2015年3月21日土曜日

空襲の真実

十日余り前に録画したTBSテレビの報道特別番組「私の街も戦場だった」を見た。話は終戦直前の8月5日、東京西部の高尾山直下の湯の花トンネル入口で国鉄中央線の列車が米軍機の銃撃を受け、死者60名を出した惨事が中心だった。

前大戦中の米空軍による被害と言えば広島、長崎、東京など爆撃によるものがよく知られ、戦闘機の銃撃 ( 1秒間に70発!)や艦砲射撃による被害はそれほど語られてこなかった。しかし、各機には戦果を確認するため、引き金を引いている間攻撃対象を撮影するカメラが設置されており、その大量のカラーフィルムが米国の公文書館に保存されていた。

銃撃の対象は建物、飛行場、漁船など人間の居る場所、なかんずく鉄道車両が選ばれ、被害地域は全国至るところだが、米軍が上陸を予定していた南九州が多かった。しかし、番組の後半はドラマ仕立てで中央線の事件を取りあげ、さらに記録を精査して当の戦闘機の操縦士を特定した! 本人は88歳で死亡していたが、ロサンゼルスに住む息子は父が妻に書いた二百數十通の手紙 (と遺書 )を保存しており、操縦士は機関車は狙ったことは認めたが、「逃げる人を見てからは撃たなかった」と記していた。自己正当化も無論考えられるが、「戦争は地獄だ」、「美しいこの国を君に見せたい」と妻に書いた人の言葉を私は信じたい。無我夢中で引き金を引いていたのが真相ではなかろうか。

当時国民学校六年生だった私自身は爆弾で防空壕が揺れる恐怖は味わったが、家内は岐阜市への焼夷弾攻撃で家を焼かれ、猛火の中を逃げまどった。だからと言って二人とも米国に恨みを持たないのは、家族に犠牲者を出さなかったからだろう。それはともかく、毎日規則正しく三機づつ艦上攻撃機を生産していた工場が、あっという間の爆撃で壊滅したし、小川に架かる小さな鉄道橋は見事に破壊された。もう反撃する日本軍機も無かったので相手のやりたい放題だった。

その後70年、破壊技術の進歩は大きい筈。「イスラム国」への爆撃の効果を疑う報道が多いが、私には信じられない。

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