当時は房総西線は両国が始発駅で無論蒸気機関車。ススで鼻の中を黒くして着く安房北条駅 ( 現在の館山駅 ) からはバスに半時間ほど揺られると根本だったが、戦争末期は木炭バスは富崎 ( 布良の別名 )までしか行かず、残りを歩いた。まだ風景を愛でる年齢では無かったが、道沿いに咲くナデシコの美しさは心に残った。夜にはかなり先から来客の提灯の灯が見えて印象的だった。
母の実家は築200年?ぐらいで大黒柱の太さが物珍しかった。朝鮮出身の詩人金素雲 ( 岩波文庫に『朝鮮民謡集』、『朝鮮童謡集』あり ) が一夏を過ごしたことがあったと聞いた。戦争末期はときおり館山基地の「海兵団」の若者たちの行軍訓練を見かけた。棍棒 ( 海軍精神注入棒と言った ) で殴られる兵士がかわいそうと祖母が言っていた。海軍は陸軍ほど狂信的では無かったが、それは士官以上の話だったようだ。
「海の幸」の男たちは丸裸だが、早朝魚を入手する根本の浜で見た男たちはむろん裸ではなく、あくまで青木の創作だった。布良に青木に同行した内縁関係の福田たね とは間もなく別れるが のちに尺八の奏者として知られる ( 毎夕、NHKラジオで流れた『笛吹童子』のテーマ曲の作者 ) 福田蘭童は2人の遺児だった。
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