2018年6月21日木曜日

善への協力を拒む自由

我が国のメディアでは報道されなかったと思うが、『東京新聞』の「本音のコラム」( 6月9日 )に、師岡カリーマ氏の「寛容という武器」との見出しの主張で私は知った。

氏によると、米国で同性婚のウェディングケーキ作りを宗教上の理由で断った菓子店を巡る裁判で、信仰の自由を訴えた店主が最高裁で勝訴した。同性婚どころか同性愛自体を犯罪とする国が少なくないアラブ人とのハーフである師岡氏はこれまで同性愛への同胞の偏見をただす努力をしてきた。

しかし、この裁判に関しては氏は「ケーキを作る店は他にあったはずで、作れないという人の感情を顧みず、差別禁止法を盾に強要するのは、かえって憎しみを増し、逆効果ではないか」と原告に批判的である。

私も師岡氏と同意見である。差別禁止法が存在する以上、裁判で是非を問うことは原告の権利である。しかし、反差別の行為といえども他人に強制するのは個人の自由への侵害であり、全体主義にも通ずるのではないか。200年前にフランスの思想家アレクシス・ド・トクヴィルが名著『アメリカのデモクラシー』で危惧した米国人の同調圧力は過去のことに成っていないのか。自由は善への協力を拒む自由も含むと考えるべきである。

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