私が初めてヨーロッパを訪ねた1965年頃には南アジア回りの船旅は終わりを告げていた。アンカレッジ経由の北回りの空路 ( 北極空路 ) はすでに存在していたが、ナホトカ航路でソ連に入国し、そのあとは航空機( アエロフロート) かシベリア鉄道を利用するのが最も経済的なルートだった。間もなく五木寛之の『青年は荒野をめざす』が世に出て一躍若者のあこがれのルートになったらしい。
帰国して9年後、やっと私のヨーロッパ再訪が実現したが、やはり北極空路は敷居が高く、サイアム航空でバンコク旧空港 ( ドンムアン ) 乗換の南回り便だった。往復とも空港で半日、乗り換え便を待たされたが、とくに帰国時は東京行きの日航機の乗客を二度見送ったのはさすがに情けなかった。空港ビルの外に出ることは許されず、食堂のカレーの辛さに驚いた思い出しかない。
その後ようやくアンカレッジ経由便を2回か3回利用した。最後の回の頃はアラスカを経由しないヨーロッパ直行便も運行していたが、学会出張の同業者たち?はやはりアンカレッジ便利用が少なくなかった。
アンカレッジ空港の周囲は荒涼としていたが、空港ビル内には土産物品のショップやレストランがあり、うどん屋には日本人乗客の行列が出来ていた。あと数時間我慢すれば寿司でも何でも食べられるのに ( 当時、和風の機内食は稀だった ) と私は行列に加わらなかったが、戦時中の「代用食」の記憶を引きずる私が麺類を好まないためだったかも。
土産物店も暇つぶしに眺めることが多かったが、一度だけパリの自炊生活への褒美としてオメガの腕時計を購入した。クォーツ時計全盛時代だったのでオメガも大した価格ではなかったが、毎年のように電池を交換するのがわずらわしくなり、十年ほどのちに自動巻のオメガを買い現在も使用している。日本経済の向上の「ドリップ効果」がようやく我が身にも及んだということか!
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