2015年3月25日水曜日

小樽ゆかりの人たち

昨夜BS朝日で、「にほん風景物語 小樽 啄木の愛した街」と題した番組を放映した。小樽の運河やそれに沿った倉庫群、そこでの冬のイベント「雪あかりの路」、小樽文学館など同地の見どころを作家の高橋源一郎が訪ねる番組で興味深かったが、「雪あかりの街」の語源が伊藤整の同名の詩集に由来することを作家が全く言及しなかったのはどうかと思った ( 私も読んでいないが!)。『小樽日報』社では僅かな日数だったが啄木と童謡詩人の野口雨情が親しい同僚だったとは初耳だった。有名な「東海の小島の磯の..........」の歌は雨情が二箇所手を入れて現在の形になったとは本当なのだろうか(と遊べり→とたわむる。 ?→白砂の )。

小樽高等商業 (現小樽商大 )出身の伊藤整は戦後軽妙なエッセイ集『女性に関する十二章』(内容は男性に関する十二章なのだが )や小説『氾濫』、『日本文壇史』など硬軟両様の作家活動で人気を博した。私も一度だけ文学講演を聞いたことがあるが、今から思えば大著『日本文壇史』執筆中の「こぼれ話」だったのだろう。  

同じく小樽高商出身者では『蟹工船』の作者小林多喜二が最近「新しい貧困」に苦しむ若者の間でブームを呼んだ ( メディアによると )。蟹工船に実際に乗った経験のないのに嵐の場面などよく書けたものとその才能に感心するが、創作ノートには蟹工船の実態はそれほど酷くはなかったと書いている ( 文庫版の解説 ) ことはどの程度知られているのだろうか。

戦前から小樽高商は外国人教師を招いて英語教育に力を入れていた。戦前最後の?英人教師だったリチャード・ストーリーは後年英国を代表する日本学者の一人となった。ドロシー夫人の著した『リチャード・ストーリー  日本人の心の友』(霞出版社)によると、当時冬の小樽は雪橇が往来する街だった。リチャード自身、始まったばかり?の民間航空で独り来道するのに、燃料補給のため仙台と青森に立ち寄らなければならなかった。それにしても彼が性病に罹った事実まで書くこともなかったのでは! 私は「のんきな父さん」然としたストーリーさんしか知らないが。

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