2018年7月29日日曜日

美辞麗句では通用しない?

今朝の朝日新聞の編集委員のコラム『 日曜に想う』に大野博人なる記者の「1票の『格差』か、1票の『不平等』か」との論説的文章が載っている。議員定数を6増した最近の改正選挙法に関する報道 ( 政府広報も?)が、「1票の価値の格差是正」と呼んでいる。しかし、選挙権でも所得でも外国では「格差」よりも「不平等」の使用が一般的である。不平等を格差と表現する ( 訳語までそう変えている !) ことにより印象が薄められ、事の本質が歪められていると大野氏は言う。

不平等を格差と表現することの問題性を指摘する大野氏に私も同感である。しかし、そこには問題を矮小化する意図以上に、赤裸々な表現にたじろぐわれわれ日本人の心性があると思う( メデイアに矮小化する意図があるとは思えない )。20数年前、日米間の貿易不均衡を是正するための「経済構造協議」が行われたが、英語では Structural  Impediments ( 妨害、障害 ) Initiative だった。この日本語訳では米国側の本気度 ( むしろ怒り ) が日本国民には伝わらなかった。

さらに遡れば、わが国の歴史教科書が近代日本による侵略を正直に書いていないとの国の内外の批判があった。しかし、教科書には「日本の侵略」との表現も無かったが、英国の「インド侵略」もフランスの「インドシナ侵略」も「進出」としか書かれていなかった。控えめの表現 ( understatement ) は日本人気質の一特徴なのである。しかし、この国際化時代にはそうも言っていられなくなるだろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿