2017年11月20日月曜日

俳句評論とは?

今朝の毎日新聞に櫂未知子なる俳人の「俳句月評」という文章が載っていた。私自身は俳句も短歌も詠まないので新聞の俳句欄と短歌欄はいつも素通りする。まして俳句論や短歌論を読むことはない。しかし、「鶏頭」という見出しが目に入ったので、子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」をどう論じているのか気になって読んだ。ご存知の通り病臥中の子規が庭の鶏頭を詠んだ平明過ぎるほど平明な句である。

櫂氏の文章は、予備校で古文を教えている松王かおりという人が第37回現代俳句評論賞を受賞したことを紹介している。松王氏は古文解釈の観点から「ぬべし」は「きっと~するだろう」、「~するに違いない」という「未来に向けての視点」であるとし、「『未来』、それも自らが不在となって庭の鶏頭に思いを馳せた句だといえるのではないか」と評しているという。櫂氏はこれを優れた解釈と評価するようだ。

面白い( 深い?)解釈ではある。しかし古文解釈はともかく、「ぬべし」はこの場合「だろう」程度の軽い意味で使われているのではないか。私には単純な叙景詩としか解釈出来ないが、それでは「俳句評論」にならないかもしれない。

しかし、私には平明ではあるが何処か心に残る句で十分である。無論、「柿食えば......」ほどの名句ではないだろうが。原文も読んでいない、そんな単純な読みしかできない素人と言われれば一言もないが。

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