2017年6月16日金曜日

大田昌秀の生と死

大田昌秀元沖縄県知事が亡くなった。学徒兵として戦争に巻き込まれ多くの学友を失い、戦後は基地問題で本土人の無関心と闘った氏の生涯は沖縄の苦難を一身に体現していたと言って良い。私個人としては氏が「平和の礎」を建立し、日米の死者を分け隔てなく慰霊したことが記憶に残る。ご冥福を祈る。

しかし、私の購読する新聞の社説 ( 6月14日 ) が、「かつての政府与党には沖縄に心を寄せる政治家が少なからずいた」と述べるのにはまたかとげんなりした。当時、それらの政治家の沖縄に寄せる心を紙上で読んだ記憶がないからである。メディアは良心的与党政治家を、彼らが死んだり政権の中枢から離れたり反主流派になったりするまで、ひたすら派閥まみれの政治家として描いていた。

話は古くなるが、吉田茂内閣末期の新聞の首相批判は激烈だったが、其の後いくばくもなく彼は新聞に「大磯の賢人」扱いされるようになり私は驚いた。自民党総裁選で岸信介氏に対抗した反主流の松村健三氏はにわかに立派な政治家と紹介され ( 事実そうだったが ) 、私は自民党に立派な人がいると初めて知らされた。沖縄に関しては小渕恵三元首相も野中広務元幹事長も「沖縄に心を寄せる政治家」だったが、生前の彼らは前者は無教養の政治家と揶揄され、後者はその剛腕ぶりばかりが報道され、兵士体験に基ずく彼の平和への思いは報道されなかった。

人の評価は「棺を蓋って定まる」は真理かもしれないが、それでは寂しすぎる。真の評価は歴史家の仕事でジャーナリズムに期待すべきではないのだろうか。そんな筈はないが、そう思いたくなる。そうとすれば、大田昌秀氏は生前に正当に評価された幸福な人だったとも言える。

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