2015年3月31日火曜日

プロフェッショナルの使命感

朝日新聞で「プロメテウスの罠」と題する東北大震災と原発事故に関する連載記事が続いており、現在も「オイルマン」編が二十数回に達している。

いわき市の「小名浜石油」は東電の広野火力発電所を含む地域全体に石油製品を供給していたが、原発事故でいわき市の放射線量は一時急上昇した。会社は従業員の安全のため苦渋の決断をし、事業の一時閉鎖を決めた。しかし原油は一定の加熱を続けないと固着する。再開時に再加熱すれば完全に元に戻るかは確かではなく、大事故になる可能性すらあった。すると四人の社員が装置を守るため自発的に残留を決めた。

一方、原発事故後いわき市を中心に福島県ではガソリンや軽油の供給が需要に全く追いつけず、日常の必要はもちろん原発からの住民の避難も困難になっていた。誰かが放射能被曝の危険を冒してタンクローリーでガソリンスタンドに小名浜石油の製品を届けなければならなかった。すると、10名余りの運転手が会社 ( 「物流サービス東北」)の呼び掛けに応じて出勤した。給油待ちの1キロを越す車列が待つあるガソリンスタンドにタンクローリーが到着すると歓喜の拍手が到着を歓迎した(2万リットル搭載なら数百台の車の給油が可能だったろう)。

小名浜石油の残留社員と物流サービス東北の運転手のプロフェッショナルとしての責任感には脱帽の他ない。日本の経済そして国民生活はこうした人びとの使命感によって支えられていたのである。さらに私はこの事実に着目し克明に調査報道した記者たちの努力にも拍手を送りたい。これだけのことを世に知られないままにしてはならなかったと思うからである。これもある種の使命感であろう。

2015年3月29日日曜日

議会政治の作法

今朝の朝日新聞に二人の政治学者の対談が掲載されているが、杉田敦法政大学教授の議会政治理解の浅さに驚かされた。

安倍首相の政治姿勢を批判するのは自由であり、当然の権利である。私も首相が議場でヤジを飛ばすのがdecentだとは思わないし、ましてその内容が誤りであったりすれば ( そうらしい )、お粗末としか言いようがない。しかし一般論として言えば、教授の「行政を監視する役割を持つ国会で首相と質問者の関係は、口頭試問を受ける受験者と面接官のようなもの」との比喩は少なくとも一面的である。

英国の議会政治を確立したとされる19世紀の下院で自由党内閣の首相を長く勤めたグラッドストンは、同僚により「反撃において強烈である」と評された( 神川信彦『グラッドストン』潮出版社 ) 。いい加減な知識で首相を批判すると倍返し?に会うということである。ある時の保守党のディスレイリの「舌鋒は、議会の礼節をはるかにこえたすさまじいもの」( 同 )であり、批判されたピールの弟が決闘を申し込むほどのものだった。

議会政治とは元来、剣による闘いを言論による闘いに進化させたものであろう。昨今テレビ画面で誰でも見ているように英国の下院の議席は与野党が対等に向き合っており、その間隔は剣先が届かない距離だったと言われる。後者は出来過ぎた説のように私は思うが、議場の討論は闘いである側面を忘れた議論はいただけない。論戦は与野党対等であるべきで、どちらの発言内容が正しいかこそが問われるべきであろう。

2015年3月27日金曜日

長州人の狂気

NHKの日曜大河ドラマ「花燃ゆ」の視聴率がいま一つだとか。私自身は見ていないので理由はよく分からない。そもそも吉田松陰とその妹が現代ではテーマとして地味だったかも。推測憶測に過ぎないが。

戦時中、吉田松陰はその歌「かくすればかくなるものと知りながら  止むに止まれぬ大和魂」「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも   とどめ置かまし大和魂」など大和魂教の教祖として少年の私の尊崇の的だった。戦後はいったん危険人物?として姿を消した松陰の復活ののろしは河上徹太郎の『吉田松陰』( 1968年 )だったと記憶する ( 未見 )。それ以後松陰の見直しが進んだらしく、私も攘夷論者と信じていた彼がペリー艦隊で密航を企てたと知り、あっけに取られた。

その松陰の教えを受けた長州藩の若者たちが討幕の原動力となったことは周知の通りであり、安倍首相のような「保守派」はもちろん、近代日本に批判的な「進歩派」も、維新そのものは「草莽崛起」の大事業と捉えているようだ。しかし、久坂玄瑞らが惹き起こした禁門の変 ( 京都の三分の二を焼いた ) は十倍の敵を相手にした暴挙?だったし、藩論を反幕府に一変させた高杉晋作の功山寺決起以後など私には奇跡の連続としか思えない。司馬遼太郎は「長州人はときに狂う」と評している。

私は長州閥を通じて日本陸軍 ( さらに日本そのもの ) に伝えられた「長州人の狂気」が太平洋戦争の一因だったと考えている。普通に考えて鉄鋼生産額が十倍の米国を相手に日本が戦争をするなど正気の沙汰ではない。「長州人の狂気」は確かに近代日本の誕生に貢献したが、同時に近代日本の将来の蹉跌をDNAとして持っていたのではなかろうか。

2015年3月25日水曜日

訂正

書いたばかりのブログで二つ目の「雪あかりの路」を「雪あかりの街」としたのは誤り。また、以前、クリミアが百数十年前にロシア領土になったと書いたが、二百三十年がベターなようです。西側の主張に影響された?

小樽ゆかりの人たち

昨夜BS朝日で、「にほん風景物語 小樽 啄木の愛した街」と題した番組を放映した。小樽の運河やそれに沿った倉庫群、そこでの冬のイベント「雪あかりの路」、小樽文学館など同地の見どころを作家の高橋源一郎が訪ねる番組で興味深かったが、「雪あかりの街」の語源が伊藤整の同名の詩集に由来することを作家が全く言及しなかったのはどうかと思った ( 私も読んでいないが!)。『小樽日報』社では僅かな日数だったが啄木と童謡詩人の野口雨情が親しい同僚だったとは初耳だった。有名な「東海の小島の磯の..........」の歌は雨情が二箇所手を入れて現在の形になったとは本当なのだろうか(と遊べり→とたわむる。 ?→白砂の )。

小樽高等商業 (現小樽商大 )出身の伊藤整は戦後軽妙なエッセイ集『女性に関する十二章』(内容は男性に関する十二章なのだが )や小説『氾濫』、『日本文壇史』など硬軟両様の作家活動で人気を博した。私も一度だけ文学講演を聞いたことがあるが、今から思えば大著『日本文壇史』執筆中の「こぼれ話」だったのだろう。  

同じく小樽高商出身者では『蟹工船』の作者小林多喜二が最近「新しい貧困」に苦しむ若者の間でブームを呼んだ ( メディアによると )。蟹工船に実際に乗った経験のないのに嵐の場面などよく書けたものとその才能に感心するが、創作ノートには蟹工船の実態はそれほど酷くはなかったと書いている ( 文庫版の解説 ) ことはどの程度知られているのだろうか。

戦前から小樽高商は外国人教師を招いて英語教育に力を入れていた。戦前最後の?英人教師だったリチャード・ストーリーは後年英国を代表する日本学者の一人となった。ドロシー夫人の著した『リチャード・ストーリー  日本人の心の友』(霞出版社)によると、当時冬の小樽は雪橇が往来する街だった。リチャード自身、始まったばかり?の民間航空で独り来道するのに、燃料補給のため仙台と青森に立ち寄らなければならなかった。それにしても彼が性病に罹った事実まで書くこともなかったのでは! 私は「のんきな父さん」然としたストーリーさんしか知らないが。

2015年3月21日土曜日

空襲の真実

十日余り前に録画したTBSテレビの報道特別番組「私の街も戦場だった」を見た。話は終戦直前の8月5日、東京西部の高尾山直下の湯の花トンネル入口で国鉄中央線の列車が米軍機の銃撃を受け、死者60名を出した惨事が中心だった。

前大戦中の米空軍による被害と言えば広島、長崎、東京など爆撃によるものがよく知られ、戦闘機の銃撃 ( 1秒間に70発!)や艦砲射撃による被害はそれほど語られてこなかった。しかし、各機には戦果を確認するため、引き金を引いている間攻撃対象を撮影するカメラが設置されており、その大量のカラーフィルムが米国の公文書館に保存されていた。

銃撃の対象は建物、飛行場、漁船など人間の居る場所、なかんずく鉄道車両が選ばれ、被害地域は全国至るところだが、米軍が上陸を予定していた南九州が多かった。しかし、番組の後半はドラマ仕立てで中央線の事件を取りあげ、さらに記録を精査して当の戦闘機の操縦士を特定した! 本人は88歳で死亡していたが、ロサンゼルスに住む息子は父が妻に書いた二百數十通の手紙 (と遺書 )を保存しており、操縦士は機関車は狙ったことは認めたが、「逃げる人を見てからは撃たなかった」と記していた。自己正当化も無論考えられるが、「戦争は地獄だ」、「美しいこの国を君に見せたい」と妻に書いた人の言葉を私は信じたい。無我夢中で引き金を引いていたのが真相ではなかろうか。

当時国民学校六年生だった私自身は爆弾で防空壕が揺れる恐怖は味わったが、家内は岐阜市への焼夷弾攻撃で家を焼かれ、猛火の中を逃げまどった。だからと言って二人とも米国に恨みを持たないのは、家族に犠牲者を出さなかったからだろう。それはともかく、毎日規則正しく三機づつ艦上攻撃機を生産していた工場が、あっという間の爆撃で壊滅したし、小川に架かる小さな鉄道橋は見事に破壊された。もう反撃する日本軍機も無かったので相手のやりたい放題だった。

その後70年、破壊技術の進歩は大きい筈。「イスラム国」への爆撃の効果を疑う報道が多いが、私には信じられない。

2015年3月19日木曜日

早速訂正!

直前のブログで「スカーフを身につけた」生徒としたのは「スカーフを身につけない」の誤り。やれやれ。

「アラブの春」革命の悲劇

「アラブの春」を体験したチュニジア、エジプト、リビア、シリア四国のうち真っ先に強権的政権を打倒し、その後も唯一の成功例と見られたチュニジアでテロ事件が起こった。あれほど世界から祝福され期待されたアラブの春がなぜ「破綻国家」、「失敗国家」を生みつつあるのか。

上記の四ヶ国は全て強権的政権を持つ世俗主義国家 ( 程度の差は小さくなかったが )だった。重信メイが正しく指摘しているように ( 『文芸春秋』4月号  日本赤軍派重信房子の娘 )、強権的政権ではあったが宗教の自由は原則として認められ、かつ女性の地位向上は認められていた。しかし、国民の圧倒的多数がイスラム教徒である国で自由な選択がなされれば宗教国家さらには宗派国家の誕生となるのは不可避だった。

強権的国家の中でも強権の度合いが最も高かったリビアのカダフィ政権の打倒にはフランスなどが空軍機で反乱側を助け、私も政権の崩壊を心から願った。いま私は自分がどこで間違ったのか反省を強いられている。たとえ強権的国家でも宗派間の殺し合いよりははるかに増しだから。

シリアのアサド政権を目の敵にした欧米諸国には私は当初から同感できなかった。すでにアラブの春以後の各国の混迷を見ていたからだが、シリアの小学校?の教室に数人のスカーフを身につけた生徒を目にして居たからである。政権側が世俗性を宣伝した可能性はあるが、それさえ許されない宗派国家で無いことは、中東やマグレブの国々ではいまや貴重になりつつある。

米国を先頭に西側諸国は政権打倒を目指したシリア反政府派を助けてきた。後者の、とくに若者たちの理想への献身は立派だが、いざとなれば欧米諸国が助けに来てくれるとの甘い期待は無かっただろうか。あるいは欧米諸国がそうした期待を抱かせなかっただろうか。今になってアサド政権との交渉の可能性を米国は認め出したようだ。「人権原理主義」も時と場合によると事態を悪化させるとようやく気づいたということか。

2015年3月18日水曜日

ウクライナ併合一年

ロシアによるウクライナ併合 ( ロシアからでは復帰 )から一年たち、プーチン首相の核戦争準備発言がメディアの一斉批判を浴びている。しかし、プーチンが「クリミア情勢がロシアに思わしくない方向に向かったとき」(3月16日 『朝日』夕刊)を考えて準備したとすれば、その発言は無神経だとしても原爆所有国首脳なら当然考えられることで、騒ぐに当たらない。問題の本質はクリミア併合が正当か否かである。

親西欧派による2004年の「オレンジ革命」は、不正選挙に怒った民衆がデモやストで ( 流血なしに )再選挙を勝ち取った革命だった。したがってロシアにとって何れほど不快であっても干渉出来なかった。しかし、去年の場合最近のテレビの再生画面を見てもデモでもストでもなく、仮にも選挙で選ばれた政府に対する暴動ないし反乱 (死者百名とか )だった。新政権がNATO加盟を目指すことが十分予想される以上、ロシアが指をくわえて見過ごすことはできなかったのは当然でもある。セバストーポリ軍港を含むクリミア半島は百数十年前からロシア領であった。もはや軍事上もイデオロギー上も危険とは言えないキューバに対し、百年前に租借したグアンタナモ基地を返還しようとしない米国がロシアを批判できるのだろうか。

その重要度でクリミア半島と比較すべきはグアンタナモ基地以上に、真珠湾軍港を持つハワイであろう。米国によるハワイ併合過程と日本による朝鮮併合過程とはよく似ていると何かで読んだ記憶がある。それでも私はハワイをハワイ人に返せとまでは言わない。ただ米国は自国の行なった不正には盲目であると言いたいだけである。

プーチンの核戦争準備発言に関して言えば、日本は唯一の被爆国としてこの問題に抗議する特別の権利ないし義務を有すると一部の日本人は考えるようだ。思い上がりではなかろうか。もし権利があるとすればそれは国際法 ( 交戦法規 )に反して原爆で民間人を大量殺害した米国に対してだが、上記の主張をする同胞の考えはそこには無いようだ (私も今更それを問題にしろと言うのではない )。義務に関して言えば、被害者である日本人が何らかの義務を負うとは不思議な主張である。それでは中国人は日中戦争中の被害に対し日本人に何らかの義務を負うことになりかねない。私にはとても理解できない理屈である。

2015年3月14日土曜日

訂正

二時間前のブログ、熱海小田原間の国道135号線で米国人の車に追突されたのは、映画の「20年後」ではなく10年後でした。車の種類から確実! 20年後には確か立川基地は横田基地に統合されていたと思います。

『ゼロの焦点』の時代

北陸新幹線が金沢まで開業した。同地を訪れる人が5倍になるとか。にわかに信じ難いが、金沢、富山など沿線自治体や住民がこれにより少しでも潤うならこれほど結構なことはない。車窓から見る沿線の多様な風景は日本でも指折りだろう。

北陸新幹線を取り上げた「天声人語」の書きだしは松本清張の『ゼロの焦点』についてだった。その頃と今では何れだけ金沢近辺が近くなったかへの言及だが、現在からふりかえって小説 (1959 )や映画 (1961 )が発表された時代への郷愁?も感じられた。

清張の推理小説の傑作としては『点と線』の方が言及されることが多い。ミステリー小説ファンでない私としては反論できないが、時代色の濃い『ゼロの焦点』の方が私は好きだし、作者も自作の第一に挙げているとか( Wikipedia )。有馬稲子や久我美子主演の映画に心を動かされ、私は能登金剛の巌門を2度訪ねた (清張の心打つ歌碑がある )。脚本が橋本忍と山田洋次だったとはこれまで知らなかったが、矢張りと感ずる。

粗筋は、むかし立川基地あたりの米兵相手の売春婦で今や金沢あたりの名流夫人となっていた女性が、自らの汚辱の過去を知られそうになり、相手を殺すというもの。浅はかといえば浅はかだが、戦後の窮乏時代、生きるために賤業についた主人公を裁ける人がどれほどいるだろうか。加害者も被害者も不幸な時代の犠牲者と思える。

約20年のち、私は立川基地の米人の車に追突された。相手が白人と気づいた瞬間から何故か下手な英語が口をついて出た。本当は相手を困らせるため日本語を使うべきだったと後で反省?したが、後の祭りだった。かなりの被害を完全に修理した日本人の職人わざには脱帽だった。

2015年3月12日木曜日

タラワ マキン。軍神の散った島

メルケル首相の訪日でドイツの原発廃止( 完全廃止は十年後だが )があらためて注目された。我が国で意見が割れるこの問題に私は判断を下しきれない。地震国日本の原発の危険は明らかであり、私も築後40年を稼働の限度とすることに全面賛成である。他にも松江市から10キロ以内と聞く島根原発は1号機も2号機もぜひ廃止して欲しい。他の原発所在地と違いはないのだが、ハーンの住んだ松江や宍道湖を訪問できなくなるなど考えたくない。

だが、地球温暖化の問題も大きい。その影響は原発事故と異なり起こったらではなく、必ず起こる。低層住宅の多い東京は世界で最も海面上昇に弱い首都ではあるまいか( 大阪も名古屋も..........)。堤防などいくら強化しても大地震で二、三箇所切れたら終わりだろう。その被害は計り知れない。小国だが、ツバル、キリバスといった太平洋の島国はすでに水没の危険にさらされており、キリバスの大統領はすでに国土の消滅、フィジーへの移転を表明している。

キリバスは英国領だった前大戦中、日本海軍の陸戦隊に占領されていた( 当時はタラワ、マキンと呼ばれた )が、米軍の反攻に会い、柴崎中佐率いる陸戦隊は玉砕した( 軍人軍属約五千名中、生存者百数十名。Wikipedia)。中佐は二階級特進し、「軍神柴崎少将」と呼ばれた。

私は少将の長男と小学校で同級生だった。玉砕が大本営発表されると新聞社が学校に遺児の写真を撮りに来た。偶々校庭に居た数人が騎馬戦する様子を撮影することになり、柴崎君と私が馬上で戦うことになった。驚いたことに私は最初から同君にのし掛かられる形で撮影された。撮影終了後はほっとかれたが、ひとたび不利になった体勢は挽回できず、私は敗れた。私の新聞不信はこの日から始まった??

その後一年足らずで私は東京を離れたので、とびきり穏やかな少年だった柴崎君が戦後どう生きたかは知らない。「軍神の子」の名誉は何の役にも立たなかっただろうが.........。

2015年3月11日水曜日

メルケル訪日の意図

、メルケル独首相が嵐のように訪日し離日した。首相在任、はや九年とか。戦後日本の首相の誰よりも長期政権である。それほど有能なのだろう。うらやましい限りである。しかし、福島の原発事故のあと従来の方針を一変して原発廃止を決断したのは、彼女の指導力とともに国情の違いもあろう( 日本なら決定までにあちらに相談し、こちらと協議しとなったろう )。西ドイツ時代になるが、社民党出身のシュミット首相も八年間在任して強いリーダーシップを発揮したが、その間議会での与野党の議席差が二桁になったことは一度もなかったと聞く。日本だったらその間何人の首相が交代しただろうか。一票差でも多数は多数と認める政治的風土がなければリーダーシップの発揮のしようも無かっただろう。

彼女の訪日の目的は、これまで訪中は七回なのに訪日は二回というアンバランスの是正や、6月のサミット主催国ドイツの首相としての根回しなどもあろうが、ウクライナをめぐって日独協調を目指すこともあるようだ。米国はロシア制裁に最も熱心であり、ウクライナへの重火器援助をちらつかせているが、ドイツやフランスはそこまでのロシアとの対立を望んではいまい。北方領土問題を抱えロシアとの対立を避けたい日本はメルケル首相にとり潜在的な味方である。ぜひ本心を確かめたかったのだろう。

そのためかどうか、彼女は長い演説でも歴史認識問題に言及せず、日中韓三國の関係への助言はしないとことわり、記者の誘導質問を受けてやうやく発言した( 一紙だけ読んでは、飛んだ誤解をする だろう )。過去にきちんと向き合うという当然のことを述べたが、隣国フランスが寛大だったことも一因と挙げた。日中韓三國の反省を迫ったシャーマン米国務次官の発言に日本びいきだと猛反発をした韓国メディアはメルケル発言にも猛反発するだろうか。それとも大使受難事件の後ゆえ素知らぬ態度で過ごすだろうか。

2015年3月8日日曜日

『家』と『道草』

故あって藤村の『家』と漱石の『道草』を続けて読んだ。日本文学史にうとい私でも、明治大正の作家たちにとって家族制度の問題、家に対する個の確立の問題が小さくないテーマだったとは何となく耳にしていた。『家』も『道草』も、二人の作家にとっての家の問題が主要なテーマとなっている私小説である。

先ず現在との違いを知らされたのは当時の一家の兄弟姉妹の数の多さである。木曽の名家の出身の藤村の場合とりわけ顕著だが( したがって甥姪の数も多い  )、漱石の場合も係累は少なくない。その家が没落( 藤村 )ないし衰退( 漱石 )したらどうなるか。一族のうち比較的成功したメンバーは当然のように、生活が苦しい親族を助けなければならない。藤村も漱石も助ける側ばかりではなく助けられる側に立つこともあったが、大半の場合金銭的援助を求められる側であった。家に対する個の確立とは精神的な意味ばかりではなく、極めて現実的な問題でもあったと知った。

我が国の家族関係はその後大きく変わった。家の建築資金などは別だが、親族と日常的に援助し合うことは稀だろう。年金や生活保護制度などが整備されたことが大きい。それは大変結構なことだが、代わりに明治大正の時代、否戦前昭和の時代でも殆ど考えられなかった老人の孤独死が珍しくなくなった。そこまででなくとも自宅以外で最後を迎えることが一般化しつつある。犬猫で心を癒す老人家族が増えた。個の確立を願った時代には想像できなかった諸問題である。明治大正の時代がうらやましいなどとは思わないが、物事には常に両面があるということだろう。

2015年3月6日金曜日

駐韓米大使の受難

リッパート駐韓米大使が韓国人暴漢に刺された。あと少しで頸動脈に達していたという。どの国にも狂気じみた「愛国的」犯行はある (ライシャワー駐日大使も日本人に刺された。もっとも犯人は精神病の入院歴があったが )。ただ、なぜ過去にも同様な犯罪を犯し裁かれた人間を警備陣は入場させたかが不思議だったが、今朝の『読売』で疑問は氷解した。

大使が出席した会合は「南北和解協議会」?の主催で、犯人の所属団体もそこに加入していたという。それでは怪しくても入場を拒めまい。民族服を着用した犯人は目立ち、警官は危険を感じていたというのに.........。現在の韓国では南北和解か反日の何れかを標榜すれば、下っ端の警官(失礼!)ではとても手が出せないのである。犯人の自供によれば米韓合同演習反対が目的で、日中韓三國の不和をたしなめたシャーマン米国防次官の発言が動機ではないという。多分その通りだろうが、同発言を日本贔屓だとするデモが起きている韓国の空気が犯人を大胆にした可能性はゼロとも言い切れない。米韓両国ともこの事件の両国関係への影響を否定しているが、米国は世論を無視できない国。今後の影響は誰にも読めない。

大使の受難以上に現在の韓国の異常さを示しているのは、朴裕河氏の『帝国の慰安婦』が世論 (というよりメディア? ) の猛攻撃を受けているばかりか、司法による調査対象となっているとの報道である。こと反日感情の暴威に関する限り、まるで我が国の戦前戦中の非国民扱いと違いがないではないか。もし司法まで本格介入するとしたら、韓国では反日にしか言論の自由は認められていないし司法はポピュリズムに抵抗できないと言わざるを得ない。それならば日韓両国が「基本的価値を共通する」との語句を文書から外した日本外務省の判断は正しいことになる。そうでないことを祈るが...........。

2015年3月4日水曜日

MOA美術館の訪問

手術後の新しいメガネでの最初の中距離旅の目的地に熱海のMOA美術館を選んだ。片道100キロ未満で二ヶ月ぶりの運転に手頃な距離なのと、尾形光琳の300年忌記念特別展 (3月2日は終了前日だった ) で、『紅白梅』と『燕子花(かきつばた)』の双方が見られる稀な機会と聞いていたからである。同館訪問は約40年前の第一回以来だった。

『紅白梅』も『燕子花』も印刷物や映像で見ているので特別の感興は湧かなかったが、他に『伊勢物語』などの古典に題材をとった光琳の作品が多数あり、日本の美術と文学の深い関連をあらためて知らされた(今まで知らなさすぎた!)。さらに、光琳の影響を受けた近現代の画家たちの作品が展示されていた。近代の大家のものは興味があったが、現代となると既知の画家もなく、疲れも手伝い足早に一瞥しただけ。私の美術鑑賞は作者の有名度に多分に影響されるということか!

第一回は偶々三笠宮殿下のお供をしての訪問だった。無論お忍びの見学だったが、入口の担当者は数人の仲間の中の殿下に炯眼にもすぐ気づき、途中からは思いがけずVIP待遇となった。やはり日頃映像で見慣れているせいか。殿下が地下鉄を利用されることもあると聞いたので、ある時よく気付かれませんねと聞いたら、「三笠宮殿下によく似ていますね」と声をかけられたことがあると笑っておられた!

この時の訪問の仲間のうち生き残っているのは年少だった二人だけだと思ったら殿下を忘れていたことに気付いた! スケートやダンスが得意だったと聞く殿下の車椅子姿は痛々しいが、歴史学を専門とされた殿下には長く世の推移を見守って欲しい。

2015年3月1日日曜日

暗殺犯人は誰?

ロシアの野党指導者が射殺された。プーチン政権による暗殺説と、( プーチン政権の主張する )反政権派の挑発説 (政権への西側諸国の態度硬化を狙っての )の二説が対立している。真相はまだ不明だが、私はそのどちらでもないのではと感じている。

政権による暗殺説の弱みはプーチンは別に追い込まれていないことである。過去の例では政権が関与していた疑いはあるケースもあるが、いまや世論は圧倒的と言って良いほどプーチンを支持している。わざわざ疑惑を招く手段を取る必要があるだろうか。逆に反政権派による挑発説も疑問である。プーチンとしては取りあえず政権への疑惑を否定する材料として利用したのではないか。

私は単純にネムツォフへの極右国粋派の反感が犯罪の原因ではないかと考える(むろん断定はしない )。政権の強権的性格への彼の批判には同感する国民も少なくないだろうが、クリミアの併合が「侵略」だと主張した( 『朝日』夕刊2月28日 )のは行き過ぎだつたと思う。住民投票の結果は明らかだったし、ゴルバチョフ元大統領もクリミアは元来ロシア領だったとして併合を是認している。暗殺行為は厳しく裁かれるべきだが、ネムツォフも歴史的経緯を無視していた。

以前にブログで紹介したように米国は、当時のベイカー国務長官が東欧諸国を西側に引き入れはしないと約束しながら約束を守らなかった。ゴルバチョフは西側諸国を信頼した過去の判断を今では後悔していると思う。

現ウクライナ政権があくまでNATO加盟を目指すなら東部二洲を確実に失うだろう。住民投票で勝てないだろうから。住民投票には該当地域の範囲をどうするかで結果が変わるなど問題はあるとはいえ、解決不能とまでは言えず、スコットランドの例が示すようにもっとも公明正大な解決方法である。スコットランドは良くてウクライナ東部はいけないとは誰も言えないだろう。スコットランドは400年間連合王国の一部であった。