発表が進むにつれ私も日本人として同胞の受賞を大いに期待した。日系英国人カズオ・イシグロの文学賞受賞は日本人受賞とは言えず、目出たさも中ぐらいのはずだが、大変嬉しいのは何故だろうか。

理由は色々あろう。自然科学関係の場合、最近は複数の受賞者が多いことも一因だろうし、今回の重力波の存在の証明のように巨大設備を建設できる国の研究者が有利な事情もあろう。平和賞の場合、佐藤栄作元首相のように平和国家日本の代表としての受賞の性格が強いだろうし、北朝鮮の金正日元主席のように実績というよりは将来への期待に過ぎず、無惨に裏切られたケースもある。

それに比べれば文学賞の場合、個人が徒手空拳、全くの無から創造した業績である。のちに裏切られることもない。それでもその初期にはヨーロッパ ( とくに北欧 ) の作家が有利だった。イプセンは良俗に挑戦したと見られて? 受賞しなかったが、同じノルウェーのビョルンソンの素朴な純愛小説 ( 戦前の新潮社版「世界文学全集」の『北欧三人集』に二篇 ) は高校生の私には心にしみたが、漱石や魯迅に比肩するとも思われない ( どちらもろくに読んでいないのに!) 。

いろいろ理屈をこねても一冊も読んでいないイシグロの受賞が嬉しいのは、やはり彼が日系人だからなのは否定できない。ハルキ・ファンには悪いが彼らも内心喜んでいるのでは? 来年を期待したい。

2017年10月5日木曜日

バラマキ賛成に党派の別無し

「希望に捨てられた」「希望、数合わせ優先」「希望『規制緩和で成長』」。新聞の見出しを見て何事かと思ったら、希望とは希望の党のことだった。まぎらわしい党名を選んだ側が悪いのか、やたら省略する新聞の側が悪いのか。

安倍首相による衆院解散とそれに続く民進党瓦解の結果、自民党、希望の党、立憲民主党 ( と共産党 ) の三極の間でそれぞれの政策を掲げて選挙戦が闘われることになった。各党が実際以上に相互の違いを強調するのは選挙の常だが、各党の政策が全く一致している分野がある。それは増税反対、財政再建の先延ばしである。

自民党は消費税の増税2%の使途を国債減額に向けるとの三党合意を棚上げしてその一部を保育や教育に向けると言うし、希望の党、立憲民主党、共産党の各党はすべて増税そのものを否定ないし延期せよと言う。財政赤字の拡大は意に介さないようだ。

厳しい不況時には財政赤字を意に介さず積極的に財政支出しても良いとの経済学説はある。1930年代初め、スウェーデンのグンナー・ミュルダール、ついで英国のケインズは不況克服のための財政赤字は景気回復後の支出削減で均衡させればかまわないと説き、その後多くの国がそれに従った。しかし理論として正しくとも好況時に支出削減をする国は少なく、結果として不健全財政に陥る国が大部分である。世論を無視できない議会制民主主義の国ではバラマキ財政は宿命であると思いたくなる。

私は経済の専門家ではないし、経済は道徳論では律しきれない面もある。しかし、人口が増加し経済が拡大している国ならともかく、少子高齢化の国が国際の増発を続けていれば、いつか財政破綻か大インフレによる負債帳消しが避けられなくなるのでは? ここは野党に先んじて政権党がバラマキ財政中止の先頭に立つべきではないだろうか。

2017年10月3日火曜日

日本女子アスリートの活躍

大変なアスリートが出てきたものだ。女子ゴルフで18歳の畑岡奈紗が日本女子オープンで2連勝した。しかも2位を大きく引き離しての大勝である。ゴルフに無縁の私でも大変な「事件」だと思う。男子ゴルフの松山英樹に匹敵する逸材だろう。

近年の日本女子ゴルフ界は韓国人プレイヤーに押され続けていた ( 今回でもベスト11位のうち4人が韓国女性である )。彼女たちの実力は誰もが認めるだろうし、他国人に優勝されるのが不快なのではない ( 彼女たちは美人ぞろいだし!?)。それでも他国人に毎度大活躍されると相撲と同様日本人プレイヤーはどうしているのかとボヤきたくもなる。そんな中での畑岡の快挙。「これからは私たちの世代が日本を引っ張らないと」との言葉も彼女だからこそ言える言葉だろう。

女子ゴルフだけではない。フィギュアスケートでも水泳でも卓球でも名前を覚えられないほど多くの若いアスリートが大活躍しているようだ。十代半ばの選手にまで好成績を挙げられると多年の努力の結果でないのが残念のような気もするが多分それは誤りで、競技開始年齢が早まっているだけなのだろう。

もう何年も活躍している選手の中ではスピードスケート500メートルの小平奈緒の昨シーズンの成績 ( 出場全レースで首位 ) も大変なものである。珍しく一般大学 ( 信州大学 ) 出身で、卒業後も日本電産や富士急行など有名スケート後援企業ではない相澤病院に就職し独り技を磨いてきた。今回の平昌オリンピックは年齢からして最後のオリンピックになるだろう。なんとか岡崎朋美以来のメダル ( 団体戦やショートトラックは別 ) 、それも金メダルを取って欲しい。これまで不当に小さく報道してきたメディア ( 中学生選手として書き立てられた高木美帆と比べて。彼女もその後選手として立派に成長したが ) の鼻を明かして欲しい。

2017年9月29日金曜日

一寸先は闇!

「政界は一寸先は闇」とは言い古された言葉だが、あらためて真理と感じる。つい先日前原氏を新代表に選んだ民進党が出来たてホヤホヤの「希望の党」に吸収合併?されると予想した人は少ないのでは?

思えば山尾志桜里議員の「不倫事件」による党離脱が民進党混迷の発端だった。代わり映えのしない民進党幹部たちに代わって山尾氏が幹事長に抜擢されると聞いたとき、これは同党再生のきっかけになると期待した人は私も含めて多かったのではないか。同氏の軽率さは責められるべきだが、起死回生の一手と彼女を抜擢した前原氏にも小さくない打撃だったろう。

前途に自信を失いかけた前原氏にとり改憲で一致できる小池氏との連携は周囲が考えるほど奇策だったとは私は思わない。むしろ共産党を含む野党連携よりも受け入れ易いものだったろう。しかし小が大を呑み込むこの合同は、改憲と新安保法制の支持という条件で「希望の党」側が入党を審査するという屈辱的な条件付きで、吸収合併に限りなく近い。

私は民進党の両院議員総会は激論の場になると予想したが明確な反対は無く、満場一致の形をとったと聞き心底驚いた。党代表選挙で野党共闘路線を主張した枝野氏の支持者たちはなぜ反対しなかったのか。。

それを解くカギの一つは当日 ( 昨日 )の朝刊の世論調査での投票予想率ではなかろうか。出来たばかりで政策も明らかでない「希望の党」支持が13% ( 『朝日』も『毎日』も ) に対し、民進党支持はそれぞれ8%と5%だった。本来は国民が衆院解散を支持していないことを示したかった?新聞社の「全国緊急世論調査」はむしろ民進党議員たちの意気阻喪を招いたのではないか。これも「一寸先は闇」の好例かもしれない。

P.S.    前回のブログの国際購入費は国債購入費、国民の記憶は国民の記憶力の誤りです。悪しからず。

2017年9月27日水曜日

衆院解散の結果は?

安倍首相が衆院解散を決めた。この解散決断に対する前原民進党代表の「敵前逃亡解散」、「自己保身解散」を始めとする野党側の酷評に対し首相自身は「国難突破解散」と名付けている。「物は言いよう」と苦笑する他ない。

私はこれまでも書いて来たように北朝鮮の原爆やミサイルの脅威を重大と考えている。しかし、海の向こうを攻撃するミサイルを持たない我が国には米国を外交的に支援する以外に当面出来ることはない。国会審議のため一ヶ月や二ヶ月費やしても何の支障もあるまい。

安倍首相がもう一つの解散理由として挙げているのは、消費税2%引き上げで生まれる財源を一部社会保障に当てる他は国際購入費の削減による財政再建に当てるとの野党との過去の合意を変更し、幼児保育や高校教育の無料化に当てる。この公約変更につき有権者の意向を訊ねなければならないとの理由である。首相は少子高齢化の趨勢に対抗するため教育無償化を推進するというが、私は後代に残す赤字を少しでも減らすことがむしろ効果的だと考える。どちらが正しいかは別とし、首相と同じ事を先に唱えた前原氏をいわば出し抜くための口実として使ったとしか思えない。

東京新聞 ( 9月22日 ) の「本音のコラム」で作家の佐藤優氏は、今度の衆院解散が「森友・加計疑惑」から国民の目を逸らすためであるとして「権力者が国民の記憶を軽視しているように思えてならない」とする。同氏によれば氏と話した政治部記者たちはこの解散が与党を利すると考え、社会部記者たちはむしろ与党不利に働くと考えていると言う。こうなったら早く結果を知りたいと考える私は不謹慎か?

2017年9月22日金曜日

ロヒンギャ問題とスーチー女史

少数民族ロヒンギャに対するミャンマーの警察や暴徒による人権侵害に「国家顧問」アウンサンスーチー女史が抗議しないとの批判が国連やその加盟国から強く挙げられている。同じノーベル賞受賞者のパキスタン人のマララもスーチーの沈黙を批判している。

たしかに40万人とも言われる国外避難者の数もその困窮ぶりもただごとではない。しかしスーチーの地位は自称であって憲法上明文化されたものではないのでは?  そうとすれば国軍に対する立場は弱く、いわば相手のお目こぼしに依存しているとも言える。

しかし、それ以上に彼女の言動を縛っているのは国民の九割を占めるという仏教徒の反ロヒンギャ感情だろう。ロヒンギャの信仰するイスラム教と仏教の相性が一般論として悪いとは言い切れないが、それが民族の差異と重なった場合、相容れない関係となってくる。運動家と異なり政治家に圧倒的多数の国民の声にあらがえと要求するのは困難である。それは政治家であることをやめろというのに近い。リンカーンでさえ当初は「だれもが抱いている感情というものは、正しくても正しくなくても、無視してはならないのである」として奴隷即時解放論をとらなかった。とれなかったのである。

最も公正な解決はロヒンギャが多数を占める地域の独立ないし隣国バングラデシュへの併合だろう( バングラデシュが望むかは分からないが ) 。 しかし、少数派の分離の権利 ( 自国領土の縮小 ) はヨーロッパでさえ最近のカタルーニャのスペインからの離脱要求のように容易には認められない。ヨーロッパの外に眼を転ずれば、イラン、イラク、トルコなどに住む人口三千万人とも言われるクルド人の分離独立を周辺国は認めようとしない ( 国境確定の難しさを考えれば反対も分からぬではない ) 。

かつて第一次大戦後、ギリシャとトルコ間の領土確定は計百数十万人の住民交換という荒療治 ( 当事者にとっては国外追放だろう ) により決着がつけられた。大戦という異常事態の後だからこそ実現できたと言える。現代ではマイノリティの権利の尊重という解決策しかないのだろう。

2017年9月19日火曜日

教え子の著作

開成高校教師時代の教え子の太田八千穂氏から著書を進呈された ( 『登り道   鳥甲山から産婦人科医へ』幻冬社 2017年 )。わずか2年間の同校での勤務だったが、同君のクラスの2組の連中数名は授業だけでなく1DKの公団住宅の我が家を訪ねて騒いで帰ったので家内もよく知っているし ( 留学時、横浜港に見送りに来てくれた )、当時山岳部の部長だった太田君には山岳部の顧問を要請され一年半ほど務めた縁もある。

産婦人科医としての同君の活躍の章は用語を含めて門外漢には理解できたとは言えない! 著書の大部分を占める慈恵医大山岳部での活動をはじめとする登山歴や、文学 ( 高橋和巳 )や音楽 ( アルゼンチン・タンゴ ) への偏愛ぶり?のうち後者に関しては知らぬではなかったが、当時の大学山岳部の部活動の厳しさは想像以上だった。医大でもこれ程とは。その上、専門教育もなおざりに出来ないのだからよく頑張ったものだと感心した。

文中、同君の祖母で歌人の四賀光子の特集記事 (『読売』日曜版  2016年4月24日 )の存在を知らせたとして私の名前が言及されていた。図書館での新聞読みの思わぬ功徳??    馬鹿馬鹿しいとしか思えない衆院解散騒ぎにうんざりしていたとき、楽しい読書となった。

2017年9月15日金曜日

根拠の無い楽天主義

朝ドラの「ひよっこ」が北朝鮮のミサイル発射により放映中止となった。それは仕方のないことだが、朝のニュース番組が他局を含めてほとんどミサイル報道一色だったのには閉口した。もっとも私の不満は放送局にではなく北朝鮮に向けられるべきなのだろうが。

北朝鮮のミサイル発射に対する我が国の反応が過剰だとの声が韓国などにあるようだ。私も交通機関のストップなどは過剰反応だと思う。だが、北朝鮮の短期的な脅威に対しては過剰だとしても、中長期的な脅威に対しては今以上に過敏であって当然だと思う。暴言としか言いようのない北朝鮮の発言の真意が米国を交渉に引き出すことにあるとしても、悪罵もこれだけ続くと独裁者といえども国民の手前引っ込みがつかなくなる危険がある。

中長期的に北朝鮮の脅威に警戒が欠かせない理由の第一は、同国にとって朝鮮半島の統一は絶対に断念できない国家目的であることである。祖父金日成が北朝鮮国家の偶像である限り、彼の果たせなかった願いを放棄することは出来ない。そして韓国が北朝鮮による併呑を拒否する限り、武力による威圧 ( 必ずしも戦争ではなくとも ) での統一を断念できないだろう。

スイスの小都市ルツェルンには3万人分の核シェルターがあり、スイス全体でも人口分の核シェルターがあると聞く。どの国とも同盟を結んでいない永世中立国のスイスでもそれほど用心深い。私も東アジアに簡単に核戦争が起こるとは思っていない。しかし人命尊重がほとんど国是となっている現在の日本ほど脅迫に弱い国は考えられない。北朝鮮の核やミサイルの中長期的な脅威を軽視すべきではない。自国が戦争を嫌悪するからと言って他国もそうだと思い込むべきではない。「ひよっこ」の視聴を邪魔された怒りで言っているのではない!

2017年9月12日火曜日

岩手山登山の思い出

NHKのBSプレミアム「にっぽん百名山」は関心のある山の場合は見る。昨日は、私が20歳台の中ごろに登った東北の岩手山 ( 2038米 ) だった。番組では西側の松川温泉から登り、八合目の山小屋に一泊して山頂に達っし東側に降りるコースだったが、私の場合その逆のコースだった。

東北本線の夜行列車で早朝、大学での友人と二人滝沢駅に降りた。駅前から登山口までのバスを探したが、早朝だからかそもそもバス路線が無いのかバスの気配は皆無で、止むを得ず歩き出した。正午を過ぎて山頂に着き、その日のうちに松川温泉をめざして尾根道を歩いた ( 岩手山は盛岡方面からは独立峰に見えるが、連峰のひとつ )。「百名山」の番組では夕食の食材やコンロ持参なので重そうなリュックだったのに対し私たちは軽いリュックだったが、計15キロ ( と紹介していた ) のコース後半はやはり長かった。A君は生来の楽天家で途中で「あ、もう近い」と何度か言い、私が「未だ未だ」と返事することの繰り返しだった。それでも夕刻までに松川温泉に着いた。今思えばかなりの強行軍だったが若さで乗り越えた。翌日の午前、東京から直行したOさん ( 一年先輩 ) と合流し、八幡平にのぼり、籐七温泉と御生掛温泉に各一泊して帰京した。

ともにメディア業界に進んだ二人とはその後も安達太良鉄山に登ったりしたが今は二人とも故人である。真偽は明らかではないが、中間管理職となったA君は会社の労使紛争で板ばさみとなり自死したと聞いた ( あの楽天家の彼がそこまで追い詰められたとは.......)。その墓に一緒に詣でたOさんは定年後喉頭がんで亡くなった。声を失いたくないから手術をしないと本人から聞いたが、どちらが良かったか?  体力が無く何時も一番軽いリュックを許されていた私がこのブログを書いている。
 

2017年9月8日金曜日

北朝鮮制裁強化の必要

国連安保理に米国が提出した北朝鮮制裁強化案への中国とロシアの態度決定が注目されている。今朝の「朝日川柳」に「ハチの巣を説得しろと無理を言い」という川柳が載っている。「ハチの巣」はむろん北朝鮮を意味するが、米国が中ロに対して「無理を言」っているのか、逆に中ロが米国に「無理を言」っているのか今一つ明確でないが、撰者が「対話強調の中ロ」とコメントしているので後者と分かる。全く同感である。

米日韓三國がこれまで何年も北朝鮮と対話を行なっても効果はなく、その間に北朝鮮は原爆 ( 水爆も?)の弾頭とそれを運ぶICBMを完成させてしまった ( らしい )。私はオバマ前大統領のイランやキューバに対する宥和的政策を支持するが、北朝鮮に対しては優柔不断だったと言わざるを得ない。ケネディ元大統領は「一度騙されたら騙した方が悪いが、二度騙されたら騙された方が悪い」との名言を吐いている。

現在、韓国には軍民合わせて20万人の米国人と5万人の日本人がいると聞く。軍事的解決は不可能ではなくとも犠牲があまりに多いと米国も考えるだろう。となれば、徹底した圧力、北朝鮮と経済関係を続ける第三国 ( とくに中ロ ) への準経済断交も、どれほど自国へのはね返りがあっても決意せざるを得ないだろう。

中ロも米本土に照準を合わせたICBMを所有しているではないかとの北朝鮮弁護論もあろう。しかし之まで中ロ両国の行動にどれだけ不満があっても、両国が自国防衛以外に原水爆を使用することは考えられなかった( そのぐらいの責任感は期待できた )。北朝鮮とても原爆開発の当初の目的は自国の存立だったろうが、これほど強力な道具をそれだけに使用を抑制する保証はない。「対話」は原爆やICBMの開発凍結では不十分である。逆に、もし北朝鮮の「核」の完全廃棄に中ロが協力するならば米国も両国の正当な不安や不満を鎮めるための代償 ( サード配備の中止以上の ) を用意しなければならない。

2017年9月7日木曜日

世界の大学ランキング

新聞各紙に「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション」による世界の大学ランキングが載っており、今年の1位はオックスフォード大、2位ケンブリッジ大で、3位にカリフォルニア工科大とスタンフォード大と米国勢が占め、アジアからはシンガポール国立大22位、北京大27位、清華大30位。日本勢は東京大46位、京都大74位である。

年度ごとの変動はあるが ( 去年は1位オックスフォード大、2位カリフォルニア工科大、3位スタンフォード大 )、日本の大学の順位はあまり変わらない。何とも情けない話のようだが、上位10校では米国7校、英国3校、スイス1校 ( 同位校あり )、上位20校なら米国15校、英国4校、スイス1校となり、パリ大学もモスクワ大学も入っていない。ドイツさえミュンヘン大34位、フンボルト ( ベルリン )大62位。つまり英語公用語国が圧倒的に有利なのである。

そうなるのは他者に引用された論文数以外に教員対学生比率、外国人教員比率、外国人学生比率が選考基準になっているからである。日本の大学の国際化が遅れていることは以前から指摘されているが、英国以外のヨーロッパ諸国も同じであり、全ての学問分野で自国民の研究者が育っていることも大きいだろう。

とは言え現状に満足して良いはずはない。最近亡くなった私の教え子の物理学者は日本の研究者による論文数の減少を憂いていた。やはり絶対数が少ないと優れた論文も少なくなるという。大学や研究機関の予算増額も必要だろうが、中学校や高校の理科教育の充実も効果があるだろう。今朝の『朝日川柳』に、「やれ東大京大言うの日本だけ」と言われたくない!

P.S.前回の『毎日』のコラム「余滴」は「余禄」の誤り。「余滴」の方が趣があると思うが!

2017年9月2日土曜日

朝鮮人虐殺事件と小池都知事

関東大震災直後の朝鮮人虐殺事件に関し小池都知事が関係団体 ( 日朝協会 ) の犠牲者慰霊の行事に追悼文を送らなかったことがメディアで報道され問題視されている。従来は石原知事も舛添知事も追悼文を寄せていたのであれば、そこに変更への積極的判断があったのだろう。知事自身の詳しい説明がない現在推測するしかないが、犠牲者6千余人との関係団体の挙げる数字が過大だと考えているとの推測は可能だろう。

2009年の政府の中央防災会議は震災時の約十万人の死者のうち朝鮮人 ( 一部は中国人も ) の虐殺犠牲者数を1%から数%と推定したという ( 朝鮮総督府による調査では千人弱とあるので1%とはそれも根拠とされたのか?) 。大きな幅のある数字だが、それ以上の確かな数字は決めようがないだろう。

そうした現状であっても千人単位の犠牲者があったとは言えそうだ。日本文化を熱愛したポール・クローデル仏大使 ( 劇作家としても有名 ) も朝鮮人が殺されるのを目撃している ( 『毎日』のコラム「余滴」9月1日 )し、のちの評論家清水幾太郎も血まみれの銃剣を目撃したという。いずれにせよ関係団体の「自然災害の犠牲と人の手で虐殺された犠牲とは性質が異なる」との小池批判は正しいと言う他ない。小池知事は少なくともより詳しい説明をすべきだろう。

小池都知事による都政の大掃除は都民の圧倒的支持を得てきた。しかしメディアの批判を生んだ今回の知事の判断は「都民ファースト」運動にとって躓きの石となるかもしれない。都議会の既成政党は自民党も民進党も、付け入る隙を見出したと思っているかもしれない。

2017年8月30日水曜日

美空ひばり あれこれ

朝日新聞の企画記事「平成とは」の第二回 ( 8月28日 )は「ひばりの死    世紀の死」だった。内容は平成元年の美空ひばりの死が一つの時代、昭和という時代の終わりを画す事件だったばかりでなく、国民や国民性という概念が「溶けていった」時代の始まりを画したというもの。私は後半はコジツケのように感ずるが前半には反対しない。

記事はひばりの未明の死が『読売』『毎日』の朝刊の一面トップで報じられたのに『朝日』( 東京版 ) には一行の記述もなかったという失敗談で始まる。この「特オチ」は意図したものではなく担当記者が朝刊締め切りまでに死去の確証を得られなかったためということだが、予定原稿は80行という短いものだったとあるので『朝日』がひばりに冷淡だったことを物語っている。

現在では同紙もひばりを偉大な歌手と認めているが、在世中の彼女には弟の不祥事 ( 暴力団との付き合い?) などもあり何かと底意地の悪さを感じさせる扱いだった。その底には日本のクウォリティペーパーを自負する『朝日』が「さかな屋の娘」への当初の偏見をいつまでも引きずっていたことがあるのではないか。私もその点では『朝日』を批判する資格はないが。

言い訳と取られても良いが、私が美空ひばりに冷淡だったのはその歌への関心が薄かったこともある。「悲しい酒」や「川の流れのように」、とくに後者は彼女のファンではない人にもたかく評価されていたようだ。しかし私の知っている彼女のいくつも無いレパートリーのなかで私は「津軽のふるさと」しか好きではない ( 「みだれ髪」も少し。たまたま塩屋崎を訪ねたので!)。

ところが本人は「津軽のふるさと」をさほど評価していなかったようだ。五木寛之がひばりにインタビューした際、彼女の歌に多少の批判を口にしたらプライドを傷つけられたのか、「それではあなたは私のどの歌が良いと思うのか」と質問してきた。五木が「津軽のふるさと」を挙げると彼女には意外だった様子で、沈黙ののちそれでは次のリサイタルで歌ってみようかと言ったという ( 『わが人生の歌がたり   昭和の哀歓』角川書店 2007 )。

五木が後日このエピソードを「津軽のふるさと」の作詞作曲者の米山正夫に紹介したら、「君は分かってくれていたか」と大層喜んだという。数多くのヒット曲を作った米山にも、十分評価されていない自作への意外な理解者は嬉しかったようだ。

ひばりの葬儀に際し参加したファンから「万歳」の声が挙がったという。ふつう葬儀にはあり得ないことだが、大衆にとって彼女は同じ昭和を生きた「同志」だったと記事は結んでいる。

2017年8月27日日曜日

中国の横やりを防げる国は?


英国のケンブリッジ大学出版局 ( CUP ) が天安門事件などに関する学術論文や書評など数百件について、中国当局の要請に応じ、中国国内からのアクセスを遮断していたが、この度その措置の中止を発表した。昨日の朝日新聞の「声」欄の投書者は中国の横やりに警鐘を鳴らし、「CPUの問題は真剣に取り上げて議論すべきだと思う」と結んでいるが、管見の限りては朝日新聞はCPUにとって大汚点であるこの事件をそもそも報道しなかった。共謀法による言論の抑圧の危険をあれほど声高に指摘した同じ新聞とは思えない。

CPUはなぜ中国の要請に応じたのか。他紙 ( 『産経』8月26日 )によれば、「中国国内で人気のある英語教材など、一切の出版を禁じると圧力をかけられたという」。 経済大国中国を敵に回したくないということでCUPが学問研究の自由への中国の介入を許したとすれば、今後も各国の研究機関が同じような圧力にさらされる恐れは大きい。

私は他国とくに先進国( 国連人権委員会も)が、たとえ人権問題が絡んでいても発展途上国などの内政を安易に批判することには賛成できない。端的に言って「開発独裁」というものもあり得ると考える。しかし大国が他国の学問研究の自由に干渉するなどということはあってはならないし、他国は中国の経済的圧力に屈してはならない。

私はメルケル独首相の識見や能力に敬意を表し期待するが、自動車産業を中心に中国経済に深く関与しているドイツが果たして中国の大国外交を批判できるか危惧しているし、その兆候はすでに皆無ではないのではないか。仮にそうとすれば、たとえトランプの米国であっても米国しか中国の不当な要求を拒否して学問研究の自由を護れる国はないということにならないか。カサンドラの予言はしたくないが...........。

2017年8月24日木曜日

アジア系学生はお断り?

米国では大学によりマイノリティー出身学生 ( とくに黒人 )に対して大学入学に特別枠をもうけるクオータ制があり、白人の入学希望者から強い不満が聞かれることは知られている。自分の方が成績優秀なのにどうしてというわけである。

ところが近年は逆の事態?が生まれているという。今日の『産経』に「米ハーバード大   アジア系を差別か」との見出しの記事が載っている。それによると、現在ハーバード大学と全米の ( というより世界の ) 大学ランキングのトップを競っているカリフォルニア工科大のアジア系学生の割合は1992年当時の倍近い42.5%に達しているという。これに対して同じ期間のハーバード大学のアジア系学生は20%前後でほとんど動いていない。

元来、ハーバード大の入学者選抜はOBの選考委員による面接など画一的な試験成績以外の評価が加味されると聞くので、すでに逆クオータ制?が導入されているとも言える。成績主体で選考すればカリフォルニア工科大に近い割合になるのは避けられないだろう。

ハーバード大もカリフォルニア工科大と同様に私立なので税金配分の不公平といった問題はないだろう ( その結果、後者の年間の学費は400万円以上という )。しかしアジア系入学希望者からは当然「ほぼ満点なのに不合格」という不満が挙げられているという。それに対しハーバード大は「人種考慮は多様性のため」と説明しているとか。

理屈からすればアジア系の入学者の人数制限は不公平だろう。しかしハーバード大のようにもはや米国の大学というよりも世界の大学となっている場合、極端な人種の偏りを避けたいのは理解できる。日本人の留学生は近年減少していると聞くのであまり影響のない話だが、多年、留学といえば欧米留学だった私の世代の日本人には、入学したら周囲がアジア人ばかりというのも留学気分になれないだろう。それとも理系学生にとってはどうでもよいことか?

2017年8月22日火曜日

第三 緑の魔境

最寄り駅から拙宅まで十分余りの間、後半は片側が森となる。半世紀前引っ越してきた頃はその中に昔の近道の跡があったが、利用者が絶えるとたちまち笹に覆われて通れなくなった。森自体もその間に樹高が倍にもなり夏には中は暗く、分け入る者は皆無となった。駅から数分のところに森が残ったのは、坂上に住む当時の都副知事が緑地に指定させたからだと噂に聞いたことがあったが、その表札の家を見たことはなく、真偽は不明である。

それはともかく、草も木も油断すれば手に負えなくなることは森も住宅地も同じ。我が家も笹を含む雑草には毎年悩まされている。農家の夏は草との戦争であると蘆花が書いているように、除いても除いてもすぐ生えてくる。

NHKの朝のニュースの中に村の除草に独り励む中老人の紹介があった。島根県の山村出身の彼は定年まで広島でバスの運転手をしていたが、今は故郷に戻り地区の除草に励んでいる。むろん除草機を使ってだが、お盆の墓参りに来る旧村民も彼の奉仕活動がなければ墓にたどり着くことも困難だろう。
 
我が国の人口の都市集中、農山村の過疎化は著しい。私は、働き口を求めて村を出た人たちの一部でも定年後故郷に帰り住んでくれれば過疎と過密の双方の問題が緩和するのだがと思っていたが、国家の持ち家政策もあり都会に住居を得た人がもはや村に帰る気持ちを失うのも理解できる。そんな中で番組で紹介された除草奉仕する老人には頭が下がった。「地の塩」という言葉はこういう人を指すのではないか。自分 ( というより家内!)が小さな宅地の雑草に手を焼くことがそれで納得できるというわけでも無いが...........。


2017年8月20日日曜日

ヨーロッパのイスラム過激派テロ

スペインのバルセロナで自動車を使った悲惨なテロがあった。これでヨーロッパの大国でテロの被害がない国はむしろ例外となった観がある。大国だけではない。バルセロナに続いてフィンランドでも死者を生むテロがあった。以前のスウェーデンのケースと共に北欧諸国もテロ被害の例外ではなくなった。

スウェーデンもフィンランドも植民地領有とは無縁の国家である。これまでイスラム教徒のテロを旧宗主国の側の帝国主義、植民地主義にも問題があったかのような議論がときおり ( とりわけイスラム地域の研究者により ) なされて来たが、根拠薄弱であることが示された。じじつ今回のテロでも犯人は「不信心者たちは殺されねばならない」と公言しており、宗教の自由をはなから認めていない。彼らとの共存は出来ない相談と言わねばならない。

ヨーロッパに移住してきたアラブらイスラム教徒に対し人種の平等や機会の均等が守られていないことは紛れもない事実である。とりわけフランスのように「自由、平等、友愛」を国是としている国ほどイスラム教徒は偽善を感じるだろう。しかし多文化の共生といった理想はあくまで理想にすぎない。

四十年近く前にもパリでは自動小銃を抱えた警官がとある住居を警備している姿を見かけたことはあった。当時ホメイニ体制のイランから亡命したバニサドル前大統領 (  かつてホメイニとともに亡命先のパリから帰国した初代大統領!) がパリに住んでいると聞いていた。フランスが亡命者を受け入れていたことは当時は同国の誇りだったろう。しかし今では自国民へのテロの阻止のために街角に小銃を構える警官が配置される。警備という全く生産的でない活動のために多大な経費をかけることにフランス国民がいつまで寛大でいられるだろうか。

2017年8月17日木曜日

愚行の果て

NHKスペシャルの「戦慄のインパール」(8月15日 )を見た。太平洋戦争では日本軍により幾つもの無謀な作戦や玉砕戦が行われたが、愚行という点で抜きん出ていたのが占領下のビルマからインドを目指したインパール作戦であることは私も聞き知っていた。それゆえ番組を見る気はあまり無く録画の用意もしなかったが、夜のニュースに続けて放映されたので見始めたら最後まで見てしまった。

旧日本軍が兵站 ( 糧食や弾薬の補給。ロジスティックス ) を軽視したことはよく知られている。標高二千米の山地を越える400キロの行軍に3週間分の糧食しか持たせなかった結果、実際の戦闘よりも飢えや疫病で何万もの兵を死に追いやった牟田口司令官の独善は大筋では知っていた。しかし、ある陣地を攻略するのに三千人を殺すとの部内の発言は実は自軍が三千人死ぬという意味だったとの部下の日誌は、牟田口司令官個人だけではない日本軍の頽廃と非人間性を物語っている。

終戦後その牟田口が裁判で責任を追及されなかった ( 敵兵を虐待したわけではないので連合国も無関心 ) ことは日本国民が怠慢だったと言われても仕方が無い。東京裁判については様々な批判が可能だが、何も知らされていなかった日本国民に戦争の実態と指導者たちの無責任ぶりを知らしめた功績は否定できない。

アッツ島をはじめとする数々の玉砕戦術も、降伏を禁ずる東条首相の「戦陣訓」の結果だった。必ず死ぬと決まった特攻作戦ほど、指導者として決して部下に命じてはならない非人間的な作戦は考えられない。しかし、戦後みずからの生命をあがなって特攻隊員に詫びた指導者は稀だった。将軍たちにも少数ながら立派な人はいたが、悪貨が良貨を駆逐したのが実態だったようだ。

P.S.  前回のブログの「ヴァージニア州知事 ( 州議会 ) はシャーロッツビル市長 ( 市議会 ) の誤りでした。悪しからず。

2017年8月15日火曜日

シャーロッツビル事件に見る米国民の分断

第二次大戦終了後間もなくの1949年にノーベル文学賞を受賞したウィリアム・フォークナーが1955年に来日し講演した際、われわれ南部の米国人と日本人は敗戦国民同士として理解しあえると語って私を驚かした。南北戦争から百年近く経っても彼の南部人としての自覚は失われていなかったのである。

米国南部ヴァージニア州のシャーロッツビルで白人至上主義者の集会参加者と対抗デモ参加者たちとの間に激しい暴力沙汰が生じ、死者まで出た。トランプ大統領誕生以来の米国民間の分断が生んだ人種紛争ではあるが、直接の原因は南北戦争中の南軍の司令官ロバート・E・リー将軍の銅像を州知事 ( 州議会?)が撤去を計画したことにあった。

南軍の名将リー将軍はリンカーン大統領から北軍参加を懇請されたが謝絶し、故郷ヴァージニア軍の司令官として戦功を重ねた。最後は南軍総司令官として降伏文書に調印した。「彼はその悲劇的経歴のゆえに、単に南部のみならずアメリカの国民的英雄となった」( 小学館 「大日本百科全書」)。

リー将軍は生粋の軍人で政治家ではないが、その生涯はわが国の西郷隆盛に似ている。「維新の功臣」西郷は晩年に西南戦争で朝敵となったが、のち明治天皇は彼の賊徒の汚名を解いた。リー将軍も1975年にフォード大統領により名誉回復された ( 実人生では将軍は南北戦争後大学学長を務めている )。わが国で西郷の銅像を撤去しようとする鹿児島県知事がいれば賢明な知事とはいえまい。ほぼ同時代のリー将軍が非政治的軍人として出身州のため戦ったとしても、150年後にその銅像を撤去することが賢明な行為だろうか?  かつての南部連合の国旗を掲げる白人至上主義者たちの時代錯誤ぶりは到底是認できないが、ボリティカル・コレクトネスを意識したヴァージニア州知事の行為もトランプ大統領のそれと同様に国民の分断を生んでいるのではなかろうか。

2017年8月14日月曜日

学校体育の危険

しばらく前に小中学校での組み体操による負傷事故の多発が報ぜられた。私は現在の学校の一部?で組み体操が行われている事実をそれまで知らなかった ( 私の小中学校生の頃は騎馬戦が普通だった ) 。そして高さを競うあまり最高十段?にもなる組み体操の危険を学校が許していることに納得がいかなかった。

今朝の朝日新聞によると、その後スポーツ庁が安全でない状態で実施しないよう通達したが、組み体操を中止したのは小学校で2割、中学校で3割程度だった。私は中止した学校の割合が意外に少ないと感じたが、実施による生徒たちの「達成感」や「一体感」を教師たちがより重視したのだとすれば今は理解できる。その教育的効果は十分あり得るし、いじめ問題に対する防止効果も考えられる。

他方、去年あたりから柔道を学校体育に取り入れたのには強い疑問を感ずる。部活動で生徒たちが柔道に取り組むのは自己責任の範囲内であり、何ら反対しない。しかし体育の授業時間にともなると実施は強制となる。防具をつけた剣道ならば危険はほとんど無いが、柔道で一生残るような障害を負ったら学校はどう責任を取るのだろうか。しかも組み体操の場合のような級友たちとの一体感というプラス効果は得られない。単に日本の伝統的スポーツだからというだけで柔道を正式教科に取り入れる十分な理由とは思えない。まさかオリンピックや世界選手権大会でメダルの数を増やし本家意識を満足させたいためとまでは思わないが............。

2017年8月9日水曜日

老害に注意

何日か前の新聞のコラム ( 「経済気象台」?)に企業の老害を指摘する文章が載っていた。最近の企業は元や前の会長や社長に「相談役」や「顧問」の称号を与え、専用の部屋や運転手付きの車を提供する場合が少なくない。私も無駄なことだとかねて考えていたが、コラム筆者によると、それと共に、またはそれ以上に、現経営陣が新しい経営方針を立てたくとも相談役や顧問という名の先輩たちが残っていては彼らの過去を否定することにもなり惰性的経営を生むとの指摘があり、なるほどと思った。経営危機にある東芝にもそのまま当てはまるかもしれない。

聖路加国際病院の名誉院長の日野原重明氏が105歳で亡くなった。ほとんど全てのメディアが氏の功績を讃えており、門外漢の私も氏の多方面の業績には頭が下がる。しかし、名誉職とはいえ100歳を超える人が組織に残っていることに対してはこのブログでも疑問を呈したことがあった。東京新聞の「本音のコラム」( 8月7日 ) に、現役の看護師で評論家の宮子あずさ氏が「長寿時代の引き際」との文章を載せている。

宮子氏は日野原重明氏の功績を高く評価しつつも、「長く君臨すればこそ成し遂げられることがある一方で、他者の機会を奪う可能性があるのも事実である」「自分が輝くことより後に続く人が輝くように。そう行動を選んでいきたいと思う」と記している。同感である.想像だが、同じ医療の世界に身を置く宮子氏にとり、日野原氏への批判 ( 婉曲でも ) は別の分野の人間にはない心理的重圧があったかもしれない。

それにもかかわらず言論機関の圧倒的趨勢にあらがって持論を述べた宮子氏は、以前に林文子横浜市長のファーストクラス乗機を弁護した ( 現地でただちに交流や交渉をするには体調は大切との理由で ) ときのように、今回も大勢順応を拒んだ。「本音のコラム」の定期寄稿者として宮子氏と元外交官の佐藤優氏の二人は異色であり、ときに貴重である。

2017年8月7日月曜日

先進国労組の苦悩

昨日の新聞に「全米自動車労組     日産進出に失敗」との記事が載っている。南部ミシシッピ州の日産自動車キャントン工場にも労組を結成しようとの全米自動車労組 ( UAW ) の試みが当の労働者により2244票対1307票で否決された。労働者の味方である労組を当の労働者が拒否したのである。昔なら考えられない事態である。

米国と異なり我が国の労組は企業別組合であり、賃上げにせよ労働条件の改善にせよ要求貫徹のためストライキまですることは少ない ( とりわけ近年は )。そのため過労死など多くの問題を抱えるが、理解できる面もある。山一や拓銀や最近の東芝など一流企業が突然倒産したり危機に陥るのを見せつけられれば、多少の賃上げよりも失業を免れることの方を重視するのは理解できる。終身雇用の一流企業の社員なら尚更だろう。

一方、会社別組織ではないUAWはそうした配慮をしないで済むのでストライキもやりやすい。その結果、米国の自動車産業労働者は労働貴族とまでは言えないが、他産業の労働者よりも好待遇を享受してきた。しかし経済のグローバル化により企業には自国労働者に高い賃金を払うぐらいならメキシコやカナダやアジア・アフリカに新工場を建てる方が有利となった。ミシシッピ州の日産自動車の労働者は労組が活躍すればむしろ自分たちの地位が不安定になると判断した。それが誤解とまでは言えない。

100年以上にわたり労働者階級の地位向上を担ってきた労働組合が労働者により忌避される時代が来るとは誰が予想したろうか。先進国の労働者組織の悩みは容易に解決しそうにない。最近の日本の「連合」の混迷もリーダーの不手際だけに帰することは出来ないだろう。

2017年8月5日土曜日

日本人は新しいもの好き?

。。。。。今日の新聞の地域欄に「パルテノン多摩」の改修との記事が載っている。多摩市には演劇や音楽会や講演会などに使われる文化施設がある。パルテノンを名乗るのはおこがましい限りだが、斜面の上に立つ外観はアテネの本家に多少は似ている。それが間も無く築後30年を迎えて建物の疲労が進み、解体して新築するか部分改修にするか市は市民の意見を求めている。

改修するにしても建築時の約81億円に近い75億円が必要と見込まれている。市が決しかねて市民の意見を募るのは間違っていないと思うが、そもそも30年くらいで大規模改修が必要となるというのがよく分からない。

パルテノン多摩に限らず我が国ではコンクリート建築の寿命を50年と見積もっていると聞く。だからといって全てのコンクリート建築物が50年で改築されているわけではないので、一応の基準ということなのだろう。しかし海外の有名建築物では築後200年,300年のコンクリート建築はザラにあるはず。我が国では赤坂プリンスホテルのように物理的な老朽化よりも内部の設備の老朽化、陳腐化が改修を迫る要因のようだ。

しかし、個人の戸建て住居を含めて考えるとわれわれ日本人は新しいもの好きのようだ。わが住宅地でも住民が交代しても新住民がこれまでの住居に住む例はほとんど聞いたことが無い。必ずのように建て替えて住んでいる。それが経済の活力を生んでいる面もあろうが、これでは国富が蓄積されるはずがない。諸外国ではなどと言う自信はないが、少なくとも英国では古い家に多少手を入れて住むのは当たり前であり、それゆえエドワード式、ジョージ式といった建築時の国王の名を冠した街並みがそのまま住居として利用されているし、むしろそうした住居に住むのが得意のようだ。国情とはかくも違うものなのか?   半世紀近い住居に住む人間のヒガミではない!

2017年7月31日月曜日

1969年という年

作曲家平尾昌晃が亡くなった。ヒット曲は私がよく知っているだけでも十指に余る。その才能は誰もが認めるだろう。しかも、その大部分が年齢に関係なく誰もが楽しめる歌だった。歌謡曲全盛時代の歌として今後も歌い続けられるだろう。

歌謡曲全盛時代といえば前週末の『朝日』の土曜版 beの「もういちど流行歌」は1969年6月の「読者のベスト15」で、「夜明けのスキャット」、「風」、「港町ブルース」など私でも半分以上よく知っていた。やはり年齢に関係なく親しめた歌が多い。紅白歌合戦が国民的行事?だったのもうなずける。

しかし私にとって1969年は別の意味で忘れられない年である。勤務先が大学紛争の波をかぶり ( 東大は1968年だが ) 、事務棟や研究室棟を闘争学生に半年間占拠され、卒業式も無かった。大学の存続も危ぶまれた (  国立大なら一年間学生募集無しも可能だが、私大経営には大打撃である ) が、荻窪警察署は「大学の自治に介入」とメディアに批判されるのを嫌い、協力を拒んだ。

ある深夜、「タダチニヒガシモンヨリキタレ」との電報で起こされ ( 当時、電話加入は二年待たされた ) 、いよいよ教職員が夜陰に乗じ実力で校舎を奪回することになった。何とか丸一日かけて六割かた占拠を解いたが、翌日角棒を入手した闘争学生たちに襲われ、あっという間に再占拠された。何しろ相手は暴力御免なのでこちらは無力だった。

紛争後、一部の闘争学生はプライドからか大学に愛想を尽かしてか退学したが、大多数は卒業式はなくとも卒業証書は手にした。我々としても闘争学生を個人として嫌ったわけではない。後日、スリランカで数年間教会活動に従事した元闘争学生をゼミに呼んで途上国の状況を話してもらった。「恩讐の彼方に」というほどの事ではないが............。

P.S.   7月7日のブログに寺田屋事件と書いたが、池田屋事件の誤りでした。

2017年7月28日金曜日

「窓から飛び降りろ」と命じた教員?

もう十日ほど前になるか、埼玉県所沢市の小学校で教員が四年生の男子に校舎の三階の「窓から飛び降りろ」との暴言を吐き、明日から学校に来るな、今後は一人少ない33人で授業をすると叱り、その生徒はその後休んでしまっているというニュースをメディアが一斉に報じた。

私は仮にも教員が三階の窓から飛び降りろなどと言うだろうかと疑問に感じた。もしそれが事実なら相当手を焼く児童に対してカッとなって思わず口にしたのかと想像した。なにしろ学校側が謝罪し、市の教育委員会も「行き過ぎた発言だった。児童の心のケアにつとめたい」と語ったというのだから (  『産経』7月28日 )。

ところが同紙の地方支局による続報 ( 同日 ) によると、他の児童にそそのかされて新聞を破った当人に対してその教員は、「やれと言われれば何でもやるのか? 飛び降りれと言われたらやるのか?   
やらないだろう。やったらいけない事をやれといわれてもやらないんだよ」と叱ったと他の児童の親は言っており、先生を学校に残すよう署名運動をしている親たちがいるという。

これだけでは断定はできないが、大いにあり得る話ではある。何よりも『産経』以外の他の新聞やテレビが一方の親の主張 ( テレビ局に話を持ち込んだらしい ) だけを報道し、もう一方の主張を続報ででも追わないのは理解できない。そう思って念のため iPadで調べたら、ツィッターなどでは叱られた児童の親のモンスターペアレントぶりを攻撃する文章が相次ぎ、児童の名前までバクロされつつあるという。不届きな親に天誅を下すということらしいが、それもまたかなり殺伐とした話である。

私が一番気になるのは、こうした「不祥事」に対する教育委員会の対応である。全てのケースでとは言わないが、少なからぬ教育委員会の対応は先ずは事件を表面化させずに身内の教員を守ろうとし、いったん事が公けになると逆に大げさに謝罪し、教員に過重な処分を課そうとすることが少なくない ( と感ずる ) 。その心情は分からぬではないが、保護者の要求といえども委員会も学校も安易に屈して欲しくない。仮にそんなことが続けば意欲的な教員が少なくなるだろう。

P.S.  最後の一行がなぜか太い活字となった!  お手上げ。

2017年7月27日木曜日

やまゆり園事件から一年

津久井やまゆり園事件から一年になるという。事件後、同園の建物を解体し再建するとの黒岩知事の意向表明だったが、意見対立で立ち往生しているという。

最近はやまゆり園のような大規模な施設を一般社会から隔離された場所に設けるのではなく、より小規模な施設を社会との交流が容易な場所に設置するという方針に変わっているという。しかし園収容者の保護者たちの大勢はそれに反対していると聞く。

私は一年前の当ブログで、現在の立派な建物を解体し新築するという知事 ( と保護者 ) の意向に反対と書いた。保護者たちが惨劇を思い出させる建物に我が子を入居させ続けることに耐えられないなら、そこには新しい身障者を入居させ、旧入居者は新しい場所の建物に移れば良いと考えたからである。今回は保護者たちは一般社会との交流が容易な施設という考えに反対している。

専門家に多いらしい「社会に開かれた施設」の考えに私は反対ではないが、同じ身障者といっても社会との交流が可能で望ましい人たちと、それが著しく困難な人たちの双方の存在を前提とすべきで、どちらか一方と決めつけるべきではないと思う。高齢化しつつある未収容身障者の親たちの切実な願いこそ最優先されるべきであり、何より必要なことは規模の大小にかかわらず収容人数の拡大ではなかろうか。そのためにはやまゆり園の現在の建物も利用すべきであり、園収容者の保護者たちも新しい小規模施設もダメ、元の建物もダメというだけで良いとは思わない。

2017年7月23日日曜日

ローマ字の略語の増殖

 日本語の文章に外来語が多く混入するようになって久しく、そのことの是非はこれまでも論じられてきた。しかし最近はさらに一歩進んでローマ字の略語が増殖している。すでに見慣れた用語も少なくないが、一瞬首をひねるケースが増えた。

すでに何の抵抗も感じないローマ字の略語にはEU, ICBM, IOC. NATO. OPEC などがあり、多少の抵抗感にとどまるものとして、TPP, NAFTA, M&A ( 企業合併、買収 )  EEZ ( 排他的経済水域 ) などがある。しかし最近のVR ( 仮想現実 ), AI ( 人口頭脳 ), IoT ( 物のインターネット ), PB ( プライマリーバランス、基礎的財政収支 又はプライベートブランド!) , AKP ( トルコ公正発展党 ) などは戸惑う。それも文中ならふつう訳語が併記されているが、新聞の見出しでは訳語無しなので本文を読むまで理解不能のケースが増えた。

ローマ字の略語の増加はむろん我々の実生活の変化を反映している。買い物をインターネットで注文し、支払いも金融機関に足を運ぶことなく済ませる人がどんどん増えているのだろう。私は預金の出し入れや送金などを自宅でインターネットで済ます気にどうしてもなれない。頭が古いと言われればその通りなのだが、詐取された例などを新聞で読むとスキを見せないのが一番と思ってしまう。ましてビットコインなど良く利用する人がいると感心してしまう。

それでも社会の進歩と共に非現金化が進むことは拒めない。米国だけでなく韓国と比べても我が国は後進国?らしい。そうであれば義務教育などで誤りのない金銭取引の仕方を教える必要がある。とっくに実施中かもしれないが............。

2017年7月19日水曜日

ピストル保持ぐらい許されてよい?

今朝の朝日新聞の「特派員メモ」というコラムに自社のサンフランシスコ特派員が書いた「空から自室をのぞくのは」という見出しの気味の悪いエピソードが載っている。お読みの方も少なくないだろう。

ハエも入ってこない17階のマンションのソファで読書していたらブーンという蜂の羽音のような音がした。窓外にはドローンが静止しこちらを見つめている ( ドローンはふつうカメラを搭載している )。立ち上がったらあざけるようにふわりと窓から遠ざかった。

米国では二年前銃で自宅周辺を飛ぶドローンを撃ち落とした男性がいたという。「家族のプライバシーを守るには当然だ」と主張し、おとがめ無しだったとか。さすが米国人と拍手を送りたくなった。私には銃もなければ射撃の経験もないが、同じ場面に遭遇したら空気銃 ( 昔は自由に持てた ) の使用ぐらい許して欲しくなるだろう。何しろ今後はドローンはわが国でも増える一方だろうから。

一足飛びに米国の野放しの銃保持を肯定する気はない。しかし億を越える銃器がすでに保有されていると聞く米国では、人里離れた一軒家に住む人はピストルの保持ぐらいは許されるべきだろう ( その程度でも有ると無しでは大違いである ) 。

幸いピストル無しでも安心して暮らせるわが国では銃もピストルも所持を許されるべきではない。しかし状況の全く異なる米国では連発銃禁止など段階的に対策を立てる他なさそうだ。

2017年7月17日月曜日

加戸守行前愛媛県知事の証言

加計学園問題をめぐる7月10日の国会参考人招致について翌日の各紙は例外なく前川前文科省次官の証言を大きく報じた。しかし前川氏とは逆の立場から証言した加戸守行前愛媛県知事の扱いは前川氏の扱いのほとんど十分の一程度だった。毎日新聞もその例外ではなかったが、今朝の同紙のコラム「風知草」の常連寄稿者で同紙の特別編集委員の山田孝男氏は「別の見方もある」として前知事の主張に半分のスペースを割いている。

前知事の発言をコラムから引用すれば、「加計学園獣医学部の今治市誘致は05年以来の懸案だった」「大学はどこでもよかったが、手を挙げたのは加計学園だけだった」「獣医学部の定員は神奈川以東が8割、岐阜以西2割。日本獣医師会系の政治団体が自民党に献金し、学生を奪われぬよう、新設を阻む構造がある。安倍首相と加計の理事長が親しいとは知らなかった。陳情しても自民党は冷淡。民主党政権は前向きだった。民主党政権が続いていたら、騒ぎにもならず実現していたという実感がある」「50年も新設を拒んだ行政こそゆがんでおり、今回の決定( 加計の開設認可 ) でやっと正された」と見る。

コラム筆者の山田氏は「政府内調整で容認派が勝った。すると、文科省から過程の記録が流失。官邸が確認を拒んだ結果、記録の真贋論争に集中、背景の説明は吹っ飛んだ」と記す。山田氏は7月11日の自紙の紙面では報道として不十分と感じたのであろうか ( 同氏は他の件でもメディアの傾向に批判的な意見を述べたことがある ) 。それとも新聞社内で同氏のコラム記事は一種の役割分担をになっているのだろうか? 多分うがちすぎだろうが。

新設容認派と批判派は獣医師が不足か過剰かでも真っ向対立している。しかし、どちらかが事実を曲げているというのではなく、都会では愛玩動物医が過剰で、地方では畜産動物医が不足しているのが実情のようだ (  最大の畜産県の北海道では道庁の獣医師数十人の募集に応募者は一桁だった!)。加計学園の獣医学部新設に安倍首相が介入したかとは現段階では確言できないが、関係者間で忖度がなされたことは否定できないようだ。

それにしても安倍首相は記録を出し渋った上に今になって国会審査に出席すると言うならなぜ最初からそうしなかったのか。結果として疑惑を深めただけではないか。現在の紛糾には野党の駆け引きやメディアのセンセーショナリズムとともに総理の 軽率さも大いに与っていると言われても仕方がない。

2017年7月15日土曜日

劉暁波氏の政治的叡智

2010年のノーベル平和賞受賞者である劉暁波氏が亡くなった。同賞は近年これまでの平和や人権への貢献の顕彰とともに、将来への期待や激励として選ばれる場合が少なく無く、金正日氏の受賞のように失敗のケースもあった。しかし、パキスタンの少女マララの受賞とともに、劉氏の受賞は最もふさわしい人選だった。

マララの場合、不条理に抗う彼女の道徳的勇気が際立っていたが、劉氏の場合なみはずれた勇気に加えて、「私に敵はない」と言ったその政治的叡智によっても抜きん出ている。

独裁政権としても現在の中国共産党政権の独善ぶりは際立っているが、それは彼らがいつか国民に裁かれる日が来るのではないかとの深刻な恐怖を抱いているためでもある。それに対し「私に敵はない」との発言は、中国の民主と自由の実現に協力するならば過去は一切問わないということである。これまでの不正に目をつぶることはその被害者にとっては大きな苦痛であろうが、暴力の悪循環を断つためにはより高い立場に立つ必要があるということである。

また、「私に敵はない」とは現在の抑圧的政権の中にも止むを得ず従っている人たち、いつかは現状を変えなければと考える人たちが必ずいると認識することである。一歩早く共産党独裁を改めたロシア ( 旧ソ連 ) の場合、ゴルバチョフの功績は多大だが、ブレジネフ書記長が自分の後継者と目していたらしいロマノフも、当時のフランス大統領のジスカールデスタンの回想録によれば思慮深い人物だった。後継者にゴルバチョフを選んだ幹部会もまた従来の行き方を続けられないと考えていたのである。共産主義の改廃までではなくとも。

独裁政権であっても心ある人たち、いつか現状を改めなければと考えている人たちは必ずいると考えるからこそ劉氏は「私に敵はない」と言ったのだろう。それこそが政治的叡智である。ノーベル平和賞の選考委員会の決定がこれほど適切であったことはその歴史上無いのでないかとさえ私は思う。

2017年7月13日木曜日

「ゴーストップ事件」の時代

長期間メディアを賛否で二分した「共謀罪法」が施行の日を迎えた。昨日の『朝日』にタレントのパトリック・ハーランのインタビュー記事が載っている。彼は「『共謀罪法』についての僕の主張は、みなさんの意見と違うかもしれない」とことわりながらも、「僕は『共謀罪法』が日本にあってもいいと思っています。テロ対策は大事だし、国際組織犯罪防止条約を締結し、人身売買やマネーロンダリングの摘発を強化するべきです」と賛成意見を述べている。もし『朝日』がハーランの法案賛成を知りながらインタビューをしたのなら、私は同紙を高く評価するのだが.........。

これまで国際組織犯罪防止条約に加盟していた187か国に日本が188か国目の加盟国となる。他の未加盟国は、イラン、ソロモン諸島、コンゴ共和国、ツバル、パプアニューギニア、パラオ、南スーダン、ソマリア、ブータン、フィジーの10か国。太平洋の島嶼国とブータンを除く4か国はそもそも民主主義国家ではない。

新聞各紙によると暴力団山口組が共謀罪を「法律の実績作りのためにヤクザが集中的に対象とされる」、「トップを含め、根こそぎ摘発、有罪にしようとするもの」と対策を呼びかけている。何年か前の暴力団対策法で大きな打撃を蒙った暴力団としては正常な反応なのだろう。

1933年、大阪で「ゴーストップ事件」が起こった。交通信号を無視した陸軍兵士を巡査が呼び止めたことから両者の殴り合いとなり、果ては陸軍省と内務省 ( 警察はその管轄 ) の対立となる大事件となった。結局は陸軍の主張が通ったが、なぜこの程度の偶発事件が本省を巻き込む対立となったのか。現在から見れば馬鹿馬鹿しい限りの意地の張り合いだが、当時の両者には「陛下の軍人」、「陛下の警察官」としての面子がかかっており、簡単には引き下がれなかったのである。警察官も自衛隊員も裁判官も現憲法ではみな主権者である国民の公僕、奉仕者である。しかし、戦前はそうではなかった。国制の根本的な違いを忘れてはなるまい。

2017年7月7日金曜日

幕末の薩長への批判

最近、幕末の薩摩と長州両藩を弾劾する著書が複数出版されたようだ。私自身は読んでいないが、日ごろ感じていたことと通ずるものがあるようなのでいつかそのうちの何れかを読みたいとは考えていた。すると昨日の新聞広告欄 (『毎日』)に外山滋比古著 『三河の風』 ( 展望社 ) が載っており、広告文には「薩長の維新勢力から吹く風は好戦的だった。10年おきに戦争を起こし、ついに国を滅ぼした。徳川発祥の地三河からはあたたかい平和の風が吹く」とある。外山氏は三河出身とのことなので多少は身びいき ( 郷土愛?)もあるかもしれないが、博識な学者として著名な氏がそれに無自覚とは考えられない。

勝者側の描く歴史像がそのまま正しい歴史でないことは誰もが同意するのに、これまでの明治維新のイメージはその点不十分ではなかったか。寺田屋で新撰組に襲われ多数の犠牲者を出した「志士たち」も、禁門の変で敗北した長州軍も大義のため京都を焼け野原にすることに何の躊躇も感じていなかったし、西郷は公武合体を阻止するため江戸でテロまがいの騒擾を起こした。武力倒幕の方針は小御所会議で西郷や大久保の脅迫の下に決定された。我々凡人と違い西郷や大久保は大義のために自己の生命をいつでも捧げる用意がある大人物だった。しかし私は、両人は大義のため他人の生命を犠牲にすることも何ら躊躇しなかったと感じる。だから成功した革命家になったとも言える。

徳川幕府や三河人が平和勢力だったかはともかく、高杉晋作の功山寺蹴起や彼に指導されたその後の長州藩の行動は常識ては考えられないほどの危険な行動だった。その伝統は帝国陸軍に受け継がれた。『精神一統何事か成らざらん」とばかりに日米開戦に踏み切った日本の精神主義は長州に遡るのではなかったか (  司馬遼太郎は長州人はときに狂うと書いている )。戊辰戦争なくしては明治日本の近代化はあれほど目覚ましくはなかったろう。しかし、異論を力で排除するやり方は結局は犠牲の多い回り道だったのではないか。


2017年7月5日水曜日

辺地? カムチャツカ

テレビのチャンネルを回していたらBSプレミアムで「グレートサミッツ」の再放映をしており、今回はカムチャツカ半島の最高峰クリチェフスカヤ ( 4750米 ) の学術登山への随伴記だった。聞き間違いでなければ番組ではユーラシア大陸最高峰と紹介していたが、ヒマラヤの山々はユーラシア大陸ではないのか?

カムチャツカ半島には富士山そっくりの火山が幾つかあり夏でも雪をいただいているが、クリチェフスカヤは文字どうりの活火山なので当日は雪はほとんどなく、45度近い頂上直下の斜面は富士山と同様滑りやすい火山岩のくずで覆われている。同じ高度でも低緯度地方の酸素は日本などの半分ということだが、チームの誰も酸素マスクを着用していなかった。およそ一時間おきに頂上では噴煙が上がり、その合間の登頂だった。私にはそんな危険を侵す勇気はない。

十数年?前、カムチャツカ半島へのツアーに参加した。登山の予定はなく、高山植物の花々、先住民部落、州都?ペトロパブロフスキー・カムチャツキー ( その昔、高田屋嘉兵衛が半年抑留された ) などが主な訪問地 ( 中継地のウラジヴォストークも ) だった。奥地に向かう泥濘の道は6輪駆動?のバス ( 兵員輸送車?)で走破するのだが乗り心地は最悪で、車に強い私が下車直後吐いてしまった。夜はロシア民謡のピアノ演奏があり、日本人を意識してか「恋のバカンス」も曲目に入っていたが、食事に気を取られてか気が付いた日本人は少なかったようだ。

帰りの空港は新潟空港で、JR新潟駅へはタクシー利用だったが、その快適さにシビれた。何処にでも走っているタクシーなのに!  道が良いからか?  上越新幹線では今度廃止が決まった2階だて車両に乗った。夜行寝台の経験から二階席はそうとう左右に振られるだろうと予想したが、揺れは驚くほど少なかった。ロシアの辺地と比較するのが無意味なのか。

2017年7月2日日曜日

香港の憂鬱

 香港返還20年の記念式典があり、習近平主席が出席して強硬な演説をした。20年前の式典では未だ香港人の間に祝賀ムードも感じられたが、今度は親中派にさえそうした空気は乏しいようだ。無理もない。

中国は「一国二制度」で50年間は香港の自由主義経済や自由な言論を認めると約束した。本土自体が市場経済を大幅に採用したので経済面での約束は守られたが、自由な選挙は許されず、言論の自由にも暗い影が迫っている。昨日の反中国デモの人数6万人超は主催者発表なので他国の場合と同様その半分程度と見るべきだろうが、それでも人口数百万人の国ではけっして少ない人数ではない。

今回の習近平主席の香港人へのあからさまな威嚇は彼個人の問題ではあるまい。この秋の共産党大会を前にして江沢民派などの反対派に乗ぜられないための非妥協性という面も重要であろうし、何より、領土を失った指導者との評価を恐れるのはどんな政権の場合でも同じだろう。とくに国民の支持に自信が持てない独裁政権の場合そうだろう。

残念なことだが今日、香港住民の民主と自由のために大国中国に楯突く国は出ないだろう。彼らがあくまで自由人として生きたければ海外移住しかあるまい。同文同種という点では台湾移住が最適だが、台湾自体の地位が不安定と言うなら米国、カナダ、オーストラリア移住だろうし、もし日本を選ぶなら私は政治難民として歓迎する。

東アジア人、少なくとも中国人、朝鮮人、ベトナム人らは過去に我々と同じ漢字を使用し、程度の差はあるが同じ儒教文化を受け入れた。観光地の中国人は服装などで何となくそれと分かることが多いが、生活態度などはそのうち改まるだろうし、二世、三世となったら我々と何の変わりも無くなるだろう。私には中国本土の民主化が簡単に実現するとは思えない。

P.S.   前回のブタペストはブダペストの誤り。「ドナウ川」は「ドナウ河」がベター。iPadにカナで入力したら「川」が最初に出たので思わず......。

2017年6月30日金曜日

トランシルヴァニアの今昔

6月27日放映のBSプレミアムの旅番組「一本の道  森のかなたの国をあるく  ルーマニア・トランシルヴァニア地方を歩く」を見た。NHKの女性アナウンサーが日本に一年間留学したルーマニア女性と同国の西半分のトランシルヴァニア地方をトレッキングする番組で、アナウンサーは九年前?に黒海に面したドナウデルタ ( イヴァノヴィチの『ドナウ川のさざなみ』の故地 ) を訪れたことがあるとか。

伝説の吸血鬼ドラキュラの城のあるトランシルヴァニア地方は中世以来ルーマニアとハンガリーとの係争地であり、ハンガリーは同地をオスマントルコの侵入から防衛するためザクセン人 ( ドレスデンやライプツィヒのある ) を多く住まわせた。女性二人はドラキュラの城と共に幾つかのザクセン人の城や町を訪ねる。最後の訪問地ブラショフにはザクセン人が建てた大聖堂があり、たった一人のドイツ人司祭が守っていた。

トランシルヴァニア地方は第一次大戦でハンガリーが敗れてルーマニア領となったが、同地のドイツ人は第二次大戦後追放されて難民としてドイツに帰った。そのためドイツ人が稀なのである。司祭を含めて誰もそのことに言及しなかった。古傷に触れたくないのはいずこも同じである。アナウンサー氏はどこまで知っていたか?

むかし、トランシルヴァニアの歴史を専攻したいとの女子の大学院生を指導したことがあった。ハンガリー支配に対するルーマニア人の民族的抵抗運動を論文のテーマとしたので専門研究者の助力を仰いだが、英語の関係論文ぐらいは一緒に読んだ。そのためブラショフをはじめ幾つかの都市名は私も覚えていた。学生はその後同級生と二人でルーマニア旅行をしたが、チャウシェスク独裁の時代で電力不足のため夜行列車に灯火はなく、本当に恐ろしかったと聞いた。心から同情したが、ハンガリーに対するルーマニア人の文化的抵抗を研究した彼女が、抑圧者ハンガリーの首都ブタペストに着くまで生きた心地がしなかったと聞くとおかしくもあった。最悪の時期のルーマニアではあったが、ブタペストはヨーロッパで最初に地下鉄を持った文化都市だった。

2017年6月28日水曜日

大臣の失言

このところ与党政治家の失言が豊作?である。むろん昔から政治家の失言放言の類いは少なくなかったが、大臣ともなれば資質を問われかねない。

政治家の失言にも大別して二種類あると思う。一つは、聴衆のウケをねらい笑いをとることが目的の場合で、とりわけ支持者の集会でなされる。典型的なのは森喜朗元首相の「日本は神の国........」発言で、メディアで問題視された。もともと失言癖が目立った森氏で、なかにはものを知らないことを露呈したまでの場合もあったようだ。しかし戦前ならともかく今どき日本が神の国だと本気で考えている人はほとんどおるまい。ウケ狙いだったと考えてよかろう。

名前を忘れたが、被災地訪問に際して長靴の用意がなく、水たまりを背負われて渡りメディアに批判された上、自派の集会で長靴の業界が潤っただろうと放言して叩かれた大臣?がいた。背負われた姿はあまり見よくはなかったが、私はこれは秘書ら周囲の配慮が足りなかったことが原因で、そもそも批判されるほどのこととは思わないし、集会発言は品のないジョークだが笑いをとるための発言にそれほど目くじらたてることもないと思う。

もう一種の失言はそもそもものごとの軽重をわきまえず大臣としての資質にもかかわるケースで、稲田防衛大臣の発言はこれに当たるだろう。氏は以前にも南スーダン情勢に関して「戦闘」ては国会で問題とされるので「衝突」と述べると発言し私を驚かした。そこにはジョークの要素は皆無で、これではサギをカラスと言いくるめますと言うに等しい。とても大臣の答弁とは思えなかった。

今回の都議選中の発言も自衛隊にとっては迷惑そのものであり、これが法学部出身者の言かと驚く。一度ならず二度までもとなるととても大臣の資質があるとは思えない。こうした資質に欠ける政治家を引き立ててきた安倍首相の見識が問われる。情けない閣僚の一語に尽きる。

2017年6月26日月曜日

ダーウィン・クロポトキン・オーウェル

日曜夜の「ダーウィンが来た!」は主に動物の生態を紹介する番組で私は見たり見なかったりだが、昨夜は「衝撃! 毒蛇マムシ狩り  里山の最強昆虫タガメ」とのタイトルに惹かれて見た。

半信半疑だったが内容はタイトル通りだった。全長数センチの水中昆虫のタガメが先ず蛙を捕食するシーンがあり、ついでドジョウと格闘するシーンがあった。後者だけでも結構スリリングだったが、本当にマムシを捕食するシーンには驚きあきれた。何しろ約十倍の全長を持つ相手である。待ち構えるタガメはマムシの首の部分に取り付いて、それを振りほどそうと相手がどれだけ暴れても離さない。ごく最近知られた生態とのことだが、水槽の中ででも撮影したのだろうか。

「ダーウィンが来た!」以外にも近年野生動物を紹介する番組はよくあるが、それを見て痛感するのは動物界の弱肉強食の姿である。肉食動物なら生きるためそうせざるを得ないのは当然だが、そうした生存競争をみていると進化論の「適者生存」、「自然淘汰」の意味が納得できる。

しかし、それに対しては反論もある。帝政ロシアの公爵にして地理学者、アナーキズム理論家として知られるピョートル・クロポトキンの『相互扶助論』( 1904年 )は、自然界の進化は生存競争の結果ではなく相互扶助によってなされたと説いた。私自身読んでいないので誤解の可能性はあるが、ダーウィンの発見がそれによって大いに揺らいだとは聞かないし、動物界の弱肉強食の印象は否めない。

たかがテレビ番組を見て進化論の是非を云々するとはと言われそうだが、私はそうは思わない。真理は思想家の言説の中にだけあると考えるのは誤りである。プルードン、バクーニンと並ぶ三大アナーキズム理論家として知られ、その人格でも尊敬を集めたクロポトキンと雖もである。権力や政府の悪をえぐるアナーキズムに共感した作家のジョージ・ウドコック ( 『アナーキズム』1968年 紀伊国屋書店 ) も、「世論は、群れをなした動物たちの間の画一性へと向かう恐ろしい衝動のために、どんな法律体系よりも寛容ではない」とのジョージ・オーウェルの言葉を紹介して、「隣人の渋面が判事の判決と同じように恐ろしいものと化すといったことについて十分考慮したアナーキストはほとんどいない」と警告している ( 村落社会に住む人にとっては「判事の判決」よりも村八分の方が恐ろしいこともあり得る ) 。最近の政情にからんでオーウェルの『1984年』が我が国で顧みられているとのことだが、オーウェルの真意はそれほど底が浅くはない。

2017年6月21日水曜日

予測の難しさ

今年のプロ野球のセ・パ交流戦が終わった。例年よりもセ・リーグの各チームが善戦したが、結果としてはパ・リーグ優勢を覆すには至らなかった。その理由はともかく制度発足時、私は交流戦を導入すればこれ迄の投打の記録との比較は困難になると考え導入に反対だったが、現在は試合内容が多彩となり大成功だったと認める。将来を見通すことはかくも難しい!

米国のプロ野球への日本人選手の挑戦は野茂やイチローの活躍など、米国人に日本野球の実力を知らしめ、私も多少は誇らしい気持ちになった。しかし、最近のように多くの選手がメジャーリーグを目指すようになると日本のプロ野球は米国のマイナーリーグになりかねない。職業選択の自由は認めなければならないが、日本プロ野球機構はどこまで現在の姿を予測していただろうか。

ロンドンで白人運転の車がモスク帰りのイスラム教徒たちを襲い、死者一名を含む多数の負傷者を出した。イスラム過激派のテロがひっきり無しのヨーロッパでは白人側の仕返しのヘイトクライム
は避けられないと予想していたが、相手の手口をそっくり真似た車利用のテロは思いも寄らなかった。しかし、ことが起こってみれば予想しなかったのが不思議に思えてくる。そもそも言語、宗教、生活習慣など文化面の相違の重要性を軽視して、労働力として中近東やパキスタンからの移民を利用した経済界の予測の誤りがすべての出発点だった。

我々は東日本大震災で自然現象への予測能力の不足を知らされた。社会現象への我々の予測能力も大して信頼できないと覚悟した方が良いのだろう。

PS.   前回のブログで松村健三氏としたのは松村謙三の転換ミスでした。


2017年6月16日金曜日

大田昌秀の生と死

大田昌秀元沖縄県知事が亡くなった。学徒兵として戦争に巻き込まれ多くの学友を失い、戦後は基地問題で本土人の無関心と闘った氏の生涯は沖縄の苦難を一身に体現していたと言って良い。私個人としては氏が「平和の礎」を建立し、日米の死者を分け隔てなく慰霊したことが記憶に残る。ご冥福を祈る。

しかし、私の購読する新聞の社説 ( 6月14日 ) が、「かつての政府与党には沖縄に心を寄せる政治家が少なからずいた」と述べるのにはまたかとげんなりした。当時、それらの政治家の沖縄に寄せる心を紙上で読んだ記憶がないからである。メディアは良心的与党政治家を、彼らが死んだり政権の中枢から離れたり反主流派になったりするまで、ひたすら派閥まみれの政治家として描いていた。

話は古くなるが、吉田茂内閣末期の新聞の首相批判は激烈だったが、其の後いくばくもなく彼は新聞に「大磯の賢人」扱いされるようになり私は驚いた。自民党総裁選で岸信介氏に対抗した反主流の松村健三氏はにわかに立派な政治家と紹介され ( 事実そうだったが ) 、私は自民党に立派な人がいると初めて知らされた。沖縄に関しては小渕恵三元首相も野中広務元幹事長も「沖縄に心を寄せる政治家」だったが、生前の彼らは前者は無教養の政治家と揶揄され、後者はその剛腕ぶりばかりが報道され、兵士体験に基ずく彼の平和への思いは報道されなかった。

人の評価は「棺を蓋って定まる」は真理かもしれないが、それでは寂しすぎる。真の評価は歴史家の仕事でジャーナリズムに期待すべきではないのだろうか。そんな筈はないが、そう思いたくなる。そうとすれば、大田昌秀氏は生前に正当に評価された幸福な人だったとも言える。

2017年6月11日日曜日

退位特例法の成立

現天皇の退位特例法が成立した。何しろ退席した自由党以外は自民党から共産党までの全政党が賛同したのだから去年の天皇発言の効果は絶大だった。両陛下のこれまでの国民 ( とくに災害の被害者 )への深い配慮が国民の支持を生んだといってよかろう。

しかし、このほぼ全政党が賛成した特例法に強い不満を表明した人がいた。現天皇その人である。「陛下、政府に不満」との見出しの毎日新聞 (5月21日) の記事は天皇が「強い不満をもらされたことが明らかになった」として、「一代限りでは自分のわがままと思われるのでよくない。制度化でなければならない」との天皇の思いを報じている。天皇が直接にメディアに語ったとは考えられないから、宮内庁の高官が陛下の意向を代弁したのだろう。記事は続けて「天皇は祈っているだけでよい」などと有識者会議での「ヒヤリングで批判されたことがショックだった」との陛下の強い不満を紹介している。

私はあれほど国民に寄り添おうとした陛下が感情的に反発したことは分からぬではないし、「祈っているだけでよい」とは失礼だと思う。しかし、「象徴」というどうにでも解釈できる言葉の自己流解釈を盾に、摂政でもいけない、特例法による退位でもいけないと反発するのは「自分のわがままと思われ」ても仕方が無いのでは?  天皇が政治的実権を失っていた200年前の光格天皇の退位の決着に二年半かかったと聞く。天皇問題となると右も左もむやみに非妥協的になる現状を見れば、特例法による解決はベストではないにしても無用な対立を避けるベターな解決法だったのではないか。

私は『毎日』の記事のあと、他のメディアとくに新聞各紙がどう報道するかと注意していたが、管見の限りではどのメディアも全く言及しなかった ( 『赤旗』には目を通していないが!) 。同情に値するとはいえ歴然たる天皇の政治的介入を見過ごしてよいとは不思議である。菊の御紋に深入りしないことが何より大切ということだろうか。

2017年6月8日木曜日

緑の魔境 ( 続 )

昨日、某生命保険の社員が拙宅を訪ねてきた。私や家内が死んだ時の手続きを簡素化するためとの事だったが、我が家の狭い庭を見て羨ましいとのたもうた。庭のあることの煩わしさを知らないのはマンションか公団住宅の住人なのだろうか?

先日、何気無しに椿の木に視線がいったら茶毒蛾が葉にべったり付いているのに気がついた。早く気づいたせいか例年より駆除はずっと容易だったが、一匹でも見残しがないよう気は使った。柿の木は初冬に上方の枝を命がけ?で切り、いっときは切り過ぎたかと思ったが、春になったら猛然と葉が出てきた。裏のタラノキはこれ以上大きくなると電線に近ずくので最初の芽を二回食したのちも、新しい若芽 ( もう最初から枝の形をしている ) を四、五回除いたが、まだ相手は断念する気配がない。植物の生命力には脱帽する他ない。

植物だけではない。半月ほど前、外出から帰ってきたら、隣家が呼んだペンキ職人が我が家の前の道路でタヌキを見たと騒いでいた。そういえば以前の仇敵の野良猫をこの頃見かけないのに台所ゴミを庭に埋めると翌朝必ず掘り返されるので不思議だったが、タヌキだったとは..........。その後家内が聞いてきたところでは、タヌキやアナグマを見かけるのはこの住宅地では珍しくないとのこと。多摩市は何しろジブリ映画『平成狸合戦ポンポコ』の舞台で住民の方が侵入者なのだが、それにしても...........。半世紀も生き続けるのは、雑食性のタヌキにとって住宅地は案外住み良いのかもしれない。「自然との共生」は良いことばかりではないことを知って欲しい!

2017年6月2日金曜日

北朝鮮のミサイル実験

北朝鮮が狂ったようにミサイル実験を繰り返している。先日は同国のミサイル発射の報道を受けて東京メトロが地下鉄の運行を一時差し止めた。韓国の一部メディアが日本の過剰反応と笑った ( 怒った?)という。放射能汚染の危険を理由に我が国の10県の水産物を輸入禁止している韓国に日本の過剰反応を批判する資格があるとは思わないが、地上の鉄道より安全な地下鉄が運行を停止したのは私も過剰反応だと思う。

独裁国家はいつの時代でも自国の軍事力を誇張する( ソ連もそうだった ) が、それでも北朝鮮のミサイルや核兵器の技術開発の進行はわが国にとって重大な脅威であることは間違いない。たとえ現在の一連の実験が米国を一対一の交渉に誘うための手段だとしても、その後の交渉で北朝鮮が核放棄に同意するとは考えられない。これ迄の巨額の開発費の手前もあるが、相手に自国の要求を認めさせる手段として核兵器ほど有力なものはないから。

北朝鮮の核の脅威を取り除くためどんな手段にも訴える用意があるとのトランプ大統領の発言は重大である。北朝鮮がワシントン攻撃用のICBMのボタンをいつでも押すことができるという事態を果たして米国は許容するだろうか。トランプ大統領が北朝鮮への中国の働きかけを最重要視するのは自然である。これに対し中国は公式には「双方の対話を」などとこれまで効果のなかった提言を繰り返している。それは表面だけのことで、裏面では中国は北朝鮮に強い圧力をかけていると思いたい。もし中国の圧力が効果を発揮すれば米国も代償として中国が反対するサード ( ミサイル防衛網 ) の撤収を決断すべきだろう。

P.S.    前回のブログを書いたとき、京都産業大?も獣医学部創設を希望していたのに加計学園だけが認められたのは公平でないと思っていた。しかし一校しか承認されなかったのは獣医師会の裏工作によるという。『産経』(6月1日)によれば、同会会長はメールマガジン「会長短信」で、「粘り強い要請活動が実り、関係大臣のご理解を得て、何とか『一校限り』と修正された」と、ロビー活動の「成果」を強調していたという。同日の『読売』に岸博幸慶大教授のロング・インタビューが載っているが、それによると京産大の申請は一歩遅れていた。教授は前川前次官の真相暴露は規制撤廃に反対し既得権益を守ろうとした獣医師会と文科官僚の反撃と理解している。

2017年5月30日火曜日

加計学園問題と前文科省次官

安倍首相が参院本会議で加計学園の獣医学部新設のために「圧力が働いたことは一切ない」と断言したという。私は国会の論議を直接聞いていないが、各紙ともほぼ同様に報道している。相変わらず軽率な言葉づかいをする人である。

僅か一ヶ月かそこら前、籠池学園問題で首相は自分も夫人も「一切関与していない」と断言した。しかし既に夫人が何度も招かれ複数回講演しているのだから用地買収に特別の便宜をはかったかどうかは別とし ( 多分はかっただろう ) 、「関与」していることは明白である。加計学園に関しても文部省への官邸の働きかけの存在は疑いない。なぜ首相は規制撤廃のため、つまりは日本経済再生のため自分が先頭に立って岩盤に穴を開けたと言わないのだろう。この何年来、既得権益を守るための規制を打破しなければとあれほど叫ばれていたのに ( 獣医師界の反対は利害関係者ゆえにそのまま受け取ることはできない )。いかに国会で多数を占めていても虚言があと一回あれば内閣が退陣に追い込まれることもあり得よう。

だからと言って前川前文科省次官が社会正義のため立ち上がって真実を語っているとは思わない。もしそうならば半年前の次官当時、職を賭して獣医学部新設に反対したはず。氏はその後間も無く文科省の役人の天下りの中心にいたことが明らかになり辞職した。次官職を賭して反対しなかったのは社会正義よりも天下りの維持の方を優先したと勘ぐられても仕方がない。

前川氏が出会い系バーに顔を出していたかどうかは本質的な問題ではない。名前が思い出せないが、以前の「ニュースステーション」に常連として出演していた元朝日新聞記者 ( 現在は私大教授)が前次官の発言に対し、内閣府が文科省の権限を犯したことへの怒りがこれ程とはと感想を述べていた。真相はそんなところか。官僚にとって省益とは個人的名誉を毀損しても守るべきものなのだろう。

2017年5月28日日曜日

テロ 人権 内戦

今月はマンチェスターのコンサート会場テロを皮切りにテロ被害は先進国を超えてインドネシア で、またエジプト ( コプト教徒襲撃 ) と世界に拡大した。そのすべてにイスラム国 ( IS )の関与が指摘されているが、その関与の程度はまだ明らかではない。

以前のフランスのテロ事件でも今回の英国のケースでも、犯人はすでに警備当局に危険人物と目されていた。それでも事件を防止出来なかったのは人権尊重の原則が当局の手を縛ったと見られる。その後のフランスは非常事態宣言の相次ぐ延長という形で令状なしの家宅捜査を可能にした。英国も同じ立場に追い込まれるかもしれない。異教徒に対する「聖戦」は天国へのパスポートとなれば自殺覚悟のテロを阻止することは難しい。

さらに深刻と私に思えるのは、トルコやインドネシアのように従来は政教分離を国是としていたり、穏健派のイスラム国とされた国々で逆流が生じていることである。トルコでもエジプトでも自由な選挙の結果イスラム回帰が生じた。その結果、マイノリティの宗教や宗派は権利を制限されたり、最悪の場合虐殺の対象となりつつある。ナセル、サダト、ムバラクと続いたエジプトの「軍人独裁」は少なくとも脱宗教を目指しており、宗教的マイノリティにとってはありがたい政権だったとさえ言える。

過日テレビ番組で、シリアで環境問題を教えているという邦人の元海外協力隊員の妻は、「何であんなに平和だった国が..........」と嘆いていた。また、「シリアの万人が納得できる結末ではないだろうが.........政権なんてもう誰がとっても構わない」との街の声が紹介されていた。

内戦を避けて国外に脱出するシリア人は多い。しかし他方で、国連の第三国移住措置で米国に移住する権利を得たのに「シリアに帰りたい」と周辺国に残ったシリア人も紹介されていた。その願いが一日でも早く実現するよう願う。

2017年5月25日木曜日

商売の移り変わり

我が家の近所には駅を中心にスーパーマーケットが3店あった。駅下 ( 真下ではないが ) の電鉄系のそれは地理的優位を計算してかやや割高である。我が家もよく利用するが外国産牛肉があったり無かったりする。駅よりも我が家寄り ( 僅か数十メートルの違いだが ) のスーパーは便利差から利用回数が多かった。第三のスーパーはほとんど駅前なのだが、ほんの数十メートル逆方向なのであまり利用しなかった。

第三のスーパーは最初の入居店が撤退してから十数年間あたらしい入居店が頑張っていたが、ついに先日閉店した。スーパー三店はもう無理だろうと思っていたら先週、従来より売り場面積を拡げた新店が開業した。従来の経緯はむろん承知した上での進出だろうし、こちらの心配することではないのだが。

我が家が当地に移り住んだ半世紀前にはスーパーマーケットは一店もなく、日常の買い物は魚屋や八百屋など個人商店頼みだった。現在と比べれば多少不便だったが、子供同士が同学年の魚屋など多少の面識はあった。その後、駅が高架式となってスーパーが下に入り、個人商店は減少した。

一昨日、初めて新規開店のスーパーを覗いたが、商品の多様さ ( というより多量さ?)に圧倒された。支払いも機械相手に自分で現金を払うのでカードは使えない。外国 ( と言っても半世紀前だが ) ではその場で銀行小切手の金額を記入して支払う人も見かけたが、現金優位の我が国では機械利用の合理化で人手を減らし原価を下げているのだろう。商売は大変だなあと思う。三店とも頑張ってほしい。

P.S.  5月14日の本ブログで、米国映画『大空港』に言及した。偶然23日にテレビで放映されたが、航空機事故が主題とはいえ結末はハッピーエンドで、記者による会社幹部の責任追及はなかった。私の記憶していたのは別の映画のようだ。人間の記憶力はあまり信頼できない ( お前のだろう!)。

2017年5月21日日曜日

ロハニ大統領再選を祝う

。イランの大統領に保守穏健派のロハニ師が対立候補にかなりの差をつけて再選された。同国民の賢明な選択に最大限の敬意を表したい。

ホメイニ革命以来のイランはパーレビ朝の脱イスラムの近代化政策を覆してイスラム教回帰の政策を追求した。しかし、隣国イラクとの間に第二次世界大戦以来最長と言われる戦争を惹起し、多数のイラン青年を死なせた。戦争を始めたのはフセイン大統領だが、ホメイニ師は少なくとも再三の休戦の機会をつかもうとはしなかった。

現在でもイランの最高指導者は大統領ではなく保守強硬派寄りの宗教指導者ハメネイ師であり、ロハニ大統領の西欧との和解政策の前途は多難だが、イラン国民の意志が疑問の余地なく示された以上、ハメネイ師も慎重にならざるを得ないだろう。

残る問題はトランプ米大統領である。イスラム国 ( IS )打倒のためロシアとの良好な関係を重視するトランプも、ISと戦う有力勢力であるシーア派のイランとの核協定の破棄を選挙中公約した。公約を尊重しないトランプとはいえ、スンニ派大国サウジアラビアとの関係を重視すれば反イラン色を強める可能性はある。しかし、イラン内の強硬派の復活を防ぐためには穏健派政権に協力することがぜひとも必要である。イスラム諸国内で強硬派が力を得れば、キリスト教諸国とイスラム諸国との文字どうり「文明の衝突」に発展するだろう。

自国と対立する国家や国民を画一的に敵か味方かと見がちになるのはイデオロギー立国アメリカの欠点である。米国も我が国も西欧との協力政策を選択したイラン国民を失望させてはならない。

2017年5月19日金曜日

時代と生活難

最近よく話題となる少子化は既婚家庭の子供の人数の問題であるとともにそれ以上に結婚しない男女が増加したためと言う。近年、塾通いなど正規不正規の教育費の上昇が著しいことは認められるが、少なくとも夫婦のうち一人が正規職、一人が不正規職に就ていれば生活出来ないほどではないはず。人口対策として移民の増加に期待するのも一つの方法ではあるが、ある意味虫のいい考えではある。

生活難の理由として物価高を嘆く声は高いが、むかしより相対的に価格が低下したものは少なくない。鶏卵が物価の優等生であることはよく知られている ( じっさい信じられないほど安い ) が、それに準ずる食品は豆腐、もやし、砂糖、醤油など数多い。牛肉や豚肉も国産にこだわらなければ今日ほど相対的に安価な時代はなかったのではないか。鮮魚は高級魚にばかり目を向けなければ、漁師に済まないと思う価格の魚もあるし、缶詰など驚くほど安い。工業製品もテレビを始め、やたら付加価値をつけた高級機を求めるのでなければ入手しやすくなった。

戦時中の有名なスローガンに、「ぜいたくは敵だ」「為せば成る。為さねば成らぬ。何ごとも」がある ( 後者が米沢藩中興の祖、上杉鷹山の言葉とは当時知る由もなかったが )。贅沢も今のような平和な時代なら悪いとは言えず、価値観の違いとして理解できる。社会全体のセーフティーネットはさらに充実していかなければならないが、戦中戦後を記憶する私はある意味今ほど暮らしやすい時代はないと思っている。

2017年5月18日木曜日

サンデル教授の「白熱教室」

NHK BS放送で「サンデルの白熱教室  トランプ派 vs 反トランプ派  両陣営の激論」( 5月14日)を録画で見た。これまで二回ぐらいしか「白熱教室」は見ていないが、今回は大教室での実演ではなく、NHKの依頼 ( おそらく ) で両派それぞれ9人の支持者を集めた討論会だった。人種的にはトランプ派にアジア人 ( 中国系?) が一人いたが他は白人だったのに対し、反トランプ派が黒人やインド系など多様だったのは予想どうり。サンデル教授の巧みな司会ぶりは相変わらずだったが、冷静な討論が可能となるようあらかじめ人選した結果でもあろうか。

両派それぞれの主張はおおむね予想どうりだったが、最後に出席者たちが意外だったと語ったように、必ずしも両派とも一枚岩ではなく、問題ごとに派内でも意見は別れた。例えばトランプの主張が米国民の分断に貢献していることは常識として、メディアも分断に貢献しているとの意見にトランプ派全員が賛成したが、何と反トランプ派の5人も賛成した。

またトランプの主張をめぐって家族も分裂した出席者はトランプ派が7人、反トランプ派が4人。それぞれ真剣に考える人たちだったらしいことは救いでもあった。メキシコとの間に壁を作るとのトランプの主張も、費用対効果も考えトランプ派内でもそのまま信じられているわけではないようだ。

労組幹部出身で今は衰退地域の都市のトランプ派市長のように頑固一徹の人もいたが、トランプ派の一人の妻は黒人だった。米国民全体としても両派のデモは頻繁でも、あれだけの主張の違いにしては暴力行為は少ないと私は感じている。大きな問題を抱えても米国は民主的な解決方法を持った国であると信ずる。

2017年5月14日日曜日

本当の「弱者」は?

私が月一回通う病院では患者を「患者様」とアナウンスしている。他の病院のことは詳しくないが患者も偉くなったものだと思う。病院だけではない。三波春夫のせいか松下幸之助のせいか、お客や消費者はいつからか「神様」扱いされるようになった。私も一消費者として大切に扱われて悪い気はしない。しかし、サービス提供者の側が必要以上にへりくだる必要はないと思う。

モンスターペアレント、モンスターペイシェント、モンスターカスタマーと自分たちが神様になったように錯覚した親や患者や顧客の高飛車な態度を見たくない。先日、当地の市役所で職員に対し「民間企業では考えられない」と何度も同じ言葉で決めつける市民を見た。職員は反論せず、じっと耐えていた。昔はともかく最近職員の不親切な応対を見かけない。本当の弱者は誰かは自明ではない。権利意識のはき違えは見たくない。

むかし、『大空港』という米国映画を見た。航空機の墜落事故からストーリーが始まるのだが、記者の追求に対し航空会社の幹部が事故原因は調査中だとにべもない応対をするのに本当に驚いた。我が国の航空会社なら最初からひたすら低姿勢をとるだろうし、そうしなければメディアは非難するのではないか。しかし原因不明なら米国の会社の応対は間違っていない。デルタ航空での最近の力ずくの乗客下ろしにも驚いたが、それに触発されたテレビ番組で日航の元乗務員 ( CA )の我儘な乗客への対処方法を聞いて、もっと厳しい対応をしても良いのではと同情した。「おもてなし」は我が国の美風だが、サービス提供者への配慮も軽視したくない。

2017年5月13日土曜日

朝ドラ『ひよっこ』を見て

NHKの朝ドラ『ひよっこ』に、東京オリンピック当時の給料が大学新卒者で約二万円、主人公のような高校卒の女子工員約六千円と出ていた。いい加減な数字を挙げる筈はないので、それが当時の平均的給与額だったのだろう。私自身の記憶 ( 大卒だけだが ) とも大きく違わない。

当時と現在の貨幣価値の差はおよそ10倍と考えれば大卒20万円、高卒6万円となる。現在6万円で働く高卒者は特別の意図 ( その職業の修業のためなど ) がなければまずいないのではないか。その後の五十年間に学歴の差による所得差は確かに縮小した。労働組合の活動の成果、大卒者の増加など縮小原因はさまざま考えられる。

むかし、『東北の神武たち』という小説 ( 深沢七郎著 ) と同名の映画 (1957年 )があった。東北の貧しい農村では後継ぎの長男以外は田畑を持てない。嫁ももらえず、ヒゲを剃ることも禁じられ、神武天皇を思わせる外見からズンムと呼ばれた。小説なのでそのまま事実かは確認できないし、小説も映画も私は見ていないが、それに近い現実はあったろう。朝ドラからもそれはうかがえる。

さいわいその後の経済成長でそうした現実はおおむね過去のこととなった。しかし、1990年代、つまりソ連が消滅した頃から風向きが変わったように感ずる。ソ連共産主義はその欠陥から消えるべくして消えた。しかし建前であれ「労働者と農民の国」を称したソ連の消滅は、対抗するためにも貧富の格差の解消策を採用してきた西側諸国の改革意欲を衰えさせた。米国の富豪や有名スポーツ選手の圧倒的な富や年収はほとんど傍若無人の域に達していると私には映る。立腹した大衆がポピュリスト政治家に救済を期待しないよう務める必要がある。結果の不均等はある程度避けられないとしても、機会の均等は何とか確保すべきだろ。

2017年5月9日火曜日

人物評価の難しさ

『人形の家』で知られる劇作家イプセンの作品に『民衆の敵』がある。ノルウェーの田舎町で温泉が発見されるが、主人公の医師は工場 ( 妻の実家 ) の廃液が混じり健康に害があると発表する。しかし、温泉による町の発展を願う町民たちの中で彼は孤立し、民衆の敵とされてしまう。

明治維新直後の飛騨地方で「梅村騒動」と呼ばれる大規模な民衆一揆があった。新政府から高山県知事に任命された水戸藩士梅村速水 ( はやみ ) は理想に燃えて新しい改革を次々に実施したが、こと志と違って民衆の怒りを買い、ついに免職となった。高山出身のプロレタリア文学者江馬修 ( なかし又はしゅう ) により戦中から戦後にかけて『山の民』三部作 ( 1949年 )が書かれ、1952年、『情火』というタイトルの映画ともなった ( 松竹映画  若原雅夫主演 ) 。ほとんど忘れられた映画だし、原作に比べれば粗筋だけの作品だが、罪人として唐丸籠に入れられて東京に送られる梅村の姿は忘れられない ( 獄死とも病死とも伝えられる。獄中で病死?)。

朝日新聞の付録『グローブ』( 5月7日号 ) に在米ライター宮家あゆみの「元大統領が描く兵の肖像」という記事が載っている。今年70歳になるブッシュ元大統領は4年前からチャーチル元英首相に倣って絵を書き始めた。この間、「驚くほど画風が洗練され」、このほどイラクやアフガニスタンで戦った兵士たち98人の肖像画集を出版しベストセラーになっているという。宮原氏は、「肖像画からはブッシュ氏の純真さや誠実さ、モデルになった人物に対する彼の共感と敬意が伝わってくる」と評するとともに、「そもそも誰が彼らを戦地に送り出したのか」との批判派の発言も紹介している。

イラクのフセイン大統領が大量破壊兵器を隠していなかったことは今日明らかである。しかし当時、コリン・パウエル国務長官さえ国連で逆の訴えをした ( 今ではそのことを深く後悔していると聞く )。私は彼の誠実さを疑うことはできない。個人の責任もさる事ながら、民主主義のために誕生した米国という少なくともリンカーン演説に遡る国家神話の功と罪、恩恵と危険とを冷静に見定めるべきだろう。

2017年5月8日月曜日

薬師池公園今昔

多摩市の隣の町田市に薬師池公園という中規模の池を中心にした公園がある。今の時期は藤棚の花とツツジが見られるぐらいで人出はそれほどではないが、花菖蒲の時期は訪れる人は町田市民ばかりでなく、相当の人出となる。小さな谷 (  この辺で谷戸と呼ばれる ) の昔の田圃を利用して菖蒲田にしたのだろう。一枚一枚の田の高さの差を利用してきれいな水が田をうるおしており、立体的な地形のためなかなかの美景である。

いつもは花に気を取られて目に止めなかった案内板によると、戦国時代の北条氏照のころ稲田の灌漑のため作られた池は、宝永と文化の二回の富士山の噴火で火山灰に埋れたが、農民たちが苦心のすえ灰を除去したという。私が注目したのは田圃の面積が7ヘクタール ( 7町歩 ) という点だった。7ヘクタールといえば現在の企業的農家の耕地面積としても最低規模ではなかろうか。

たった7ヘクタールの田圃を守るため火山灰と苦闘した農民たち。その貧しさもさる事ながら、その勤勉さを思うと頭が下がる。我々の中にそのDNAはあるのだろうか。

2017年5月6日土曜日

保育園開設の是非

 最近のサッカーブームは野球人気に迫る( 越えた?) 勢いで、拙宅の前の道路でも小学生の子どもがサッカーボールを蹴り合っている。外れたボールがときに庭に飛び込むのは全く気にならないが、ボールが当たって門柱のタイルが再三剥がれた。しかし、今や近所でも数少ない子供たちが楽しんでいるのに水を差したくないので接着剤を買って修理している。

二年ほど前、前の道路の奥に開発業者が谷のような急斜面を買収した。土地購入の利用目的はマンションか保育園か墓地か業者は明らかにしないが、我が家を含む十数軒の住民の対策会議が何回か持たれた。住民の中には騒音を理由に保育園に反対するのは住民エゴだと主張した人もあり、私もそれに賛成したいところだ。しかし、我が家から40メートルほどで道路は袋小路になる。保育園と仮定すれば朝夕二回、十数台 (  数十台?) の送迎のマイカーの往来で混雑するのは明らかで、我が家はすぐに車が出せない程度のことだが、小さい子のいる二軒 ( 今は ) が反対なのは十分理解できる。しかし、業者が土地を購入した後から建物規制区域を拡大するのはかなり困難らしい。月末にまた対策会議が開かれる。円満な解決方法はないものか。

2017年4月30日日曜日

盆栽の世界大会

盆栽の世界大会が我が国で開催され多くの外国人が訪れている。元来は中国から伝わったものらしいが、今日では外国でBONSAI として知られているそうなので、今は日本が本場 ( 少なくともその一つ )なのだろう。私にどれほどの美的センスがあるかは別とし、大木や林までもが数十センチのうちに再現されているのは驚異であり、本当に美しいと感ずる。盆栽だけではない。かつて日系移民二世は米国で庭師になる人が少なくなかったようだが、今でも我が国の庭師たち ( と言ってもその辺の農家 なのだが )の美意識の確かさには感心する。

むかし ( 1982年 ) 、韓国の評論家李御寧氏の『「縮み」志向の日本人』が日本文化論として話題を呼んだ。確かに日本人は大きなものより小さなものに心を動かされるようだ。中国の天安門広場を囲む建築群の巨大さは印象的であるが、国力の違いばかりが彼我の差の原因ではあるまい。やはり美意識の違いがそこに存在するのだろう。二十年ほど前、中国の客人を都心に案内して旧首相官邸の前を通ったら彼女が、how small ! と叫んだので私も家内も憮然となった。

ヨーロッパ人と一言で言っても国民性は様々であることは知られている。英国が美食の国だと思う人は少ないだろう。何しろ英国では料理の味付けは各自が食卓の塩と胡椒でする ( していた )。英国人は内心ではラテン民族の美食への執着を軽蔑しているのではないかとさえ思いたくなる。しかしフランス人やイタリア人の美的センスはゲルマン系民族も一目も二目も置いている ( 自国の自動車のデザインを彼らに依頼することが少なくない )。

今日のアジアでは各国民が他国の短所にばかり目を向けているが、それぞれの国民の長所が冷静に評価される時代が早く来て欲しいものである。

2017年4月25日火曜日

大谷石資料館

昨日、宇都宮市の大谷石資料館を訪ねた。仙台に知人を訪ねた帰途、福島の高湯温泉に一泊。そのまま真っ直ぐ帰京するのも勿体ないので大谷石資料館に立ち寄った。ここは十数年前に同僚と三人で訪れたが、休館日 ( 現在は冬期以外は無休 )で見学できず、四年前は家内と立ち寄ったが東日本大震災の後で地下の採石場跡が危険なので休館中。今回が三度目の正直だった。

今回意外だったのは前二回は人の気配があまりなかった ( 休館のためだけか?)が、今年は広い駐車場に何台も車がおり、若い人たちの訪問者が多かったこと。入場して分かったのは、近年テレビや映画のロケ地として、またクラシック音楽やロックバンドのコンサート会場として ( 能楽や生花も!) 頻繁に使用されたとのことで、今流行の「聖地巡礼」の地になっているらしいことである ( 内部に写真が展示 ) 。

大谷石と言っても関東地方以外の人には旧帝国ホテル の正面 ( 現在は犬山の明治村に移築 ) ぐらいしか思い浮かばないかもしれないが、関東では主に塀として、一部には蔵や住宅の材料として利用され、見慣れたものだった。その採石場跡は新建材が多用される現在は一種の産業遺跡となっている。垂直の壁に囲まれた幾つもの巨大な空間は原色の投光器で照らされた異色の空間である。内部は階段の連続なので足の弱った老人向きではないのが残念と言えば言える。

戸外は「山笑う」という季語そのままの出始めた新緑と山桜が、暗い空間から出たという理由も加わり立ち去り難いほど美しかった。私が年間で一番好きな時期で、そのあまりに短いのを惜しむばかりである。

2017年4月20日木曜日

辺真一氏の近著

韓国では看板や地名表示などにハングル文字以外はほとんど使われないので、外国人には最も不親切な国だと聞いたことがある。ガイド付きの四泊五日の旅行ではあまり実感はなかったが.......。

私は韓国の知人にソウルは漢字ではどの字になるのかと聞いて、該当する漢字はないとの答えにびっくりしたことがある。「日帝支配36年」時代の京城は論外かもしれないが、ソウルはかつて漢城、漢陽など立派な?漢字名を持っていたのに。看板同様、外国人に不便かどうかなど韓国人にはどうでも良いことだろうが、一事が万事ということもある。私には独善のように映る。

日韓問題というと毎日のようにテレビで発言している辺真一氏の最近著『在日の涙』( 飛鳥新社 4月17日刊 ) を読んだ。氏の著作を読んでいない私にはテレビでの氏の発言を聞いても日韓関係や北朝鮮に対する氏の立場がいま一つ分からなかったので読んでみたのである。

「私がはじめて公刊する『祖国・韓国への諫言』である」と氏が宣言する本書を読んでその厳しい韓国批判に正直驚いた ( 「韓国人の認識不足には度し難いものがある」)。その理由の一半は書名が示すように氏が徹底して在日コリアンの立場で書いていることにあるのだろう。韓国語が流暢でない在日が韓国で「半日本人」と蔑まれることは知られているが ( 本国人より下手なのは当たり前ではないか!)、日韓基本条約で日本が韓国に支払った8億ドルの経済協力金以上の金額を本国につぎ込んだという在日の一人として、また、かつてロッテの韓国進出を懇願したのに今は罪人扱いする本国に堪忍袋の緒が切れたのだろう ( 「誰のおかげで韓国はここまで大きくなったのか」)。平均的日本人の韓国観よりも厳しいと私が感じたのは正確ではなく、氏の韓国批判に我々が知らない事実も少なくない ( ともかくも反日武力闘争をした金日成に対する韓国人のコンプレックス。漢字廃止で北に先を越された南、などなど )ことが理由なのだろう。

「帰国運動」で家族を北に送った在日コリアンが日本人より早く北への幻想を脱したとする辺真一氏はそれでも北朝鮮との連携を日本に勧める。それは日本海への出口を持たない中国が北朝鮮 ( 各種の豊富な鉱物資源を持つ ) への領土的野心を持つとの辺氏の確信もあるが、それによって韓国や中国の反日感情が気勢を削がれるとの理由からでもある。意外な提言だが、果たしてそうなるか.........。

2017年4月18日火曜日

「最後の拠り所」

刑務所を出所しても生活は成り立たず、再び犯罪にはしる高齢者が多いという。今朝のNHKニュースで二十歳から始まり服役11回を数え出所した老人のケースを取り挙げていた。途中から見たのか (  それが思い出せない!) 、10回まで何の罪を犯したのか思い出せないが、警察も市役所も明日以後の生活相談に乗ってくれない。下関駅で夜を過ごそうとしたが深夜には閉鎖するので追い出され、ついに放火して同駅を全焼させたという。出所後一年の現在はちょっとした仕事に就いてやっと小さな幸せを掴んだようだ。この老人にこれまで選択肢は果たしてあったのかと番組は問うていた。

高齢の犯罪者にはわざと無銭飲食をするなどして刑務所入りする者が少なくないという。「木枯らしが吹くと舞い戻ってくる人々がいる。『検事さん、私も年でね。できたら南の方の刑務所をおねがいしますよ』............。雇ってくれる人もない。生活保護を求める手段も知らない。こうした人々にとって、刑務所は、飢えと寒さと世間の風から守ってくれる最後の拠り所だった」。『日本経済新聞』の火曜日の夕刊のコラムに半年間 ( 2015年1月~6月 )、25回のエッセーを寄せた元検事総長は私の短い高校教師時代の教え子である。読んだと声をかけてくれる知人は多くても、本気で書いた宗教や社会時評への言及ではなく「人情話」への評が多かったということだが、同君の謙遜と照れ隠しだろう。生徒の頃の抜群のスピーチの才能が今は文筆の才に姿を変えている。見聞したことのない ( むろん正式入所したこともない!)「最後の拠り所」の中を垣間見せてもらった気がする。同僚の検事たちも人情を解する人たちだったと信じたい。

2017年4月15日土曜日

桜を詠んだ歌

今朝の新聞の川柳欄に「散らかせど叱られもせず花吹雪」「見てるだけ乗れませんよと花筏」と桜花を詠んだ二句が載っている。ちょうど昨日今日と花吹雪が激しく、水面ならぬ駅前広場は一面の花びらだった。

少なくとも東京では開花宣言後も続いた寒さのためか満開になかなか至らなかったが、そのためか花期は4月に2週間近く続いた。そのせいかメディアの花便りも例年以上に頻繁だった。山桜や八重桜はこれから盛りを迎えるのが楽しみである。

桜花を詠んだ歌といえば西行の「願わくば花の下にて春死なむ........」が有名だが、日本人の桜花好きといえば在原業平の「世の中にたえて桜のなかりせば.........」がピッタリだし、私個人もこちらを好む。万葉集の格調の高さが良く理解できない私は古今集の方に気に入った歌が多い。とくに業平の歌は形にはまっていないので ( 「忘れては夢かとぞ思ふ思いきや......」)好きである。

先日、何新聞の投稿欄かは忘れたが、「同期の桜」のような戦時の犠牲的精神を賛美している軍歌がテレビで歌われたのは嘆かわしい上に危険な徴候だとの投稿が載っていた。軍歌も大部分は 忘れられてメディアで聞かれるのは一部分なのだが、「同期の桜」は現代でも同期入社の社員たちの酒の席で歌われるので ( インターネットによると愛好に世代差がない!)、やり玉に上がったのだろう。しかし、ほとんど歌われない4番以下を除けば天皇や軍人精神をとくに賛美した歌でもないので、そこまで警戒することもないと思うのだが、桜の散り方からいさぎよい死という連想になるからいけないのか。ひとの感じ方はさまざまである。

2017年4月12日水曜日

米国のシリア空軍基地攻撃

昨日イタリアで開かれていた主要7ヵ国 ( G7 )の外相会合は共同声明で先日の米軍機のシリア空軍基地への攻撃を、「シリアでの戦争犯罪に対応し、化学兵器の使用を防止するため注意深く計算された、対象が限定された対応」と是認した ( 東京新聞4月12日 )。同時にロシアを「重要な国際的プレーヤー」と認め、対露追加制裁を認めなかった。

米軍の攻撃の翌4月8日の新聞各紙の社説の見出しは『朝日』の「無責任な単独行動だ」と『産経』の「蛮行許さぬ妥当な措置だ」を両極端として、他紙は「介入の決意を示したトランプ氏」(『読売』)、「政治解決へ本腰を入れよ」( 『毎日』)、「武力に頼りすぎるな」( 『東京』)と、断定的な非難も支持も避けていた。

今回の攻撃が毒ガスに苦しむ子供たちの映像に促がされたとのトランプ氏の言葉を否定する気はない。しかし動機としては自国内の施策が抵抗に会い停滞していることや、オバマ前大統領がシリア問題で不決断だったと攻撃した手前、何らかの行動に出ざるを得なかったことが大きかっただろうし、中国に北朝鮮への圧力を迫るためもそれに劣らぬ動機だろう。今がチャンスと見たのだろう。

トランプしを動かした動機はともかく化学兵器の使用が人道に反することは疑い無く、言葉だけの反対で良いのかという疑問は残る。第一次世界大戦後の国際連盟は侵略国に対し事実上は経済制裁しか要求できず、枢軸国の連盟規約違反に無力だったし、現在の国際連合はその反省の上に立って武力制裁を可能としたが、五常任理事国の一致を条件としたため実効を挙げてこなかった。今回も米国議会や国連と協議していたら従来どうり非難決議が精一杯だった可能性が大きい。

しかし、もしシリアやロシアが主張するように反体制派が所有していた毒ガスが惨劇の原因だったとすれば話はまったく別である。その可能性は乏しいが、住民を盾にすることを意に介さない一部の反体制派にとって敗北を避ける方法は他に無くなったことも事実。それともG7はシリア政権の毒ガス使用の確証をつかんだのだろうか。その証拠が何より待たれるところである。

2017年4月8日土曜日

山菜の季節

庭のタラの木にタラの芽が八個ほどついた。ニ、三日前には小さな芽で、今年の寒さのせいで遅れるだろうと思っていたが、あっという間に数センチの大きさになったので二個を残して収穫した。明日にでも、買ってきたマイタケなどとともに天麩羅にして食べるのが楽しみである。もう一回は芽がでて収穫できるだろう。

3月中頃には裏の土手でフキノトウを摘んだ。と言っても矢張り数個を二回収穫した程度だが、去年は目に見えて個数が減少していたので今年は全滅かと思っていたが、逆に少しだが増えた。しかし来年のためにと四つほど残しておいたら誰かに取られてしまった。フェンスの外なので文句は言えないが、道から急斜面を10メートル近くも登って取る人がいるとは予想しなかった。

例年この時期には一面にツクシが生え二度ぐらい取るのだが、今年は遅いなと思っていたら二軒隣の家の斜面ではいっぱい生えている。一面に生える様を横の階段から見ると、大きさは違うが縞枯れ状態の山腹そっくり。しかし、写真に撮っても結果はいま一つだった。我が家の斜面になぜ今年生えないのか、これからなのか分からない。

タラの芽もフキノトウもツクシも量は微々たるものだし買ったものと味に違いがある訳ではないが、採れたてなので新鮮に感じて当人は有り難がっている。

2017年4月6日木曜日

国鉄民営化 三十年後

旧国鉄が分割民営化されJR6社が発足して今年で三十周年という。そのことの評価は何を重視するかによってさまざまだろう。苦労を強いられた人も少なくないだろうが、私自身はJR発足以来鉄道運賃が上昇しなくなったことは ( 特急料金などの例外はあるが ) 高く評価している。もし旧国鉄がそのまま存続していればそれまで同様運賃値上げが続いていたと思うから。JR貨物もようやく赤字を脱しつつあると聞く。

しかし、JR北海道やJR四国など人口減少地域のJR各社は経営難に苦しんでいる。人口減だけでなく、マイカーの普及がむしろ経営難の主因だろう。しかし、住民にマイカーの便利さを捨てろとは言えない。自治体の財政援助も限界があるとすれば北海道の場合せめて道一周などの主要路線は残して欲しい ( 最北端の稚内までの路線廃止もあり得るとは信じたくない )。

JR他社の場合、鉄道以外の業種への参入が認められ経営に大いに貢献していると聞く。それとは少し異なるが、JR九州の「ななつ星」が話題を呼び、こんどはJR西日本が「トワイライトエクスプレス瑞風」を六月から運営する。「ななつ星」の最高グレードが3泊4日95万円にも驚いたが、「瑞風」の同クラスは2泊3日で125万円で予約多数という。それだけの運賃 ( それでも運賃と呼べるのか!)を払っても10両に30人程度の乗客で、単独では赤字だという。全体として会社のイメージアップに貢献するということなら反対しても仕方が無いし、そもそもいくら高額料金でも乗る乗らぬは乗客の勝手である。私などモノとして手元に残らぬものに125万円を払う気になれないが、最高の思い出になると言うならそうですかと言うほかない。私は物欲重視人間なのだろうか?   ともあれ「ななつ星」や「瑞風」が両社の経営改善に貢献するよう願うばかりである。

2017年4月5日水曜日

テロの蔓延

ロシアのサンクトペテルブルクで地下鉄爆破テロが発生し、被害は死者だけでも二桁になりつつある。先々週のロンドンに続いてということならプーチン大統領の強権的政治に原因を帰すことは正しくない。

個人的な暗殺まで含めればテロは歴史とともに古いだろうが、テロやテロリズムという言葉が一般的になったのはフランス革命からだろう。しかし、それが連続して起こる流行期のようなものはある。19世紀末から20世紀初頭にかけて無政府主義者たちによるマッキンリー米大統領、カルノー仏大統領、エリザベート墺皇后 ( いっときわが国でも有名人になった ) らの暗殺もその一つである。一部のアナーキストにとっては高い地位にある人物はその地位ゆえに殺されてよいと考えられた。それまでのテロが個人的憎悪や復讐心に発していたとすればアナーキストのテロはいわば思想的動機に発していた。

無論その後も思想的政治的テロは絶えなかった。第一次大戦後イギリスが管理したパレスチナではユダヤ人による英軍管理施設への爆弾テロがあり、今次大戦後では北アイルランドでのプロテスタント系住民とカトリック系住民の間での長く続いた爆弾テロがあった。しかし、パレスチナでも北アイルランドでも原則としてテロは建物や施設の破壊行為であり、人間は退避できるよう直前に通告があった ( もちろん原則が守られない場合も、手違いで通告遅れの場合も少なくなかったろうが )。しかし、現在のテロは明らかに人命 ( それも出来るだけ多数の ) を狙った行為であり、それが流行となっている。その非人間性は過去の比ではない。

最近のオリンピックでは開催費のうちの警備費が巨額になりつつあるようだ。そうでなくとも大会の規模拡大とともに中小国でのオリンピック開催は困難になってきている。その上に多額の警備費となれば、そのうち大国でも開催を返上したい国が出てくるかもしれない。私の生きているうちにも ( それって何年先と思っているの?!)。

2017年3月31日金曜日

秀吉の一夜城趾

南熱海( 昔の網代、多賀などの呼び名の方が趣があるが ) を訪ね、帰りに小田原の一夜城趾に立ち寄った。これまでもその麓を何回も通り案内板を横目に見てはいたのだが、帰路の渋滞を恐れて素通りしていた。

今回は前日午後の往路は順調だったが、ウィークデイなのに逆方向の帰京する車列の渋滞は半端でなかった。子供達の春休みを利用した家族旅行が多かったのだろう。一月末から二ヶ月近く熱海桜をはじめとする各種の桜が交代で咲く熱海の桜も流石に葉桜に変わり、かと言って染井吉野にはまだ早く、けっして観光に最適の時期ではないのだが........。

一夜城は海抜170メートルの高さ。国道135号線から10分あまりで着いた。広い駐車場があり半分以上のスペースはすでに駐車されていた。しかし歩いて10分足らずの城址では数える程の人にしか会うことはなかった。駐車場わきの有名ケーキ店「鎧塚ファーム」( 先年亡くなった女優の川島なお美の夫君が経営する ) が目的の車が大半なのである。

城址からの展望は素晴らしいのだが当日は薄曇りで眼下の小田原城がやっと見える程度に霞んでいた。それでも城内の北条勢は上から見下ろされてさぞかし圧迫感を覚えたことだろう。一夜城は秀吉の悪賢さの産物のように思えた。

ケーキ店のケーキは下界の倍近い値段に思えた。周囲の花壇の中に川島なお美の墓があるが私は見なかった。死ぬまでまだ一度は訪れる機会はあるだろうと楽観して。

短歌とは全く無縁の私だが、相模灘を見て一句?浮かんだ。「いにしえの実朝詠みし伊豆の海   陽光浴びて波頭きらめく」。  実は写真に撮ろうとしたのだが、手持ちでわずか数十分の一秒のシャッターでは波のきらめきは半分も写らないので短歌で表現するしか無かっただけ。

2017年3月27日月曜日

外国語の日本語表記

テレビで松坂慶子がアイスランドを訪ねる観光番組を見た。どうせなら雪の無い季節の方が美しいのに惜しいと思ったが、その首都を終始レイキャビクと発音し、画面の表記もそうなっていた。しかし発音記号ではビ ( もしくはヴィ) にアクセントがあり、レイキャビークが正しい。外国の地名には文部省?が決めた標準的表記があるのだろうか。

以前にこのブログで言及し二番煎じかもしれないが、むかしロンドンのビクトリア・コーチ・ステーション ( 英国では二階建て以外のバスはふつうコーチと呼ぶ ) を探して老婦人に道を尋ねたが、三度目にようやく彼女は「オー、ビクトーリア!」と叫んだ。トにアクセントがあるとは私は知らなかった。たった百メートル先なのにと後でボヤいた。

トランプ大統領のおかげで最近の新聞にオルタナティブという言葉をひんぱんに見かけた。しかし、アクセントを重視しない日本語でも片仮名で5字以上ともなると何処かにアクセントを付けないと言いづらい。発音記号通りに「オルターナティブ」と表記してくれたら助かるのにと思う。以前ある自然科学者が「オルタネイティブ」と発音したのを聞いたが、私も迷ったことがあるのでとても批判する気になれなかった。

私も今さらビクトリア女王をビクトーリア女王と書けなどというつもりはない。しかし、改悪は御免こうむりたい。「主な」という意味でのメインは我が国でもメインイベント、メインダイニングルームなど正しい表記がなされていたが、私の購読する新聞はいつからかメーンと表記するようになっていた。もう社内で統一がなされていたのか、私の投書は掲載されなかった。しかし大半のメディアでは矢張りメインがメイン!だったためか、いつの間にかその新聞にもメインが復活している。しかし、オルターナティブと提案してまた不採用になるのも馬鹿らしいので投書はしない!


2017年3月23日木曜日

組織犯罪処罰法改正案への賛否

法案への賛否によってテロ準備罪 (『読売』)とも共謀罪 (『朝日』)とも呼ばれる組織犯罪処罰法改正案が閣議決定され国会に提出されたという。メディアで取りあげられてからかなり経つと思うのに今頃閣議決定なの?と思うが...........。

3月11,12日に実施された三大全国紙による世論調査は、法案が正式決定していなかったせいか賛否を問う質問はなかったようだ。18,19日におこなわれた世論調査ではNHKが賛成45%、反対11%、どちらとも言えない32%、『産経』が賛成57.6%、反対31.2%、その他11.2%だった (『産経』3月21日。NHKは記憶による )。両者はかなり相違するが設問の仕方により結果は動くということだろう。三大紙の調査結果も設問次第だろうが、私はNHKの結果に近いものとなるのではと予想している。「どちらとも言えない」が法律の素人の正直な気持ちだろうから。

『毎日』( 3月22日)は法案反対の日弁連の意見の他に、暴力団などの組織犯罪を扱ってきた弁護士グループの法案賛成の意見書に言及している。それによれば過去に、「暴力団対策法や組織犯罪処罰法が制定される際も危険性が指摘されたが、乱用されて市民団体や労働組合に適用されたことはない」という (逆に対策法以後、暴力団の構成員が大幅に減少したと別のテレビニュースで指摘していた )。法案反対運動がそうした結果を生んだとの想定は可能だが。

今回の法案の基礎になっている国際組織犯罪防止法は2000年11月に国連総会で採択され、これまでに187か国により締結されているとのこと。専門家ではないので国際版と国内版の細かい相違は知らない ( むしろ適用が限定的とも聞く )。しかし国際版はG7のうちの6か国 ( 日本を除くすべての国 ) が締結しているという。日本という国はそれでも政府の強権を心配しなければならない特殊で危険な国なのだろうか。

2017年3月21日火曜日

韓国人ジャーナリストの同胞批判

今日、朴槿恵前大統領が検察に出頭するという。偶然、インターネットで『朝鮮日報』の金大中氏 ( 同紙の元記者で現顧問。同名の元大統領とは別人 ) の「韓国大統領の『悲運』は朴槿恵で終るのか」とのコラム寄稿文を読んだ。以下はその抜粋である。

「韓国人自身が『自分たちが選んだ大統領でも政治を誤ったら引きずりおろして監獄に送る、そういう国民的な底力を持つ国」と自画自賛してきた。果してそうなのか」 
「なぜ歴代の大統領が悲運と不運と失望と呪祖の対象となる状況が続くのかーーについての、根本的なアプローチをすべきだ」。
「退陣する大統領に向かって拘束しろと叫び、退任する憲法裁判官に向かって『後で見ていろ』と脅す大衆の怒りに戦慄すら覚える。韓国人には『一歩引く』というものがない」。
「倒れた人を踏みつけ、死者をむち打ち、辱め、暴言を吐いて『勝った』と勝利に酔うのは、民主的市民の姿勢ではない」。
「韓国人は果たして民主的市民なのか、市民である以前に公正な人間なのかと振り返ってしまう」。
「もうそれくらいやったのだから、前を向いて進めばいいと思う」。
「韓国人もいつか、任期を終えた大統領が傷もなく無事に権力の椅子から降りる場面を見るようになるのだろうか」

抜粋では十分に意を伝えられたかどうか。私は金大中氏のジャーナリストとしての信念とそれを公にした勇気に敬意を表したい。それを掲載した『朝鮮日報』にも。

2017年3月18日土曜日

女性参政権運動とオランダ総選挙

昨日、20世紀初頭の英国の女性参政権運動を描いた映画『未来を花束にして』( 原題 Suffragette )を映画館で見た。映画『メリーポピンズ』で子供の教育係のメリーを雇う上流 ( 中流上?)銀行家夫人もその一員で、戯画的に描かれていたのをご記憶の人はあろう。しかし今回の女性たちは運動に参加した労働者階級の女性たちで、運動参加ゆえに社会から ( 夫からさえ ) 理解されず、やむなく破壊活動( 放火さえも ) に走り犯罪者扱いされた人たちを共感を込めて描いている。その破壊活動を是認するかどうかは別とし、英国映画らしい重厚な作品だった。

彼女らが参政権を獲得したのは1918年のことで、映画に描かれた彼女らの体を張った努力とともに第一次世界大戦中の女性の社会参加の拡大 ( 男性の戦争参加のため ) も一半の理由だった。なお、ニュージーランドなどの英連邦諸国や北欧諸国の女性はすでに大戦前から参政権を獲得していた ( フランスは日本と同じ1945年 )。

オランダの総選挙でイスラム教徒の排斥を唱え大躍進を予想されていた極右の自由党は中途半端な勝利にとどまった。トランプ政権下の米国の混迷を横目で見たこともその一因と見られているが、中道右派のルッテ現首相が「男女平等などの社会規範を尊重できない人はオランダから出て行け」と訴えたり、「在留トルコ人への選挙キャンペーンを意図したトルコ閣僚の入国を拒否するなど ( イスラム教に )強い姿勢を示した」ことが与党への支持を回復させた (『朝日』3月16日夕刊 )。言わばウィルダース自由党党首の主張を半ば横取りすることで人気を回復したのであり、昨夜のBSジャパンのニュース「プラス10」はこれをルッテ首相の「抱きつき戦術」と評していた。ウィルダース自由党党首のトランプ同様の人格不安 ( トランプのエンターテイメント性もないのに ) を避けながら実質的に似た政策を期待できるなら国民が現首相を支持したのは理解できる。首相の作戦勝ちだった。

そもそも移民が作った国である米国が移民に辛く当たるのは大きな矛盾だが、キリスト教文化を中心としたアイデンティティを持つヨーロッパ諸国がそれを守ろうとするのは不当とは言えない。先人の苦闘の末に獲得した男女平等を認めない国からの移民を歓迎しないのは、選挙戦術としてだけでなく原理としても間違っていない ( 難民の保護とは別 ) 。どの国も他国の宗教的文化的規範に安易に口出ししてはならないが、それを改める気が皆無の人たちの移住を拒む権利はどの国にもある。
P.S.  以前のブログでカムイワッカの湯の滝を紹介したが、落石などの危険のため上流の滝には入れず、下流の低温の滝しか入れないとのこと。残念なことである。

2017年3月13日月曜日

浅間山荘事件と連合赤軍

BS朝日の「ザ・ドキュメンタリー」という番組をこれまで見た記憶はないが、たまたま「浅間山荘事件  立てこもり犯の告白  連合赤軍45年目の新証言」というタイトルだったので見た ( 3月9日放映 ) 。前半の山荘立てこもり事件 ( 銃撃戦で警官3名、民間人1名死亡 )は当時テレビ中継 ( 何しろ10日間続いた!) で逐一見ていたので、後半の群馬県の山岳アジトでの「総括」という名の同志12名のリンチ殺人の方に関心があった ( 他に千葉県で2名リンチ死 ) 。

主犯格の森恒夫 ( 公判中留置所で自殺 )と永田洋子 ( 死刑囚として収監中病死 )以外の坂口弘らまだ死刑執行されていないメンバーは別とし、今回証言した数人 ( その中には27年間を獄中で過ごした植垣康博も ) の誰もいわゆる悪人タイプでない事は予想どうりだった。それまでの反安保闘争やベトナム反戦運動の中から武装革命闘争への道に進んだのは彼らの主観では正義の闘争であったろう。しかし、仲間の処刑に耐えきれず途中でアジトから逃亡した一人を除くと証言者たちは今でも真の反省には至らず、結果に戸惑っているように感じられた。

革命運動の同志のリンチ処刑は19世紀ロシアの「ネチャーエフ事件」が有名だが、当局のスパイと誤認してといった事情もあったようだ。しかし、連合赤軍事件の場合スパイと疑われたのではなく、革命戦士としての資格なしとされ殺されたという点で特異であり、世間を唖然とさせた。

事件への「識者」のコメントの紹介はあまり無かったが、特異な右翼人として知られる一水会代表の鈴木邦男氏 ( この人って本当に右翼?) の「愛と正義が一番おそろしい」とのコメントが一番的確だと感じた。愛も正義も本来は素晴らしいが、その実現を目指す人の中には自説を固執し寛容が感じられない人が少なくない。鈴木氏は ( 祖国 ) 愛や正義に身を捧げる決意をした右翼青年の中にそうしたタイプをよく見るのだろう。

番組でも文献でも現在は「山岳ベース」と呼ばれているらしいが、当時は「山岳アジト」と呼ばれていたと記憶する。アジトでは現在の人には通じないからか?  45年の歳月は用語にも越えられない壁を作ったようだ。

2017年3月11日土曜日

国家元首を刑罰の対象にすべきか?

「天皇ハ神聖ニシテ侵スへカラス」。 この明治憲法第3条を私は神政的天皇制を文章化した条文とひたすら理解していた。後になってこの条文が「君主無答責の原則」(君主は法的責任を問われないの意 ) を意味し、外国の憲法にも同種の条文は稀ではなかったと知った ( 成文憲法のない英国では「王は悪をなさず」(King can do no  wrong )との憲政上の慣習 ) 。この原則は共和制国家が増加すると「元首無答責の原則」に形を変えたようだ。現在のフランス国憲法 ( 第五共和制憲法 ) は「大統領は反逆罪の場合を除き、その職務の遂行中に行なった行為について責任を負わない」(68条)と規定している。法の前の万人の平等を世界に先駆けて宣言したフランスがである。国家元首とはそれほど重い職であろう。

韓国の朴大統領が憲法裁判所により大統領罷免を宣告された。もはや元首で無くなった朴氏は一介の市民として過去の「違法行為」を罰せられる可能性が生じたという。しかし彼女の犯した「罪」は大統領罷免に値するほど重大な罪だったろうか。米国のニクソン元大統領はウォーターゲート事件で大統領辞任に追い込まれたが、側近たちが実行した盗聴事件の隠蔽を企てるなどその罪は重かった ( 信じてはならない人を信じる罪を犯した朴氏とは違う ) 。それでも米国民は辞職以上の責任追及をしなかった。現在の韓国大統領は軍事クーデターで就任した大統領ではない。「国民の選んだ大統領がことごとく国民の罵声を浴びる末路をたどるのはどういうわけか」との「余録」の言葉( 『毎日』3月11日) に同感を禁じ得ない。大統領の非を責めるなら選んだ自分たちの不明も恥じるのが道理ではなかろうか。民主主義の勝利などと祝っているときだろうか?

2017年3月7日火曜日

森友学園問題と首相夫人

大阪の森友学園の問題は国有地払い下げ問題と首相夫人の行動の妥当性に一応分けて考えることができる ( 昭恵夫人が払い下げ問題に直接関与したとの疑惑はこれまでのところ無いので )。

国有地の払い下げ問題は日を追うほどに醜悪な様相を呈している。共産党の小池議員により与党政治家の暗躍が指摘された途端に鴻池参院議員が記者会見を開いて現金を投げ返したと影響力行使を否定したのがあまりにわざとらしく見え透いていると思ったら、やはり同氏への学園側の働きかけが25回?に及ぶとそのしつこさを議員の秘書までが揶揄していた。幼稚園児に教育勅語を教え込ませたり安倍首相を褒めさせたりの異常さを含めて、学園長の籠池理事長の教育者失格ぶりがさらけ出された。払い下げ問題の疑惑は徹底的に追求されてよい。

他方、首相夫人の学園との関わりは少なくとも軽率の批判を免れない。これまでの夫人は夫の政治姿勢に一見反する行動 ( 反原発候補支持、防潮堤批判、大麻栽培是認など ) を示してきた。それが「家庭内野党」とメディアで揶揄 ( 評価?)されていたが、あるノンフィクション作家によると ( 石井妙子「安倍昭恵『家庭内野党』の真実」 『文芸春秋』3月号 ) 、それほど深く考えた末の行動ではなかったようだ。それが今回明らかになったようだが同情すべき点もある。石井氏によると、秘書無しだった橋本元首相夫人は何の仕事もしないで首相夫人で居ることが申し訳ないと感じたとのこと。昭恵夫人の場合、理由は知らないが5人も秘書を付けられ、子供のない夫人としては何かしないと申し訳ない気持ちになったとしても無理はない。

近頃、テレビなどのメディアに対する政権側の規制強化を危惧する声が高いが、今朝の『東京新聞』は今回の事態でそれが必ずしも効果があるとは言えないことが示されたとしている。テレビ局にとって政権の反発への恐れよりも番組の高視聴率の誘惑には勝てなかったのである。それはまたそれで深刻な問題だとも言えそうだが..............。

P.S.  前々回に知床半島の露天風呂のことを書いたが、カムイワツカの湯滝のようだ。遊覧船から見える海際のカムイワツカの滝ではなく、逆に山側に10分あまり登ったところにある。夏季にはウトロからバスが出るとか。水着着用可というのは無しでも良いということか?持参した方が安全だろう!

2017年3月2日木曜日

貿易摩擦と「安全基準」

選挙中、日本の自動車産業叩きを口にしていたトランプ大統領はこのところ鳴りを潜めている。しかし、そのうち問題が再燃する可能性は小さくあるまい。

すでに指摘されているように、日本車が米国で大量に購入されているのに日本で米国車がほとんど売れない理由は、後者が大きくて燃費が悪いのが主な理由である。日本の道路事情に適した米国製小型車をわざわざ設計しても大量に売れる見込みはないし、小型車は一台あたりの利益率が低いから米国の三大メーカーは本気になれない。いわば自業自得でもある。

しかし、多くは誤解に基づくとは言え、米国の感情的苛立ちはまったく根拠がないわけではない。日本の軽自動車の税金は最近1.5倍ぐらい引き上げられたとはいえ、まだ低いし、その軽自動車が車種別売上ベストテンの6車を占めるのである。普通車の自動車税は米国 ( ナンバープレート税?)の何倍もすると聞く。多年、自動車イコール贅沢品ととらえてきた日本の役所の感覚の名残りは米国人には理解不能だろう。

新聞 ( 『朝日』3月2日 )に、トランプ氏とロス商務長官が日本の食品安全基準について、「 ( 食品が ) 清潔でないと送り返されている」「我々も同じやり方をすると伝えるべきだ」「制裁措置と言わずに米国の安全のためと言えばいい」と電話で会談していたことが米国のネットメディアから明らかになったとの記事が載っている。知日派と報ぜられたロス氏にしてこの事実である。

我々日本人も、韓国と中国が放射能を理由に日本産の水産物の輸入を今も禁止していると聞けば不快感を持たずにはいられない。しかし、かつて日本が狂牛病 ( BSE )を理由に牛肉輸入に国際基準とかけ離れた安全基準を設定していたことも事実である。安全重視は大事だが、安全基準が官僚の業界保護や閉鎖性の隠れみのにされやすいことも事実である。

2017年2月28日火曜日

米国アカデミー賞考

米国アカデミー賞の受賞が決定した。前評判が高かった『ラ・ラ・ランド』ではなく、黒人の監督や俳優たちが作った『ムーンライト』が作品賞を受賞したことは御存知の通り。イラン映画『セールスマン』が外国語映画賞に選ばれたことと共に、ハリウッドの反トランプ気分を反映していると各紙が指摘していることは事実だろう。

そもそもハリウッド映画の有名俳優や有名監督は昔から外国出身者が多いし、今年は二年続けて全員白人俳優がノミネートされ人種差別と批判された翌年である。たまたま数十年ぶりに目にした『キネマ旬報』(  読みたい新聞がすぐに読めなかったため ) の恒例の?受賞予想座談会では『ラ・ラ・ランド』が断然第一候補だが、『ムーンライト』が次の候補に挙げられていた。それでもハリウッドの変わり身の早さにはやはりという感想は禁じ得なかったが。

『セールスマン』が外国語映画賞をとり、イラン人監督がトランプに抗議して表彰式に出席しなかった事実もハリウッドの反トランプ気分の一環とメディアで紹介されている。しかし、偶然カーラジオで赤江アナの「たまむすび」を耳にしたら、この作品はイスラム教そのものでなくともイスラム教国の女性差別の非人間性をテーマにした映画でもあると批評家 が語っていた。真実はもう少し複雑なようだ。

わが国のアニメ映画『レッドタートル』が賞に選ばれず、ディズニーの『ズートピア』が代わりに選ばれたのは日本人として残念だが、我が家としては長男が『アナ雪』についで二度目のオスカー像を ( 今回は監督自身から ) 抱かせてもらったのは喜ばしかった。考えてみればこれもハリウッドが外国人を差別しないお蔭かも ( やはりトランプはまちがっている??)。

P.S. 前回の「野天湯へGo」は数年前の番組の再放送で、山田べにこ氏はすでに引退し、家庭の人となっている由。

2017年2月26日日曜日

温泉探訪番組

放送のテーマに困ってか、テレビで温泉地探訪番組をよく放映している。実際には温泉そのものより地元の料理を食する場面が多かったりするので、ときどき見るだけ (  料理が不味いと言った出演タレントを一度でも見たことがない。これがヤラセでなくて何がヤラセか!)。

今夕、たまたまチャンネルを回していたらBS日テレで「野天湯へGo」という番組が途中から目に入った ( 5.00~5.30 。今晩11.00~11.30も )。今回が第一回らしく今後も日曜に放映されるらしいが、出演者が山田べにこという温泉ファン ( というより狂というべき )で、久しぶりの再会?だった。

3年ぐらい前か、やはり温泉番組で彼女を見かけたが、山道をさんざん歩いた末の温泉 ( 湯小屋すらなく、野天湯が確かにふさわしい ) に入浴する熱意に驚いたことがあった。大変感じの良い女性だったので ( 見ればわかる!)、こうした番組の常連になるのではと予想したが、その後見かけなかった。

今回も奥鬼怒の川俣温泉から山道を数キロ歩いた谷川のほとりで、ろくに訪問者もないらしく、丸太を渡した橋が三箇所も流され靴を脱いで徒渉するしかなく、4時間ほどかかったという。しかも今回は撮影チームと同行だが、彼女にはここでの入浴は初めてではなかった。一人でも腰まで浸かるのがやっとという狭さ、浅さでもめげないその執念には驚くばかり。

私も若いころ知床半島で数人が入れる滝壺全体が適温の湯船という入浴経験はあるが ( 現在は自由な入浴はできないらしい ) 、難行苦行してまでの入浴は望まない。せいぜい温泉番組を見せてもらうとする。
PS    前回、中国の有料道路料金が日本より高額としたが、マイカーと大型トラックの違いを忘れていました。日本の方が高いようです。

2017年2月24日金曜日

訂正

書いたばかりのブログに人口の5%近くとあるのは2%以上の誤り。悪しからず。

激走トラックの行方

2月18日にNHKで放映された「BS1 スペシアル  爆走風塵  中国  激変するトラック業界」を録画で見た。BS1 スペシアルとは地上波テレビの「NHKスペシャル」のBS版ということか。地上波版はときに軽薄な取り上げ方のものもあるが、概して啓発されることの多い番組ではある。

中国の急速な経済発展は同国の新幹線網があっという間に日本のそれを大きく凌駕した事実からも理解していたが、それに劣らず急激な有料高速道路網の建設が全国を網の目のように覆った事実は始めて知った。そして個人でローンで購入した大型トラックやトレーラーで物流を担う運転手たちが3000万人 ( 人口の5%近い?) に達するということも。国土の広さを考慮しても10年間に2倍の台数に増加とは驚きである。

番組はベテラン2人組、親子2人組、妻と幼児を乗せた新米ドライバー一家の三組のトラック運転手チームの生活を丹念に追う。一時は収入の良かったトラック業界だが、最近は燃料費高騰、競争激化、事故多発、ローン返済の四重苦?に追い詰められる運転手たち。かつて一台で請け負った仕事を十台で奪い合う。有料道路の料金も無計画な拡張のため日本より高額だった。

かと言って多額のローン返済を考えれば元の職業への復帰もできない。豊かになりたいとの人びとの願いに応えた急激な市場経済化の生んだ難問は、それに翻弄される国民にとっては勿論だが、中国政府の困難にも同情を禁じ得ない。中国が対外的冒険で国民の不満をそらすことなく、国際協調で難題を解決するためなら先進国も協力を惜しまないことが望ましい。ともあれ、かなり衝撃的な番組ではあり、激走する大型トラックは現在の中国の姿とも映った。

2017年2月21日火曜日

南スーダンPKO再論

国会で稲田朋美防衛大臣の答弁の迷走や事務当局の資料の出し渋り ( むしろ隠匿だろう )が大きな問題になっている。この問題に限らないが、稲田氏の大臣としての適格性には私も疑問を禁じ得ない。今回、野党が大臣不信任案を提出しても私はおかしいとは思わない。

しかし、大臣答弁にせよ事務方の資料の扱いにせよ、そもそも南スーダンPKOの危険性を政府が無理やり否定するから混迷が生じていることは明らかである。誰が見ても南スーダンの情勢は危険をはらんでいる。PKO五原則を改正してから自衛隊を派遣するのが順序というものだろう。衆参両院で与党が多数を占めている現在、派遣原則の改正は不可能ではないはず。

派遣原則の改正前であれ後であれ、南スーダンへのPKO派遣は危険に満ちている。そもそも南スーダンの独立を国際社会は承認すべきではなかったとわたしは思うが( 国家運営の能力が本当にあるのだろうか ?) 、今さらそれを問題にしても事態がどうなるものではない。ともかく、中国、インド、イギリス、韓国など13カ国が部隊を派遣しているのである ( フランスは自国の旧植民地に派遣 )。

昨日の毎日新聞のコラム「風知草」の執筆者の山田孝男氏が元カンボジア国連特別代表を務めた明石康氏の発言を紹介している。「PKOに完全な答えはないが、人類が現段階で持ちうる最善の平和への道だと思う。東京の議論はあまりに後ろ向き。( 日本人は ) 以前より精神的に貧しくなっているんではないでしょうか」。明石氏が南スーダンPKOの危険を知らないはずはない。それでも日本だけが傍観すべきかと問うているのである。

2017年2月19日日曜日

芥川賞受賞作品を読む

今年の第156回芥川賞に山下澄人氏の「しんせかい」が選ばれたというので出たばかりの『文芸春秋』を買って読んだ。同賞受賞作品を近年読んだことは一昨年の又吉直樹の「花火」以外は滅多に無く、2004年の綿矢りさ、金原ひとみの共同受賞以来かもしれない。その時読んだ動機が文学的興味というよりは二人の年若い女性の作品という不純な?動機だったように、今回も倉本聰の「富良野塾」の元塾生の作ということも動機と無関係ではなかった。

弁解になるが、近年芥川賞受賞作品と縁遠かったのは端的に面白いと感じなかったからであり、作品の文学的価値とは無関係である。新人の有望作家の発掘が賞の目的であれば応募作は新しさを追及した実験的作品が殆どとなり、執筆の経験などない一般読者には面白くないのは止むを得ない。

今回も富良野塾への関心が皆無なら途中で投げ出していたかもしれない。作品の大筋は北海道の厳しい自然の中での激しい肉体労働と粗食 ( 主人公は健康を害する ) と、そこでの塾生同士の人間関係であり、倉本聰の演劇観や指導ぶりには時たま言及されるだけ。倉本がときに塾生に厳しいのは都会育ちの演劇青年たちの甘さを叩きなおすためと考えれば十分納得がゆく。倉本にはあまり面白い作品ではないだろうが。

『文芸春秋』が当初の文芸雑誌から世相全般を扱う情報雑誌に変貌していっとき国民的月刊誌の地位を得たのは戦後であり、名物編集長池島信平の下でだった。氏は西洋史学科の先輩で、学科のコンパにいち二度顔を出されたことがある。「西洋史なんかやって何になる」と氏にからかわれて先輩の大学院生が「今さらそう言われても」と反論したが勿論双方ともやりとりを楽しんでいたのである。当時の氏は『週刊朝日』の扇谷正造、『暮しの手帖』の花森安治と並んで名編集長の三羽烏とされた時代だった。最近、朝ドラの影響から花森安治だけに陽が当たっているが、池島自身が自分も扇谷もそれまであったものを発展させたが、花森は無から出発したと一目置いていた。三人は個人的にも相許す仲だった。

2017年2月16日木曜日

領土教育の是非

小中学校の学習指導要領の改定案に北方領土、竹島、尖閣諸島は「我が国の固有の領土」で、「解決すべき領有権の問題は存在しない」との記述が盛り込まれることに対し、今朝の朝日新聞の社説に「領土教育   複眼的思考こそ」との反対論ないし懐疑論が載っている。私は社説に賛意を表したい。
 
国際仲裁裁判所が先ごろ南シナ海での中国の領土領海の主張を全面的に否定したことは大きく報道された。私も心の中で快哉を叫んだ一人だが、同裁判所は自立した生活が不可能な島は岩であって、領有権の根拠とはならないとも述べており、ベトナムやフィリピンの領土主張も認めていないと解せられる。自立した生活ができないとはまず第一に飲料水が自給できないこととすれば、沖ノ鳥島も竹島も岩に過ぎないし、尖閣諸島は岩とも島とも微妙なところである。

むろん我が国が領有権の主張を緩めても中国や韓国が簡単に主張を引っ込めるはずがない。とくに竹島の実効支配を続けている韓国がそうである。しかし、中国の場合、日中国交正常化の時から尖閣諸島の領有権を主張しており、意見を変えたわけではない。日中両国とも島自体に執着しているよりも周囲の経済水域の予想される資源を失いたくないのであれば、折半するなり妥協は不可能ではないはず。米国の支持は不変だろうか。

そもそも国境線はある時期により強盛だった国が自国に有利に定めることの繰り返しで決まって来た境界線と考えれば、「歴史的にも法的にも疑いもなく」自国領だと力むことがいつでも正しいとは限らない。学習指導要領にまでうたうことは妥協を不可能にすることになりかねない。自立して生活できない岩の領有権を争うことが賢明だろうか。他紙も続くことを期待したい。

2017年2月11日土曜日

ロシア革命100年

ほとんど忘れていたが、今年はロシア革命100周年に当たり、関連する著作が目に付くようになった。年末までには何冊にもなるのだろうが、そのはしりとも言うべき一冊、池田嘉郎『ロシア革命       破局の8か月』( 岩波新書 ) を読んだ。

「8か月」というのは1917年2月 末( ロシア暦 ) のロマノフ帝政崩壊から10月末のボリシェヴィキ (のちの共産党 ) の武装蜂起の成功までの自由主義者と穏健派社会主義者の連合政権 ( 臨時政府 ) の苦闘と失敗の期間である。西欧的民主主義国家を目指した彼らがなぜ失敗したかへの著者なりの回答である。

第一次世界大戦での敗勢と帝政崩壊が生んだ未曾有の混乱に対処するには著者によれば「結局のところそれは、民衆にどこまで苛酷になれるかにかかっていたのであった」「実際、エスエルとメンシェヴィキは崩壊の進む一九一七年のロシアを統治するには、あまりに柔和な人たちなのであった」「社会主義者も強権的な統治のすべを身につけなければならなくなるだろう。そうした覚悟は彼らにはなかった」。レーニンとボリシェヴィキにはその覚悟があったということである。

岩波新書はおよそ60年前、レーニンとロシア革命を讃えたクリストファー・ヒル著『レーニンとロシア革命』をリストに加えた (1955年 )。同じ新書シリーズの結論のあまりの隔たりは驚くばかりである。池田氏にはそれは「破局の8か月」である。

同様の指摘は四半世紀前にもなされていた。長谷川毅『ロシア革命下のペトログラードの市民生活』( 中公新書  1989 ) は、帝政崩壊後の首都の「低俗新聞」の社会面を徹底調査して犯罪の驚くべき増加 ( 逆に犯人をとらえた時の民衆の凄惨なリンチ殺人 ) を明らかにした。「人間の善意を信じ、理想主義に燃えて出発した新しい刑事司法制度は機能しなかった。それは犯罪者に利用され、犯罪率の上昇に貢献することになった」。民衆はボリシェヴィキの強権に期待するほかなかった。

私はソ連共産主義に終止符を打ち冷戦を終結させたゴルバチョフを今も心から尊敬している。しかし、彼の「べレストロイカ」の時代、知人のロシア史研究家のI氏はモスクワで強盗にホールドアップさせられた。強権的なエリツィン時代への移行には理由があったのである。現実を理解できなかった1917年の理想主義者たちの多くは異郷で死を迎えた (  ボリシェヴィキ革命の立役者トロツキーも )。

2017年2月9日木曜日

行列しない心

今朝のテレビニュースに高級チョコレートの売り出しを待つ数十人の行列が写っていた。先頭のひとは朝5時ごろから並んでいるという。価格はいろいろだろうが、一粒500円とかのモノを六つ収めた箱が目に入った。バレンタインデーが近いが此の頃は自分へのほうびとして買うひとが多いとも聞く。

私は甘いもの好きなのでチョコレートも例外ではないが、普通のミルクチョコレートで十分満足しており、一箱3000円のチョコレートを買うつもりにはなれない。物好きだなあと思うだけである。「違いの分かる男」に生まれなかったわけだが、それを残念に思ったことはない。

チョコレートだけではない。この頃は小さなラーメン店の前に行列が出来ていたりする。グルマンでない私でも不味いものよりは美味いものを食したいが、そのためにずっと高い金額を支払ったり行列に並んだりする気にはなれない。

自分の収入を何に使うかは個人の自由であり、私も例えばカメラを何台も持っている。たまたまフイルムカメラからデジタルカメラへの移行期があったので台数が増えたという事情があるが、ライカを購入したときは既にデジタル化が相当進んでいたときであり、単に工業製品としてのライカの優れたデザインに惹かれた結果だった ( そのために数回も使っていない ) 。

そういう私に高級品を買う人に文句を言うつもりも筋合いもないが、インフレ時代にもデフレ時代になってもその度に国民が生活に苦しんでいると報道するメディアには本当かなと思ってしまう。昭和一桁生まれの性なのだろうが、もう少し歴史的思考  ( 大袈裟だが ) が必要だとは思う。あながち義理チョコを貰わない者のヒガミではない!

2017年2月6日月曜日

日米首脳会談には毅然とした対応を!

間も無く開催される日米首脳会談に日本政府は51兆円の経済協力とそれにより70万人の雇用を米国内に生むとの「日米成長雇用イニシアティブ」を提案するという。既存の個々の案件を一つにまとめた面が大きい上に、日露経済協力と同様、今回のイニシアチブも両国の経済に貢献するもので一方的な貢献ではないとはいえ、そこまであたふたと提案をすべきだろうか。

日ごろ安倍内閣に対してことごとに対照的な態度を示している『朝日』と『産経』がこのイニシアチブに関しては一致して批判している。「協力の前に原則を語れ」との『朝日』の社説は「主体が民間企業なら、採算が合わなければ政府が旗を振っても進まない....。雇用などに関する数字が独り歩きし、それを口実に無理難題をふっかけられかねない」「何より、首相の訪米時に協力案を持参しようとする姿勢が.......トランプ政権を増長させる」として具体的には「まずは自動車分野や為替に関するトランプ氏の誤解を解くことだ」とする。『産経』の社説も「対米経済外交  土俵に乗るのが早すぎる」との見出しで、「米側の『恫喝』を受け入れられないと言えなければ、対等の関係ではない」「日本が数字を挙げてまで米国の雇用に関与してどうするのか。悪しき前例」となる。具体案としては「事実誤認を正す。新たな関係の構築は、そこから始めるべきだ」とする。私はまったく同感である。

日米同盟は大切だし、日本経済での自動車産業の重要性は言うまでもないが、「事実誤認」を正すことが先決である。ポピュリスト大統領が相手ゆえ、場合によっては米軍のグアム島あたりへの後退の可能性は皆無とは言えないが ( ミサイル時代には有りうる ) 、日本の軍事力増強でその穴埋めをするくらいの覚悟は当然持つ必要があろう。

安倍首相の早まった反応の一因はアベノミクスが日米経済対立により失敗することへの恐れであるとの指摘があるようだが、私はアベノミクスが失敗しているとは思わない。2%のインフレ率は達成できそうもないが、インフレは経済回復のための手段であって目的ではない ( 物価上昇なしに回復すればそれがベストである) 。完全失業率は先進国では最低であり、勤労者にとって失業の恐れからの解放は何よりも有難いはずである。アベノミクスの評価 ( それも間違った 評価 ) のために卑屈になるべきではない。

P.S.   前回のブログで触れた東村や高江区が受けた補助金は正式には「特定防衛施設周辺整備調整交付金」と呼ばれる由 (東京新聞2月6日 )。ヘリパッド反対派から区長には抗議が「相次いだ」とのことだが、「区民の集まりでは、ヘリパッドの話はみんな避ける」という ( 同 )。ほとんど収束したというあの反対行動の参加者は誰だったのだろうか。

2017年2月2日木曜日

沖縄報道への疑問

1月28日の朝日新聞に「高江で抗議男性はねた疑い   機動隊員を書類送検    沖縄県警」との見出しの記事が載っていた。米軍北部訓練場のヘリパッド建設工事に抗議する50代男性を警察車両ではねて軽傷を負わせた20代の機動隊員を過失運転致傷で書類送検したとのこと。「機動隊員が運転する警察車両が、抗議で道路に座り込んでいた男性に接触してけがを負わせた疑いがある」とのことだが、つまりは男性はわざと負傷したのではないか。現地にはメディアのカメラマンが居たはずなのに写真でも動画でも全く報道されないのはおかしい。実態が知られたくないからではないか。

そう思うのも沖縄についてはあまりに不可解な報道が少なくないから。ヘリパッドは国頭村に4箇所、東村の高江に2箇所とあるが、後者の反対運動は頻繁に報道されるが国頭村の反対運動はまったく聞かない。両村の着工時期に違いがあるのかもしれないが、黙っていればいずれ国頭村も騒音被害の対象となるのは明白なのに。と思っていたらテレビで政府からの補助金?を国頭村長だけでなく、東村の村長も、さらに高江区長も!受け取る場面があった。国頭村の沈黙を納得したと同時に、東村と高江の受領に驚いた。

「東京新聞」の編集副主幹の長谷川幸洋氏が司会する東京MXテレビの「ニュース女子」という番組で軍事ジャーナリストの井上和彦なる人物がヘリパッド報道で、座り込み中の反対派を「テロリスト」「日当をもらっている」などと誹謗したという。1か月目の今朝の「東京新聞」に「深く反省する」との声明が載っている。品位の感じられない井上氏の批判だが、その声明でも「市民特派員」という名で本土から十数人を交通費という名目で5万円を払って呼んでいるとあるし、他に沖縄の都市部の人に「行動費」1万円の他にガソリンの現物支給をしていると沖縄紙では報道されているという。自社の編集副主幹が司会していたとはいえ他社の報道番組について反省するのはよく分からない。

沖縄の人たちが基地問題に敏感なのは当然だし、本土側に平等な負担を強く要求するのも当然である。しかし、沖縄に不利な報道はタブーということで報道機関の責任は果たされていると言えるだろうか。

2017年2月1日水曜日

一泊旅行

両陛下の葉山御用邸でのご静養に刺激されたわけではないが ( そんな畏れ多いことを考えるわけがない!)、箱根に一泊旅行をして来た。

温泉にはさまざまな種類があるが、自宅の風呂と違うという点で私は硫化水素泉 ( 白濁湯 ) や硫黄泉を好む。雪中ドライブの用意はないのでこの時期は南関東中心とならざるを得ない。ところが南関東には硫黄泉はほとんど無い。例外は大涌谷を泉源にする仙石原や強羅の温泉群だが一昨年の噴火?以来、給湯施設が回復したとは聞かない。それ以外では古来箱根七湯の一つとされる芦の湯が硫黄泉なので予約した。

江戸の文人墨客に愛された芦の湯は国道1号沿いにあり、旅館は二軒しかない。むかし獅子文六が小説『箱根山』で西武 ( 堤康次郎 )と東急 ( 五島慶太 ) の激しい箱根開発競争と、それに巻き込まれた二館の対立を箱根戦争などと書いたが、M館は幕末に木戸孝允らが泊まった宿で知られ、K館は志賀直哉や中曽根元首相らに愛用されたほか、滝廉太郎が『箱根八里』を作曲した宿をウリにしている ( 遠い親戚だった由 ) 。私は今回が三度目 ( すべてK館 ) だが、前回や前々回と違い湯温が低くちょっとがっかりだった ( 元来白濁湯ではないが ) 。今回が冬季だったことが理由なのだろうか? もう一つの源泉 ( 炭酸泉 ) はそれよりは良かったが、泊まっていた中国人観光客には不運としか言いようがなかった。

彼らの一人と入浴中話をしたが、筆談なら蘇州、杭州、麗江、成都、九寨溝など曽遊の地をすぐに分かってもらえるのに英語では上海と雲南ぐらいしか読みを知らないので確実には通ぜず、これほど焦れったい思いをするとは思わなかった!

箱根観光は翌日芦ノ湖岸まで足を延ばしただけ。湖上遊覧船の船首に「春節遊客歓迎」の看板が掲げられ、波止場には20人ほどの中国人観光客が楽しげに海賊船と白雪の富士を入れた写真を撮ったりしていた。少しでも日本に好印象を持って欲しいので一組の家族の写真のシャッターを押してあげた。中国政府がどうあれ私は中国人観光客に不愉快な思いをしたことはない。

そのまま帰宅するのも残念で、西湘バイパスを利用して鎌倉に向かった。七里ヶ浜の江ノ電鎌倉高校前駅の近くに駐車して、『海街diary 』にも登場する江ノ電に乗る予定だったが ( 聖地巡礼?)、目前の駐車場は冬季のせいか閉鎖されまたの機会を期すほかなかった。午後1時に出発し午後1時に帰宅したので24時間の気晴らしの旅だったが、天候に恵まれ満足した。

2017年1月28日土曜日

煙草の値上がり

日本たばこ産業 ( JT )が、「わかば」「エコー」「しんせい」「ゴールデンバット」など6ブランドを4月から値上げするという。はて、しばらく前に煙草は一斉値上げになったはずなのにと思ったら、これらは「旧3級品」と分類され、これ迄値上げはなかったようだ。

部外者には煙草の名称以外に分類があったとは初耳である。「しんせい」( 昔は「新生」だった?) は戦後しばらくは上級品の「ピース」と並んで代表的な煙草の銘柄だったが、やがてその存在を忘れていたのは私だけだろうか。ところが、30年ぐらい前、地方の自動販売機を利用したとき、「しんせい」や「わかば」など大都会ではもう見かけなくなった銘柄が未だ存在すると知った。

私は一日に三、四本吸う程度で、味の違いもよくは分からず、喫煙者と呼べないほどの喫煙者である。何か仕事 ( 新聞読み程度でも ) を終えたが次の仕事にすぐ取りかかりたくない時、煙草に手を出す ( むかし専売公社の宣伝文句に「たばこは生活の句読点」とあったが、私にピッタリだった)。したがってレストランやカフェが全面禁煙となっても困らないが、入口に喫煙可か不可を明示すれば全面禁煙まで必要かとは思う。

大都市と地方で売る煙草の種類にはっきり差があるのは所得水準の違いもあるのだろう。しかし世間体といったことも大きいのではないか。仮に近所で「しんせい」や「わかば」が売っていても私は人前でそれらを吸うかどうか何とも言えない。人間は周囲に左右されやすい存在である ( お前がだろう! )。ただ私は銘柄のいつの間にかの変化を忘れて値上げ反対を表明したくない。少なくとも嗜好品の値上げには反対しない。

2017年1月27日金曜日

韓国における「表現の自由」の現在

昨日の新聞によると中国の天津で大規模なニセ調味料工場が摘発された。工場用塩などで醤油を作っていたが、その塩には人体に有害な成分が含まれていたという。中国では同種の話を時おり聞くが、価格は本物の醤油の数分の1だった。ひどい話だが、ニセ醤油を買った人たちが数分の1の価格の品を本物と誤解していたとは考えられない。承知の上で購入したのだろう。

戦時中のソウル ( 京城 ) の邦字紙の韓国人従軍慰安婦の募集広告ではその報酬額は同年齢層の女性のそれの10倍だったという ( 秦郁彦 ) 。彼女たちは知らなかっただろうが、親たちが慰安婦の仕事の実態を全く知らなかったとは考えにくい。そこには子ども ( とくに女性の ) が家のために犠牲になるのは時にはやむを得ないとの家父長制的心性が働いていたのではないか?  我が国の戦前の東北地方の子女の身売りの場合も絶対的貧困の存在は否定できないが、同じ心性が働いたのではないかと私は推測している。

1965年の日韓請求権協定の締結時に韓国側が従軍慰安婦問題の解決を強く迫ったとは聞かない。むしろ当時の彼女らは国の恥、対日協力者と見られており、名乗り出るどころではなかったのではないか?  韓国民が彼女らの存在を知らなかった筈がない。

同じ昨日の新聞に韓国の検察に起訴されていた朴裕河世宗大学教授の『帝国の慰安婦』( 日本版  朝日新聞出版  1992 ) に対しソウル地裁が、元慰安婦たちの名誉を毀損していないとの理由で無罪を言い渡した。我が国で「大佛次郎論壇賞」や「石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム賞」を受けた学問的著作が司法により有罪とされるようでは「美濃部事件」や「滝川事件」を起こした戦前日本と何ほども変わらない。世論に抗して学問の自由、表現の自由を何よりも重視した裁判官には心からの敬意を表したい ( まだ控訴審があるが )。真の日韓和解のため同胞の無理解をおそれなかった朴裕河氏の勇気は言うまでもない。

2017年1月24日火曜日

天皇退位問題の決め方

天皇退位をめぐる「有識者会議」の結論が発表された。新聞では「特例法ありき   本質論低調」との見出しの『朝日』を先頭にどちらかと言えば批判的論調が多いようだ。しかし私は会議のまとめとしてはこの程度が妥当だと思う。

私は以前のブログで摂政制の活用をベストとしたが、その後天皇の希望が近日中の退位ではなく、平成三十年あたり?を区切りに考えておられるらしいと分かってきた。それならば特例法制定なら可能だろう。

それでは皇室典範の本格的改正はどうか。本質的議論が低調だったとの批判はそもそも有識者会議への過大な期待に基づくのではないか。千数百年続く天皇制の皇位継承問題に終止符を打つには、女性天皇や女性宮家創設などの問題を全く素通りするわけには行くまい。そうなれば一年程度で論議に決着が付くとはとても思えない。やはり論点整理にとどまるべきであり、国権の最高機関である国会以外に決定できる者はいない。現天皇の希望に沿えるかどうかは大きな問題ではない。

元来、君主制は人間平等の原理に合致しない存在であり、本質論を始めたら玉ねぎの皮をむくように存在意義は限りなく縮小しかねない。君主制は人間性の不完全性の自覚にもとずく便法と考えた方が良い。悪用されないことを第一に考えるべきではないか。

2017年1月21日土曜日

米国大統領の就任行事

いまや世界の話題を独占するかのような米国大統領の就任行事が終わった。これまでの歴代大統領の場合もさわり?の部分は紹介されて来たが、今回ほどその一部始終がテレビ放送されたことはなかった。これはトランプ氏の功績か??  ともあれ、ブッシュ ( 父 ) 大統領をのぞき存命中のカーター氏以後の歴代大統領の姿が見られたのは懐かしかった。

新大統領の就任演説もその内容に賛否は当然あろうが流石に良く練られており、16分間と短いのも良かった ( 就任式全体の長さも前回の三分の一程度とか )。長い演説は印象が散漫になるだけではない。無理に引き延ばすと安倍首相のハワイ演説のように「寛容」という言葉を何回も用いて中韓両国を無用に苛立たせることにもなる。また日本の首相が日韓合意の実行を求めるのは当然だが、10億円を支払ったのにと、この人は言わでもがなのことを言う困った癖がある。

徹底して「米国ファースト」を強調するトランプ演説は米国民の耳には心地よく響くだろうが、その政策とくに経済政策が果たして米国民に望ましい結果を生むかは未知数である。それでも結果が悪ければ4年後に国民が判定を下すだろう。演説で批判された元 ( 前 ) 大統領たちがそれでも新大統領の前途を祝福する光景は、私にはやはり心温まる光景と感じられた。

反対派のデモは当然の権利行使だが、一部の黒ずくめの人たちの破壊行為はやはり見たくなかった。トランプ氏の人種差別的発言と比べて些細な事という見方には同意できない。かつて治安が悪かったニューヨークの下町を安全な街に変えた当時の市長 ( ジュリアーニ氏?) の対策の第一歩は破れた窓ガラスや落書きを無くすことだったという。反対デモを支持する著名人たちが破壊行為を大目に見れば、大衆は彼らの正しい発言にまで懐疑の目を向けるだろう。

2017年1月18日水曜日

年賀状あれこれ ( 2 )

一昨日、お年玉つき年賀葉書の当選番号の発表があり、三等の切手シートが7枚当たった。100枚中2枚、つまり2%しか当たらないのだから今年は近年にない当たり年である。二等 ( ふるさと小包み )  はなく、むろん一等もなかったが。

抽選当日、NHKニュースでは番号発表はなかった。当選してもあまり有難みがないから掲載しなかったのか?  確かに理解出来ないでもない。三等の葉書をくれた方にお礼の電話をしたいが、逆にそんなことでと驚かれそうだからしない。数年前にふるさと小包み ( ブランド牛肉だった )が当たったことがある。さすがに無断で頂くわけには行かず、早速お礼の電話をしたら教え子 ( 男子 )も喜んでくれた。

今朝の朝日新聞の小コラム「経済気象台」の筆者の場合、年賀欠礼の葉書が年賀状の1割ほどになるとあり、今年の我が家の場合と大差ない。コラム筆者の年齢は分からないが高齢者ほど欠礼の割合は高いだろうか。何れにせよ故人が80歳以上のケースが多い。さすが長寿国日本ではある。  

「経済気象台」の筆者は匿名なので、企業経営者や経済学者なのだろうと推測する他ない。現代史研究者に経済の知識は欠かせないので長年かならず目を通してきた。今回のコラムは年賀状を含む郵便物の減少への抜本的対策の必要を訴えるもののようだ。メールの利用など大きな趨勢には郵政公社も頭が痛いだろう。メールは年賀状の代わりにはならないと感ずるのは私の頭が古いからなのか。年賀切手シート7枚に私が影響されたのではない!

2017年1月13日金曜日

在日韓国民団と少女慰安婦像

今朝の朝日新聞に在日大韓民国民団の呉公太団長が12日の新年会の挨拶で釜山の日本総領事館前の少女慰安婦像の撤去を訴えたとの記事が載っている。呉氏は一昨年の日韓合意を「英断と評価している」とした上で、「今回設置された慰安婦少女像はなくさなければならないというのが在日同胞の共通の考えだ」「この問題で一番の被害者は在日同胞だ」として撤去活動に取り組むという。日本大使らの一時帰国や通貨スワップ再締結協議の中断といった日本政府の対抗措置については「大変厳しいが、早く問題解決してほしいという日本側の思いも理解できる」とする。他の全国紙や『東京新聞』のうち『産経新聞』だけがこの件を報道しており、記事の扱い方は『朝日』よりやや大きいが、「私たち同胞はまたも息を殺して生活しなければならないのか」との内容はほぼ同じであり、両紙の報道は正確と判断できる。

慰安婦像が一種のヘイトスピーチだと考えている私には民団長の発言はようやくという感じだが ( ソウルや国の内外の像には言及していない ) 、どれほどの躊躇や葛藤の末の発言かは想像にあまりある。そもそも韓国の大統領は金大中氏まで来日時に民団代表と会いもしなかった。在外同胞への同情どころか、故国が苦しかった時に共に苦しまなかった人たちとでも考えているのではないか。ある時期から在日コリアンたちが「在日」を強調し出したのは本土の韓国人が自分たちを「半日本人」扱いすると気づいたからではなかろうか。慰安婦像撤去への在日コリアンの願いに韓国の政治家やメディアはどう応えるだろうか。

たしかに現在の在日コリアンの大多数は「強制連行」の被害者たちの二世三世ではなく、大戦後の韓半島の政治状況 ( 済州島事件など ) と経済状況 ( 先に帰国した同胞の「日本の方がマシだ」との連絡 ) などで日本に渡航したり残留したりした人たちの子孫であるとは在日コリアンに協力的な研究者も認めている ( 福岡安則 『在日韓国・朝鮮人』中公新書 1993 )。それでも就職差別に代表される外国人ゆえの困難を経験してきた人たちである。

それにしても800人の集会に『朝日』と『産経』以外の社の記者が居なかったはずがない。両紙以外の編集デスクは在日コリアンの願いを何故黙殺したのだろうか。少なくとも在日コリアンの理解者とは私には思えない。