「8か月」というのは1917年2月 末( ロシア暦 ) のロマノフ帝政崩壊から10月末のボリシェヴィキ (のちの共産党 ) の武装蜂起の成功までの自由主義者と穏健派社会主義者の連合政権 ( 臨時政府 ) の苦闘と失敗の期間である。西欧的民主主義国家を目指した彼らがなぜ失敗したかへの著者なりの回答である。
第一次世界大戦での敗勢と帝政崩壊が生んだ未曾有の混乱に対処するには著者によれば「結局のところそれは、民衆にどこまで苛酷になれるかにかかっていたのであった」「実際、エスエルとメンシェヴィキは崩壊の進む一九一七年のロシアを統治するには、あまりに柔和な人たちなのであった」「社会主義者も強権的な統治のすべを身につけなければならなくなるだろう。そうした覚悟は彼らにはなかった」。レーニンとボリシェヴィキにはその覚悟があったということである。
岩波新書はおよそ60年前、レーニンとロシア革命を讃えたクリストファー・ヒル著『レーニンとロシア革命』をリストに加えた (1955年 )。同じ新書シリーズの結論のあまりの隔たりは驚くばかりである。池田氏にはそれは「破局の8か月」である。
同様の指摘は四半世紀前にもなされていた。長谷川毅『ロシア革命下のペトログラードの市民生活』( 中公新書 1989 ) は、帝政崩壊後の首都の「低俗新聞」の社会面を徹底調査して犯罪の驚くべき増加 ( 逆に犯人をとらえた時の民衆の凄惨なリンチ殺人 ) を明らかにした。「人間の善意を信じ、理想主義に燃えて出発した新しい刑事司法制度は機能しなかった。それは犯罪者に利用され、犯罪率の上昇に貢献することになった」。民衆はボリシェヴィキの強権に期待するほかなかった。
私はソ連共産主義に終止符を打ち冷戦を終結させたゴルバチョフを今も心から尊敬している。しかし、彼の「べレストロイカ」の時代、知人のロシア史研究家のI氏はモスクワで強盗にホールドアップさせられた。強権的なエリツィン時代への移行には理由があったのである。現実を理解できなかった1917年の理想主義者たちの多くは異郷で死を迎えた ( ボリシェヴィキ革命の立役者トロツキーも )。
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