チャーチルの母親は米国人だったが英国王の結婚相手に米国人は居ないはず ( 退位後のエドワード8世とシンプソン夫人を別とし)。1930年代当時は離婚歴のあるシンプソン夫人は王妃になれなかった。今回、マークルが離婚歴のうえに歳上で、アフリカ人の血を半分受け継いでいるのに英国民の祝福を享受したかに見えるのは時代の反映なのだろう ( 王妃の可能性が乏しいこともあろう )。黒人国も少なくない英連邦諸国との絆はむしろ強まった。やんちゃ王子であることが逆に役立つこともある!
ウィンザー城を訪ねたことはあるが、結婚式場となった礼拝堂に多数の連隊旗が飾られていたことぐらいしか記憶にない。もともとテムズ河の対岸のイートン・カレッジの方に私の興味はあった。日本の中高一貫校に当たる年齢の同校の生徒がフロックコート?を着て街を歩いており、校内も入り口近くは入れた。そこには二つの世界大戦の戦没卒業生の名前が多数刻まれた壁があった。
戦争は資産家階級が起こし、その犠牲者は民衆であるとはよく聞かれる言葉だが、少なくとも当時の英国には当てはまらないようだ。 イートン校には資産家の子弟しか絶対に入れない ( オックスブリッジとは違う ) し、第一次大戦の半ば過ぎまで英国に強制的な兵役はなく、兵役志願者に困ることはなかった。20世紀初頭にはまだ「貴人の責務 noblesse oblige 」が英国では生きていた。
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