2017年7月7日金曜日

幕末の薩長への批判

最近、幕末の薩摩と長州両藩を弾劾する著書が複数出版されたようだ。私自身は読んでいないが、日ごろ感じていたことと通ずるものがあるようなのでいつかそのうちの何れかを読みたいとは考えていた。すると昨日の新聞広告欄 (『毎日』)に外山滋比古著 『三河の風』 ( 展望社 ) が載っており、広告文には「薩長の維新勢力から吹く風は好戦的だった。10年おきに戦争を起こし、ついに国を滅ぼした。徳川発祥の地三河からはあたたかい平和の風が吹く」とある。外山氏は三河出身とのことなので多少は身びいき ( 郷土愛?)もあるかもしれないが、博識な学者として著名な氏がそれに無自覚とは考えられない。

勝者側の描く歴史像がそのまま正しい歴史でないことは誰もが同意するのに、これまでの明治維新のイメージはその点不十分ではなかったか。寺田屋で新撰組に襲われ多数の犠牲者を出した「志士たち」も、禁門の変で敗北した長州軍も大義のため京都を焼け野原にすることに何の躊躇も感じていなかったし、西郷は公武合体を阻止するため江戸でテロまがいの騒擾を起こした。武力倒幕の方針は小御所会議で西郷や大久保の脅迫の下に決定された。我々凡人と違い西郷や大久保は大義のために自己の生命をいつでも捧げる用意がある大人物だった。しかし私は、両人は大義のため他人の生命を犠牲にすることも何ら躊躇しなかったと感じる。だから成功した革命家になったとも言える。

徳川幕府や三河人が平和勢力だったかはともかく、高杉晋作の功山寺蹴起や彼に指導されたその後の長州藩の行動は常識ては考えられないほどの危険な行動だった。その伝統は帝国陸軍に受け継がれた。『精神一統何事か成らざらん」とばかりに日米開戦に踏み切った日本の精神主義は長州に遡るのではなかったか (  司馬遼太郎は長州人はときに狂うと書いている )。戊辰戦争なくしては明治日本の近代化はあれほど目覚ましくはなかったろう。しかし、異論を力で排除するやり方は結局は犠牲の多い回り道だったのではないか。


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