2018年12月18日火曜日

都市再開発の夢

昨日の『朝日』( 多摩版 )に「原宿の旗手  ラフォーレが40年」との見出しで、原宿のファッションや文化の発信拠点として知られるラフォーレ原宿の大きな記念記事が載っている。のち東京の各地のヒルズを建設した森ビルが最初に建てたこのファッションビルを訪ねたことはないが、今日の原宿文化の拠点をつくった森稔森ビル社長 ( ラフォーレとはフランス語の森  ラ・フォレに由来 )は大学の最初の2年間、同じクラスだった。

私はたまたま20歳台後半に青山通りに近い原宿に1年半ほど住み、何の変哲もない小路の竹下通りを通って山手線で出勤した。若者で賑わう現在の明治通りを通ると車窓からその変化に感じ入る。

私と同様、当時は文学を目指していたという森君とは特別に親しくは無かったが、フランス語未修のこのクラスは深大寺や奥多摩へハイキングしたりクラス雑誌を出したりして仲が良く、大学祭で2度演劇を上演した際には森君が演出を担当した。「第三帝国の恐怖と貧困」というブレヒトの原作で、私は終始舞台の酒場にいるがセリフは皆無という役だった。そんな役でも舞台で脚光をあびる役者の陶酔感の一端は理解できた!

卒業後の彼は父君 ( 経営学教授でもあった ) の貸しビル業に従事し、1986年のアークヒルズ建設で一躍脚光を浴びた。赤坂の既成市街地の住民を説得して大規模開発をするという、私権の強い日本での初の事業のためどれほどの困難を克服したか。

その後も御殿山ヒルズ、六本木ヒルズ、表参道ヒルズ、上海環球金融中心と彼は大規模都市開発に心血を注いだ。40年ほど前にクラス会を復活して以来、それらの新しいヒルズを会場に毎年のように再会した。近年は六本木ヒルズクラブが会場に定着したが、彼は2012年に死去した。ヒルズクラブを会場に使い続けてとの遺言でその後も何回かクラス会は続いたが、出席者が次第に減少し、3年ほど前に終了した。

わたしは森君とは職業も違い当初は彼の都市開発の意義をよく理解できなかったが、観光都市シンガポールの躍進などを目にしてようやく、東京を世界の魅力ある都市にしようとした彼の夢を理解するようになった。今ごろかと彼に言われそうだが。

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