2018年12月31日月曜日

狂気の系譜

ふた昔より前になるが、当時かなり知られたアジア史研究者の学内の講演を聞いたときの講師の言葉に同感を禁じえなかった。彼はカンボジア共産党 ( クメールルージュ ) による同胞の大虐殺の理由を「アジア的野蛮」に帰するのは正しくない。彼らはヨーロッパのルソーやサルトルの思想の影響を受けて行動した( 大意 )と語ったのである。

高校教科書的に言えば、ルソーは自由と平等、人民主権を唱え、人間本来の善性を回復せよ ( 「自然に帰れ」)と訴えた啓蒙思想家である。しかしそれはルソーの一面的理解に過ぎない。彼の出世作『学問芸術論』は学問や芸術つまりは文明は生まれながらの人間が具備する徳性を損なうと説いた。だから「自然に帰れ」と訴えたのである。著名な音楽家でもあった彼がである。

ポルポトを除くとクメールルージュの幹部たちの多くはフランス留学を体験したインテリであり、ルソーの思想に心酔していたという。そうと知れば彼らが国民の中でもとりわけ都会の知識人を目の仇と迫害した理由が理解できる。学問や芸術に接した人間ほど堕落していると彼らは考え、おそらく憎んだのである。

ルソーの思想は多面的かつ難解で、私のような素人が云々することは難しい。しかし少なくとも悪用されやすい側面があったことは否めないのではないか。ルソーと彼の思想的後継者たちの内に全体主義の萌芽を見たのはヘブライ大学教授のJ. L. タルモンである。彼の著書「フランス革命と左翼全体主義の源流』( 原題は The Origins of  Totaritarian Democracy  London 1952 ) は拓殖大学海外事情研究所から1964年に刊行された。その意義が理解されていたら、のちの中国の文化革命にわが国の知識人や学生が幻惑されることも無かったろうに。

2018年12月29日土曜日

下北雑感

NHKの番組『小さな旅』は前身の『関東甲信越  小さな旅』の頃から旅好きの人間にとって魅力ある小番組であるが、今朝は「海荒れて恵あり」と題する下北半島北部の風間浦村の漁師一家を取り上げていた。「大間のマグロ」ほどの話題性はないが、同地は近年アンコウ漁が盛んになった。番組はそれまでまったく漁の対象でなかったアンコウを漁具を改良して名産とした老漁夫の一家を紹介していた。たった一人の工夫が村に貢献した事実も素晴らしいが、荒れる大自然を相手の生活の苦労も喜びも都会人が忘れ去ったものだった。

同地には下風呂温泉という素朴な温泉地があり、イカ漁の季節なら津軽海峡の漁り火を見ることができる。私に季節の記憶はないが、ここの「海峡の宿  長谷旅館」に泊まったことがあり (現在は休業中? ) 、テレビ画面に同旅館の看板を見出し懐かしかった。作家の井上靖が泊まった宿 ( 小説『海峡』)と知り立ち寄ったのだが、番組に宿のシーンは無かったので昔のままかは分からない。それでも赤い風ぐるまが回る恐山の風景とともによい思い出になっている。

下北半島といえば内田吐夢監督の映画『飢餓海峡』も忘れられない。殺人を犯して北海道から逃げてきた犯人は、何も知らない宿女中に親切にされる。のち本州で成功して資産家になった犯人( 三國連太郎 ) は昔を懐かしんで訪れた女中 ( 左幸子 ) を金欲しさの訪問と邪推し殺してしまう。主演の三国も左も既にあの世に旅立った。それでも名作に出演してこの世に在った確かな証拠を残せた。もって冥すべきか。

2018年12月27日木曜日

IWC 脱退も一考に値する

日本政府がlWC ( 国際捕鯨委員会 ) からの脱退を決定した。朝刊各紙の論調は必ずしも一致しないが 、反対ないしもっと慎重にという意見が多いようだ ( 『朝日』『東京』。『読売』『産経』は社説での論及なし ) 。悪しき前例として第二次大戦前のわが国の国際連盟脱退がわが国の孤立をもたらしたと指摘されている。

わが国がIWCを脱退すればこれ迄の調査捕鯨との名目での南極海や北西太平洋での捕鯨は不可能になる。残る領海やEEZ ( 排他的経済水域 ) での操業では約600頭と言われる遠洋捕鯨の頭数を補えるか危ぶまれる。損得勘定からすれば脱退は愚かである

それでも私は脱退も一考に値すると考える。第一にわが国の従来の調査捕鯨は調査とは名ばかりの商業捕鯨であり、国際司法裁判所でもわが国の主張は否定されている。そちらの方がよほど日本の名誉を損なう行為だったと言える。第二に遠洋捕鯨とくに南極海での捕鯨は他国の反発を呼びやすかった。南極大陸は各国による領有を禁じられている。それと同じではないが、南極海での一国の自由な漁業は感情的反発を招き易い。私にはシーシェパードによる日本のイルカ漁の妨害は不快そのものだったが、南極海での彼らの妨害行為には否定しきれないものを感じていた。

わが国のIWC脱退への諸外国とりわけ先進国メディアの批判は激しいものになろう。しかし、IWC加盟の89ヶ国の商業捕鯨への賛否は41対48と聞くし、今回の日本の解禁提案には27票の賛成 ( 反対は41、棄権2 )があった。満州国を建国して世界で孤立した挙句の日本の国際連盟脱退とは同一には論じられない。

言い古されたことだが、牛肉や豚肉は食しても良いが鯨は良くないというのは先進国の見解の押し付けであり、身勝手そのものである。わが国は場合によっては商業捕鯨国のノルウェーやアイスランドとともに別組織を作ることも考えられる。ノルウェーやアイスランドを「ならず者国家」と決めつけるシーシェパードにオーストラリアやニュージーランドが同調するなら日本は両国の畜産品を他国のそれで代替すればよい。その時、両国に日本批判を貫く信念があるだろうか。試してみるのも悪くない!

2018年12月24日月曜日

日本の皇室と英国の王室

昨日、平成天皇が天皇としての最後の誕生日を迎えられた。事前の「記者会見」は記者会見と言うよりも陛下の一方的なスピーチだったようだが、国民への感謝とともに美智子皇后への深い感謝を表明されたのは十分理解できる。昭和天皇ほどには国運を決するような困難な決定を迫られたわけではないが、30年にも及ぶ天皇としての勤めが容易だったはずがない。聡明な美智子皇后は貴重な相談相手だったろう。

先日は大嘗祭の行事に関して秋篠宮が前例踏襲に強い疑念を表明された。憲法に反する政治的発言との批判は当然あり得るし、かなり率直な不満の表明ではあった。しかし、天皇夫妻と皇太子夫妻の意向を代弁しての発言だったことは間違いないだろうし、大多数の国民もよくぞ言ってくれたと感じているのではないか。最大の当事者の意見を無視するならば政府は皇室と国民の絆をかえって弱めるだろう。

天皇誕生日に合わせたのではないだろうが、NHKのBS放送 ( 12月7日 )が「ドキュランドへようこそ」の一篇として「エリザベス女王と後継者たち~王室外交」という英国の番組を放送した。女王は単に英国の女王であるだけではなく、世界人口の3分の1を占める24億人の英連邦諸国民の女王でもある。最近、ハリー王子と結婚したメーガン妃がウェディングドレスの上に被る長いヴェールの裾に連邦53ヶ国の国花を刺繍させ、それを知った王子を感心させたという。自身が黒人の血を引くメーガン妃の王室入りを黒人の英連邦人が、「誇りを感じます」と語っていた。英連邦諸国民へのメーガン妃の配慮もさることながら、彼女の独自の工夫が十分発揮できる英王室の柔軟さに私は感心した。

わが国の皇室 ( と言うより宮内庁や内閣 ) も、がんじがらめの規制で次代の天皇夫妻を縛ってはならない。とりわけ英国の大学に学んだ雅子妃には自由な言動を認めるべきである。新皇后が天皇の半歩後を歩く姿を見たくない!

2018年12月22日土曜日

シカ肉の行方

今日の『朝日』の夕刊に「駆除シカ肉  ペットの健康食に」「食害深刻な伊豆  廃棄分を加工」との記事が載っている。

わが国では近年シカによる植物の食害が深刻である。もう20年ほど前から奥日光の戦場ヶ原では、これぞと思う樹は周囲を篭状の金属枠で守られていた ( 樹皮を食べられないため。食べられれば枯れる ) 。その頃から日本一と言ってよい?霧ケ峰高原のニッコウキスゲの大群落はシカによる食害のため、縄で囲まれた一画 ( かなり広いが ) 以外はほとんど消滅した。

シカなど野生動物の肉はフランスではジビエgibier 料理として愛好されている ( 私は未体験 ) 。なぜ日本ではシカの食害が顕著なのに、捕獲しても土中に埋めたりして食材として利用しないのか。焦れったい限りだったが、聞くところによると、殺害したらその場で血を抜かないと匂いが強かったり、恒常的に供給できなかったり、なかなか普及しないとか。

伊豆でも役所仕事で土曜日曜は獲物を受け取らなかったり、料理用の需要は限られていたりで、今回ようやく民間がペット用の食材として販売し始めたという。ジビエ料理とならないのは残念だがペット用としてでも利用できればとは思う。

しかし、ロース肉100グラムで300円。「えさの質にこだわる飼い主らが早くも常連になってくれた」とあるのを読んで目が点になった ( 多分!) 。いまは残飯に味噌汁をかけるのが常だった時代ではないとは私も承知しているが、人間さま用の牛肉が100グラム100円で買える時代にペットに300円のエサを与えるとは........。 そうする資力があるなら何をしても許される時代なのだろうが、いつか天罰が降らなければ良いがと八十翁は考えてしまう。

2018年12月18日火曜日

都市再開発の夢

昨日の『朝日』( 多摩版 )に「原宿の旗手  ラフォーレが40年」との見出しで、原宿のファッションや文化の発信拠点として知られるラフォーレ原宿の大きな記念記事が載っている。のち東京の各地のヒルズを建設した森ビルが最初に建てたこのファッションビルを訪ねたことはないが、今日の原宿文化の拠点をつくった森稔森ビル社長 ( ラフォーレとはフランス語の森  ラ・フォレに由来 )は大学の最初の2年間、同じクラスだった。

私はたまたま20歳台後半に青山通りに近い原宿に1年半ほど住み、何の変哲もない小路の竹下通りを通って山手線で出勤した。若者で賑わう現在の明治通りを通ると車窓からその変化に感じ入る。

私と同様、当時は文学を目指していたという森君とは特別に親しくは無かったが、フランス語未修のこのクラスは深大寺や奥多摩へハイキングしたりクラス雑誌を出したりして仲が良く、大学祭で2度演劇を上演した際には森君が演出を担当した。「第三帝国の恐怖と貧困」というブレヒトの原作で、私は終始舞台の酒場にいるがセリフは皆無という役だった。そんな役でも舞台で脚光をあびる役者の陶酔感の一端は理解できた!

卒業後の彼は父君 ( 経営学教授でもあった ) の貸しビル業に従事し、1986年のアークヒルズ建設で一躍脚光を浴びた。赤坂の既成市街地の住民を説得して大規模開発をするという、私権の強い日本での初の事業のためどれほどの困難を克服したか。

その後も御殿山ヒルズ、六本木ヒルズ、表参道ヒルズ、上海環球金融中心と彼は大規模都市開発に心血を注いだ。40年ほど前にクラス会を復活して以来、それらの新しいヒルズを会場に毎年のように再会した。近年は六本木ヒルズクラブが会場に定着したが、彼は2012年に死去した。ヒルズクラブを会場に使い続けてとの遺言でその後も何回かクラス会は続いたが、出席者が次第に減少し、3年ほど前に終了した。

わたしは森君とは職業も違い当初は彼の都市開発の意義をよく理解できなかったが、観光都市シンガポールの躍進などを目にしてようやく、東京を世界の魅力ある都市にしようとした彼の夢を理解するようになった。今ごろかと彼に言われそうだが。

2018年12月15日土曜日

英才教育の成果

最近、わが国の10歳台のスポーツ選手が世界の桧舞台で大活躍している。女子卓球界は福原、石川の時代からだからその嚆矢と言えるが、いまや水泳、テニス、体操、フィギュア・スケートと枚挙にいとまがない。大慶至極である。

これら10歳台選手の活躍の陰には当然ながら早期英才教育があったことは間違いない。今朝のTBSの「サワコの朝」に清塚信也というピアニストがゲスト出演していた。その母の英才教育ぶりは大変なもので、5歳頃から姉とともにテレビやゲームとは無縁の生活。母( 音痴だった ) が外出から帰宅する気配があると子ども同士でピアノで合図するメロディーが決まっていたという。

それほどまでの練習を強いられ、多くのピアノコンクールで上位を占めたが優勝とはならなかったらしく、20歳を境に母の猛反対を押し切り、ピアノの才能を活かした芸能人を目指した。それとても容易では無かったが、端正な容貌も与ってか今では葉加瀬太郎や高嶋ちさ子と番組で共演するまでになった。音楽はコンクール入賞が目的ではなく、より多くの人に聞いてもらえる場所を目指すというその哲学は、その立場が言わせる面もあろうがそれはそれで納得できる。

英才教育で数々の各界の英才が輩出するいっぽうで、清塚信也と異なり無名で終わる子どもが圧倒的多数だろう。それはそれで後の人生に無意味とは思わない。しかし少なくとも清塚は自分の子に「あんな仕打ちは出来ない」と語っていた。それでも彼の現在の活躍はその母のお陰ではある。

しかし、体操競技やラグビーなどを見ていると、不幸にも身体に障害を負う若者もいるのではと思うほど激しい。子どもに英才教育を受けさせる知恵の無かった親の言い訳だろうが!

2018年12月10日月曜日

地球温暖化の影響

今朝の東京の気温は今冬一番の冷え込みで摂氏4.7度だった。それに合わせてでもあるまいが、今朝の複数のテレビ局で寒さを話題にしていた。

地球温暖化の影響か、今年の日本列島は全国的に冬の到来が遅かったらしいが、北のモンゴルもその例外ではないという。それでもウランバートルの今朝の気温はマイナス27度とかで、日本とは比較にならない。と思ったら、北海道の陸別の今朝の気温はマイナス21.8度。同地は日本で最も寒い所として知られるが、札幌もマイナス6.8度なので矢張り寒い所は寒いということのようだ。

それでも温暖化 ( と品種改良?)の結果で北海道は今やコメの大産地となり、その味も他地方と十分競争できるほど向上したとのことで頼もしい。逆に高温化で西日本の従来の米作地は品種の転換を迫られるだろう。あちら立てればこちら立たずだが、日本の米作技術をもってすれば困難は必ず克服できるだろう。

というように、主要農作物については世界でも温暖化で不利になる地域ばかりではなく、逆に生産が増大する地域もあろう。しかし、先日どこかのテレビで、温暖化による国土の砂漠化で住民の生活が深刻な打撃を蒙っている西アフリカのブルキナファソの紹介があった。それが地球温暖化の影響であれば先進国の責任は否定できず、救援の手を惜しんではならないだろう。

そうした状況であれば石油や天然ガスが安いほど良いと単純には肯定できない。米国ではシェールオイルの生産増加で国民が自信を回復したためか、ピックアップ・トラックなど中型以上の車の人気が高まり、比較的燃費の良いセダンの生産が打撃を受けている。自動車だけではない。ハウス栽培で冬でも石油を燃やして夏野菜が作られるのを進歩とばかり言えない。大気中の炭酸ガスの除去技術の飛躍的ブレイクスルーに力を注ぐべきだし、時間との競争になるが人智にはそれが可能と信ずる。

2018年12月7日金曜日

入管法の改正を望む

外国人労働者の受入れ拡大に向けた出入国管理法 ( 入管法 ) 改正案が今夜にも成立しそうだ。新聞各紙はおおむね改正案の不備を指摘し採択に批判的だが、私は現状より一歩も二歩も改善になると考える。

反対論者の論点は幾つかあり、むろん正しい指摘も少なくない。現在の技能研修制度がわが国にとって研修よりも安い労働力の確保が主目的であることは否定できないし、約束した労働条件を守らない雇用主が少なくないことも事実だろう。しかし中には批判のための批判としか思えないものも少なくない

最近では途上国の若者にとっても日本よりも韓国や中国や台湾の方が労働条件などで魅力的とも言われる。 そうした中で新制度での予定人数が明らかでないと批判するのは正しい批判だろうか ( 2年後の再検討が予定されているのに )。 また、最初の就業先からの研修生の雲がくれを防止するためとはいえパスポートを雇い主が預かるのは行き過ぎと私自身考えていた。しかし、同国人も稀で最低賃金さえ都会より低い農村などで脱走防止のためパスポートを預かるのは止むを得ない面もある。長い超過労働時間も、100万円にも達すると聞く渡航の諸費用返済するため研修生自身がそれを望むケースも少なくないと聞く。

なによりも研修生自身が現在の3年間の研修期間の5年や10年への延長を大歓迎するのではないか。3年間の研修を終えて帰国した人たちの多くが、法律が改正されれば再来日を望んでいるという ( 紙名は忘れたが ) 報道はその証拠ではないか。今朝のNHKニュースで、国に先んじて希望者を確保するため森田健作千葉県知事がベトナムに50校あるという日本語学校を訪ねる場面があった。青年男女が真剣に日本語を学習しているシーンを見て、3年間で帰国させるのは不当だとすら感じた。

中東諸国などでは外国人労働者を奴婢扱いする国もあると聞く。日本語の習得に努め、日本の生活習慣を尊重する外国の若者にはもっと門戸を広げても良いし、妻子にも居住を認めても良い ( 希望すれば国籍取得も )。彼らの大多数は帰国後は必ずや親日家になると私は確信する ( 日本滞在中は不満を口にしても )。 政権は親日と反日を時に応じて使い分けても彼らはそれに動かされないだろう。

2018年12月2日日曜日

『風立ちぬ』考

私はかなり注目される馬以外で新聞の競馬欄に目を通すことはなく、まして馬券を買ったことはない。ところが偶々目に入った、今日行われるチャンピオンズカップの予想記事に「ルヴァンスレーヴ」という馬が単勝一番人気と出ていて驚いた。

驚いたのはこの馬の実力がそれほどでないと思ったのではない ( そもそも初耳 )。フランス語でルヴァンスレーヴとは「風立ちぬ」という意味だから。言うまでもなく「風立ちぬ」とは堀辰雄の中編小説の題名であり、最近はジブリ映画の題名 ( 堀原作の筋とは殆ど無関係 )になっており、松田聖子が歌った曲の題名にまでなっている!

馬の名前がフランス語なので一応、堀辰雄の小説ないしフランスの詩人ポールヴァレリーの詩から名を借りたと考えてよかろう。堀の小説の巻頭にフランス語の詩の引用がある。作中では「風立ちぬ   いざ生きめやも 」と訳されている。

馬の名前がフランスの詩に由来するのは最近の日本競馬の騎手にはヨーロッパ人も少なくない結果だろうか?  そうだとしたら何とも風流だし、国際化も極まったと言うべきだろう。ヴァレリーは詩人としてだけでなく小説家、批評家としても大いに活動し、わが国でも全集が出版されている 。さすがに前2回の刊行は途中で挫折し、3回目で完成したとのこと。それにしても、わが国の読書人口の層の厚さには驚くばかりである。フランス人気はファッションや香水や料理だけではなかったのである!

P. S.   前回、石原知事が世界都市博を誘致しようとしたと書いたが、鈴木俊一知事の誤りでした。申し訳なし。


2018年11月26日月曜日

大阪万博の開催決定

大阪が二度目の万博開催地になると決まった。メディアでは賛成派の喜びの声を主として取り上げているが、少数ながら反対派ないし懐疑派の声も紹介されている。いたって健全な扱いである。

私自身は熱烈にではないが賛成派である。前回の万博からおよそ半世紀の間、東京ないし首都圏への一極化は止むことなく続き、大阪ないし関西圏は京都観光などの例外を除けばその比重は低下するばかりだった。万博一回ぐらいで大勢挽回とまではいかないが、一極化への一定のブレーキには成るだろう。

国土の均整のとれた発展は誰もが願う理想だが、現実は理想通りにはならない。いっとき首都移転も論ぜられ、候補地の名まで散見されたが、白日夢に終わった。ならばせめて2極化3極化を目指すべきだろう。とりわけ最近の自然災害の多発を経験して強くそう思うようになった。

大地震にせよ大型台風にせよ ( 首都圏には富士山の大噴火の可能性さえある ) 、人口や経済活動が集中するほど危険は高まる。せめて中心が二つの楕円化は望ましい。

かつて石原都知事時代、東京都が湾岸の休閑埋立地に世界都市博を招致しようとしたように、今回の大阪も人気が今ひとつの夢洲の有効利用との下心があったろう。その計算にはカジノ ( IR )誘致も入っているだろう。

カジノの誘致には賭博依存症という別の問題もかかわる。私にはわが国の庶民がカジノに通うとは思えないし、依存症問題なら現在のパチンコ、競馬競輪、とりわけパチンコの方がはるかに重要な問題だろう。現在の野放しのパチンコが原因の賭博依存症こそ早急に対策 ( 禁止ではなく制限 。庶民の楽しみでもあるので ) を必要とする問題だろう。

2018年11月22日木曜日

物価動向 上昇か下降か?

先日、近所のスーパーで10個入りのタマゴケースを100円で売っていた。安い理由はケース内のタマゴの大きさが不揃いのままだからとある。確かに大小のタマゴを選り分ける手間賃だけ安くなる道理である。しかし、開けてみたら不揃いでもなかった。安売りの口実に過ぎなかったようだ。

タマゴが物価の優等生と言われて久しい。それは規模拡大など養鶏場の懸命の努力の結果だろうが、それにしても頭が下がる。タマゴが貴重な栄養補給源だった時代 ( 今でもそういう国は少なくないだろう ) を知る者にはケースに入れて10個100円など、天を冒涜する所業にしか思えない!  タマゴだけではない。牛肉が今ほど安く食べられる時代はないと以前にこのブログに書いたが、米国産牛肉が100グラム100円は珍しくない。

飲料や調味料を始めとしていつの間にか容器を小さくして実質値上げをしているケースをよく聞くので、一方で値上げの趨勢が存在することは間違いない。しかし、スーパーにはワンコイン前後で買える弁当が多く並んでおり、内容も貧弱ではないようだ。極めて少食の私は量の調節が容易なスシしか買わないので断言はできないが。

今朝の新聞に「平飼い鶏の朝採れ」タマゴの広告が載っている。Mサイズで10個1000円である。タマゴだけでなく多くの食材で最低と最高の価格差が拡大しているようだ。タマゴの10倍差など少ない方だろう。地域ブランド物などそれ以上も少なくないのでは?  自分の資力で何をいくらで買うのも自由だし、ブランド物の価値を否定しないが、自分は高価なブランド物を食しながら物価高を声高に叫ぶのはどんなものか?

2018年11月16日金曜日

理性と感情の相克

安倍首相とプーチン露大統領の会談で、日露平和条約締結交渉は1956年の日ソ共同宣言 ( 歯舞と色丹の2島返還を認めた ) を基礎とすることで両者が合意した。安倍首相は北方4島の返還というわが国の多年の主張を実質断念したとみられる。

今日ほぼ出そろった新聞各紙の主張は大きく分かれている。日ごろ安倍内閣を擁護する『産経』が「 日本が追求すべきは、不法占拠された4島の返還であり、空疎な「平和条約」ではない」と譲歩に絶対反対なのに対し、日ごろ安倍内閣に極めて厳しい『東京』は「最後の好機を逃すな」との見出しで「トップ交渉23回、この積み重ねが水泡に帰するのはあまりに惜しい」と、心ならずも?安倍擁護と取れる主張である。

三大日刊紙では『毎日』が、「共同活動が行き詰まった」以上、「56年宣言に立ち戻るのは止むを得ないだろう」と消極的でも支持なのに対し、「拙速な転換は禍根を残す」との『朝日』は『産経』に近い。「国民が納得できる説明をするのは当然の責務だ」( 同紙 ) は自社の判断を示さず国民に責任転嫁していると読める。『読売』の「国民にかなう決着を目指せ」も同工異曲である。「国民にかなう」のはどちかは言わない。両紙とも巨大メディアのズルさと言うべきだろう。

私自身は理性的には「最後の好機を逃すな」との『東京』に傾くが、感情的には北方領土の7%でしかない2島返還での妥協は面白くない ( ロシアには大国の器量はないのか!)。「( 2島返還に ) 安倍首相がこだわるのは自分の実績にしたいから」( 岩下明祐九大教授  『朝日』)を頭から否定はしないが( 吉田茂、田中角栄に並びたい?) 、国民の支持も見込めず右翼の猛反発が予想される ( テロすらあり得る ) 決断をこれまで誰も避けてきたことも考慮して良いのではないか。



2018年11月14日水曜日

大谷がア・リーグの新人王に

大谷翔平が米国のアメリカン・リーグの新人王に選ばれた。しかも、1位票30票中25票という予想外の大差で。

シーズン途中に腕の筋肉を痛めたため、他の2候補より打撃の3部門 ( 打率、打点、本塁打 ) で劣っていたが、投手として4勝したことも評価されただろう。しかし何よりも記者たちの心をつかんだのは、「野球少年の熱意に共感」との新聞の見出し ( 紙名は忘れたが ) が示すように、野球が好きでたまらない少年といった彼の姿勢だろう。

そもそも米国野球界への彼の移籍は制度の切り替え期に当たったため、あと1年か2年待てば契約金が何倍にもなるはずだった。米国の代表的野球記者たちがそれを記憶していないはずがない。米国の国技である野球への彼の溢れんばかりの熱意が記者たちの心を打たない筈がない。何よりもそれを示したのは10盗塁という数字だろう。投打の二刀流にも満足せず、果敢に次の塁を奪う投手など、ベーブルースを凌ぐ前代未聞の事態だったのではないか。自国の国技へのこれほどの献身に米国人として感激してもおかしくない。

むろん爽やかな彼の好青年ぶりもファンや同僚の共感を呼んだだろうが、それで新人王に選ばれるはずもない。それでも彼がチームメイトに愛されている様子は中継画面から伝わってくる。彼の活動と人柄には米国野球界に人々の心を引き寄せる存在感がある。今後ともファンや同僚に愛される存在であってほしい ( お前はメジャーリーグへの人材流失に反対ではなかったのか! )。

2018年11月12日月曜日

日中対立の沈静化のためには

今わが国の観光地には、政府の掲げた到達目標を超える外国人観光客が訪れている。とりわけ数が多い中国人客に顔をしかめる日本人は少なくないが、観光地がこれにより大いに潤っていることは貴重であり、歓迎すべきである。

観光客の増加だけではない。技能研修生をはじめとし、中国人やその他のアジア人がわが国に多数滞在し働いている。彼らに日本の受入れ方への不満は当然あるだろうし、メディアもそれを書き立てる。しかし、約束された労働条件が守られないケースなどはあってはならないが、私は自分の英国滞在 経験( わずか2年間だが ) から帰国後の彼らが日本での生活をこころ良い思い出とする親日派になると確信する。何と言っても先進国には範とすべき点が多いから。

観光客や滞在者の影響だけではない。テレビ局名は忘れたが、中国で若者を中心に日本の大衆文化やファッションや料理などをSNSなどで紹介する有名無名の発信者 ( インフルエンサー )が多数存在し、その受信者は4億人にも及ぶという。日本の外交官も中国人に好印象を持ってもらうよう種々務めているに違いないが、このSNS発信者の影響力には遠く及ぶまい。中国政府が後援する抗日映画や抗日テレビドラマで日本人をいかに悪者に描いても、いつかはそれらが信用されない日が来よう。それでも日中間に領土や資源の争いが再発すれば状況が一変するだろう。永続的な友好のためにはそれらを未然に沈静化しておく必要があろう。

尖閣諸島の帰属と東シナ海での資源問題は日中間の将来の火種の二大原因だろう。どの国も領土問題となると「疑問の余地なく」自国領と主張するが、日中国交回復時に尖閣諸島の帰属が未定となったことは鄧小平の「 後の世代は我々よりもっと賢い」との発言に明らかである。どちらの主張がより正しいかは別とし、「疑問の余地なく」とまで言えるかどうか。東シナ海での石油や天然ガスの採掘問題にしても、たとえ中間線付近での採掘でも中国の大陸棚内のため、送油パイプは中国内に敷設することになるのではないか ( 日本との間に海溝の存在 ) 。

住民もいない尖閣帰属問題も本質は資源問題と考えれば分け合うことも可能だろう。せっかく中国国民の間に生まれつつある対日感情の変化を無にするほどの価値が領土問題にあるだろうか。




2018年11月8日木曜日

世界で最も安全で犯罪の少ない国

Business  Insider ( Japan ) という米国に本拠を置くビジネスや技術中心のウェブサイトが、「世界で最も安全で犯罪の少ない国 20 」という記事をネットに流している。

私の予想ではヨーロッパ諸国とくに北欧諸国が上位に来るだろうと考えたが、事実、1位のフィンランド、3位のアイスランドを先頭に、11ヶ国がヨーロッパ勢であり、4ヶ国が旧英領諸国 ( 2位シンガポール、6位ニュージーランド、8位香港、16位オーストラリア ) である。現在紛争の多発している中東やアフリカ諸国も、4位オマーン、9位アラブ首長国連邦、15位カタール、19位バーレーンと中東4ヶ国が健闘?している。日本は10位でこれも健闘というべきだろう。

国連安保理常任理事国5ヶ国が入っていないように、大国小国と規模の違いも考慮する必要があるが、以上の順位はこんなところだろう。中東4ヶ国はすべて君主国 ( 首長国 ) で非君主国は無い。北アフリカを加えても、政情が何とか安定しているのはモロッコ、ヨルダンなど君主国である。エジプトを例外とすれば、非君主国の大部分は近年、観光ツアーの訪問先から脱落した。かつてはチュニジア、シリアなども訪問国に入っていたのだが.......。

国内に有力な産業の無い途上国にとっては観光は有力な「資源」なのだが、それを利用出来なくなった国はつらい。何とか悪循環を避けて国民生活の向上を目指す方法は無いものか。

2018年11月5日月曜日

中国のバス事故

新聞に中国で男性のバス運転手に女性乗客が殴りかかり運転手が我を忘れて応戦したためバスが橋から湖に転落し、乗り合わせた乗客十数名を巻き添えに全員が溺死したとの記事が載っていた。殴りかかると言っても女性のこと、平手で頭を叩いたのだろうと想像した。

ところが水中から引き揚げられたドライブレコーダーに写った一部始終を見たら、女性はスマホを手にして文字通り殴りかかっていた。運転手は直ちにバスを停めるべきだったが、カッとなって応戦した気持ちも分かる気がした。

中国人女性の気性の激しさなどと安易に一般化するのは危険だが、私にも多少の経験がある。未知の中国人女性研究者 ( 西洋史 ) に依頼され、大学の「外人教師館」の一室を紹介したことがある。すると、まもなく別の部屋が空いた。多分そちらの室料が多少安かったのだろうが、彼女が部屋の変更を申し入れたが、事務側は前約もあったのだろう、彼女の再三の申し入れを断わり私も巻き込まれた。空いているのだから使わせろとの申し入れが理不尽ということはないが、日本人だったら一度断られたら断念するだろう。

自己主張する女性が悪いとは言えない。逆に我が国の政治家や経営幹部に女性が少ないことと自己主張の弱さを関連付けることもできるだろう。国民性の違いと言うべきだろう。ただ私は運転手と乗客の争いで溺死したくないだけである!

当時の「外人教師館」は、外人という呼称が蔑称だとして「外国人教師館」と改称されたと聞く。しかし、外人という古くからの言葉に軽侮のニュアンスがあったとは思わない。何も知らない新来外国人の発言に影響されて、昨日今日できた大学には無い由緒ある名称が無くなったのは残念である。

2018年11月3日土曜日

安田純平氏と「自己責任論」

シリアで過激派に捕らわれて3年4か月身柄を拘束されていた安田純平氏が帰国し記者会見した。帰国予定が報ぜられてから「自己責任論」が噴出したかのように聞くが、私の知る限りマスメディアで安田氏の自己責任を追求した報道を見聞した覚えはあまり無い。それはインターネット上でのことでは無いのか。むしろ私の見聞では自己責任論「批判」が大勢だったと思う。

私自身は安田氏がシリアで被った苦難を思えば無事帰国となり本当に良かったと思うが、メディアに溢れる自己責任論「批判」には違和感を覚える。安田氏自身が「批判、検証をいただくのは当然。紛争地に行く以上は自己責任」( 『東京新聞』11月3日 )、「自業自得」とまで答えている。今の時点ではそう言う他なかったろうが、それが本心では無いとは言い切れない。同氏が捕らわれた時点では既に後藤健二氏と湯川遥菜氏の無残な処刑が知られており、日本政府の渡航禁止措置は十分の根拠があった。

一部の新聞に「謝罪不要」との外国人記者の発言を紹介しているが賛成できない。安田氏の釈放のため身代金が支払われたかは現在のところ不明である。仮に支払いが無かったとしてもカタールやトルコが仲介の労を取ったなら、両国は日本に恩を売ったと考えるだろう。中東諸国間の複雑な対立関係で日本の立場に障りがないとは言えない。もし身代金が支払われたならそれが過激派に利用され、何倍もの犯罪を生むかもしれない。報道や取材の自由は最大限尊重されるべきだが、結果責任は負わねばなるまい。

2018年10月30日火曜日

ブラジル大統領選の意味

ブラジル大統領選で元軍人で右翼ポピュリストのボルソナーロ氏が当選した。新聞の見出しに「ブラジルのトランプ」とある。トランプ米大統領がデマゴーグ的とすれば、ボルソナーロ氏は正真正銘のデマゴーグだろう ( それともトランプと異なり選挙後は豹変するか?)。しかしブラジル国民は黒人蔑視や女性蔑視を公言するこの人物を指導者に選んだ。

今朝の朝日新聞は「既存政治批判  支持集める」との見出しをつけている。その批判の二大テーマは左翼政権時代の大規模な「汚職」と「治安悪化」のようだ。汚職はひとまずおき、同紙によれば治安悪化は「サンパウロ州だけでも年30万件の強盗事件が発生し、車両盗難は50万件」という。前時代の数値と比較しなければ「悪化」と断定できないが、1日当たりどちらも1000件前後となる。「きれいごとはもうたくさんだ」とのボルソナーロの言葉にブラジル国民が共感したことは事実だろう。だいぶ以前のことだが、ブラジルの警官たちによる殺人事件の続発が報道された。彼らが命がけで ( ときに犠牲者を出して ) 捕らえた犯人たちが寛大な判決を受けるのに我慢できなくなったのである。

「治安悪化」と言えば、現在ホンジュラスから米国へ数千人が行進中だが、その理由は経済困窮とともに治安悪化 ( むしろ崩壊 )であるという。経済困窮ならともかく、国民が直接生命の危険にさらされ逃亡するという事なら、「破綻国家」というほかない。言語が共通な旧宗主国 ( スペイン?)に再併合して貰ったらどうかと言いたくもなる。ブラジル国民がその前に手を打つというのなら外国人がどうこう言っても始まらない。国民の生命を守るのは国家の第一の義務だから。

2018年10月24日水曜日

ジャマル・カショギ氏とは何者?

20日ほど前にイスタンブールのサウジアラビア総領事館で殺害されたジャーナリストのジャマル・カショギ氏の死に関し、トルコのエルドアン大統領はサウジアラビア政府による計画的殺害と発表した。誰もが政府による犯罪と予想していたとはいえ陰惨極まりない事件であり、中東政治の闇を覗いた気持ちにさせられる。サウジアラビアの実力者ムハンマド皇太子が事件の黒幕であるとはエルドアンは言っていないが、それは事件を最大限に利用しようとの計算からだろう。

23日の『東京新聞』に元NHKキャスターの木村太郎氏がコラム『太郎の国際通信』で、「カショギ氏の『別の顔』」と題する文章を載せている。それによればジャマル・カショギ氏は「サウジアラビアの武器商人の大富豪で王家と密接な関係にあったアドナン・カショギ氏」の甥で、若い時はムスリム同胞団に参加しており、米軍によるビンラディン殺害の時のツイッターに「私は心が破れ崩れ落ちて泣いた」と書いたという。富裕な武器商人の出身とはどこかのテレビで聞いていたが、ビンラディンに心酔していたとは初耳である。

サウジアラビアのムハンマド皇太子は女性の自動車運転を始めて許可したり、汚職まみれの王族を罰したり、開明的な改革者との印象を持たれていた。それなのにジャーナリスト殺害を命じたとあれば失望を感ずる。しかし、ビンラディンに心酔していたカショギがむしろ反開明派の王子たちの代弁者だった可能性はある。彼がサウジアラビアにおける言論の自由の擁護者だったとは私は容易に信ずることができない。

最近、東京博物館で、「アラビアの道--- サウジアラビア王国の至宝」と題する文化財の展覧会があったが、5章に亘るその内容のうち3章はイスラム以前の文化の紹介で、元サウジアラビア駐在の日本大使が驚いたという ( 『毎日』10月19日 )。「宗教の希釈化」( 同 )を推進する皇太子は原理派の敵である。「人権」の名に惑わされて中東政治を単純化してはならない。

2018年10月21日日曜日

皇后の在り方

美智子皇后が昨日84歳の誕生日を迎えられた。私とは一歳違いで過去60年間同じ時代を生きて来られた皇后が、今後は前皇后としてやすらかな余生を送られることを願う。皇室の歴史に詳しいわけではない私だが、現皇后ほど聡明で高い人格の皇后が史上何人もいたとも思えない。それだけにその生涯が幸福だったことを願わずにはいられない。

メディアに突如「美智子さん」として登場して以来の彼女の人生は、「想像すら出来なかったこの道に招かれ」「私にとり決して易しいことではありませんでした」と昨日の文書で述懐された通りだろう。それ以来、平成天皇と国民への奉仕に明け暮れた一生だった。一人の国民として感謝に絶えないが、それが一人の女性としての「美智子さん」にとって幸福な生涯だったかと考えると何とも言えない。むしろ時に痛々しいとも私に感じられた生涯だった。

ヨーロッパとくに英国の王室のメンバーのときに奔放と言いたくなる言動が理想とまでは考えないが、常に天皇を立てて模範的な皇后たろうとされた現皇后にはもっと自由に振舞っていただきたかったとの思いが私にはある。昨日の『東京新聞』に政治学者の三浦瑠麗氏が、「良い一時代ではあったが、次の御代も同じかたちを目指す必要はない」と書いているが、私も強くそう思う。雅子皇太子妃には前例にいささかも囚われることなく、一人の女性として幸せな生涯を送って欲しい。彼女にもそうする権利はあるはず。

2018年10月19日金曜日

公立中高教育の破壊?

今朝の『東京新聞』の「本音のコラム」に元外交官で作家の佐藤優氏が、「受験刑務所化する中高一貫校」について書いている。埼玉県立浦和高校出身の氏が母校でおこなった講演の報告記である。

浦和高校は埼玉県随一と言ってよい歴史を持つ名門校である。現在の首都圏の私立中高一貫校ブームの中でも例外的に高い評価を得てきた県立校だろう。ところが同校は東大合格者日本一を続ける開成中学高等学校とまともに競合する所在地にある。台東区日暮里にある開成校は東京の下町とともにJR総武線やJR京浜東北線の沿線をヒンターランドにしている。佐藤氏としては母校擁護のため一肌脱ぐのは当然だろう。

氏はむろん特定校ではなく私立中高一貫校を問題としている。氏によれば最近の後者では、中学の最初の2年間で数学の成績が芳しくない生徒は一流私大をめざす組に入り、早い段階で理数系授業から遠ざかる。逆に数学に強い生徒は歴史など文系の授業に身を入れないですむ。氏はそうした趨勢を「受験刑務所化する中高一貫校」と名付けて警鐘を鳴らす。

まったく正論であり、私も同感する。しかし、公立の中学や高校に徹底した受験教育ができない以上、一流大学を目指す生徒たちの親たちが氏の言に耳を傾けるとも思えない。それなのに政府自民党は私立の高校の授業料を無償にする方針という。借金に借金を重ねている政府のやるべきことだろうか。

2018年10月18日木曜日

『ホモデウス』の示す人類の未来

昨夜、テレビのニュース番組?を見ていたら、イスラエルのヘブライ大学のエバル・ノア・ハラリ教授の『ホモデウス』という人類の未来を論じた新刊本 ( 河出書房新社 ) を紹介していた。

私は知らなかったが、ハラリ教授の人類史を通観した『サピエンス全史』は世界的に話題を集めていたという。今回の『ホモデウス』は人類の未来を論じている。ホモデウスとは神のような人間、神に近づく人間という事のようだ。番組とインターネットによる知識だけで論ずるのは無謀だが、あまりにショッキングな人類の未来像として一言述べたくなった。

教授によれば、飢餓、疫病、戦争といった災厄を克服しつつある人類は、AI ( 人工知能 ) やバイオテクノロジーの一層の進展により数十年のうちに神のような存在に進化するという。というと人類の未来は明るいかというとそうではない。200年以上前の産業革命は労働者階級を創出したが、AI革命は労働者階級を「無用者階級」に変えるという。個人として「無用者階級」に転落しないためには人間は一生学び続けなければならない。

原著を読んでいないので教授の未来像が一国の変化の先を論じているか知らないが、私には国際社会の未来が気になった。現在、AI革命の先頭に立つ米国や、何とかそれについて行ける?ヨーロッパ、日本、韓国、中国、インドなどの未来は暗くないだろう。しかし、ついて行けない国々はどうなるのか?  これまで我々は発展途上国もいつかは先進国に追いつくと予想していたのではないか。しかし、AI革命により今後は両者の距離は縮まるどころか拡大するのではないか。すでにその兆候を私は感ずる。先進国民の利他心がそれにブレーキをかけられるか。AI革命やバイオテクノロジーの進歩は人類の未来にとって原水爆戦争や地球環境の悪化と並ぶ難問かもしれない。

2018年10月12日金曜日

領土問題解決の難しさ

今日の朝刊各紙にNPO法人が日中両国 ( 中国は10大都市 ) で実施した相手国への好感度調査の結果が報道されている。『朝日』の見出し「中国人の対日感情  大幅に好転    訪日客の増加影響か」が各紙一致した内容と言ってよかろう。

尖閣諸島をめぐる対立などの影響で、2013年に5.2%まで低下した中国人の対日好感度が徐々に回復し、今年は42.2%にまで高まったという。未だ半数に満たないとの反論も可能だが、わずか5年間の変化としては劇的と言えるし、なにより日本への渡航経験がある中国人 ( 同国人の18.6% )に限れば74.3%が好感を抱いたという。

観光客として見れば中国の風土のスケールの大きさは日本の比ではないが、狭い移動距離で経験する日本の風土の多彩さは特筆もので、大涌谷のように首都から100キロの近くに煮えたぎる大地が見られる国は稀だろう。それ以上に日本人の公衆道徳の高さ ( 敢えて言えば )は中国人旅行者には印象的なのだろう。

国民の対日好感度が高まったからと言ってそれが尖閣問題をはじめとする難問を抱える日中関係に直ちに反映するわけではない。事態はそれほど甘くないだろう。しかし独裁政権が政策を転換させようと考えたとき世論の対日好感度は転換に多少ともプラスに働くだろうし、なによりほかに名案があるわけではない。

プーチン大統領が領土問題解決を後回しにして平和条約を結ぼうとの突然の呼びかけをした。それに対する新聞各紙の反応は否定的である ( 食い逃げされる!)。なかには安倍内閣批判の新たな一手と捉える新聞もある。しかし年金支給の改悪?などで人気の急低落を招いたプーチンが焦っているとの見方も可能である。何れにせよ時間は日本の味方ではない。

各国で民主化が進展するのは望ましいのだが、領土問題に関する限り20世紀の民主化の進展が解決を長引かせ、ときに平和条約の締結を困難にしてきたのが悲しい現実である。

2018年10月8日月曜日

世界的文化財の保存

数日前、ブラジルの国立博物館の所蔵文化財の多くが火災により失われたと報道された。中南米諸国はそれぞれ立派な国立博物館を有するだろうが、ブラジルのそれは恐らく最も重要な博物館だったのではないか。石造やコンクリート造りでもそんなに燃えるものなのか。それにしても多大な文化的損失だろう。

火災への備えが不十分だったとしても意図的な行為による損失とは異なる。イラクのフセイン政権が崩壊したさいバクダッドの博物館が略奪に遭ったと知らされたときはショックだった。当時の私は残忍な独裁政権の崩壊を心から喜んでいたのだが。

それでも盗みは石川五右衛門の言ではないがどの国にもあったし今後もありうる。しかし、イスラム国 ( IS )によるシリアやイラクの文化遺産んの破壊には弁解の言葉も見当たらない。イスラム教以前の文化遺産は破壊して構わないということなら文化破壊の思想というほかない。

現在、大英博物館が所蔵し展示するパルテノン神殿の破風 ( エルギン・マーブル ) をはじめ欧米諸国の博物館の所蔵文化財の多くは、略奪品ではないとしてもいわば不等価交換の結果であり、いっとき返還要求がなされ話題となった。それに対し欧米諸国はロンドンやパリやニューヨークだから世界の人たちが容易に目にすることができると正当化した。一応の理屈だが ( 私もその恩恵に浴した一人 ) 、本心は返還するのが惜しかったのだろう。しかし彼らも欧米が所蔵する方が安全だとまでは言わなかった ( 仮に内心そう思っていても公然の反対理由には出来なかったろうが )。

火災のような過失による損失はどの国にもありうることだし、対策も不可能ではないが、異文化の意図的破壊による損失は対策の立てようがない。便宜的には現在の状況もやむを得ないのではないか。

2018年10月6日土曜日

青木繁「海の幸」の舞台

今日の『朝日』の土曜版beの連載「みちものがたり」は夭折の画家青木繁の名作「海の幸」とその舞台の布良 ( めら ) 海岸をとりあげている。房総半島のほぼ南端の布良には私は何度か訪れている。母の実家は布良から2キロほど先の旧長尾村根本にあり、私は小学生の頃は毎夏をそこで過ごしたからである。

当時は房総西線は両国が始発駅で無論蒸気機関車。ススで鼻の中を黒くして着く安房北条駅 ( 現在の館山駅 ) からはバスに半時間ほど揺られると根本だったが、戦争末期は木炭バスは富崎 ( 布良の別名 )までしか行かず、残りを歩いた。まだ風景を愛でる年齢では無かったが、道沿いに咲くナデシコの美しさは心に残った。夜にはかなり先から来客の提灯の灯が見えて印象的だった。

母の実家は築200年?ぐらいで大黒柱の太さが物珍しかった。朝鮮出身の詩人金素雲 ( 岩波文庫に『朝鮮民謡集』、『朝鮮童謡集』あり ) が一夏を過ごしたことがあったと聞いた。戦争末期はときおり館山基地の「海兵団」の若者たちの行軍訓練を見かけた。棍棒 ( 海軍精神注入棒と言った ) で殴られる兵士がかわいそうと祖母が言っていた。海軍は陸軍ほど狂信的では無かったが、それは士官以上の話だったようだ。

「海の幸」の男たちは丸裸だが、早朝魚を入手する根本の浜で見た男たちはむろん裸ではなく、あくまで青木の創作だった。布良に青木に同行した内縁関係の福田たね とは間もなく別れるが   のちに尺八の奏者として知られる ( 毎夕、NHKラジオで流れた『笛吹童子』のテーマ曲の作者 ) 福田蘭童は2人の遺児だった。

2018年10月2日火曜日

本土と沖縄県と宜野湾市と

沖縄県知事選で野党が支援した前衆議院議員の玉城デニー氏が、与党が支援した佐喜真前宜野湾市長を396,541票対316,321票でやぶり、新知事に選ばれた。政権側の経済的支援の餌に惑わされず、本土への強い不満 ( むしろ怒りだろう ) を貫いた沖縄県民は立派だった。

普天間飛行場のある宜野湾市の市長選も同時に行われ、こちらは与党支援の松川正則候補が野党支援の仲西春雅候補を抑えて勝利した。締め切り時間の関係か、1日付けの紙面で結果を報じたのは『朝日』だけのようで、同紙にも私の知りたい投票数の記載はなかった。

今朝の『読売』と『毎日』で遅ればせながら松川候補26214票対20975票と知れた。『朝日』には続報は無かった。同紙の報ずるように知事選が玉城氏の「大勝」なら、宜野湾市長選の松川氏も「大勝」だった。知事選の結果報道に6面を割いた『朝日』は宜野湾市長選の票数を読者に知ってほしく無かったとしか思えない。

これまでも宜野湾市民は基地被害に苦しみながらも辺野古移設に賛成とは発信しなかった。たとえそれが被害に苦しむ住民の数を百分の一に減らすことになっても。しかし、市長選という間接的な形で苦しい胸の内を明らかにした。私には沖縄県民と宜野湾市民の関係はわれわれ本土住民と沖縄県民の関係に重なって見える。それにしても一方の「大勝」を報じても他方の「大勝」を黙殺するのは公平とも思えない。

2018年9月29日土曜日

師岡カリーナに賛成!

NHKテレビの朝のニュース番組『おはよう日本』で「ムスリムの子どもに向き合う小学校」と題して群馬県の伊勢崎市の小学校の対応が紹介された ( 9月18日 )。それに対し今朝の『東京新聞』の「本音のコラム」で師岡カリーマ氏が強い疑問を呈している。

カリーマは「便宜を図ろうと努力する学校は立派だと思う」が、「ムスリムの親の要求がすべてまっとうなものかを見極めることも大切だ」とする。例えばムスリムでは歌や楽器演奏は禁止されているため、この小学校では音楽の時間は別室で自習させるという。しかし、カリーマが育ったエジプトの学校ではピアノに合わせてよく歌った。「音楽を禁忌とみなすムスリムは、極めて少数な超過激派だけだ」。また、「偶像崇拝が禁止されているため、図工の授業では自画像が描けず、自分の手を描く」というが、カリーマは「エジプトの美術の授業では人物画もさんざん描かされた」。

この小学校ではラムダンの時期 ( 断食期 )には生徒の健康を考え、体育の授業は見学させるというが、日本でカリーマの父は体育の授業に参加させた。番組では、授業時間にモスクに出かけさせよとのムスリムの親たちの要求に対し、話し合いの末、集団で行動するとの条件で許したという ( インターネットによる )。カリーマは「一部の親に要求されるままに、必要以上の制約を子どもに課すことは、他の児童たちに偏見を植えつけ、将来ヘイトや分断を招きかねない」と考えるが、正論だと思う。

私はたぶん番組を見ていないので、番組の意図を云々したくない。昨今、NHKは左からと右からの正反対の ( 真逆ではない!)批判にさらされ、同情もしたくなる。しかし、日本語習得への援助ならともかく、日本の学校なら日本の教育プログラムの遵守を要求するのはのは当然である。ムスリム教育には自分たちの教育方針の学校を設立すべきである。その自由は守られるべきとしても。


2018年9月27日木曜日

本当に「失笑」か?

現在開会中の国連総会でのトランプ大統領の演説がこれまでの業績の自慢で会場の失笑を買ったと朝刊各紙が報じている。『毎日』の社説の見出しは「トランプ氏の国連演説   世界の失笑の意味を考えよ」だった。本当にそうだろうか?

『朝日』により経過を追えば、トランプは「2年足らずで、現政権は歴代のほぼ全ての政権よりも多くのことを成し遂げた」と語ったが、「会場から失笑が漏れ続けたため話を中断し、『事実だ』と強調。さらに会場の笑いが大きくなると『そんなリアクションは期待していなかったが、まあいいだろう』と強がった」ということだ。

しかし私は会場の反応が本当に「失笑」だったか疑問に感じた。このブログで私は彼を以前にエンターテイナーと評した。何年もテレビ番組で笑いをとっていた彼がそれほど聴衆の反応を予想できなかっただろうか?   「歴史上のほぼ全ての政権よりも多くのことを成し遂げた」は『毎日』の「余録」によれば、「国内の支持者を前にした演説では、喝采を浴びる決めゼリフ」の由。米国の聴衆も本気でそう思っているとはとても思えない。私にはトランプの応答がすべて計算済みだったと思える。

午後、テレビのチャンネルを回していたら、米国のabcのnewsshowerという番組の英語を解説するNHK  BSの番組に行き当たったが、abcの番組では「笑いを誘った」「あそこは笑わそうとした」と解説していた。少なくともabcの解説者は失笑を買ったとは見ていなかった。

日本人記者たちの英語力ではニュアンスが理解できなかったか ( まさか )。それともトランプがまともな知能の持ち主ではないと決めてかかっているのか。そんなことでトランプの抜け目なさ、恐ろしさを読者に伝えられるだろうか。

2018年9月26日水曜日

有効な補助金とは?

東京都の施策なので新聞各紙の扱いは地味だったが、乗り物大好き人間の私には見逃せない記事があった。都がE V バイク普及に購入補助金とのニュースである。

もっとも詳しかった『産経』( 9月20日 )によれば、東京都は排ガスを全く出さないE V( 電動 ) バイクの購入者に購入価格の差額に補助金を出すとの記事で、都が4分の3、国が4分の1を負担し、上限は18万円とのこと。現在もっともシェアの多いヤマハ発動機のE-Vino  21万5000円 ( 税別 ) の場合は補助額は10万6000円となる。2018年現在、バイク全体に占めるE Vの割合は1%弱だそうで、当面の補助金総額は大したものではない。小池都知事の人気目当てもあろうが、目のつけどころはさすがである。

10万6000円といえば昨今話題の電動自転車とほぼ同じ金額。バイク乗りにとっては大朗報だろう( そこまでやるか!)。ちなみに、中国の紹興では30余年前からバイクは電動式しか許されなかった。これは環境保全のためではなかった。地形のせいか街全体に異臭があった。  それとも酒造りのせいか?

10万円ぐらいで驚いてはいられない。国民民主党の代表選挙で玉木候補は、国は第三子からは1人1000万円を補助すべきだと提案していた。大学進学率が50%を超える現在、親の教育費負担は小さくないとすれば、本気で少子化にブレーキをかけるにはそのぐらいの覚悟はすべきなのだろう。

それに対し、私立高校生の授業料の無償化という政府 ( 自民党?)の方針には賛成できない。現在でも公立中よりも私立中の受験が人気を集めている。私立の中高校の独自の教育方針は大いに尊重されるべきだが、苦しい国家財政からの公立高並みの補助は公立校教育への深刻な打撃とならないか。特別の教育に対しては応分の負担を要求すべきだろう。

2018年9月21日金曜日

私は嫌カード派!

旅行カバンの中から古い朝日新聞の土曜版be ( 4月21日 )が出てきたが、この週の「be  between  読者とつくる 」は「あなたは現金派?  キャッシュレス派?」だった。結果はピッタリ50対50だったとのこと。韓国や中国では支払いは断然キャッシュレス払いと聞く。日本がそうでないのは我が国の紙幣の質が断然優れているからだと思うのは自国びいきだろうか。

米国の100ドル紙幣はニセ札が多いため受け取りを嫌がられると聞くが、わが国ではそうした心配をする人は皆無だろう。ヨーロッパのホテル代の支払いも現金よりもカード払いが好まれるようだが、これは備品を壊したり盗んだりされた時の責任追及が容易だからだろう。半世紀前の英国ではスーパーで、カードどころか小切手に金額を記入して支払いしている客を見かけた。個人が自分の小切手帳を持っている英国ならではの光景である。私がカード支払いを好まないのは失ったりして悪用されるのが怖いから。本当に悪用が容易なのかは分からない。単に新しいもの嫌いなのかも。

嫌カード派の私が仕方なくアメックスのカードを持つようになったのは、現金払いではレンタカーを借りるのに多額の預け金が必要だったからである。30年以上前、ノルウェーのオスロー空港 ( 構内バスはなく、空港ビルまで歩かされるほど牧歌的な空港だった ) でレンタカーを申し込んだら多額のデポジットを要求された。やむなく鉄道利用となったが、山がちの同国でのベルゲン訪問は鉄道が正解だった。

北欧3国を5日で駆け足旅行をしたのち1か月ほどパリで図書館通いをしたのだが、すぐ手帳を紛失したことに気づいた。オスロー空港でのレンタカー店と目星はついたが、取りに立ち寄るわけにもいかず、諦めた。すると間もなく東京の家内から手帳が送られてきたとの連絡があった。レンタカーを利用しなかったのにと、信じられない思いだった。早速礼状を書き、東京案内は引き受けたと書いたが、無論返事はなかった。私の北欧への敬意はそこから始まった。たまたま親切な青年だったのだろうか。

2018年9月19日水曜日

米中の関税戦争

トランプ米政権が中国製品に対する高率関税の第3弾の発動を表明する見通しとなった。場合によっては第4弾も検討するという。課税対象額も340億ドル、160億ドル、2000億ドルとうなぎ登りであり ( ただし、税率は前2回は25%に対し、日用品を対象とする第3回は10% )、中国はそれに匹敵する報復関税を用意するという。といってもこの対決でより失うものが多い中国は心ならずもだろう。トランプ大統領としては差し迫った中間選挙とさらには次回大統領選に敗北しないためには選挙公約を実現することが何にも勝る目標なのだろう。

大戦後の自由貿易体制は日本ついで中国ら途上国国民の生活水準の向上を生んだし、米国の大衆の購買する商品の価格を引き下げ米国にも利益をもたらした。しかし、そうして発展させた国力を中国が、軍事力の飛躍的向上や国際司法裁判所の判決を無視しての南シナ海の基地増強に利用する結果ともなった。

自由貿易イデオロギーの元祖の英国のリチャード・コブデンやジョン・ブライトはそれによる経済的利益を目指したが、同時にそれが各国を結びつけヨーロッパの平和に資するとの強い信念にも動かされていた。この楽観論は第1次世界大戦の勃発により打撃を受けた (  当時の英国とドイツはお互いが最大の貿易相手国だった )。

第二次大戦後の自由貿易イデオロギーにも貿易による相互利益とともにそれが世界平和に資するとの期待があった。とくに中国に対しては大衆の生活水準の向上が同国の民主化の後押しをするとの期待があった。しかし結果はこれまでのところ逆だった。

トランプ大統領の狙いが人気取りであれ、自由貿易が常に良き結果をもたらすとの楽観は改めた方が良いようだ。中国への進出企業が3万という日本の経済にはマイナスだろうが.........。

2018年9月16日日曜日

異文化受容は相互主義で

今さらではないが、近年、日本女性の服装は開放的というのか肌の露出度がいちだんと進んでいる。欧米の風俗に影響されてのことだろうが、そのうち日本でも海浜のリゾート地から始まりビキニ姿で通りを闊歩するのが当たり前になるのではないか。そのとき男性がその姿にしつこく視線を向けたらセクハラと糾弾されるだろうか。

バカなことを書きたくなったのは「ドキュランドへようこそ! イラン 禁断の扉」( NHK  BS 9月7日 )という現在のイランを紹介したフランスのドキュメンタリー番組で、イランの女性に課せられる制約のあまりの厳しさに呆れたからである。イスラム諸国での女性差別といえばサウジアラビアで女性の自動車運転がようやく許されることになったとのニュースが話題となったが、イランも例外ではない ( こちらは自転車!)。女性は家を一歩出ればスカーフ着用が義務であり( 外国人も ) 、レストランや職場などで家族以外の男女が同席することは基本的に許されていない。スポーツは観戦も男女は分離される。宗教警察 ( 自発的告発者?)が違反を摘発する。飲酒は男性も御法度。

しかしイランはサウジアラビアと異なり古代ペルシャ以来の文明を誇る。欧米の事情を知る都会の若者たちは酒を密造し、女性は自宅ではヴェールを脱ぎ外国モードの衣服を楽しむ。ブタと同様に犬は飼ってはならないが、郊外には密かに犬を散歩させられる公園がある。上流階級の行くスキー場では欧米並みの自由がある。しかし、原則禁止である以上、運悪く摘発されれば笞打ち80回から死刑までの罰を免れない。死刑数は中国と世界一を競う ( 2016年は900人とか )。人口9000万人なら比率は中国の10倍を超すのでは?

私は他国や海外の人権団体などが、たとえ人権に関しても安易に干渉するのには賛成しない。しかし外国に住んでも宗教にもとずく習慣を厳守するという人たちを歓迎する気にはなれない。異文化との共生を説く人に反対はしないが、相互主義は譲れない原則ではなかろうか。

2018年9月10日月曜日

人の引き際

テレビニュースで安室奈美恵のインタビューを流していた。歌手生活25周年を機に芸能生活から引退するという。わたしは彼女の歌をまったく知らないし ( 踊りも重要な歌なんて!) 、姿もテレビで見るだけだったが、40歳の現在とデビュー当時とほとんど変わりがない 容姿には驚いた( 何しろ相変わらずミニスカートだし!)。これならファンは引退を惜しむだろう。

古くは原節子、新しくは山口百恵 ( これも古いか!)と美人女優やアイドルがファンの持つイメージを大切にして惜しまれつつ引退した人たちの列に安室も加わる。私は年輪を重ねても仕事を続ける俳優やアイドルを批判する気は毛頭ない。しかし、原節子や山口百恵や安室奈美恵ほど夢を売る役を演じてきた人には、そのイメージを壊してほしくないとの気持ちはある。

芸能人だけではない。晩節を汚したと言いたくなる人たちは世の中に少なくない。いま話題の塚原夫妻もそれに近い。私はいっときのメディアのように夫妻を一方的に批判して良いかは分からなかったし、速見コーチの宮川選手への平手打ちのテレビ画像には不快感を禁じえなかった ( 宮川選手がそれを甘受しているからといって肯定できない ) 。画像が存在するのは他人に見られる場所での体罰と思われ、選手の体面への配慮がゼロで許せない。

しかし、塚原千恵子氏には仮に宮川選手を朝日生命クラブに引き抜く意図が全く無かったとしても、多年にわたる女子強化本部長の経歴が選手に与える重圧感への自覚が感じられない。私企業の社長会長なら兎も角、公的機関の要職への重任は本人の意志次第ということでなく、一般社会の定年に倣うべきだった。そうであれば塚原夫妻は晩節を汚すことなく過去の名声のうちに退いていただろう。今更言うことでもないかも知れないが、人間、引き際も大切である。



2018年9月9日日曜日

無駄と余裕のあいだ

今回の胆振東部地震の影響をテレビや新聞で見ていると、道民は勿論だが本州や外国に帰る旅行者はすべての交通機関がストップしてさぞや心細かったことと同情せざるをえない。せめて札幌まで新幹線が開業していたら、たとえ1日や2日は動かなくとも不安の程度は大きく違ったのではないか。むろん平時には、フェリーも含めて空路と鉄道は競合し、どちらにとっても効率は減ずるだろう。しかし今回のようなことが繰り返されれば日本を訪れる観光客も今後警戒するだろう。

ことは交通機関に限らない。苫東への火力発電の集中は ( 国民も道民も初めて知った?) 、効率から言えばベストだったろうが、万一のときには大変な不便を引き起こすと分かった。

今回の家屋への損害を見ていると、半壊まで行かなくても少しの傾き程度でもサッシ枠は大きく変形しており、復旧は容易ではないと感じた。私が1944年に経験した震度6弱程度?の東海地震では傾いた農家が少なくなかった。しかしその後の数十日のうちに丸太とジャッキを使ってどれも正常に復した。当時の家屋はマンションはもちろんプレハブ建築と比べても隙間だらけでエネルギーを無駄遣いしていたが、修理も簡単だった。結局どちらが資源の節約になるのか。

他人事ではない。十余年前、ボケて火の不始末から火事を起こすことを恐れてガスコンロをIHヒーターに代えた。湯沸かしのスピードなど、比較にならないほど便利になったが、今回の北海道のようになったらどうなるのか。だからと言ってガスに戻す気は毛頭ないが。

2018年9月7日金曜日

思い出の品々

今年の自然災害の多発には異常なものを感ずる。それにつけても、いざという時の自炊道具や飲料水の重要性を再認識させられる。

その想いに促され、昔使用したガスコンロを探して台所の下の収納スペースを30年ぶり?に開けた。日本ではあまり知られなかったようだが、「キャンピング・ファイア」という名のフランス製の極小のガス台とそれに使う小さなガスボンベで、50年前の欧州大陸旅行に際し使用したものである ( 小さいながらバンタイプの車だったので、最小限の煮炊きが車内でも出来た ) 。よく持って帰ったと思うが、あまりに古いのでガス漏れ火災を起こす危険も心配だった。

ところが、物置小屋にでもあるのか台所下にはキャンピング・ファイアはなく、代わりに昔見た内外の映画のパンフレットや、留学中の様々な書類 ( 例えばパリの国家図書館の入館証や、無料で医療を受けられる英国自慢のNHS保険証など ) を容れた箱が出てきた。オールド映画ファンとしては懐かしいパンフレット ( 10冊ほど )だが、もうよれよれの状態で始末するしかない。他にも日航発行の妻子の「北極通過記念証」( 私より半年後に渡英 ) などと共に、留学のため英国の恩師とやりとりした手紙類が数枚あった。日本での研究会で一度言葉を交わしただけの一書生の無理な願いを実現させてくれた今は亡き恩師の恩情に改めて接し、厳粛な気持ちにさせられた。

他にも中学や高校の音楽教科書など捨てきれなくて残ったものが少なくなかったが、今はゴミにしか見えない現状では廃棄を覚悟せざるを得ない。せめて此処に記して別れを告げたい。

2018年9月4日火曜日

二つの美術展

最近、二つの美術展を訪ねた。東京国立博物館の縄文文化展と、目黒の東京都庭園美術館の「ブラジル先住民の椅子」展である。実はどちらもチケットを頂いたので腰をあげたのであり、縄文文化やブラジル先住民の文化に特別の関心を抱いていた訳ではなかった。しかし、どちらも私に強い印象を残した。

縄文土器は火焔型土器などどんな物かを写真で知らぬではなかった し、中央高速道の釈迦堂遺跡 ( 高速道を降りずに見られる ) で現物を見たことはあった。しかし、数多くの現物に接して、形だけでなく全面に施された文様までじっくり見たのは初めてだった。私に十分な観賞力があるとは思わないが、1日の大半を食糧の入手に費やしたであろう環境でも人間が美を希求していた事実に感動を覚えたのである。その点ではブラジル先住民の椅子も同じであった。

後者ではもう一つ、旧朝香宮邸の会場とその庭園を見たのも初めてだった。戦前の皇族の広い邸宅には感心するだけでもなかったが、それ自体の上品な美しさは十分感じた。多くの巨樹に囲まれた庭は庭園と呼ぶにふさわしいものだった。

目黒の通りには7日後の「さんま祭り」の飾り付けがもう一部始まっていた。目黒がもっと近ければ良いのにと思わぬではなかったが、遠い郊外の我が家で焼かれるさんまの味と何ほど違う訳ではないと強がった!

2018年9月1日土曜日

どこまでが人種差別か?

ジャカルタ・アジア大会で日本の男子400米リレーチームが大差をつけて金メダルを獲得した。各メンバーは何れ劣らぬ快走だったが、第4走者のケンブリッジ飛鳥の颯爽とした走りも印象的だっだ。彼はジャマイカ人と日本人のハーフだとか。しかし、4人の走者のうち2人さらには3人がアフリカ系ランナーとなったとき、我々は違和感なしにそれを日本チームと感じるだろうか?

日本チームでそうしたことが仮に起こるとしても遠い先のことであろう。しかし、オリンピックの100米走の状況を見ればアフリカ系ランナーの実力は圧倒的であり、すでに世界ではそうした混成チームは珍しくないだろう。陸上短距離走は極端な例だが、サッカーや卓球などいくつかのスポーツではヨーロッパ国代表と言いながら多人種のチームになりかけている。

ハーバード大学が学生の人種的多様性を維持するためアジア系入学希望者を差別しているのが問題となっている。勤勉なアジア系は成績だけで判断すれば学生の42%を占めるというので、大学はそれを19%に抑えているという ( 『朝日』9月1日 ) 。本来、ハーバード大学の入学資格は面接による人物考査が大きな要素を占めていたと聞くし、私立大学であるハーバード大学には入学資格を独自に決める自由はあるだろうが、米国の司法省がそれを人種差別と批判している。

経済的統合を手始めに政治的統合への道を着実に歩んできたヨーロッパ諸国は今、移民難民の大量流入を機に四分五裂の危機に直面している。難民への人道的対応に当初は各国も反対はしなかった。むしろ労働力として利用した側面もあったろう。しかし、「破綻国家」が次々誕生し、その国民が数十万人も自国に入国する事態にまで寛容であることは困難である。移民と難民の違いが判別困難になってきた新事態に「人道的対応」がどこまで可能だろうか。国境を閉じることが即、人種差別と言い切ることは困難である。

2018年8月27日月曜日

ロシア帝国の遺産

昨日の新聞各紙に中国黒竜江省のハルビンでホテル火災があり、19人が死亡とあった。私たち夫婦も十余年前に旧満洲ツアーに参加して同市のホテルに一泊しているが、火災を起こしたホテルは2016年開業とあるので、同じホテル ( 名前も忘れた )ではない。

戦前のわが国ではハルビンではなくハルピンと発音した。同じ旧満洲でもほとんど最北の都市のハルピンは、ロシア支配時代の街並みや松花江 ( スンガリー ) の故に、南の大連 ( 清岡卓行の『アカシアの大連 』) と並んで日本人にあこがれのようなものを感じさせた。大連はともかく、今でもハルビンのロシア建築の街並みは同市観光の目玉と言ってよい。

満州族の故地である東北中国でも少なくとも十余年前まではハルビンは、人口では負ける瀋陽や長春に負けない人気の観光地だった。端的に言うならロシア帝国の植民地だったが、それがある種の文明の伝播であったことも事実だろう。

以前にも本ブログで紹介したかもしれないが、英国人の女性旅行家イザベラ・バードは李氏朝鮮の都市の不潔さに辟易した。しかし、ロシア支配下の旧満洲の朝鮮人の生活は不潔ではなく、彼らの民族性の故ではないと知った。李朝の支配階級の両班が民生に無関心だったのだろう。

西欧諸国から見れば帝政ロシアは遅れた専制国家として厳しい批判の対象だった。しかし、そうした西欧的視点をそのままアジアでのロシア支配に適用することに問題はないだろうか。


2018年8月26日日曜日

「行ってみたい時代」は?

昨日の朝日新聞の土曜版beの讀者アンケートのテーマは「行ってみたい時代」だった。何しろ旧石器時代19位や縄文時代15位から「バブル期」までの20の時代からの選択なので私に予想は困難だった。

1位と2位が「高度経済成長期」と「バブル期」だったのは意外のような当然のような。前者が男性、後者が女性の支持者が多いとか。日本人が初めて豊かさを手にし始めた時代とあれば当然なのか。教員の我が家でもその例外ではなかった。

3位から5位は「平安時代」「幕末」「江戸後期」である。実際にそこで生活するのは現代人には容易ではなかろうが、なるほどテーマは「行ってみたい時代」であって「住みたい時代」ではなかった。6位の「安定成長期」( 1974年~80年代半ば ) を除けばすべてマイカーもエアコンもない時代だった。さすがに戦中戦後の窮乏時代は「行ってみたい時代」20に入らなかった。

以前に紹介したことがあるかと思うが、福沢諭吉が自分は「1代で二世を経験した」 ( 大意 ) と書いている。封建の世と文明開化の世を経験した福沢ほどではないが、私の世代は窮乏時代と物資が溢れる時代の双方を経験した。望んでも毎日は米飯は食べられなかった時代が「行ってみたい時代」に入る筈もない。

それでも同世代の友人の集まりで、「我々も1代で二世を経験したが、それはそれで悪いばかりではなかった」と発言したら反論はなかった。懐旧の情のなせるわざなのだろうか。

2018年8月20日月曜日

がんばれ金足農! がんばれ東北勢!

甲子園の全国高校野球選手権大会で秋田代表の金足農が決勝戦進出を果たした。秋田勢の決勝戦進出は103年前の秋田中以来だとか。

100回に及ぶ夏の甲子園大会で東北勢は一度も優勝したことがない。優勝できない内に北海道の駒大苫小牧が先に優勝旗の白河の関越えを実現してしまった。太田幸司投手を擁した三沢高と田村隆寿投手を擁した磐城高が準優勝したことはあり、とくに三沢高は優勝旗に手が届きかけたが、松山商との大接戦の末敗れた。その後も東北高や仙台育英高が確か決勝戦進出を果たしたが、その頃には東北勢とは言っても選手は他地方出身者が多くなり、私の関心も薄れた。

今回の金足農は出場したナイン全員が地元出身と聞き、久しぶりに高校野球中継を見た。凄さはないが良く鍛えられたチームという印象である。決勝戦の相手と決まった大阪桐蔭は春夏連覇を狙う強豪校であり、前途は楽観できそうもない。それでも私は、準優勝に終わったとしても地元出身者だけで闘う金足農を全力で応援したい。

金足農のユニフォームの胸の文字KANANOは私に戦前に準優勝した台湾の嘉義農林のKANOの文字を思い出させた。双方とも農業校なのは偶然なのだが、不思議な縁を私に感じさせる。三沢高や磐城高だけでなく嘉義農林の無念も晴らしてもらいたい!

ちなみに、今日、金足農に敗れた日大三高は西東京代表であり、今年の私の年賀状の写真「  朝日に匂ふ」は同校から1キロもない町田市図師町結道の谷戸の一本桜である。

2018年8月18日土曜日

長すぎるスピーチ?

今日の東京新聞に「スピーチ  なぜ長い」との見出しの記事が載っている。『スポーツ報知』(16日)が甲子園球場での開会式のスピーチが長すぎたと報道したことの後追いの記事である。それによれば5分20秒の朝日新聞社長のスピーチに続く林芳正文科相と八田英二高野連会長のスピーチで合計20分だった。100周年記念大会という事で文科相の挨拶まで加わったためもあろうが、例年にない暑さの中で立って聞く選手たちには長すぎた。

記事によれば教員と政治家に長話が多いという。スピーチ慣れしているからもあろう。歴代首相の衆院での施政方針演説では1位も2位も鳩山由紀夫氏の52分(2009年)と51分(2010年)、3位が安倍氏の48分(16年)とのこと。それに対し吉田茂氏と岸信介氏の3分が最短だった。年々形式的になってきたとすれば問題だろう。

もっとも、習近平主席の中国共産党大会 ( 17年 )での3時間半の演説、キューバのフィデル・カストロ首相の国連総会での4時間29分の演説、同氏の国内での7時間15分の演説 ( 98年)と比べれば短いと言える。旧ソ連時代から各国の共産党指導者の大会演説は長かった。いかに独善的になっていたかが演説の長さに現れていた。

「人民の人民による人民のための政治」で知られるリンカーンのゲティズバーグ演説は同地の戦闘で倒れた死者たちを弔う式典での演説であり、英語での最も有名な演説だが、3分間で終わり、写真師は演説中の大統領の写真を撮る暇も無かった ( 当時の写真術は簡単では無かったが ) 。スピーチは長いほど内容が空疎になりがちになるのだろう。

P.S.   前回のブログで駅ピアノのプラハ篇が同市の美しさを演奏者たちが讃えていたと書いたが、同市の回は2篇あり、一昨日見た第1篇にはそうした言及はなかった。私自身耄碌したかと肝を冷やしたが、前篇が有ったとは知らなかった。誤解をされないため!

2018年8月13日月曜日

プラハとワルシャワ

るNHKの短編番組に『駅ピアノ』というのがある。私はこれまで3篇しか見ていない。最初の回がどこの国の駅だったか忘れたが ( 情けない!)、2回目はチェコのプラハ ( マサリーク駅。チェコの独立運動の指導者で初代大統領 の名にちなむ ) 、3回目は南伊シチリア島のパレルモ国際空港だった。

大勢の人の行き交う駅や空港の構内にぽつんと置かれたピアノに旅行者が立ち寄り、いっときピアノ演奏をするという番組で、曲目はクラシックからポピュラーまで演奏者によりさまざまである。我が国にも例が無いわけでは無いと聞くが、私は出会ったことは無い。恥ずかしがり屋の多い日本人と違いヨーロッパでは文字どうり老幼男女が気楽に弾いて行くという印象だった。

ピアノ演奏自体や内外の多様な素人演奏者たちへの興味もさることながら、挿入される都市の風景が珍しかったり逆に懐かしかったりしながら見ている。後者ではプラハの町の魅力を口にする奏者が多かった。私たち夫婦がツアー参加者として共産圏時代のプラハを見物したとき、現地ガイドが映画『アマデウス』は当地でロケが為されたと自慢したが、確かにそれが納得できる美しい街だった。

古い街並みが残っているということは、ナチスドイツの侵略や「プラハの春」へのソ連軍の介入にチェコ人は徹底して抵抗しなかったことを示す。他方、ポーランド人はドイツ占領軍にたいし武装蜂起して敗れ、美しい旧市街を徹底的に破壊された ( 戦後、破壊された建物の断片を集めて見事に再現したが ) 。

世界遺産のとびきり美しい街を後世に残したチェコ人と、ナチスドイツに果敢に抵抗したポーランド人。より賢いのはチェコ人に違いないが、ワレサの指導下の労組「連帯」の執拗な抵抗が東欧自由化に多大な貢献をしたポーランド人は真に感謝に値する( その後の政治が順調とはいかないのもポーランド人らしい!)。

私はチェコ人とポーランド人の選んだ道のどちらが正しかったか判断できないし、したくもない。ただ、そうした困難な選択に国民を追い込む政治はあってはならないとは思う。

P.S.    前回の西川史子氏の出演した番組は、関口宏が司会する「サンデーモーニング」ではなく、爆笑問題の司会する「サンデー・ジャポン」でした。悪しからず。



2018年8月9日木曜日

訂正

前回のアンケートの「理解できる」の8.4%は18.4%の誤りです。スミマセン

医学系大学の合格基準

東京医科大学が男性と女性の受験者に別の合格基準を設け、男性受験者に有利になるよう男女比を設定していたとの報道がなされて一週間になる。その間、同大学の措置が男女差別だとの批判がメディアにあふれた。

今朝の新聞 ( 『朝日』と『産経』)に医師の紹介会社「エムステージ」が男女の医師にアンケート調査をした記事が載っており、回答者103人の結果は、男性受験者への優遇が「理解できる」が8.4%、「ある程度理解できる」46.6%、計65%だった ( 数字は『産経』による )。

じつは個人の発言としては、5日のTBSの『サンデージャポン』に出演した医師兼タレントの西川史子氏が、「当たり前です、これは。( 東京医大に ) 限らないです。全部がそうです」と断言していた ( インターネット『スポニチ アネックス』で私は偶然知った ) 。

氏によれば、「 ( 成績の ) 上から取っていったら、女性ばかりになっちゃうんです。女子の方が優秀なんで」とのこと。 「さらに女性医師の割合が増えたら『世の中、眼科医と皮膚科医だらけになっちゃう.........。( 女性は ) 外科医は少ないです」「だからやっぱり女性と男性の比率はちゃんと考えなければいけないんです」「男性ができることと女性ができることって違う」( 司会の関口宏の困惑ぶりが目に浮かぶ 。ここまで明言されるとは思っていなかったのでは?)。

西川発言に誇張はあろうが、とりわけ外科医など男女の体力差から女性医は少なくなりそうだ。受験生の知らない内部調整は許されることではないが、実情に詳しくない外部の批判が正しいとも言い切れない。男性が入学できない女子医大の存在が男性差別でないとすれば、共学校が男女の合格比率をあらかじめ公表すれば女性差別とも言えない。ことは医学系大学に限られない。

ともあれ、西川発言が他のメディアに完全に無視されてきたことは健全とはいえない。

2018年8月7日火曜日

動物としての人間

早朝の始発駅発の電車には自分以外はほとんど乗客はいない。ところが発車間際に駆け込んできた乗客がいきなり私の隣の席に座ったら、私は不安に駆られる。それは人間が他の動物と同様にテリトリー (  占有領域 ) 意識を持つからだとの説をむかし心理学者が書いていた。つまりは人類が地球上に誕生して以来身に付けた本能は一朝一夕には無くならないということだろう。

野生動物の実写番組をテレビでよく見るが、自分の遺伝子を広く残そうとのオスたちの本能には毎度強い印象を受ける。一方メスは自分の卵子のために最も強いオスを選ぼうとする ( どちらかの味方はせず、オスの闘いをジッと待つ!)。

ときに忘れがちになるが、人間も動物の一種である。長い間に利他の心を育てた人間は他の動物との間に差をつけたとはいえ、やはり動物的本能と完全に縁を切った ( 切れた ) わけではあるまい。理想を追い求めることは大切だが、現実を踏まえない理想がときに巨大な悪に至ることはソ連を初めとする共産主義諸国の歴史に明らかではないだろうか。ルソーからマルクスに至る「人間の完成可能性 perfectibility of man 」への信頼のひとつの到達点をそこに見るのは間違いだろうか。悪に対する備えを欠く理想を私はそこに見る。

P.S.  アマチュア主体の日本ボクシング連盟の惨状が明らかになりつつあるが、前々回のファイティング原田が会長を務めたのは日本プロボクシング協会です。念のため!)。

2018年8月3日金曜日

「良いことは実行しよう」に潜む陥穽

初等中等教育に従事する教員たちの負担過重が問題となっている。そのむかし、「教員は夏休みがあっていいね」とイビられた?身としては世の中変われば変わるものだと思う。

その原因のひとつが部活動への奉仕的関与らしいが、無論それだけではあるまい。校門で生徒たちを出迎えるなど私は生徒として一度も経験したことは無かった。同様に、「学級通信」的な刷り物をもらった記憶も一度も無い。どちらも無いよりはあったほうが有益な活動だが、教員として不可欠な行動では無い。

私は教員にとって第一の本務は生徒や学生の心に残る授業をすることだと考える。むろん生活指導も進学指導も本務のうちだが、そこには自ずと軽重の差はあるはず。私には校門での出迎えがどうしても必要とは思えない。それに比べれば学級通信は有意義だが、そのために授業内容の充実が後回しになるなら本末転倒としか私には思えない。私自身、部活動の顧問を務めたことがあるので、教室以外での生徒との交流の価値を十分理解しているし、心温まる思い出になっている。余力のある人が従事するのに何ら反対しない。

「良いことは実行しよう」と言われれば反対しづらい。まして費用対効果の意識の薄い教育の場ではそうである。しかし、むかしは無かった給食の事務から教育実験の報告書作りなどで教員が疲労するとすれば、「良いことは実行」では済まない。

最近、大学の特色ある研究活動への助成 ( 私立大学研究ブランディング事業 ) をめぐって文科省局長の不正関与が問題となっている。限られた予算を有効に活かすため優れた研究活動に資金を集中配分することに原理として反対しない。しかしそのために大学教員が申請や成果報告の書類作りにエネルギーを費やすのはプラスなのか。それが今回のように文部官僚の権力拡大に貢献したとすれば笑うに笑えない。

2018年7月30日月曜日

想い出のボクサーたち

ボクシングのWBOスーパーフェザー級王座決定戦で日本人の伊藤某選手が勝利し、世界チャンピオンになったと報道されているが何の感慨も湧かない。敵地フロリダでの勝利は同選手が内弁慶ではない事を示し立派である。しかし、日本人のボクシング世界王者が現在7人と聞いては感慨が湧かないのも仕方がない。クラス分けの細分化とタイトルを授与する関係団体の乱立の結果である。

1950年代、日本人ボクサーの世界王者第1号の白井義男とコーチで恩人の米国人カーン博士との師弟愛はのち語り草となったが、日本中のボクシングファンの期待を一身に集めて闘ったのは1960年代の海老原博幸とファィティング原田だろう。二人は同じフライ級で直接対決は一度だけで原田が勝利した。しかし二人とも当時最強の世界王者のポーン・キングピッチ (  タイ )に初戦で勝利し世界王者となったが、リターンマッチでポーンに敗れた。

海老原はカミソリパンチと呼ばれた強烈なパンチの持ち主で、開始早々の一回にポーンをノックアウトして我々を唖然とさせた。対照的に原田はパンチ力はそれほどでは無かったが、ファィティングの名の通り左右のパンチの連打に次ぐ連打でポーンの戦意を喪失させ、世界王者となった。

海老原は強烈パンチのゆえに何度か指を骨折し、世界王者に返り咲くことはなかったが、原田は体重の増加に苦しみながらも1階級上のフェザー級で再び世界王者となった。

海老原は身内の不幸と深酒のため51歳で早死にした。原田は日本ボクシング協会長として功なり名遂げて現在は協会顧問とか。原田は親の死でも泣かなかったのに僚友の死に泣いたと言う。対照的なボクシングスタイルで対照的な後半生だったとはいえ、オールドファンには忘れられない二人である。

2018年7月29日日曜日

美辞麗句では通用しない?

今朝の朝日新聞の編集委員のコラム『 日曜に想う』に大野博人なる記者の「1票の『格差』か、1票の『不平等』か」との論説的文章が載っている。議員定数を6増した最近の改正選挙法に関する報道 ( 政府広報も?)が、「1票の価値の格差是正」と呼んでいる。しかし、選挙権でも所得でも外国では「格差」よりも「不平等」の使用が一般的である。不平等を格差と表現する ( 訳語までそう変えている !) ことにより印象が薄められ、事の本質が歪められていると大野氏は言う。

不平等を格差と表現することの問題性を指摘する大野氏に私も同感である。しかし、そこには問題を矮小化する意図以上に、赤裸々な表現にたじろぐわれわれ日本人の心性があると思う( メデイアに矮小化する意図があるとは思えない )。20数年前、日米間の貿易不均衡を是正するための「経済構造協議」が行われたが、英語では Structural  Impediments ( 妨害、障害 ) Initiative だった。この日本語訳では米国側の本気度 ( むしろ怒り ) が日本国民には伝わらなかった。

さらに遡れば、わが国の歴史教科書が近代日本による侵略を正直に書いていないとの国の内外の批判があった。しかし、教科書には「日本の侵略」との表現も無かったが、英国の「インド侵略」もフランスの「インドシナ侵略」も「進出」としか書かれていなかった。控えめの表現 ( understatement ) は日本人気質の一特徴なのである。しかし、この国際化時代にはそうも言っていられなくなるだろうか。

2018年7月24日火曜日

スポーツと人種偏見

今朝の朝日新聞によると、ワールドカップ・サッカーのドイツ代表の1人でトルコ系のエジル選手がトルコのエルドアン大統領と面会した写真をドイツ国民から批判され、怒って代表から引退するという ( 新聞報道は他に1紙のみ。多分 )。「写真に政治的意図はなかった。家族の出身国の最高職位者への敬意と弁明したが、6月のトルコ大統領選の直前で、政治的に利用された面は否めない」と記事は伝えている。

前回のブラジル大会でのドイツチームの優勝に貢献したエジルは、「試合に勝てば僕はドイツ人で、負ければ移民の子だ」と反撥しているという。ドイツ社会の非難に「民族差別と軽蔑を感じた」とのエジルの反撥はおそらくその通りなのだろう。しかし、最近のエルドアン大統領の施政は言論の自由をはじめとする西欧的価値観を逆なでする行動の連続であり、ドイツ世論がエジルの軽率さ (  NHKテレビ?によると「私の大統領」と発言したとか ) を非難したのも理解できる ( トルコは貧しい低開発国ではない ) 。エジル選手の個人的資質もあろうが、子供時代からスポーツ漬けで社会常識を欠く一部スポーツ選手の欠陥が露呈した面もあろう。

逆に今回優勝したフランスは、これがフランスチームかと言いたくなるほどアフリカ系選手が多い。属地主義というか、フランスでは民族や人種の違いよりも言語をはじめとするフランス文化を共有しているか否かが重視される。かつて同国が世界第2の植民地領有国だったころ、「文明化の使命 mission civilisatrice 」という正当化論が唱えられた。もちろんそこに欺瞞を見ることは容易だが、フランス人がどれほど自国の共和制文明の優越を信じていたかがうかがわれる。

とは言え、今回のドイツ社会のトルコ系選手への反撥が、最近の移民難民への警戒というヨーロッパの風潮と無縁とも思えない。フランスとても何時まで例外でいることが出来るだろうか。感情が激しやすいサッカーは予兆かもしれない。




2018年7月22日日曜日

「脳科学」の進歩?

邦画『万引き家族』がカンヌ映画祭で金賞を得たのはもう旧聞にぞくする。一部に国辱的とのネットの?声もあったと聞くが、たしかに現代の日本でもこれほど貧しい家族は少ないのにとは思った。しかし、前回のブログで取りあげた西欧人の孤独とは対照的で、そこには貧しくとも家族愛 ( 他人の子どもにまで及ぶ ) があり、そこが審査員たちの心を動かしたとも想像する。

是枝氏の映画の中の万引きは貧しさが主な動機と思われるが、NHKの『クローズアップ現代』の「万引き痴漢という病」( 7月18日 ) は別の動機を取りあげていた。番組によると万引き犯の1割か2割は盗みという行為が嬉しいからおこなうので、盗品は必要がないから捨ててしまう!  これは「クレプトマニア」という病で、ストレスなど心に何らかの傷を負っているのだという。

痴漢も同様に自分の中の衝動を抑えられず、「もう死にたいくらいの気持ち」なのに犯行を重ねてしまう ( もちろん当て嵌まるのは一部の犯人だろうが )。そうした人の場合、刑務所内の講習を受けても結果に大きな差は無いという。要するに万引きも痴漢も本格的治療が必要な病気のケースがあるということだろう。

最近、「脳科学者」という聞きなれない肩書きでテレビによく出演する女性がいる。脳内のどの部分がどんな働きをするかは以前から大まかには知られていた。現在の脳科学はさらに進歩し、どの部分の不全がどういう症状を生むかまで解明しつつあるらしい。つまり、精神的存在としての人間も物質的存在として見直す必要があるらしい。何だか、知りたくないこと、見たくない現実までつきつけられつつあるような妙な感じを禁じえない。真実は快いことばかりでもあるまい........。

2018年7月19日木曜日

「孤独担当大臣」の誕生

何ヶ月か前、英国政府が「孤独担当大臣」を創設したと報ぜられ、奇異の感を抱いた。昨日の朝日新聞に「英国人     実は孤独?」との見出しの記事が載っている。それによると英国赤十字の調査では成人の5人に1人!が孤独を感じており、75歳以上の半数が独居老人とか。担当大臣を創設したのもなるほど分からぬでもない。その効果のほどには疑問もあるが。

こうした事態が英国にとどまらないことは予想される。南欧とくにイタリアなどは家族の絆がまだ健在とも聞くが、南北の境界に位置する?パリでは犬のフンを踏む危険が少なくとも以前は大いにあった。やはり愛玩犬で孤独を癒していると考えて間違いあるまい。わが国でも冠婚葬祭を除くと親族との交流は乏しくなった。

近代の個人尊重の風潮の先頭を走って来たと考えられる西欧大国の老人 ( 老人だけではない ) が孤独に悩むとは考えてみれば皮肉である。明治大正時代の我が国では藤村や漱石の作品が示すように、家制度の抑圧に悩む近代的自我が文学の大きなテーマだった。しかし、家の束縛が薄れるにつれ個人は孤独の影を深めた。

人間社会では長所と短所はしばしば背中合わせである。政権交代という議会政治の正道を求めて四半世紀前我が国は小選挙区制を採用した。それが間違っていたとは思わないが、国会議員の小粒化は明らかに進行した。官僚に背後から操られる政治を改めるため内閣が官僚の人事権を握ったら、政治家の意向を忖度して行動する官僚が続出した。どんなに立派な制度を採用してもそれを運用する人間の質の向上が伴わなければ意図した効果は望めない。それでも試行錯誤を諦めてはならないのだろう。

2018年7月15日日曜日

「朝日ぎらい」の理由?

橘玲氏の『朝日ぎらい    よりよい世界のためのリベラル進化論』( 朝日新書  2018 ) を読んだ。タイトルを見れば誰でも嫌韓本、嫌中本の類いと思うだろう。しかし、サブタイトルを見ればわかるように、朝日新聞に代表される日本型リベラルをどう正道に戻すかのレシピーを論じた本である。とはいえ日本型リベラルの是正を目指すにはその病状を指摘することなしには不可能で、本書を「嫌朝日本」と見る向きも当然あろう。本書の数多くの指摘をここで紹介することなど不可能だが、その根源は何か?

「安倍一強の状況の続くなか、政権批判はおうおうにして『國民 ( 有権者 ) はだまされている』というものになる。だまされるのはバカだからで、そのことを指摘するのは自分たちエリートの責務だーー。いうまでもなくこの度し難い傲慢さが、リベラルが嫌われる ( 正当な ) 理由になっている」との引用が示すように、リベラルにつきまとうエリート意識が問題だと著者は見るが私も同感である。その典型は昨年の総選挙での安倍自民党の大勝を評した山口二郎法政大教授の「國民をたぶらかして勝利をおさめ」たとの発言だろう ( 『東京新聞』の「本音のコラム」10月29日 ) 。これでは氏の専門である政治分析として合格点はつけられない。

最大の問題は朝日新聞に代表される日本型リベラルが自らが高齢者の既得権や業界 ( 例えば都市の獣医 !) の既得権の擁護者と化していることを自覚せず、現実には保守と化していることだろう。そして若年の有権者からその主張の根拠を疑われていることだろう。

とは言え本書が、「誰も言わなかったリベラルの真実」との帯をまとい、他ならぬ朝日新書の一冊として世に出たことは一定の評価をすべきなのだろう。誰よりも先ず朝日新聞の記者たちに読んでほしい本である。

2018年7月9日月曜日

日本刀から見えてくること

NHKの番組『英雄たちの選択」を面白そうなテーマの回を選んで見ているが、5月10日放映の「刀剣スペシャル」は特定人物と関係のない異色のテーマだったので奇異に感じ、録画しておき昨日見た。

私は大学のジュニアコース時代わずか半年間だが剣道部に入部していた。当時は左翼的風潮が強かった文学部自治会 (他学部もそうだった ) の委員を半ば押し付けられながらも大過なく勤めたように、私が「日本的なもの」に憧れたためではなく、単にカッコウよさに惹かれたのである。その性癖の延長か、日本刀を所持したいとかねて思っていた。しかし最近、漫画の影響で「刀剣女子」ブームが到来し、彼女らの同類と見られるに忍びずチャンスを逸してしまった。

これまでの「英雄たちの選択」の場合、対象の人物について私が全く知らないのではなく、別の解釈への関心から見ていたが、今回の場合の私の知識はほとんど白紙状態だったので、教えられることが多かった。日本史のある時期、日本刀は重要な輸出品だったこと。朝鮮や中国では刀工の名は残らなかったのに、我が国では多くの刀工の名が伝えられ敬意を払われていたことは今日の技術大国日本を予示していたこと ( 自動車メーカーのホンダの正式名は本田技研工業株式会社であり、本田宗一郎は刀工の家系だった!)。明治初年の「士族反乱」が、武士のみ刀剣の所持を許され身分制の象徴でもあった刀剣の携帯を禁じた「廃刀令」の直後起こったこと。終戦直後のGHQが刀剣を軍国日本の象徴と見て民間人の刀剣保持まで禁止したこと ( 歌舞伎興行の禁止と同じ ) など、私の無知をいくつも正してくれた。その結果、刀剣への私の関心はますます高まったが、さて.......。

P.S.  札幌在住でこのブログの読者でもある教え子のSさんが、元札幌市助役の平瀬徹也氏が今春亡くなったと知らせてくれた。同氏は札幌の名士だったようだ。ご冥福を祈ります。

2018年7月6日金曜日

麻原教祖らの死刑執行

オウム真理教の麻原教祖ら7名の死刑が執行された ( 本日正午現在 )。死刑判決を受けた残り数名の弟子たちも後に続くのだろうか?

地下鉄サリン事件から数えても20年以上経つ。私は死刑執行が遅すぎると思うだけで、当然の処罰だと考える。それでも麻原に惑わされた12人の弟子たちの死刑執行にはそこまでしなくてもと思う気持ちもあるが、命だけは奪わないでと懇願した弁護士夫人に対し聞く耳を持たなかったと聞けば死刑もやむを得なかったとも思う。

死刑廃止論者からの反対はもちろん、一部には東京オリンピックやラグビーの世界大会の開催をひかえてEU諸国ら死刑廃止国の非難を心配する向きもあるようだが、そうした配慮が必要だろうか?  以前に本ブログにも書いたところだが、戦後すぐはともかく現在の日本では本人が犯行を否認しているケースでの死刑執行はほとんどないようだ。もう一つの、犯罪防止に役立っていないとの批判もあるが、何よりも正義の回復が問題なのである。前近代のような仇討ちが望ましくないとすれば、国家が被害者に代わって正義を回復する必要がある。

現行の絞首刑は廃止して毒薬注射などより恐怖を低める死刑方法に変えるべきだが ( 死刑囚のためだけでなく、死刑執行役の刑務所員の苦悩軽減のためでもある ) 、死刑廃止論者が人道主義者だとは私は思わない。

2018年7月3日火曜日

キラキラネーム考

最近の若い人の名前 ( パーソナルネーム )にいわゆるキラキラネームが多いことは常識だろう。今朝の朝日新聞の「君の名は」とのタイトルの名前をめぐる3人の識者の論評は特別にキラキラネームを論じたものではないが、過去3代の計8回の明治安田生命のその年生まれの男女の1位の名前の表 ( 大正1、昭和3、平成4 ) が載っており、参考になった。

それによると平成22年の調査までは男女とも私にも何とか読めたが ( 多分!)、去年の男性名 ( 悠真、悠人、陽翔 ) と女性名 ( 結菜、咲良 ) の呼び方は想像するばかりである。学校では卒業式などで学生全員の氏名を教員が読み上げることも多いのではないか。私の現役時代、教務課が親切に ( それとも心配して?) 振仮名をつけてくれる名前は一割もなかったが、最近ではとてもその程度では済まないだろう。キラキラネームは何よりもまず教員泣かせである!

私のパーソナルネームは珍しくないが、氏 ( ファミリーネーム ) を併せるとそうでもない。それでも昔、某百万都市の助役に同姓同名の人を発見し、ある年、年賀状を出した。早速返事の賀状が来たが、私よりも同居の母親がレターボックスで見つけ、何を馬鹿なことをするかと呆れられた。私のイタズラだと思われたのである。

親は子の名前を決していい加減な気持ちで選ぶとは思えない。しかし、一読して見当のつかないキラキラネームを親がつけるのはどんなものだろうか。その煩わしさは教員泣かせにとどまらず、子自身が苦労するのではなかろうか。太郎や花子がベターだなどとは言わないが..........。


2018年7月1日日曜日

be あなたの好きな山

昨日の『朝日』の付録『be ランキング』は「あなたの好きな山」20傑だった ( 10位まで短評つき )。「好きな」とあるように、故郷の山、自ら登った山など極めて主観的な選定基準の総合の結果であることは前提だが。私が選ぶ場合、「山容」が基準となる ( カッコ内はbeの順位 )。

富士山がダントツにトップに来るのは同感する。山梨県側からも静岡県側からも近づくほどにその高さは「一頭地を抜く」感があり、残雪があっても無くても文句の無い一位だろう。山容で選べば、春に庄内平野から眺める鳥海山 ( 14位 )と弘前城公園からの岩木山 ( 選外 )は素晴らしいが、東京圏や関西以西の票が少なかったのだろう。サロベツ原野から見る海上の利尻岳 ( 12位 ) も雪をいただく季節なら絶景といってよかろう。伯耆の大山 ( 9位 ) と岩手山 ( 選外 ) はそれぞれ西側と東側から見れば独立峰の趣があり、優美である。

他方、峨々たる山容の山ならば槍ヶ岳 ( 5位 )と剣岳 ( 11位 ) が登山の思い出も加わって断然上位にくる。逆に立山 ( 3位 )や穂高岳 ( 4位 )は有名ではあるが独立峰の美しさを欠くので思い出はあっても選びたくない。ランキング2位の阿蘇山は火口底が覗ける活火山の希少性で上位に選ばれたのだろう。

我が国は国土の6割が山地なわりには富士山以外は海外にもよく知られた山は少ないが、狭い範囲に火山など多様な山があるのは外国人観光客には魅力だろう。副産物としての地震ぐらい仕方のないことか?   いまに見てろ ( 地震の声 )。

2018年6月29日金曜日

インフレ率3%の公約

安倍内閣のアベノミクスの評価と無関係ではないが、公約のインフレ率3%は内閣発足後いちども達成しないまま数年が過ぎた。企業業績が向上し賃上げも3%前後に達するのになぜ政府や日銀の期待は裏切られ続けているのか。

6月22日のテレビ東京のワールド・ビジネス・サテライト ( WBS ) はこの問題を取り上げ、1 ) ネット通販の普及、2 ) ドラッグストアの取り扱い商品の拡大、3 ) 高齢者の節約マインド を低インフレの原因と指摘していた。日経新聞を母体とする?テレビ局らしく一般紙にない具体的な指摘で、なるほどと思った。

「アマゾン効果」という言葉があるという。私自身はネット通販を利用しないが、書店の減少や宅配便の運転手の不足が社会問題になっていることは知っていた。私など現物に触れないで注文する気になれないが、便利さを享受する上に安価なら悪いとは言えない。

ドラッグストアが食料品に手を広げていることは知っていたが、「ウェルシア」の場合、売上高の三分の一が食料品になっているという。同じ物がスーパーより安ければインフレ率低下に寄与するだろう。老後の不安を抱える高齢者の「節約マインド」が同じ効果を生むことも納得できる。

私は低インフレの原因の4つ目として、自由貿易によるインフレ抑制効果が大きいと思う。肉類や野菜や果物などの輸入の直接的効果ばかりでなく、卵や牛乳など「物価の優等生」は飼料の輸入自由化無しには考えられないし、衣料品の現地生産化の効果は著しい。

私が恐れるのは、インフレ率3%が安倍内閣の公約だからといってこれ以上財政や金融の緩和を続けることの危険である。予測と違った公約を撤回することはカッコ悪いだろうが、負担を後の世代に先送りすることは公約違反以上の罪である。安倍首相は後世の評価を恐れるべきである。

2018年6月24日日曜日

小笠原と沖縄

今年は小笠原諸島の返還50周年であり、6月23日は沖縄戦の犠牲者の「慰霊の日」だった。どちらも返還の交渉相手は米国だったが、その態様は大きく異なった。

1968年の小笠原返還は多くの日本人にとって寝耳に水だったのではないか ( 政府間では困難な交渉があったのだろうが )。元来、小笠原には日本人の来住以前に欧米系の住民が居り、戦後は彼らのみ帰島を許され、旧島民以外の日本人は返還を全く予想していなかったと思う。戦後の日本人が一部メディアの反米的な論調にもかかわらず基本的に親米だったのは、領土問題でのソ連の不当性と心の中で比較していたからだろう。

沖縄は事情が大きく異なる。戦略的重要性 ( 面積の広さや大陸との距離の近さ ) の故か、米国は容易に返還に応ぜず、返還が遅れたばかりか有事の際の核持込みや基地整備費の「密約」に同意させられた。後日、毎日新聞の西山記者により日米密約が明らかとなった時、政府は記者が女性関係を利用して情報を入手したと搦め手から反撃した。

主権者たる国民に真相を隠す密約が良くないことは言を待たない。しかし、米軍施政下の沖縄県民の苦しみを早期に改善することの緊急性は明らかであり、私はこの場合の密約を糾弾する気にはなれない。沖縄県民からすれば本土が早期返還のため秘密の出費をする事ぐらい当然だと感ずるのではないか。

辺野古移設の問題についても私は、普天間基地の兵力をそこに移すとの日米両政府の合意を聞いた時の安堵感を忘れる事ができない。代替基地の提供を拒む本土の自治体に沖縄の人たちが「差別」と感じるのは当然である。しかし、次善の策として数万の普天間市民が被っている危険や生活困難を第一に考える事が誤りとは思わない。

2018年6月22日金曜日

地震と地盤沈下の差?

大阪府北部を震源とする地震の被害が報ぜられている。幸い、揺れは人口密集地を外れていたようで ( 幸いとは何を言うか!?)、大阪市や京都市の真下で起こっていたら被害はこの程度では済まなかっただろう。それでもブロック塀の倒壊など軽視されていた危険 ( プールへの人目を避けるためなら何故3.5メートルもの高い塀が必要だったのか?) に対して、地震多発国に住む以上早急な対策が望まれる。

ヨーロッパでもイタリアやバルカン半島などは地震多発国だが、中欧や北欧は地震皆無のようだ。NHKの『世界ふれあい旅』は毎回ではないが良く見る番組で、先日 ( 6月19日 ) はドイツのハンブルグの近くのリューネブルグという小都市を紹介していた。

エルベ川の支流に面するリューネブルグは600年前のクレーン ( 河川港で使用 ) が残っているように今次大戦による破壊を免れた古い町で、オランダとよく似たレンガ造りの建物が並んでいる。地震とは無縁だが、町の相当部分は塩水のくみ上げによる地盤沈下を経験している。

番組が訪ねた代表的な民家 ( と言っても3階はある ) は400年前のもので、地下水汲み上げのため毎年1ミリずつ沈下しているとのこと。したがってレンガを一部覆っている漆喰は塩害のためもあり5年毎に塗り替える。それでも地震による突然の被害と異なり、家主夫妻は心配している様子はなく、町と自宅に強い愛着を抱いていた。

自然災害に弱い我が国の家屋と比べて石造の町は恵まれているなと感じたが、こればかりは嘆いても始まらない。温暖な気候や豊かな水資源など日本を羨ましく思う国も少なくないだろう。災害の危険に一歩一歩備えるほかない。

2018年6月21日木曜日

善への協力を拒む自由

我が国のメディアでは報道されなかったと思うが、『東京新聞』の「本音のコラム」( 6月9日 )に、師岡カリーマ氏の「寛容という武器」との見出しの主張で私は知った。

氏によると、米国で同性婚のウェディングケーキ作りを宗教上の理由で断った菓子店を巡る裁判で、信仰の自由を訴えた店主が最高裁で勝訴した。同性婚どころか同性愛自体を犯罪とする国が少なくないアラブ人とのハーフである師岡氏はこれまで同性愛への同胞の偏見をただす努力をしてきた。

しかし、この裁判に関しては氏は「ケーキを作る店は他にあったはずで、作れないという人の感情を顧みず、差別禁止法を盾に強要するのは、かえって憎しみを増し、逆効果ではないか」と原告に批判的である。

私も師岡氏と同意見である。差別禁止法が存在する以上、裁判で是非を問うことは原告の権利である。しかし、反差別の行為といえども他人に強制するのは個人の自由への侵害であり、全体主義にも通ずるのではないか。200年前にフランスの思想家アレクシス・ド・トクヴィルが名著『アメリカのデモクラシー』で危惧した米国人の同調圧力は過去のことに成っていないのか。自由は善への協力を拒む自由も含むと考えるべきである。

2018年6月16日土曜日

久しぶりの新幹線

一昨日、昨日と1年ぶり ( 2年ぶり?!)で東海道新幹線を利用した。そんなに昔のことではないのにのぞみ、ひかり、こだまの急行料金が同じとは忘れていた。あいにく天候は今ひとつで富士山は見えなかったし、だいいち、山側の2列席はもうふさがっていた。今さら新幹線のスピードには驚かないが、道中、工場や中高層マンションが殆んど絶え間なく続き、この地方が南海大地震に襲われたらと多少の不安を覚えた。

もう25年前になるが、ジュネーヴからパリまでフランス版新幹線TGVに搭乗した。列車は途中から夜間走行となったが、驚いたことにパリに近づくまで灯火がない真っ暗闇の中を走り続けた ( 日本の新幹線では灯火が全くない夜景はトンネルの中ぐらいだろう )。圧倒的に平坦な地形と人口の少なさの故なのだろう (そもそも、駅が少なかった )。

日本の新幹線が造られるとき、航空機時代にそんなものが必要かとの声は少なくなかった。そのため私はリニア新幹線に疑問を抱きつつも反対と断言できない。

我が国のように国土が狭く人口の多い国向きの交通機関と当初は考えられたが、いまや世界各国で新幹線方式は拡大しつつある。航空機に比較して鉄道はエネルギー・ロスは格段に少ないはずで、戦後日本の世界的貢献の最たるものだろう( ウォークマンは廃れたようだし!)。当時の十河信二国鉄総裁や島秀雄技師長は日本国民からその貢献にふさわしい評価を受けているだろうか? 新幹線の車内で何人もの外国人を見ながら、退屈しのぎにそんなことを考えた。

2018年6月12日火曜日

われ、運転免許を更新せり!?

運転免許証は生年月日の1ヶ月前から更新できる。昨日がその初日だったが、雨天との予報だったので小金井の免許試験場に足を運ぶつもりはなかった。ところが、昨日は新聞休刊日でもあり、時間の余裕が生じ ( 持て余し!)  小金井に向かった。

これまでの自身の心理からも更新希望者は早くケリをつけたいと思うので、午後は閑散としていると予想したが、駐車場はガラガラでもなかった。申請窓口の係官は誕生日付けに目をとめ、よく今日来れましたねと感心してくれた。私も気付いていたが、今日この頃、実技をテストする教習所は何処も満杯なのである ( 皆さんもご注意を!)。

更新にあたり何の心配もないはずなのに、80歳台半ばともなれば視力その他、不安皆無とはいかない。しかし、関門をつぎつぎ突破?し、さらに1時間待って免許証を下付された。待つあいだ、講習を終えて集団で入室する初受領者の若者たちの大群に圧倒された。

しかし、新免許証を手にした途端、劣等感はウソのように消えた。3年後さらに更新できるとは思っていないが、電子的安全装備の日進月歩を信じたい!

2018年6月10日日曜日

日本カメラ業界の大恩人ダンカンの死

昨日の朝日新聞の訃報欄にデヴィッド.ダンカン氏の名が載っており ( 他紙には無いようだ ) 、ピカソ撮影の米写真家とだけ紹介されていた (102歳 )。それは正しいのだろうが、私に言わせれば彼は日本カメラ業界の大恩人である。

米国の写真週刊誌『ライフ』のカメラマンだった彼は朝鮮戦争に従軍記者として参加し、その際愛用のドイツ製コンタックスに日本光学のニッコール・レンズを装着してその鮮鋭さに驚いた。コンタックスのゾナー・レンズとニッコール.とはほとんど同じ構成、つまりは模造製品だったので、本当に写りに違いがあったのか私はいま一つ納得できないが、『ライフ』の現役カメラマンの発言の効果は絶大で、以後日本製のレンズとカメラは世界の頂点に達することになる。

現在のところ世界の報道カメラマンはほぼ100%、ニコンとキャノンのカメラを使用している。ところが十数年前?、カメラ雑誌を見ていたらツァイス社でゾナー・レンズを設計したベルテレが日本光学に技術を盗まれたと考え、同社を許していないと知り、愕然とさせられた。戦後の数年間、日独の光学技術の差は大きく、当時の日本のニッカ、レオタックスといった35ミリ・カメラはライカとはネームの刻印が無ければ見分けがつかないほどソックリだっだ。

当時の特許法制が不備だったのか、敗戦国ドイツだから特許権を主張できなかったのか私には分からない。しかし、ドイツの天才設計者の怒りが正当なものであることは認めざるを得ない。ダンカン氏には何の責任も無いのであるが..........。

2018年6月8日金曜日

朝ドラ『半分、青い』が面白い

NHKの朝ドラはこれまでもよく見ている方だが、4月2日スタートの『半分、青い』が久し振りに翌朝が待たれるほど面白い。前作『わろてんか』は吉本興業の女社長がモデルの一代記だったが、ヒロイン役の女優も可愛いだけだったし、ストーリーも一本調子の努力につぐ努力の物語で、意外性に乏しかった。

ご存知の方には余計だが、今回は岐阜県の小都市 ( 町?)の同じ日に同じ産院で生まれたヒロイン 鈴愛( 永野芽郁 )と相方 ( 佐藤健 )の物語。ヒロインの実家は小食堂、相方のそれは写真館で、両親同士も親しい。したがって同じ年に高校を卒業して男性は東京の西北大学!に進学し、ヒロインは実家の五平餅の味が気に入った人気漫画家 秋風羽織( 豊川悦司 )に認められ弟子入りする。現場は秘書 ( 井川遥 )と先輩の二人の若い男女のアシスタントだけの自宅兼オフィスでヒロインは修行することになる。

何が面白いかというと、以上6人の台詞のやりとり。ヒロインは天然キャラというのか、岐阜弁丸出しで思ったことを口にし ( 「やってまった」が得意の台詞 ) 、他の5人の台詞のやりとりも意表をつく面白さで毎回思わず笑ってしまう。今のところヒロインとヒーロー?はそれぞれ別の相手と恋愛中だが、いつか二人も収まるところに収まるのだろうか。

時代は1980年代の設定で、結末は予想するだけだが、作者北川悦吏子の台詞作りの巧みさは抜群。あと何ヶ月か楽しませて貰えそう。

2018年6月6日水曜日

森友問題の深層?

このところ新聞各紙とも財務省関係者の処分発表のニュースで紙面はあふれんばかり。すこし前には森友問題関係者への検察の起訴断念の報道があった。各紙とも基本的論調は事件への政権や官僚の関与批判で一致しているが、細部には違いもあった。

森友問題は大別して国有財産の不当価格での払い下げ疑惑と、官僚による公文書の隠蔽や書き換えの二つだろう。後者については隠蔽や書き換えが安倍首相への官僚の忖度や迎合に起因することは明らかになった。 政治家や官僚の責任の取り方が不十分だと考える人が多数なのは理解できる。

しかし前者に関しては、不当な払い下げ価格への政権や財務官僚の関与を犯罪として立件しなかった検察の判断の是非が未解決であり、検察審査会にはぜひ精査してもらいたい。大半のメディアが首相夫人の関与が決定を左右したように伝えるが、夫人の秘書の照会に対し近畿財務局の担当者は二回にわたり特別扱いの対象にはできないと回答している ( 6月4日の『毎日』の「風知草」)。それに対し当初挙げられた数人の与党政治家の照会 ( という名の圧力) がその後軽視されてきたのはどういうことだろうか。

森友学園への国有地払い下げは当初 ( 2013年夏 ) は「売却が難しい土地を担当者の創意工夫によって契約に持ち込んだ優れた取引」として表彰される可能性のある「優良業績」と見られていた ( 6月3日の同紙「深層 森友」)。ところが、学園側の「軟弱地盤」や「交渉長期化による損害」との言いがかりとしか評しようの無い「落ち度」指摘に迫られた。その際、「担当者をさらに苦しめたのが........国会議員や秘書からの照会の電話」だった。その意味では「最大の焦点は依然未解明」という ( 同 ) 。安倍首相と夫人の軽率さは目を覆うばかりだが、メディアのセンセーショナリズムが隠れた犯人たちへの追求を鈍らせないよう願いたい。


2018年6月5日火曜日

北関東一泊旅行 ( 続 )

今年の梅雨入りは例年より早そう。雨中の旅は好まないのでその前に近場に一泊旅行した。群馬県最北部の水上のさらに奥地の宝川温泉の一軒宿 汪泉閣は谷川に面した四つの露天風呂がよくテレビでも紹介され、最近は外国人客にも人気と聞き、一昨日訪ねた。四つのうち一つは女性専用だが、他の三つの露天風呂は混浴で、女性は頭から被る入浴衣を宿で借りる。

写真や映像で見慣れているので驚くことは何も無かったが、傍らのピンクの花ウツギが咲き、予想通りの心地よさだった。欧米人を数人見かけたが、アジア人は一見しても分からない ( 多分居なかった ) 。スウェーデン人男性と会話をしたが、私自身同国には一泊した事があるだけ ( 1980年代の日本と同国ではホテル代が違う上に当時のテレビはスウェーデン語放送しかなく閉口し、滞在予定を短縮 ) で、短い会話しか成り立たなかった。食事は相変わらず老人夫婦にはヘビーだった。

翌日、帰途に着きかけたら車で追い越しざま英国人の若夫妻と短かい会話をした。宝川温泉を大いに楽しんだとのことで安心したが、当方の英会話力もサビついたと感じさせられた。外国人旅行者の増加を反映して温泉宿内も帰路の「道の駅」も英語表示が目立った。

数年前だったら奥日光に回り東北道で帰京しただろうが、英会話力と同様に旅行意欲も確実に減退し、午後早くには帰宅した。天気には最高に恵まれていたのに........。

2018年5月31日木曜日

訂正

昨日のブログで香取慎吾としたスマップのメンバーは草彅剛の間違いでした。非公開のブログでなければ名誉毀損で草彅ファンに炎上させられていた? 案外他の人が覚えているのに感心です!

2018年5月30日水曜日

どこまでpolitical correctness は主張できるのか?

数年前になるか、スマップの香取慎吾が公然ワイセツ罪を犯したとのかなり大きな新聞記事があった。偏見から、芸能人なんてそんな程度かと一瞬考えたが、よく読んだら、酒に酔って深夜都心の公園で全裸で声を挙げたということだった。法律に当てはめれば公然ワイセツ罪になるのかも知れないが、有名人とはいえそんなに大きく扱うべき事件かと疑問に思った。

二、三日前、警官が女性の水着姿を盗撮したとの記事 ( 地方版だけ?) があった。よく読んだら遊園地のプールで水着姿の女性監視員をカメラで追ったとのことだった。しかし、温泉場で入浴中の女性を了解なく撮ったならともかく、公開のプールで水着姿の女性監視員を撮ることが盗撮と言えるのだろうか? 巡査が制服姿だったとは考えにくいので、一般客もプールにカメラ持参で入場すれば盗撮者扱いされかねないのでは?

女性に対してではないが、米国のスターバックス店で飲み物を注文せず座席を占めている黒人客 ( 客と言えるの?) を退席させるため、警官を呼んだことが人種差別に当たると糾弾されているという。相手が白人だったら警官を呼ばなかったろうという批判で、確かに店員に人種差別意識が無かったとは言い切れない。しかし、公園の無料ベンチではあるまいし、催促されても注文せずに座り続ける相手でも警官を呼ぶことが間違っているのだろうか? これでは今後とも説得に応じない黒人やラティーノに対してどうしたら良いのか? そのうち白人客も説得に応じなくなるだろう。米国のpolitical  correctness  キャンペーンも度を越せば、第二第三のトランプの登場を避けられないだろう。

2018年5月27日日曜日

日大の病根

日本大学の大塚学長の記者会見は、関西学院大学とのアメフト試合で問題を起こした宮川選手に手を差し伸べたいとの気持ちは感じられたが、監督やコーチの責任については曖昧さを通した。私は不満だったが翌日の新聞に載った日大の法人構成図を見て納得した。学長は5人の常務理事の1人ではなく、その下部の28人の理事の1人でしかなかった。いやしくも教育機関である大学の学長が、制度的にこれほど下位 ( アメフト部の監督よりも!)に置かれた大学が他にあるのだろうか。

他にも女子レスリングの伊調選手にパワハラを働いた某指導者のように、過去に挙げた多大の成果を味方に批判を許さぬ独裁的指導者の存在が珍しくない。26年ぶりとかに日大アメフト部を日本一にした内田監督もその1人だろうが、日大は体育系大学でもなければ昨日今日設立された大学でもない。

ちょうど半世紀前、全国で全共闘運動が拡大していた頃、日本大学では全学共闘会議が秋田明大議長のもと、激しい ( 死者を出す ) 学園闘争を行なった。他大学の全共闘運動が、目指すところは硬直した大学への正しい批判を含んでいたとはいえ、中国の文化革命やフランスの5月革命の影響を受けたイデオロギー過剰の運動だったのに対し、日大生の学園闘争は不正経理への怒りに発し、体育会系学生の暴力的妨害を受けながらの止むに止まれぬ闘争だった。全国の全共闘運動が退潮したのに連れ日大全共闘も敗北したが、日大生への国民の敬意を高めた運動だった。

当時から半世紀、日大が改革らしい改革を怠って体育会出身者の跳梁を許してきたことは否定できないのではないか?  日大全共闘の元学生たちの願い、今は故郷で自動車修理工場を営むと聞く秋田明大氏の願いが今度こそ実現するよう願うばかりである。


2018年5月24日木曜日

藤原義江の生涯

直木賞作家の古川薫氏が亡くなった。私は氏の名前もしかとは知らず、作品も全く読んだことがなかった。しかし代表作の一つに、オペラ歌手藤原義江を題材にした直木賞受賞作の『漂泊者のアリア』( 1990年)とあったので一読したく、図書館で借り出した。

藤原義江と言っても若い人には何の実感もないだろうし、私もその名を冠した歌劇団の主宰者として知るだけでレコード以外の肉声を聞いた覚えはない。しかしヴァレンチーノの再来とも言われたという美男ぶりで女性出入りも盛んだった彼の名声?は知っており、戦前日本における混血児の境遇はどんなものだったかにも興味を覚えたのである。

幕末のトーマス・グラバーと同じスコットランド出身でグラバーの次の世代の外国人商人の父と芸者の母の子として生まれ、父に認知されなかったため母にもうとまれ ( 生活に追われていた ) 、惨めな少年時代を過ごした義江は天性の美声の力で欧米でも認められたオペラ歌手となった。しかし本書によると、外国では当初は「荒城の月」などの日本の歌曲で人気を博したのであり ( 私の英国人の友人が曲を聴いて old castleとすぐに答えた ) 、フランスのレジョンドヌール勲章の受賞なども西欧に生まれたオペラを日本に根付かせた功績と言う面もあったのではないか。

美しい女性に会うと理性を失う彼の習性と同様、海外でのオペラ公演には経費を度外視した義江は晩年はパーキンソン氏病に苦しむとともに、金銭的にも追い詰められた。彼が帝国ホテルに住んでいると聞いていた私は、鎌倉の豪邸を売り住むに家もない晩年の彼に同情したホテル支配人が一室を提供していたとは知らなかった。どんな分野でも草創期には損得を度外視して突き進んだ人たちが出現するが、義江もその一人だったようだ。ひょっとすると直木賞の選者たちもそれに心打たれたのかも.........。

2018年5月22日火曜日

政治のエンターテイメント化?

新聞社やテレビ局が行う世論調査は実施日や質問の仕方により結果に相違があったりするのであまり信用しないが、昨日の紙面に載った『朝日』と『読売』の調査結果は両紙の政治的傾向の違いにもかかわらず似たようなものだった。数字に違いはあっても誤差の範囲で、傾向としては安倍内閣への支持の増加と不支持の減少 ( 大した変化ではないが ) は両紙に共通だった。前回の調査との間に加計学園問題で政府や官僚の答弁の矛盾はより明らかになったのに。

その疑問を解くカギと私に思われるのは『朝日』の「文書改ざんやセクハラ問題をめぐる麻生財務大臣の対応が辞任に値するか ( 大意 )」との質問への回答である。イエスが47%、ノーが40%をどう評価するかは別とし、男性は40歳以下、女性は30歳以下でそれぞれノーがイエスを上回っている。

私は以前から米国民のトランプ支持の一半の理由は彼のエンターテイメント性にあると考えている ( 彼が次に何を言うかへの期待!)。わが国でも麻生氏の「暴言」を年長者は不快と感じても、年齢が下がるほど面白がっているのではないか。

近年のテレビ ( 特に民放局 ) のお笑い番組の多さは他言を要しないだろう。そして視聴者は私の様な年配者よりも若年者の方が多いのではないか?  そして後者は政治家に対して面白いかどうかを判断の尺度としているのではないか? 若者の保守化が指摘されて久しいが、テレビの意外な影響力もその理由に思えてならない。私も政治に対して「まなじりを決する」のが常に正しい態度とは思わないが、昨今野党たることが難しいのは彼らの能力不足だけではないようだ。

2018年5月20日日曜日

ウィンザー城とイートン校

英国のハリー王子と米国人女優メーガン・マークルさんの結婚式がロンドンにほど近いウィンザー城で執り行われた。同国としてはこれ以上望めないほどの好天のもと、テロもなく終了したのは目出度い。パレードの沿道には警官が10メートルおきぐらいに配置されていたとはいえ、10万人の群衆の身体検査をしたとも思えない。もしテロリストが混じっていたら阿鼻叫喚の惨状となっていたろう。

チャーチルの母親は米国人だったが英国王の結婚相手に米国人は居ないはず ( 退位後のエドワード8世とシンプソン夫人を別とし)。1930年代当時は離婚歴のあるシンプソン夫人は王妃になれなかった。今回、マークルが離婚歴のうえに歳上で、アフリカ人の血を半分受け継いでいるのに英国民の祝福を享受したかに見えるのは時代の反映なのだろう ( 王妃の可能性が乏しいこともあろう )。黒人国も少なくない英連邦諸国との絆はむしろ強まった。やんちゃ王子であることが逆に役立つこともある!

ウィンザー城を訪ねたことはあるが、結婚式場となった礼拝堂に多数の連隊旗が飾られていたことぐらいしか記憶にない。もともとテムズ河の対岸のイートン・カレッジの方に私の興味はあった。日本の中高一貫校に当たる年齢の同校の生徒がフロックコート?を着て街を歩いており、校内も入り口近くは入れた。そこには二つの世界大戦の戦没卒業生の名前が多数刻まれた壁があった。

戦争は資産家階級が起こし、その犠牲者は民衆であるとはよく聞かれる言葉だが、少なくとも当時の英国には当てはまらないようだ。 イートン校には資産家の子弟しか絶対に入れない ( オックスブリッジとは違う ) し、第一次大戦の半ば過ぎまで英国に強制的な兵役はなく、兵役志願者に困ることはなかった。20世紀初頭にはまだ「貴人の責務 noblesse oblige 」が英国では生きていた。

2018年5月15日火曜日

米国のイラン政策の転換

これまでイランに対し一定程度融和的だった米国とEU諸国の対応が、トランプ米大統領の対イラン強硬策への転換を機に割れている。トランプ氏の核合意破棄の動機は何なのか。

もっとも単純な動機はオバマ前大統領の諸政策の否定だろう。じっさいオバマケア ( 医療保険 ) への反対を手始めにトランプの反オバマの姿勢には執念のような印象さえ受ける。しかし、無論それだけが理由ではあるまい。より重要なのはイスラエル( と米国の有権者 )への配慮だろう。現行のイランとの核制限合意が期限付きでその後は未定であることとミサイル開発禁止が無いことが親イスラエルのトランプの気に入らないのだろう。さらに、彼を核合意破棄に踏み切らせた理由として、イランと激しく対立するサウジアラビアが反イスラエル色を弱めたことが従来の米国の中東での仲裁者的立場の完全放棄をもたらしたのだろう。

中東問題の専門家の高橋和夫元放送大学教授はテレビ・インタビューで別の見方を述べていた。トランプの今回の核合意破棄は、イラン程度の不徹底な合意を受け入れないぞとの北朝鮮への警告だという。たしかに、北朝鮮に対して核兵器とミサイルの完全放棄を要求しながらイランにはそれを求めないのは一貫していないとも言える。ただし高橋氏も北朝鮮への警告として効果的かは疑問だとしていたが。

それでも英仏独らヨーロッパ諸国がこれまでの核合意を守るため努力しているのはイランの穏健派政権を追い詰めたくないとの考慮だろう。私も困難でもその努力をぜひ続けて欲しいと願う。戦前日本の国際協調派を絶望させたハル・ノート ( 中国本土からの即時全面撤兵を迫った米国務長官の対日通告 ) の再現は見たくない。昭和前期のわが国の国際協調派と同様、イランの現在の政権も弱体で当てにならないと見限ったのだろうが、もう一歩の努力を惜しんではならない。

2018年5月6日日曜日

トリアー市のカール・マルクス像

ーカール・マルクスの亡命地ロンドンのハイゲート墓地には旧ソ連政府が建立した気味の悪いほど巨きな首だけのマルクス像がある。今朝の新聞各紙は、生誕200年を迎えたマルクスの生誕地のドイツのトリアー市に中国政府寄贈の5.5米のマルクスの立像が建てられたと伝えている。いまや共産主義とは名ばかりの中国なのに、むしろその故に近代共産主義の始祖の権威を利用したいのだろう。他方、トリアー市は中国人観光客の増加を期待して歓迎とか。

私は英国留学中の大陸旅行 ( 1966年 )の際、トリアーに一泊したことがある。ライン河遊船の後、パリに向かう途中の宿泊地としてトリアーを選んだのだが、マルクスの生家を見たいとの気持ちもあった。当時は社民党地方支部として使われていた様子だったが、すでに夕刻だったので閉じられていた。翌日再訪する時間の余裕も熱意もなかった。

当時は唯一の外国旅行取扱機関だった日本交通公社は出国者にポケット版の『外国旅行案内』4冊をくれた。当時は邦語の外国旅行案内書は皆無だったので、その1冊 ( ヨーロッパ編 ) は観光対象を選ぶ上で貴重だった。英語圏ではアーサー・フロマーの『ヨーロッパ5ドル旅行』が貧乏旅行者のバイブル ( のち日本語訳も出た ) で、観光対象だけでなく安宿を探すのに大いに役立った。しかし手元にある両書 ( 思い出いっぱいで捨てられない!)ともトリアーの紹介はない。

同市はヨーロッパ人には古代ローマの遺跡で知られている所なので、帰英後トリアーに一泊したと友人たちに告げたら当然そこの観光が目的だったと誤解され、マルクスの誕生地と知るものはおらず、バツの悪い思いをした。私とても夜に家族とパリでホテル探しをするのが不安だったのがトリアーを宿泊地とした主な理由だった。非共産国人でマルクス詣でをするのは日本人ぐらいだったようだ。現在はどうなのか。

2018年5月4日金曜日

イスラム諸国の原理主義化

中東諸国を訪問中の安倍首相夫妻のアブダビでの写真に昭恵夫人がスカーフ着用で写っていた。以前、イランで仕事をする邦人ジャーナリストもスカーフを着用していた。国ごとに違いはあろうが、いくつかのイスラム諸国では外国人といえどもイスラムの習慣を強制されるようだ。考えてみればおかしなことである。

昨日の朝日新聞に「トルコ政権の言論弾圧」との見出しの記事が載っている。それによれば現在のエルドアン政権に閉鎖された報道機関は約150社に及ぶ。収監されているジャーナリストは2017年73人、16年81人で2年連続で世界最多とか。

世界一の親日国を台湾と競っている?トルコのジャーナリストたちの受難は残念至極であり、心が痛む。トルコはほぼ100年間、国父とも言うべきケマル・パシャの政教分離の国是を固く守ってきた。それがいまや過去のものとなりつつあるのは悲しい。しかも現政権は国民の固い支持を得ている。

トルコだけではない。「多様性のなかでの統一」を掲げ諸宗教の共存を国是としてきたインドネシアで、ジャカルタ市長がイスラム教を冒涜したとの市民の怒りで市長の座を追われた。不注意な発言はあったようだが、穏和派イスラム教徒が支配的とされてきた国でもイスラム教の急進化が進んでいるようだ。同教内のスンニ派とシーア派の抗争もイラク、パキスタン、バングラデシュなどで激化している。

今年刊行された飯山陽『 イスラム教の論理 』( 新潮新書 ) によればイスラム国 IS のイスラム教解釈は正しい。したがってイスラム過激派と呼ぶよりはイスラム原理派と呼ぶのが正しいようだ。キリスト教諸国もかつては新旧両教徒の間の殺し合いがあり、進化論を未だに否定する原理派もいる。しかし政治と宗教を分けて考えるべきだとの考えが今では支配的である。イスラム教も政教分離容認の途上だと私は考えていたが、世界の一体化、グローバル化はむしろ逆の流れを活性化するようだ。諸国民の共存は正しい目標だが、混住がそうとは言えない。

2018年5月2日水曜日

北関東一泊旅行

例年、連休を避けその前後に、遅咲きの桜花を求めて東北地方や長野県を訪れるのが慣例となっていたが、年齢とともに走行距離は縮まってゆき、今年は北関東の草津温泉となった。先ごろの元白根山の噴火で客足が伸びないとの草津町長の嘆きを聞いたことも計画の後押しをした。

上信越高速道の渋川インターを降りてから草津 ( 標高1100米 ) 迄の一般道はけっこう長いが、予想通り花の歓迎を受け続けた。渋川近辺はハナミズキの並木が主で、いつの間にかハナミズキがわが国の主要な街路樹のひとつとなっていたことを知らされた。その後は標高が上がるにつれ沿道の桜が、草津の咲きそめの山桜まで絶え間無く続いた。途中の枝垂れ桜や八重桜は沿道の住民が植えたものが成長したのだろう。

近年は北関東では山向こうの万座温泉を贔屓にしてきたが、草津の某小亭は40年近く前に泊まったことがあり、歓待された。人出は中心の湯畑あたりはそれなりだったが、季節を考えれば例年より少なかったかもしれない。

帰路は軽井沢、野辺山を回り、須玉インターから中央高速を利用して帰宅した。この日 ( 27日 ) は前日ほどの好天では無かったが山間の桜は満開のところも多く、「行く春」を家人と惜しむことができた。

2018年4月24日火曜日

皇室の桎梏

英国の第二王位継承者ウィリアム王子に第三子が生まれた。テレビ画面でウィリアム自身が四輪駆動車ディスカバリーを運転していた。わが国では天皇は皇居内でしか運転していないと聞くが、皇太子夫妻も同じなのだろうか ( 少なくとも皇居外で運転中のお二人を見た人は無い ) 。民間人時代の雅子妃はトヨタの大衆車を運転しておられた。そうした自由が欠けていることもご病気の原因の一つでは無いかと私など思ってしまう。英国の王位継承者に許されることがわが国の皇位継承者になぜ許されないのか。

秋篠宮家の皇女眞子さんの婚約予定が発表されたと思ったら、お相手の小室圭さんの母親の不祥事?が週刊誌の好餌となり、結婚の先行きが危ぶまれる事態になっている。親と子は別人格なのに一大事のように書き立てる週刊誌も心ない限りだが、これで御結婚が困難になって良いだろうか。ご両人の心痛は大変なものと想像する。

どうせ結婚後は皇室の一員ではなくなるのなら、周囲がなんと言おうと真子さんには初志を貫いてほしいと思う。英国ではチャールズ皇太子もダイアナ妃もどうかと思うほど自由に振舞っていた ( 褒められたことではないが ) 。わが国でも皇室に生まれた途端に自由を失うのはもういい加減にしてほしい。週刊誌によれば未だ民間人の小室さんの警備費が月500万円とか。誇張もあると思うが、話半分としても宮内庁の独善もいい加減にしろと叫びたい!

2018年4月20日金曜日

財務次官のセクハラ発言

福田淳一財務省次官のセクハラ発言事件はもう片方の当事者がテレビ朝日の女性記者と判明し、遅まきながらセクハラ行為を同社が確認したとして財務省に抗議文を提出するに至った。

私は問題の週刊誌記事を読んでおらず、新聞やテレビで紹介された次官発言だけでセクハラの程度を云々したくない。言われた場所や状況によっては戯れ言の類いのようでもある。ただ、これが最高学府をおそらく最高の成績で卒業した人の発言としては全く品位に欠けるといえばその通りだ。見方によっては国辱ものとも言える。

他方、抗議した記者やテレビ朝日は何故ただちに問題としなかったのかとの疑問はある。セクハラ発言は数回にわたったらしいが、二人だけで飲食すればそうなると記者には途中から分かっていたはず。「記者という職業上、相手の懐に入るためには少々のことは我慢すべきだという空気が業界に蔓延していることも推察される」との森岡孝二・関西大学名誉教授の発言 (『産経』4月20日 ) が、女性記者にも彼女の上司にも当てはまるのだろう。

テレビ局側の、女性記者への「二次被害」への警戒との言い分も私は嘘だとは思わない。しかし結果として他のメディアに持ち込まれたことで報道倫理にさらに違反したと言えないだろうか?  少なくとも「取材対象者は、記者が属する媒体で報道されるとの前提で応じている」(『読売』4月20日 ) だろう。「セクハラに近い文言は良くないんですが、でも背景があまり不自然すぎて、なのにみんな正義漢ぶっちゃってどうのこうのと連日言っているのは違和感を感じます」とのデーブ・スペクターの発言 ( フジテレビの「とくダネ」4月18日。インターネットによる ) も一つの見方ではある。ただし、男性によるセクハラ一般を社会に問題提起するのが女性記者の意図だったなら、話はまったく別だが。


2018年4月17日火曜日

峠あちこち

今朝の東京新聞の読者投稿欄に82歳の男性の「峠の名前に先人の思い」と題する文章が載っていた。挙げられている数箇所の峠のうち2箇所は大学生時代に私も訪れており、一読懐かしかった。

秩父最奥の栃本部落と佐久の川上村を結ぶ十文字峠 ( 2020米 ) については「名前にひかれ、信州側から秩父まで歩き通した。一人では寂し過ぎる道だった」とある。私は高校生時代に田部重治の『峠と高原』を読んでその名を知り、大学1年の秋逆に秩父側から入山した。栃本から川上村まで山道4里 ( たしか ) と長いので前日に田部重治が泊まった昔の関守の大村家 ( たしか ) に泊まった。今では唯の民家だが突然でも快く泊めて食事も出してくれた。眼下の荒川の谷に霧が流れ神秘的だった。翌日の峠越えはまさに「一人では寂し過ぎる道」で全く人に会わなかった。途中で蛇を踏みかけ恐ろしさに飛び上がった。

富山県の立山から黒部川を渡り信州の大町に出る針ノ木峠 ( 2536米 ) は戦国武将の佐々成政が厳冬期に越えた事で知られ ( 異説もある ) 、日本アルプスの命名者ウォールター・ウェストンも越えた峠。投稿者は「峠といっても大きな雪渓の上の登山道を登っていくので、豪快な峠歩きを楽しめた」と述べている。日本三大雪渓の一つの針ノ木雪渓は雪渓を歩くのが正規の登山道で、その迫力は白馬岳の大雪渓に劣らない。峠にテントを張り、翌日黒部の谷に降り、立山の雷鳥沢まで仲間と歩いた。

投稿には無かったが、中里介山の小説の作品名となった大菩薩峠 ( 山梨県東部 ) に登ったのも大学一年の秋だった。から松の落ち葉を浴びながら峠に近づいたら「おーい、待て」との大声が聞こえ、峰の頂上から消防隊員たちが駆け下ってきた。大学生が大菩薩峠での自殺をほのめかして家出したとのことで、見張っていたところにそれらしい学生が登ってきたのだった! その後、峠には自動車で越える道ができ、季節には車が何台も駐車している。

2018年4月16日月曜日

米英仏軍のシリア攻撃

先ごろのロシア大統領選挙で現役のプーチン氏が再選されたが、それに関して東京新聞の「本音のコラム」に作家の佐藤優氏が氏らしい表現で論評していた。

佐藤氏によれば「ロシア人の選挙観は欧米とはだいぶ異なる。.......天から『悪い候補者』と『うんと悪い候補者』と『とんでもない候補者』が降ってくる」「そのうち『うんと悪い候補者』と『とんでもない候補者』を排除するのが選挙なのだ。政治は悪い人間によって行われるというのが、ロシア人の共通認識だ」。つまりは政治学的に言う「政治とはより小さな悪の選択」という金言を氏は独特のユーモアで表現している。

トランプ米大統領主導の下で米英仏連合が、シリア政府軍の毒ガス攻撃を罰するためとの理由で軍事攻撃した。新聞各紙はそれを大きく報道している。そこに佐藤優氏式の分類を私流に当てはめれば、トランプ氏とプーチン氏が「悪い政治家」、アサド氏が「うんと悪い政治家」、イスラム過激派が「とんでもない政治家」となる。ただしシリア政府が本当に毒ガス攻撃をしたのなら、それを許したプーチン氏は「うんと悪い政治家」となろう。私はまだ断定できないと思っている。

米英仏連合のシリア攻撃への新聞各紙の社説は、「止むを得ない行動だ」との見出しの『産経』と「無責任な武力行使だ」との見出しの『朝日』を両極に、「化学兵器がこれ以上使われる事態を阻止することが先決である」とする『読売』が『産経』寄り、「対立の泥沼化を懸念する」との『毎日』が中間的立場をとっている ( 『東京』の社説は冤罪問題で無関係 ) 。

私はシリア政府軍が本当に毒ガス攻撃をしたならば『産経』の主張に賛成するが、反体制派をあと一歩まで追い詰めていた政府軍がそこまでする必要があったかに疑問を抱く。もし毒ガスを使用したのが反体制派なら ( その可能性がゼロとは思わない ) 、『朝日』の社説に一応の理があろう。何れにせよ、トランプ大統領にとって攻撃はオバマ前大統領との違いを見せつける必要と、北朝鮮への警告行動の両面の利点があっただろう。化学兵器や細菌兵器を持つとされる北朝鮮の隣国であるわが国にとっては、死者を出さずに終わった三國のシリア攻撃 ( メルケル独首相も支持する ) は化学兵器保持国への警告として悪い行動ではないだろう。

2018年4月14日土曜日

自由貿易の功罪

一昨日の『週刊文春』( 文春砲!)のトップ記事は「危ない中国食品2018」だった。買って読むほどの関心はないし、いまさら警告されても産地表示のない野菜など見分けがつかない。そもそも4回の中国ツアーで何を食べさせられたか分かったものではない。見出しによると発ガン物質もあるようだが後期高齢者に怖いものはない。

要するに中国産に限らずそれほど輸入食品が普及しているということだろう。そのむかし米国との間に「牛肉・オレンジ」の輸入拡大を約束した( させられた ) 時から日本人の胃袋は世界からの食材を飲み込んできた。その結果われわれは食品をより安く入手したり、その値上がりを回避してきた。
 
今日この頃、多くのスーパーでは国産肉 ( 牛、豚など ) と輸入肉が並んで売られており、その価格差に驚く。自由化以来、国内畜肉生産者は安い輸入肉に対抗するため高級化、ブランド化に努めた。その苦労は並大抵ではなかったろうが、わたしなど自由化の恩恵を満喫している。じっさい日本史上最近ほど庶民に牛肉が食べ易くなったことはない ( 物価高しか報じない記者たちは国産肉しか食べていないに違いない!)。

1940年代を記憶する私は米麦など主要食料の自国生産は食料安保のため保護する必要があると考えるが、消費者にとっての自由貿易の利点は否定できない。ただ、「もう少し時がゆるやかであったなら........」(  堀内孝雄 )ではないが、自由化が廃業や転職を無理なく許すスピードであって欲しいと思う。

2018年4月12日木曜日

運転免許更新のための認知機能テスト

これまで高齢者の運転免許更新のための手続きは教習所での講習 ( 実地運転を含む ) と、各地の警察署 ( または免許試験場 ) での視力テストを含む交付事務の二回だったが、最近の高齢者による事故増加にかんがみ認知機能テストが加わり、昨日受けた。パスするとの一応の自信はあったが、それでも愉快なものではなかった。

更新希望者が多いので実施日まで一カ月以上待たされた。教習所の不親切な入り口表示のため迷い、到着したのは10分前だったが、一室に男女10数人が会話もなく黙念と控えており、暗い雰囲気だった。

テストは 1) 当日の年月日、曜日、時刻の回答、2) 16種類のイラストの名前の記憶、3) 白紙に円を描き指定の時刻を図示するの三種。1と3は難しくないが、2は16種類のイラストを最初は何のヒントも無しに回答し、二回目は家具、動物、花、楽器など種類のヒントが与えられる。私は前者は10、後者は14記憶していた。採点結果は100点中81点で、第2回目の講習が2時間の組に入れた (76点以下は3時間講習 ) 。しかし、もっと高得点が取れると思っていたので心は晴れなかった!

面倒な手続き回数の増加は、それによる更新意欲の減退を狙っているのではと感じさせられたのはひがみか。高齢者と20才台の運転者の事故比率はほとんど同じと読んだ記憶があるのに。しかし、電子デバイスによる事故予防も万全でないとすれば、高齢者への厳しいテストはやむを得ないのだろう。

2018年4月8日日曜日

トランプ外交と朝鮮半島

昨夜、どこかのテレビ番組 ( 時間からするとBSフジのプライムニュースSP?)のトランプ外交についての座談会を途中から見、けっこう面白かった。

出席者の誰かが言っていたように私もトランプ外交の経済保護主義をそれほど奇異とは思わない。確かに我が国にとっては自由貿易主義が有利だが、昨年此れ迄で最高の国際収支の赤字計上した国が最早や自由貿易の理想やイデオロギーに囚われている余裕はあるまい。その他にも、実業家人生を送ってきたトランプがなにごともディール ( 取引 ) と考えるのは自然である。

そのディール重視のトランプ外交が対北朝鮮外交でも発揮される可能性は大きい。出席者の一人が北朝鮮の核放棄の代償として米軍の韓国からの撤退 ( 全面的ないし部分的 ) の可能性を指摘したが強い異論もなかったと感じた。私もディール重視のトランプが北朝鮮との融和を優先する文政権 に立腹し、北朝鮮の核放棄 ( そう簡単ではないが ) の代償として米軍撤退に応ずる可能性もあり得る気がする。

文大統領は北朝鮮がどれほど人権無視の独裁国であっても内心では米国に対してよりも親近感を持っているとしか私には思えない。文氏からは米国が万単位の戦死者を出して北朝鮮から韓国の自由を護ったことへの感謝は全く感じられない。そうとすれば朝鮮戦争に介入した米国は愚かだったということにもなる。

2018年4月6日金曜日

大谷翔平と村田修一

ロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平がシーズン開幕早々の2ゲームで2本の本塁打を放った。その前の投手としての初勝利と併せて念願の二刀流が緒についた。大谷自身が自覚しているように未だシーズンは始まったばかり。今後の活躍は保証されているわけではない。ホームラン1号は風に助けられたと監督も本人も認めている。投手としてなら米国プロ野球に大谷以上の選手は何人もいるだろうし、打者としてなら彼以上の選手は何人も否何十人もいるかもしれない。しかし彼の人に愛される性格もあり、人気は上々のようだ。ぜひ今後活躍して日本人選手の株を挙げてほしい。

上昇する若手がいれば落日のベテランが出るのはやむを得ない。ベイスターズと巨人で主力打者として活躍した村田修一が巨人を解雇され、地方の独立プロリーグに入団した。わたしは彼の大味なバッティングは好みではなかったが ( ワールドベースボールクラシックではそれほど活躍しなかった ) 、最近になってシュアーなバッターになっていたと感じていたし、力の衰えはそれ程でなかったと思うが、若手育成のため?巨人を解雇された。計10年以上も主力打者だった ( 資産も築いた?)村田が独立リーグで野球を続けるのを意外と感ずる人は多いだろう。むしろ、輝かしい球歴に汚点となると考える人もいるだろう。しかし、本当に野球が好きでプレーを続けたいという彼の気持ちを私は分かる気がする。

村田修一のような一流プロ選手と比較する気など毛頭無いが、草野球しか経験の無い私でもプレーの快感を味わい続けたいとの気持ちは理解出来る。それも、本塁打の快感よりもファインプレーの快感が忘れられないのではないか。絶対抜けたと思わせる打球を好捕する快感を上とするのは私が弱打者だったからとは思わない。想像するだにおこがましいが、イチローも引退したあと思い出すのは自分のファインプレーの数々ではなかろうか? 誰か彼に聞いてみてくれないか!

2018年4月2日月曜日

桜あれこれ

今年の桜は例年より一週間以上早く咲いたが散るのも大変早く、東京ではもう盛りを過ぎた ( 去年はたしか咲きだしてから低温の日が続き花期が長かったのに ) 。散り方が潔さの代名詞のような桜とはいえ残念である。せめて今後の山桜や八重桜に頑張ってもらわなくては!

「願わくば花の下にて春死なん......」の西行や「世の中に絶えて桜のなかりせば......」の業平の歌はよく知られ、このブログでも言及したことがあるが、後者の返し歌に「散ればこそいとど桜はめでたけれ  憂き世になにか久しかるべき 」( 詠み人知らず ) があることは知らなかった。雅な貴族社会は庶民とは無関係だったろうがその存在が我が国の文化遺産を生んだことは喜ばしい。本居宣長の「敷島の大和心をひと問わば  朝日に匂ふ山桜花 」は戦時中大和魂の鼓吹に使われたようだが、大和心と大和魂の違いは私にはよく分からない。

我が国の入学式も桜花と切り離せないようだ。わたしは国際交流の時代には諸外国のように9月入学制に改めた方が良いとの意見だが、入学の喜びと桜の時期とは切り離せないと言われれば反対しづらい。9月に咲く花木は無いものか!

芭蕉の「さまざまのこと思い出す桜かな」を名句と感じるのは俳聖芭蕉という先入観のなせるわざなのだろうか。少なくとも蕪村や最近亡くなったK氏のような難解な句ではないので私に向いている。考えさせる句よりも感じさせる句の方が名句だと言いたい。しょせん「ごまめの歯ぎしり」だが。

2018年3月28日水曜日

訂正

先ほどのブログの高橋氏は高橋洋一氏のことです。日本有数のありふれた名前なのにウッカリ!

佐川喚問の限界

昨日、元財務省理財局長の佐川宣寿氏の国会喚問が行われ、今朝の新聞各紙はその記事が満載である。『朝日』は何と40頁のうち9頁 ( うち一つは社説 ) が関連記事となって居る。私はこのブログで他人と同じ意見を開陳しても意味がないと常々思ってきたが、今回は発言しないとそのことに特別の意味があると思われてしまいそうだ!

半ば予想されたこととはいえ、佐川氏のガードは固く、「刑事訴追の恐れ」を理由に証言を拒むこと40数回?に及び、真相究明にはほど遠かった。法律に素人の私には国会での証言拒否と一般犯罪者の黙秘権行使とはどちらも納得できないが、それが法律なら仕方がない。

新聞に多くの「識者」たちの発言がある中で、みずから証人喚問された経験者の鈴木宗男氏だけが、自分と同様に佐川氏が悪者扱いされていたとし、忖度があったと「事実でないことを野党が主張するのは間違っている」と佐川氏を弁護している。宗男氏の意見が正しいかは別とし、異なる意見にも発言の機会を与えることは大切である。元経験者の意見という他紙に無かった着眼という意味で『朝日』の人選は高く評価されて良い。

『産経』に「元財務官僚  高橋が斬る」と題する連載 ( 3月24~26日 ) で同氏は「財務省は忖度しない組織」と忖度説を退けている。氏によれば財務官僚のプライドは高く、そのうえ国税庁という強力な武器 ( 脅しの道具 ) を持つ財務省は政治家に忖度する必要など無いと言う ( 25日 ) 。しかし、高橋氏が官僚だった時代と内閣人事局が新設された現在とでは力関係は同じでは無いのではなかろうか?

2018年3月24日土曜日

人類史500万年の鳥瞰図?

昨夜、著書『銃  病原菌  鉄』( 1997年 )により人類500万年の歴史と自然環境の相関関係を考究して話題を呼んだジャレド・ダイアモンド教授のNHKのEテレの番組『ダイアモンド博士のヒトの秘密』全12回の最終回「世界の格差は無くせるか」を見た。最初の2回のあと見ていなかったので私の理解は不十分だろうが、面白かった。

太古には集落の全員が働かなければ食えないので王様や官僚を養えず、平等だった。先進国の中で現在格差の最も大きい国は米国で、上位1%の国民が国富の25%を享受しているという。それも酷いが、国家間では最上位のノルウェー国民の収入はアフリカの最貧国の国民の300倍とのこと。どの国に生まれたかで人類はこれだけの格差を強いられているのである 。しかし、一国内の格差と異なり、不平等との批判は聞かれない。

国家間の格差では海に面した国と内陸国では後者が貧しい ( 陸上と海上の運搬費の違い ) というのは何となく分かる気がするが、天然資源の豊かな国と少ない国では意外にも前者が貧しい場合が多いという。国内資源の地理的偏在がかつてのナイジェリアのビアフラ紛争 (1967年 ) のように地域間の紛争を呼ぶから。植民地化による貧困の例としてはインド、ペルー、ボリビアが例示されていたが、格差は拡大したかもしれないが、絶対的に貧困になったかは多少疑問を感じた。

グローバル化は今まで意識されなかった貧富の格差を顕在化させるので、テロや移民難民や新興感染症 ( デング熱やエボラ出血症など ) の原因にもなる。これらへの対策としては途上国への資金援助 ( とくに医療援助 ) や、先進国の生活スタイルの改善 ( 米国は地球人口の5%だが、エネルギーの25%を消費している ) などが挙げられる。

人類が500万年の間に進化したのに動物が進化しなかったのは何故か。ダイアモンドによれば動物の生存の目的は遺伝子の拡張であるのに対し、人間はモラルによる選択が出来る点が重要であり、人間が生み出した問題は人間が解決できるという。しかし、自然科学や技術の驚くべき発展に対し人間性の遅々たる進歩を考えると、博士ほど楽天的にはなれないのだが..........。




2018年3月21日水曜日

親日国からの労働力導入を歓迎する

今朝の朝日新聞のコラム「経済気象台」に「親日家を育てるために」とのペンネーム「春雷」氏の発言が載っている。氏の職業や経歴は不明だが、内容は最近よく論じられている外国人労働者問題である。

「インドネシアやフィリピンを取材していると、あえて国名はあげないが、中東の『石油大国』への『介護』や『メイド』としての出稼ぎは『奴隷労働』( 基本的人権など存在しない ) ともいうべき悲惨さがあり、日本への就職希望はとても多い」「日本でも労働基準法を守らない職場があり、国際社会から批判されることもある。しかし、現地での日本に対する評価は予想以上に高い......。『アジアで嫌われている日本』という表現を目にすることもあるが、そんなことはない。アセアンはほとんど親日だ」と氏は書くが、日ごろ紙面で見聞する「苦しむ外国人研修生」「実態とかけ離れた研修内容」といった報道との違いに驚く。

「外国人研修生」の実態が企業の労働力確保 ( それも安価な ) であることは間違いない。まして不法な労働実態は強く批判されるべきである。しかし、20年前にもなろうか、長野県川上村で高原野菜を収穫する中国人の若者たちはもっと働きたいとの願いが聞いてもらえないとの不満を持っていた。高原野菜は朝早くから収穫する必要があるのに早朝の労働は労働法により禁止されていたのである。そのほか、研修が将来別の面で役立つことが無いとは断定できない。遠雷氏の指摘のように「覚えた日本語を活かし、製造業などに勤めたり、場合によっては『通訳』を目指したりしている」( 長野県で働いていたという中国ツアーのガイドは後者だった ) 。それ以外でも時間厳守や労働意欲といった日本の生活習慣が帰国後役に立つこともあろう。国連人権委員会などからのバランスを欠いた人権運動家たちの批判は必ずしも実態に即していない。

国土が苛酷な戦場となったフィリピンや日本軍占領下に多数の餓死者を出したベトナムなど、わが国がかつて多大な迷惑をかけたのに親日的な国々からの労働力導入には特別の措置があってもよいだろう。

2018年3月19日月曜日

江夏豊の引退試合

私の住む多摩市の外れに「一本杉 ( 公園 )」という名の球場がある。高校野球の地区予選に使用される?程度の小さな球場で、私もその近所の散歩にその駐車場を数回利用したことは有るが試合見物したことはない。今朝の『読売』の地方欄に此処で開催された「江夏豊の引退試合」との大きな記事が載っており、驚いた。江夏といえば長いプロ野球の歴史でも沢村栄治や金田正一と並んで三傑と呼んでもよいほどの大投手である。その引退試合がこの人気の少ない小球場で行われたとは...........。

その理由は江夏が覚せい剤を服用した不祥事の影響もあるが、彼が阪神タイガースに始まり計6球団を渡り歩いたため、どの球団も彼のために一肌脱ごうとはしなかったためでもある。しかし、彼ほどの大投手の引退試合が無いことに納得できなかったスポーツ誌 ( 『ナンバー』)の編集者が、一本杉球場の中学生?の野球試合に投手江夏を登場させ引退試合としたのである。落合博満選手をはじめかつて江夏と対決した大打者たちも集まり、試合を盛り立てたという。江夏が関係者の尽力に感激しただろうことは疑いない。

覚せい剤の再三の服用が非難され罰せられるのは当然である。しかし、プロ野球のオールスター戦での9人連続三振といった偉業を達成した大投手に対し、それにふさわしい礼で報いようとした俠気 ( おとこぎ ) のある人たちが存在したことは救いでもある。義侠心にもそれへの共感にも男女の別はないと信ずる!


2018年3月16日金曜日

河津桜とわさび丼

気が早いというべきか、ニュース番組のテーマ探しに窮してか、テレビ各局とも桜の開花予想を飽きることなく報じている ( 外国でもこれに相当する花木の開花予想報道があるのだろうか ) 。新聞でも各紙とも先月から河津桜見物のニュースが載っている。

報道の挑発を受けてではないが、伊豆半島に桜花を求めて小旅行をした。河津川沿いの桜はもう盛りを過ぎているかも知れないが、伊豆半島には国道沿いに早咲きの桜が少なくないからである。想像に過ぎないが、河津桜の人気を知ってこの2,30年の間に半島各地に植えられたのではないか。

悪い予想が当たり河津川沿いの桜並木は若葉混じりで盛りを過ぎていたが、伊豆高原 ( 大室山の麓に染井吉野中心の桜公園がある ) への入り口や、やや標高の高い中伊豆では満開の河津桜が行く先々で見られた。その一つの浄蓮の滝では中国人観光客を大勢見かけた。染井吉野や山桜でなくともせめて満開の河津桜を見せられたと祝福した。

同所の「観光センター」で、もう一つの目的のわさび丼の昼食をとった。記憶にある安曇野の大王農場のそれとは違うようだが、花カツオの載った米飯の上に自分で擦った生わさびを乗せ醤油をかけて食べるという素朴などんぶりで何ということはないのだが、擦りたてのわさびの風味は悪くない。

新聞に紀伊半島南部でオオシマザクラ以来数十年ぶりの新種の桜が確認されたと報じられている。今ごろ新種が発見されるほど桜の世界は奥深いのか。今回私が見た桜も河津桜とする自信がぐらついてきた!

2018年3月10日土曜日

自然災害との付き合い

霧島火山群の新燃岳で小噴火が起き、今暁ようやく火口から4キロ以内を立ち入り禁止とする警報が出された。しかし、火山の噴火予知が困難なことは木曽の御嶽山や群馬の本白根山の例でも明らかである。警戒レヴェルをさらに高めないでよいのかと素人の私など心配してしまう。火山学者たちは現在の程度に自信があるのだろうか。

火山と比較すれば予知研究が進んでいると信じられてきた地震予知も神戸地震も東日本大震災も熊本地震も予知できなかった。とくに熊本県は地震の少ない地方ということを工場誘致のアピール点としていたと聞く。しかし、ニュースなどで見る家屋の倒壊状況は激震と呼んでもよいようだ。

明日に7周年を迎える東日本大震災の、とりわけ津波被害の巨大さについては言うまでもない。突然複数人の家族を失った被災者の悲しみの深さは想像に余りある。だが、今後予想される南海地震での津波による犠牲者数はそれの10倍にも及ぶとの予想もあるという。それなのに集落移転などの抜本的対策を決めた自治体は皆無とか。襲来は必至と言われても100年後200年後かも知れぬとあれば集落移転といった荒療治に踏み切れないのは理解できる。波高10数メートルの津波にも耐える高層ビルを建設するのが実際的解決かも。

今は亡き韓国の友人が日本で神戸地震を経験し日本人への理解が深まったと語った。その理由は聞かなかったので想像するしかないが、理不尽な運命を受け入れてきた、そうするしかなかった歴史が日本人の性格形成に影響を与えてきたのは事実なのだろう。他方、自然災害との同居を強いられてきた我が国だが、緑豊かで四季のある自然は他国と比較して相対的には恵まれた風土だと思う。それを幸福と思うのはまさに私が典型的な日本人だからか?

2018年3月5日月曜日

シリア危機の現段階

シリア内戦での国民の苦難に終わりが見えない。新聞には反体制派の残された拠点であるダマスカス当方の東グータ地区への政府軍の空爆がたびたび報ぜられ、犠牲者の数は止むことがない。

しかし、それを報じる米欧のメディアの情報源の「シリア人権監視団」は反体制派の機関であり、その情報をそのまま信じることはできない。東グータ地区へは僅かながら人と物の往来を許す「人道回廊」があると聞く。先日そこにも砲撃があったとの報道があった。しかし、対立する両勢力の動機を推測すると ( あくまで推測だが ) 、「人質」となりうる住民の脱出を妨害する必要性は反体制派の方が切実である。じじつ東グータ地区は今やアルカイダ系のヌスラ戦線の支配下にあるとの報道が散見する。

東京新聞の「本音のコラム」(3月3日)に常連寄稿者の師岡カリーマ氏の「敗者の暴挙」と題する発言が載っている。「人命軽視は反体制派も同じだ。ロシアの支援を得て、アサド勝利はもはや確実とされる。それでも罪なき市民に犠牲を強いて戦い続ける『敗者』に尊厳は見出せない」、「どこかしらの外国が援助している反体制諸派の対立と意地の張り合いが招く子供の殺りくより、理不尽なものがあろうか」。

師岡氏について私は父親がエジプト人と聞くだけでその政治的立場は全く知らない。しかし彼女も私と同様、「アラブの春」に際して反体制派の勝利による中東諸国の民主化を心から願ったと信ずる。しかし現実には反体制派間の協力は実現せず、狂信的な「原理主義派」が各地で支配的になったようだがそれは何故か。我が国のアラブ研究者たちはその現実を語りたがらないようだ。皮肉にも今ではヨルダンやモロッコといった王制諸国が、政治の腐敗や人権侵害があるとしても相対的に最も国民が安全に暮らせる国となっている。


2018年3月3日土曜日

「大逆事件」連座者が新宮市名誉市民に

明治末年、旧制一高の弁論部の代表 ( その1人はのちの社会党委員長の河上丈太郎 ) が徳冨蘆花の家宅を訪ね講演を依頼して快諾を得た。当日の演題を「謀叛論」と聞いて彼らは戦慄を覚えたのではないか。当時、「大逆事件」の当事者として幸徳秋水ら12名が明治天皇の暗殺を企んだとして死刑を執行された直後だった。

蘆花は、「新しいものは常に謀叛である。維新の志士たちも謀叛人だった。社会は謀叛人を単純に断罪して終わってはならない」と幸徳秋水らを弁護した。満場の学生たちは蘆花の気迫に呑まれてか、粛然と耳を傾けた。君主の徳政を重視した蘆花は、深く敬愛する明治天皇に過ちを犯させた政府を許せなかったのである ( 彼は兄の蘇峰を通しても政府に寛大な処置を働きかけた )。12名もの被告を死刑にした事件は世界の注目を浴びた。

処刑された12名の中には4名 ( 管野スガを含む ) ほどはアナーキスト気取りで幼稚極まる天皇暗殺計画を立てており、幸徳自身も新宮市の大石誠之助医師 ( 死刑 ) に爆弾の製造方法を尋ねていた ( 飛鳥井雅道  『幸徳秋水』中公新書 1969 )。発禁に次ぐ発禁で言論の自由を奪われ経済的にも困窮した幸徳にもいっときの迷いがあっただろうが、具体的な行動計画があったわけではなかった。まして米国留学し地元で尊敬されていた大石は、社会主義に共鳴し幸徳とも理想を共にしていたとしても、上京途上の幸徳に新宮市で会った程度の係わりだった。

今年1月18日、新宮市は大石誠之助を名誉市民と認定したという。今ごろとはと感じたが、大石は犯罪者だからとの躊躇の声がこれまで認定を阻んできたという ( 『毎日』 3月2日 )。法律上はそうかもしれないが.............。

2018年2月28日水曜日

カンボジアPKOへの参加は誤りだったか

朝日新聞の読書欄 ( 2月18日 )に、「矛盾に満ちた過酷な現場に迫る」との見出しで1993年にカンボジアでのPKO ( 国連平和維持活動 ) に従事中銃撃され死亡した髙田晴行警部補の悲劇を、NHK番組スタッフが番組放映後に書籍化した報告の「本紙編集委員」による書評が載っていた ( 旗手 啓介『告白  あるPKO隊員の死 ・23年後の真実』講談社 )。

私はその番組を再放送?で見て 衝撃を受けた1人である ( 多分本ブログで言及した )。「個々の事実が言葉を失うほどの説得力をもって読者に迫ってくる」との評は間違いない。23年後に初めて詳細を報道した「これまでのメディアの無為を恥じた」とのスタッフと評者の反省は遅まきではあっても共感する。国連ボランティアだった中田厚仁さんと髙田晴行さんの死はその痛ましさと崇高さにおいて甲乙はない。

しかし、「PKOの前提だった停戦合意が事実上破綻し、再び内戦状態に突入していた」のに、「UNTAC ( 国連カンボジア暫定統治機構 ) 、日本政府ともそれを認めず、派遣要員の撤収はないとの立場に終始した」との批判には同意できない。ポルポト政権下のジェノサイドを終わらせるためには選挙による正統性付与は必要だったし、他に方法はないと判断した明石康UNTAC代表も日本政府も非難できない。完全な「内戦状態」との指摘にも誇張がある。

間もなく行われると聞くカンボジア総選挙が野党を排除しての茶番選挙との報道に接すると、中田、高田両氏の尊い犠牲は何だったかと思いたくもなる ( 幸い死者を出さなかったが、南スーダンのPKOも同様である ) 。しかし、選挙の実施がジェノサイドの続行を阻止する前提でもあった事実を忘れてよいとは思わない。

2018年2月26日月曜日

平昌冬季五輪の閉幕

17日間続いた平昌オリンピックが終わった。政治問題も絡んでスポーツ優先とばかりはいかなかったが、テロも無く 無事終了したことは喜ばしい。

他方、政治がらみだけでなく、夏冬を問わずオリンピックの開会式と閉会式の行事の多さが目立つ。多彩と言えば言えるし、今回も韓国の科学技術大国ぶりを遺憾なく反映して見事ではあったが、バッハIOC会長と韓国のNOC?会長の長い演説を含めて冗長の感もあり、じじつ私は途中でスイッチを切った。自国の歴史的発展をうたい上げたロンドン大会やブラジル大会の式典と比べても今回特別長く感じたのは、分断国家ゆえの複雑さもあろう。

とはいえ、スポーツの競い合いという本来の視点からすれば見応えのある大会だった。日本のメダル獲得が順調だっただけでは無い。小平選手のライバルへの思い遣りや女子カーリング選手たちの和気あいあいとした雰囲気など、見ていて気持ち良かったのは同国人のゆえばかりではあるまい。国民の成熟度は国の規模とは無関係なことを示した選手たちにはありがとうと言いたい。2年後の東京オリンピックも主役はあくまで選手たちであり、国威発揚では無いことを肝に銘じたい。

2018年2月18日日曜日

男子フィギュア競技の好成績

平昌五輪の男子フィギュア種目で羽生選手と宇野選手が金と銀のメダリストとなった。私はたまたま会合に出席していたため同時中継で見ることはできなかったが、夜の番組はどのチャンネルもその画像で持ちきりだった。

じつは御両人のスケーティングを見るのも目的だったが、前日のショート・プログラムで2位だったハビエス・フェルナンデスのフリーのスケーティングもぜひ見たかったのである。ショートでの彼のスケーティングにラテン的なホスピタリティを感じ好感を持ったからである。けっきよく何度もチャンネルを回してなんとか見ることができた。私の好みでは彼は銀メダリストになってもおかしくなかったが、フィギュアの採点はそんな素人の印象よりもはるかに厳密なようだ。それでも彼はスペイン初のフィギュアのメダリストになって喜んでいたので私もホッとした。

それにしても羽生選手の精神力の強さには脱帽する。「絶対王者」との表現も散見した。確かにスポーツにはコルチナ・ダンペッツオのトニー・ザイラーの三種目 ( 回転、大回転、滑降 ) 制覇のような大選手もいた。しかし前評判がどれ程高くても金メダリストになれなかった選手は掃いて捨てるほどいる。今回もフリーで最高点をとったネーサン・チェンのような伏兵?もいる。その意味でも羽生 ( と宇野 ) 選手の活躍は立派である。

フィギュア以外にもカーリングやアイスホッケーのように立派に闘っている日本人選手は少なくない。今晩のスピードスケート500メートルの小平奈緒選手の活躍を祈る。

2018年2月12日月曜日

八百長相撲あれこれ

ずっと以前に亡くなった母親の遺品を今頃になって整理していたら、ドイツ文学者の高橋義孝氏の『大相撲のすがた』( 平凡社 1984 )が出てきた。当時高橋氏は新聞や雑誌で市井のことによく発言しており、それらのうち大相撲への発言をまとめたものである。

八つほどの章立てのうち「逆説的八百長談議」の章を読んでみた。そのころ八百長相撲が疑われる取組が頻発し問題となっていたのが執筆の動機である。氏によれば八百長騒ぎの二大要因は、拡大する一方のマスコミが八百長相撲を話題の「タネの一つ」にしたことと、旧来の相撲ファンとともにテレビに触発された「ニュー・ファン」が登場し彼らが大相撲をスポーツと見ていることである。旧来のファンで相撲を単なるスポーツとは見ない高橋氏が八百長相撲か否かにそれほど拘泥しないのは予想通りだった。氏によれば八百長相撲を放置すれば相撲ファンが離れるというのは事実ではない。

番付を維持するためとか金銭のため八百長相撲をするのは決して許されることではない。しかし相手に対する同情や思いやりから負けてやるのが許せないとは私は必ずしも思わない。1963年9月の名古屋場所、横綱柏戸は負傷のため4場所休場したのち、奇跡的に無敗のまま千秋楽で同じ無敗の大鵬と全勝対決した。結果は柏戸が勝ち優勝したが、石原慎太郎はこれを八百長相撲と批判した ( のち謝罪した  )。両横綱は無論完全否定したが、素人の私にはなんとも言えない。しかし私は万一大鵬が自分の優勝を断念して柏戸に勝ちを譲ったのが真相としても驚かない。

取組後の控え室で涙を流している柏戸に対し1ファンが、「泣け  柏戸。俺も泣いているぞ」と叫んで柏戸を涙に暮れさせた。優勝を譲った??大鵬を私はますます好きになった。。

2018年2月10日土曜日

公立小学校生徒にアルマーニの服を?

東京以外ではさしたる話題になっていないかも知れないが、東京ないし首都圏では中央区泰明小学校が次年度から生徒の標準服としてアルマーニの製品を選んだことが話題となっている。学区の父兄から、これまでの二倍半の価格の標準服 ( 実質は制服だろう ) を買わせることへの反対の声が挙げられたのである。

東京新聞 ( 2月10日 )によれば、もっと慎重な手続きが必要だったとは認めているが校長は 「服育」という教育方針を挙げている。「子どもたちが高価な物を扱えば所作もよくなる」のであり、「泰明小学校だからこそアルマーニの高級な制服が適している」との信念を校長は堅持しているようだ。

常識的には公立学校で高価なブランド服を実質強制するのが問題なことは言を俟たない。自由意志で入学する私立校とは基本的に異なる。島崎藤村や近衛文麿らを卒業生に持つ名門校といえども例外では無いはず。ただ、同校は本来の学区外でも中央区の住民であれば児童の入学を拒まない「特認校」で、言わば私立校に近い存在のようだ。そのため入学可能をウリにする貸しマンションまである地区のようだ。想像だが、ブランド服に反対する親はもはや少数派なのかも知れない。

それでも公立学校がブランド服を実質強制するのには疑問を禁じえない。「所作」は良くなるかも知れないが、子どもが妙なエリート意識を持つ可能性はあるのでは無いか? その昔、西洋料理の食卓マナーを身に付けさせるため学生に一流ホテルの料理を経験させた大学の例もあったと聞くが、レベルの違う話のようだ。

2018年2月7日水曜日

杉原千畝の命のビザ

第二次世界大戦初期のリトアニアで杉原千畝領事が、ホロコーストを逃れたいユダヤ人たちに独断で日本入国のビザを発行した事実は知られている ( 杉原幸子 『六千人の命のビザ』1994年 )。しかし、これまでその詳細は必ずしも確定していなかったが、ユダヤ系ロシア人のイリア・アルトマン氏が最近ソ連外務省文書を調査して、ビザ発行数は2500人。ソ連政府は領土内通過料金を1人当たり200~300ドル徴収して許可したとのことである ( 『東京新聞』2月7日 )。

人数はもともと夫人の記憶に基づくものだったとすれば、およそ半減したとしても杉原千畝領事の偉大さに少しも変わりはない。ソ連が徴収した金額は当時としては相当の額で金目当てだったのだろう。我々としては杉原氏の功績を確定したアルトマン氏に感謝したい。

現在のポーランド政府はユダヤ人虐殺の地が「ポーランドのアウシュビッツ」と紹介されるのに大変不満だという。そう言えば、ポーランドが未だ共産党支配下だった頃、現地のポーランド人のガイドが、ユダヤ人だけでなく多くのポーランド人もここで命を落としたと妙に強調したことを思い出す。

ポーランド政府がポーランド人が被害者側だと強調するのはホロコーストに協力したポーランド人も居たからだろう。私はポーランドの事は良くは知らないが、当時ドイツの占領下にあったバルト三国が領土内でのホロコースト活動にきわめて協力的だったと読んだ記憶がある。新興独立国としてナショナリズムに燃えていた国家としては、服装をはじめとするユダヤ人の特異性は目ざわりだったのだろう。

そうした時代にユダヤ人に最後までビザを発行し続けた杉原千畝氏は日本人の誇りである。

2018年2月4日日曜日

バードウォッチャーたち

日曜日の今朝、最寄り駅前に三脚付きの望遠鏡を持つ30人ほどの大人が集まっていた。バードウォッチャーたちのグループである。我が家は多摩川の支流の大栗川を見下ろす丘の中腹にあるので日によってカモメや白鷺などが東京湾から遡上してほぼ水平の高さで舞っていたりする。そのうちの1部が岸で魚をあさっているのが被写体となるのだろう。

より少人数の10人ほどのグループもときどき見かける。こちらは三脚付きのカメラを持つ人たちで、野鳥撮影のアマチュア写真家たちである。駅から歩いて30分ほどの聖蹟記念館の森の中などにセキレイなどの野鳥が水を飲みにくる水溜まりがある。そこで鳥の飛来を辛抱強く待つ人たちをよく見かける。辛抱強くと言ったが、待つ間の仲間との交流も目的のひとつなのだろう。

バードウォッチングそのものはヨーロッパでは当初は上流階級の趣味であり、第一次大戦開戦時のグレイ英国外相が知られているが、いまや広汎な人たちの趣味となっているようだ。私が感心するのは、三脚上のカメラに装着している望遠レンズである。大きいものはバズーカ砲と見紛うばかり。ときに数10万円もするそんな高価なレンズを使わなくても野鳥を十分写せるはずなのに......。

しかしレンズやカメラがいくら高価でも、車のように排ガスを出すわけでなく、他人に迷惑をかける訳でもない。趣味として大いにはげんでも何の問題もない。ただ、終活に際してあまりに安い処分価格にさぞがっかりするだろうと老婆心ながら考えてしまう。それでも他の趣味より不利という訳では無いだろうが..............。

2018年1月31日水曜日

人体実験の思想と実践

ドイツの三大自動車メーカーなどの支援を受けた研究団体がサルやヒトを使った排ガス吸引実験を行っていた疑いが明らかになり、波紋が広がっているという。実際には密室にサル10匹を入れ排ガスの影響を調べたほか、ヒトの男女25人にさまざまな濃度の窒素酸化物を吸引させていたという。一読してドイツ人らしいと感じた。

医学を始めとする科学実験のため、たとえ死に至るとも動物を利用するのは非難さるべきではない。今回は分類上最もヒトに近いサルを利用したことで問題視されたのだろうが、自然科学の世界ではサルの場合、完全に否定できるだろうか?

ヒトのケースは単純ではない。死に至る実験は決して許されてはならないが、サル利用では実験結果が不十分なときに完全な自発的合意のもとでのヒト利用の実験まで禁止すべきなのか?  息子を天然痘治療の実験に供したジェンナーは非難されなかった。

それはさておき、理屈が通るなら人間的感情を排して論理的帰結まで進むのはドイツ人の長所とも短所ともなる特性のようだ。最近では、ホロコーストが優生学にもとずくそれ以前の精神障害者抹殺の単純な延長だったのではとの指摘もある。逆に福島原発の事故直後の原発廃止の決断の速さには唸った。思想から実践への距離が近いのである。

最近わが国では愛玩動物の殺処理を禁止する法令が作られたという。その結果、動物援護団体に持ち込まれる犬が激増し、収容施設の犬たちは劣悪な飼育状況に追い込まれているとのテレビ・リポートを見たが、じっさい殺処分とどちらが人道的かはなんとも言えなかった。自己意識のあるヒトと動物とを同じに遇するのが正しいとは必ずしも言えないと感じた。

2018年1月28日日曜日

野中広務の生と死

自民党幹事長や小渕内閣の官房長官を務めた野中広務氏が亡くなり、新聞各紙が大きく取り上げている。各紙とも彼の権力政治家の側面とともに、晩年のハト派、護憲派の側面、「在日朝鮮人、同和、沖縄、ハンセン病などの差別問題に熱心な」(『毎日』)弱者の味方としての側面を紹介している。

私の同氏の印象は長いあいだ古いタイプの剛腕政治家であり、森喜朗内閣に挑んだ「加藤の乱」の鎮圧の中心人物として、むしろ不愉快な存在だった。しかし、彼が権力の座を離れてからメディアが、従軍経験に基づく彼の平和指向を指摘するようになり、意外の感を持ったことはこのブログにも書いた。

死者の悪口は言わない日本人の美徳も手伝ってか?、各党の政治家が彼を讃えているのは理解できないではない。しかし、当時の新聞が自民党内の派閥抗争と批判の対象としたものが「当時の自民党がいかに健全な多様性を有していたことか」(『朝日』) との評価に変わるのには、その変わり身の速さに目が点となった。野中氏が同紙が反対した「国歌・国旗法」の成立に剛腕をふるった事実  ( 『毎日』)に一言も言及しないとは.........。

私は野中氏が「弱者に寄り添うリベラル」( 同紙 )だったことを評価する。しかしその原点に氏が被差別部落の出身であった事実 ( 氏自身がそう言っている ) に言及する新聞が一紙もないことを不思議に思う。


2018年1月26日金曜日

不寛容の時代?

先ごろ、カトリーヌ・ドヌーブらフランスの女優や女性作家百人がセクハラ犯罪を取り締るのは良いが、口説き程度の行為を女性蔑視と糾弾し「社会的制裁」をくわえるのには反対だとの声明を出したことはご存知だろう。批判されて謝罪に追い込まれたらしいが、その後ブリジット・バルドーが自分の肉体的魅力を話題にされて悪い気はしなかったとの発言は一部のメディアでしか報じられなかった。

一昨日の東京新聞の投書欄に「人間味を欠く窮屈な時代」と題する46歳の女性の文章が載っていた。「戦時中と今の時代は大げさに言うと、何となく似ているような気がする」「戦時中は言いたいことが言えない時代。今は法律・規制に守られているが、窮屈な子ども時代の校則のような時代」と説き起こし、「確かに人権などの権利は守られているようだが、何となく曖昧の良さが許されない感じだ。理不尽さは減るが、人間味が感じられない」「ミスコンへの抗議にしても、綺麗な女性の強制的な集まりなら、その意見も分かるが、参加者が自主的に出ている以上、大人ならやんや言うことではないと思う」と結んでいる。直接にはミスコンにしか言及していないが、時期からしてドヌーブらの声明 ( とそれへの批判 ) に触発されたと想像して良いのではないか。むろん犯罪は厳しく罰せられるべきだし ( 最近わが国でもその方向の立法がなされた ) 、投書者も大目に見ろなどと言っていない。

米国を中心に女性、人種的マイノリティー、同性愛者などへの批判的発言に反対するPolitical  Correctnessの主張が拡大している。フランスとてもその例外ではないだろうが、同国はそれ一色ではないようだ。さすが、寛容の大切さを説いたヴォルテールの母国と言ったら言い過ぎだろうが。

自分たちはメイフラワー号に乗ってきた清教徒の子孫だという国家神話 ( 彼らは渡航者の一部なのに ) が支配する米国では、独立以前のニューイングランドの魔女狩りに始まり、第一次大戦後の禁酒法制、第二次大戦後のマッカーシーズムと極端に走る運動が絶えない ( 実は第一次大戦後の赤狩りの激しさはマッカーシーズムに劣らなかった。F.L. アレン『オンリー・イエスタデー』)。善は強制して構わないとのピューリタニズム的伝統は最近のキリスト教福音派にも流れているようだ。自分の信条が100%正しいと信じれば寛容の余地はない。何事によらず一色の風景は言論の自由との相性が良くない。

2018年1月22日月曜日

南欧人気質

なぜか産経新聞にしか訃報が載らなかった ( 見落としでなければ ) が、著書『南仏プロヴァンスの12ヵ月』でわが国でもプロヴァンスへのあこがれ的関心を生んだピーター・メイルが亡くなった。それまではオペラ『椿姫』の中の曲「プロヴァンスの海と陸」で知られるぐらいだった ( それ程でもないか ) プロヴァンスの名はわが国でもよく知られるようになった。

同書は一面ではプロヴァンス賛歌でもあったが注意して読めば、人は良いが約束を守ろうとしないズボラな同地の住民への怒りの書でもあるとこのブログに書いたことがある (ような気がする )。同じ気質は南欧気質と呼んで良いだろう。1970年代、イタリア政府は発展の遅れた南イタリアの経済発展のためミラノの名門企業アルファロメオの工場をナポリ近郊に作った。天才ジウジアーロのデザインになる小型車「アルファスッド」 ( スッドは南の意 ) はいっとき私も持ちたいと思ったが、低品質のため人気は先細りとなった。労働争議も一因らしいが、自動車のような高度技術の商品の組み立てはやはり南イタリア人には向かなかったようだ。

日本の某一流企業は英国での自社工場だけでなく、南イタリアに合弁工場を持ち、ロンドン在住の邦人の現地会長はナポリに毎月出張していた。その後帰国し副社長になった同氏は、ナポリの工場を完全自社化するという社長の方針に反対して顧問という名誉職に追いやられた。同社の海外部門を無から創り上げたと言って良い同氏は南イタリア人気質にさんざん苦労していたのではないか。あくまで私の想像だが、それを知らない社長が歯がゆくてつい強い言葉で主張したのではないか。

彼は中学生の頃の草野球仲間であり、いわば竹馬の友である。最近は万全の健康体ではない彼の回復を祈っている。


2018年1月20日土曜日

東山魁夷展を見る

一昨日、八王子の東京富士美術館の開館35周年記念の東山魁夷展を見た。八王子で約80点もの同画伯の作品が展示されたのは、長野市の信濃美術館  東山魁夷館が改築工事で休館中のため利用できたことが大きいようだ。

私は同画伯の絵が特別好きというわけではないが、唐招提寺の襖絵が同寺に納入される前にデパート ( 三越?)で展示されたのを見たことがあり、20年ほど前には善光寺にほど近い東山魁夷館を訪ねたことがあった。

今回の展示で最も有名な作品は奥蓼科の御射鹿池に白馬がたたずむ『緑響く』だろうが、他に代表作の『道』( 1950年 ) の準備作群( 下絵と呼ぶには完成度が高い ) のうちの4点や唐招提寺の襖絵の準備作数点など見応えのあるものが少なくなかった。とくに『道』の下絵は、一本の道を正面から描いた単純極まる構図なのにわずかな違いの効果を研究し尽くした感があり、素人の私にはどれも同じように見えたのは情けなかった。また、『緑響く』以外にも白馬が姿を見せる作品が数点並べて展示されていたが、白馬は画伯の祈りだという解説を読んでも白馬の必然性はよく分からなかった。

絵画以外に画伯は数多くの紀行文集を上梓しており、信州や甲州を中心とした『わが遍歴の山河』( 1957年 新潮社 ) は私も愛読した時期があった。しかし、私がある日曜画家に同書を誉めたら「画家は絵を描けばいいのだ」と反論された。双方に才能があるなら両立も悪くないのに.......。

美術館の帰りの車内で家内が、我が家には東山魁夷の複製画があると言う。まったく記憶がないので否定したら、帰宅後『四季巡遊』という10枚ほどの複製画とそれを入れる額縁一つを奥から出してきた。最近もよく魁夷の複製画の広告を見かけ複製を持っても仕方が無いと思っていたが、我が家にもあったとは!  今となっては厄介な終活の対象でしかないが..........。

2018年1月19日金曜日

韓国国民のウリ 意識

文在寅政権のもと、韓国と北朝鮮の交渉が後者の冬季オリンピック参加問題をきっかけに進展し、その内容はオリンピックに限られなくなりつつある。

今朝の朝日新聞の第3面と第11面に、脱北した北朝鮮幹部が持ち出した内部資料にもとずく牧野愛博特派員の「韓国を利用し   米引きずり出せ   北朝鮮、幹部らに指示」( 3面 )、「北朝鮮   挑発姿勢崩さず   幹部らに『対話、幻想抱くな』」( 11面 )との見出しの記事が載っている。それによれば「北朝鮮が今月、南北関係改善を利用して米国を対話に応じさせさせるよう幹部らに指示した......核武装を維持し、米韓同盟に亀裂を入れ、韓国を警戒する北朝鮮の最近の戦略が浮き彫りになった」「米国を対話に引きずりだすため、南朝鮮を利用すべきだ。対話で主導権を握れば、米韓にくさびを打ち込める」(  3面 )、「最も完全な統一は武力統一だと語った金日成国家主席と金正日総書記の遺言を忘れてはならない」( 11面 ) と資料が引用されている( 他紙にはこの資料の記事はない ) 。

他方、おなじ3面には「平昌   統一旗で合同入場   韓国「反対」上回る」との見出しで、最近の韓国の世論調査では統一旗を掲げた入場への支持は40.5%、国旗派49.4%。 女子アイスホッケー合同チームについての賛否は賛成44.1%、反対42.6%と報じている。

文政権の施策に韓国で反対が上回るとの見出しにもかかわらず、私には未だに韓国の世論は賛否半ばかとの印象が強い。韓国でどの程度上記の資料が知られているかは分からない ( わが国でも他紙には記事はない ) 。また、北朝鮮として文政権の融和政策を利用しようとするのはある意味で当然である。しかし、南北離散家族の再会の願いに応えない金王朝に対する期待を未だに失わない韓国国民のウリ ( 同胞 ) 意識の強さには驚く他ない。韓国では「漁業戦闘」に駆り出された北朝鮮の木造船の悲惨なニュースは紹介されていないのだろうか?


P.S.    昨日の読売新聞に、「古今おちこち」との磯田道史氏 ( 「西郷どん」の時代考証をしている ) のコラムは西郷のスケールの大きさを説く一方、「だが、一方では西郷は一度「謀略」を始めると、暗殺、口封じ、欺瞞なんでもやった。恐ろしく暗い闇を抱えた男でもあった」「ただ『薩長史観』のドラマでないことだけは言っておきたい」と宣言している。果たしてどうか?

2018年1月16日火曜日

理想の入試問題とは?

最近、大学教員と高校教員からなる協議体が、歴史教科書に載る人名などが多過ぎ生徒とくに受験生の過重負担になっていると指摘し、その削減を提言する方向と聞く。上杉謙信や坂本龍馬まで教科書から姿を消すとの危惧の声も挙げられている。私は現在の事象の理解も過去の事実との比較により深化すると考え、むやみな削減には疑問を感じていた。しかし.......。

この土曜日に実施された大学入試センター試験の世界史Bの問題に何年かぶりにチャレンジしてみた。回答時間数は不明だが私は40分を費やし、合計36問中21問しか正答がなく愕然とした。仮にも高校の世界史の教師を3年ほど務め、大学では約30年間出題にも関与したのにである。私が現役教師を離れて10年以上の間に記憶力が減退したこともあるが、何しろ聞いたこともない史実が問われていることの方が大きい。

問題自体はよく練られており、時代や地域にも偏りのない優れた出題である (出題者たちの苦労がしのばれる ) 。統計を読み解く「考えさせる問題」も一つだがある。歴史の出題となればどうしても史実の記憶が中心となるのは避けられないと思う。私はその効用を否定したくない。しかし........。

世界史に限らず全科目とくに英語や国語で長文の出題が目立つ。今回、どの教科かは分からなかったが配布される問題プリント ( 社会?)が小冊子としか見えなかったのも気になった。今後の傾向として資料を読み解く判断力テスト的な問題が多く出題されるようになれば質問文はさらに長くなるだろう。万事にテンポの速い大都会出身の受験生が地方出身の受験生より有利となることは考えられないだろうか?

暴論なのだろうが、出題問題が理想に近ずくほど大学間の格差は増大するのではないだろうか。そもそも人間の多面的才能はペーパーテストでは計れないとある地点で割り切らないと、入試問題はますます複雑化長大化する一方になるだろう。

2018年1月11日木曜日

アクティブ・ラーニングとは?

NHKテレビの「朝ドラ」終了後の有働アナ中心の番組「あさイチ」を私はたまにしか見ないが、昨日の朝は「知っていますか教育改革」というテーマだったので、元教師として最後まで見ることにした。

アクティブ・ラーニングという言葉を最近良く見聞きするが内容がよく分からなかった ( その逆がパッシブ・ラーニングと考えれば多少分かったのだが ) 。 番組では「知識を使う力」を養う教育と位置づけ、大阪の本田小学校の「考える体育」「考える社会」の授業を紹介していた。

「子供達が主体の授業」「教師は助言者」との目標を実現するため、「考える体育」では走り高跳びの成績向上の方法を生徒たちに考えさせていた。「考える社会」では生徒は教科書の内容を予習してくる ( この日は配られた映像を自宅で見てくる だった ) 。その日は戦争の映像を見た子供達に戦争犠牲者は男性と女性のどちらが多いかと問いかけ、大多数の生徒は女性と答えていた。( しかし正答は男性 )。生徒たちの誤りは戦争の最大の被害者は女性や子供であるとの情緒的主張をメディアや親たちに吹き込まれてきた結果では? いくら前線と銃後の区別が曖昧になった現代の戦争でも、兵士が最大の被害者であることは理性的に考えれば明らかなのに........。

こうした参加型授業への疑問として、「先生は対応できるのか」「喋るのが苦手な生徒は不利では?」などの疑問が挙げられていたが、同感である。知識授与型の授業に比べていくら望ましい授業であっても ( それは確かである ) 、多忙と言われる今の教師たちにとり過大な要求となる恐れはある。クラブ活動指導を始めとする勤務時間の短縮や1クラスの生徒数の減少に政府の側が努めるとともに、親や社会の側も学校に本務以外の負担を期待すべきではない。

P.S.  昨日の朝日新聞に「アフリカ  人口爆発」という見出しの記事があり、それによるとアフリカ全54ヵ国の人口約12億5600万人は国連の統計では2050年には倍増して約25億人となり、大陸最大の人口のナイジェリアの人口は1億9000万人から4億人になるという。前回のジャレド・ダイアモンドの人口減少の勧めが何やら正しく思えても来るが.......。

2018年1月8日月曜日

少子化 是か非か

我が国の少子高齢化がもたらす悪影響にストップをかける方策の一つとして、外国人労働力の受け入れ拡大が挙げられている。やがて帰国する人が多数だろうが、住みつき日本の国籍を取る人も一定の割合でいるだろう。反対の意見もあるが、私は帰国した人の大多数は親日家になると信ずる。

朝日新聞の今年最初の別冊  The globe ( 1月7日 ) の特集「いま日本で働きたいですか?」はアジアの人たちの日本希望は確実ではないと訴えている。生活水準が急上昇した中国人にとって現在の日本はかつてほど魅力的な働き場ではない。それに代わるはずの東南アジアの若者も、調査したカンボジア、ベトナム、インドネシアの場合、日本よりも韓国や台湾 ( とくに後者 ) を働き場として選ぶ者がずっと多かった。今や東南アジアの若い労働力は日本にとって確実な供給源では無くなっているらしい。

ところが同じ別冊の同じ号に、一時わが国で話題となった『銃・病原菌・鉄』(  草思社 2000年 ) の著者ジャレド・ダイアモンドは「日本人は人口減を気にしすぎる」と語っている。「近代文明が危機にひんし、食糧や資源の確保が難しくなる状況下では、人口増より人口減の方がメリットが大きい」。日本は「資源に乏しく輸入に依存する国だからこそ、人口が減り、必要な食糧や資源が減るのは強みになるはずだ」という。少子化を重大視すべきか否か、専門家でない私にはどちらが正しいとも確言できない。

今日の東京新聞の「本音のコラム」に常連寄稿者の宮子あずさ氏は、「以前はこれ ( 妊娠後の結婚を表す名称 ) を『できちゃった婚』と言ったものだが、今では略して『でき婚』....『授かり婚』などとも呼ばれるようだ。ネガティブな響きが消されてきたのは大変けっこう。だが『授かり婚』まで美化されると、どっちが先でも産んでくれという、社会をあげての必死さを感じ、オソロシイ気持ちにもなる」と世相を揶揄している。

2018年1月6日土曜日

西郷隆盛ブームへの危惧

テレビ局が間も無く開始するドラマの宣伝のため出演者を他のバラエティ番組などに出演させるのは見慣れた光景である。しかし最近のNHK、とくに間も無く始まる西郷隆盛の前宣伝番組の多さは目に余る。公共放送がそこまで番組視聴率にこだわるのかと言いたくなる。

私は同局の日曜時代劇はこれ迄かなり見ている方だが、今回の西郷宣伝番組群はほとんど見ていなかった。しかし偶々1月3日夜の『英雄たちの選択 SP..........これが薩摩藩の底力』は、私自身かなりの磯田道史ファンでもあり、旅先ですることもなく途中からだが見ることになった。番組は西郷や大久保利通を生んだ薩摩藩の少年教育制度などがテーマであり、両名の歴史的評価を正面から論じたものではなかったが、全体として肯定的だったとは言える。

これまでのこのブログの読者は、私が西郷や大久保が公武合体論を排する「王政復古クーデター」で戊辰戦争を惹き起こしたことに批判的であることを御承知だろう。今回の『英雄たちの選択』は全体として討幕の是非を論じていなかったが、西郷らが当時の開明派で彼らにも影響を与えた信州上田藩の学者 ( たしか ) を自分たちの討幕計画を知られたため暗殺した ( それも薩摩藩邸での会合の帰りに ) とのエピソードにはやはりそうかとの思いを禁じえなかった。

坂本竜馬の暗殺に薩摩が絡んでいた ( 実行者は見廻組でも ) との説は新しくはなく ( 私自身は確か三好徹『龍馬暗殺異聞』1969年原作のテレビドラマで最初に知った ) 、専門家にはおおむね否定されているようだろ。しかしこれ迄の同志的関係はともあれ、公武合体論に転向した竜馬が西郷や大久保にとって邪魔者となっていたことは否定できない。

NHKの日曜時代劇は歴史の装いをした娯楽作品であり、目くじらを立てる対象ではないかもしれない。しかし、今の持ち上げぶりを見ていると新番組が単なる西郷賛美に終わるのではとの懸念を禁じ得ない。