2017年8月30日水曜日

美空ひばり あれこれ

朝日新聞の企画記事「平成とは」の第二回 ( 8月28日 )は「ひばりの死    世紀の死」だった。内容は平成元年の美空ひばりの死が一つの時代、昭和という時代の終わりを画す事件だったばかりでなく、国民や国民性という概念が「溶けていった」時代の始まりを画したというもの。私は後半はコジツケのように感ずるが前半には反対しない。

記事はひばりの未明の死が『読売』『毎日』の朝刊の一面トップで報じられたのに『朝日』( 東京版 ) には一行の記述もなかったという失敗談で始まる。この「特オチ」は意図したものではなく担当記者が朝刊締め切りまでに死去の確証を得られなかったためということだが、予定原稿は80行という短いものだったとあるので『朝日』がひばりに冷淡だったことを物語っている。

現在では同紙もひばりを偉大な歌手と認めているが、在世中の彼女には弟の不祥事 ( 暴力団との付き合い?) などもあり何かと底意地の悪さを感じさせる扱いだった。その底には日本のクウォリティペーパーを自負する『朝日』が「さかな屋の娘」への当初の偏見をいつまでも引きずっていたことがあるのではないか。私もその点では『朝日』を批判する資格はないが。

言い訳と取られても良いが、私が美空ひばりに冷淡だったのはその歌への関心が薄かったこともある。「悲しい酒」や「川の流れのように」、とくに後者は彼女のファンではない人にもたかく評価されていたようだ。しかし私の知っている彼女のいくつも無いレパートリーのなかで私は「津軽のふるさと」しか好きではない ( 「みだれ髪」も少し。たまたま塩屋崎を訪ねたので!)。

ところが本人は「津軽のふるさと」をさほど評価していなかったようだ。五木寛之がひばりにインタビューした際、彼女の歌に多少の批判を口にしたらプライドを傷つけられたのか、「それではあなたは私のどの歌が良いと思うのか」と質問してきた。五木が「津軽のふるさと」を挙げると彼女には意外だった様子で、沈黙ののちそれでは次のリサイタルで歌ってみようかと言ったという ( 『わが人生の歌がたり   昭和の哀歓』角川書店 2007 )。

五木が後日このエピソードを「津軽のふるさと」の作詞作曲者の米山正夫に紹介したら、「君は分かってくれていたか」と大層喜んだという。数多くのヒット曲を作った米山にも、十分評価されていない自作への意外な理解者は嬉しかったようだ。

ひばりの葬儀に際し参加したファンから「万歳」の声が挙がったという。ふつう葬儀にはあり得ないことだが、大衆にとって彼女は同じ昭和を生きた「同志」だったと記事は結んでいる。

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