2014年10月31日金曜日

韓国。近くで遠い国

近所の寺は駅に近いせいかかなり頻繁に葬儀会場として使われている。今朝も駅からの道に「何某家順路」の貼り紙があった。それを見て韓国人の知人Rさんを思い出し懐かしかった。

二、三年前に亡くなられたRさんは日本統治時代に教育を受けたため、日本語で詩を作るほど日本語が上手だった。しかし、招聘教授として日本に滞在された四年間には両国の生活習慣や気質の違いに戸惑われることも少なくなかった。その一つが葬儀会場への「順路」の貼り紙だったという。人間最後には死ぬのだから「順路」には違いないのだが?!、さすがのRさんも当初は見当がつき兼ねたという。

Rさんが戸惑った事は他に、同氏に対する街の八百屋や肉屋さんの態度だった。ソウルの有名大学の名誉教授と知ってか知らずか、彼らがRさんに対等の口をきくので当初はカッとなりかけたという。日本ではそれが当たり前なのだが、儒教大国の敬老精神で育ったRさんには不可解だったのだろう。年若い韓国人なら違和感も無かっただろうが。

韓国や中国では道を通る他人に夫婦喧嘩での夫( または妻 )の不当を訴えると一度ならず聞いたことがある。これとても現在の韓国に当てはまるかどうか疑問だが、日本では家族の不和を外部に懸命に隠すのが普通だろう。外国首脳との会談で日本の歴史認識の不当を訴え多くの日本人を不快にさせているパククネ大統領の「告げ口外交」も、第三者の判定を求める韓国流の行動なのかもしれない。それにしても日韓の気質の違いを大統領に指摘する部下はいないのだろうか。

Rさんの帰国に当たり友人と韓国料理店に招かれた。別室で「平壌中学」の同窓会が開かれていた。Rさんが平壌出身であると知っていたので、同じ中学ですかと聞いたら、私たち韓国人は「平壌一中」の生徒でした( 逆だったかも )と言われた。小学生時代の恩師を新聞の尋ね人欄を利用して探し当て再会した親日家のRさんでも心中は単純ではないのかも知れず、われわれはしゅんとなった。

2014年10月26日日曜日

非サユリストの吉永映画評

今朝のNHKテレビで南伊豆河津川のモクズ蟹猟が紹介されていたが、最初の画面は、河津川に面し川端康成が泊まった( 『伊豆の踊り子』のエピソードを経験した際 )湯ケ野温泉福田家旅館だった。 

三十年近く前、私も福田家に一泊し日活映画で踊り子を演じた吉永小百合と同じ部屋に泊まった( 同じ日にではない!)。いつもどうり突然の発意であり泊まれる確信はなかったが、電話で予約が取れた。ところが当日案内された部屋は胸の高さに窓( 硝子戸や障子戸ではない )があるだけの部屋で、本来は女中部屋か布団部屋だったと想像された。せめて電話でその旨説明して欲しかったが、女将は「この部屋は吉永小百合が撮影期間中泊まった部屋だ」と言っただけで弁解の気配もなかった。吉永は人目がうるさくてその心配のない山側の部屋を選んだという。サユリストなら同じ部屋に泊まれて嬉しかろうが、そうでない私には不満しかなかった(宿泊料は安くなかった)。

私の世代の者にはサユリストは少なくなかったろうが、私は妙に芸術づいていた時期だったので、黒澤明や木下恵介の作品は欠かさず観たが、日活青春映画専門だった吉永の映画を全く見たことが無かった。のち、『キューポラのある街』など当時の作品を多少はテレビで見たが、今も名作として紹介される『キューポラのある街』も在日朝鮮人の帰国運動への批判的視点を欠いている点で、それほど感心しなかった。極めて稀だが当時すでに、『北帰行』の作詞作曲者で当時TBSの幹部だった宇田博のように北朝鮮の異常さに気づき警告した人はいたが。それでも彼女の美しさは抜群だった。

その吉永の最新作『ふしぎな岬の物語』を見た。これも好意的批評が目立ったし、事実気持ちの良い作品だったが、相も変わらず吉永が、「清く、正しく、美しく」の役柄を演じているのは食傷気味でもあった。一作だけ( 天国の駅 )殺人犯で死刑になる女性を演じたことはあるが、彼女はすばらしい女性しか演じさせてもらえないようだし、彼女自身その殻を破る気もないことが今回示されたようだ。

P.S. 以前、『蜩の記』がモントリオール映画祭で受賞したと書いたが、受賞したのは『不思議な岬の物語』でした。

2014年10月22日水曜日

円安は本当に国民生活にマイナスか

新聞やテレビで円安進行の影響を受ける企業の苦境がひんぱんに報道されている。当事者の苦労には同情するが、二年ほど前までは円高に苦しむ企業がひんぱんに報道されていた。どちらの報道も誤りとは言えないが、円高の時に超過利益を得た企業と円安の時に超過利益を得た企業はそれぞれ少なくないはずなのに、それらに関する報道はあまり見かけなかった。メディアが事実を忠実に伝えたとはとても言えまい。

円高円安それぞれの時期に儲かったのは大企業であり、中小企業はその恩恵に与らなかったとの報道もよく見る。しかし、昨日の朝日新聞の「経済気象台」(企業経営者とエコノミストによる匿名の小コラム)によれば、「中小企業の倒産件数は急速に減って」おり、この一年間は何と「バブル景気崩壊直前の1990年度以来の低水準だ」という。アベノミクスの最終評価は下せる段階ではないが、伝えられる人手不足現象の受益者は既に正規職に就ている者よりも非正規労働者(時間当たり賃金の上昇などを含め)であることは否めない。むしろ国民所得の平準化に寄与しているとの見方もできる。

円高や円安など通貨価値の変動で苦しむ企業や国民を報道するのが悪いのではない。しかし、それで利益を得た企業や国民のことを一切報道しないなら、それは偏った報道と言うほかない。メディアが安直な正義感で事実を取捨選択するのは傲慢そのものである。

2014年10月20日月曜日

ハイセイコー伝説

BSジャパンの番組『昭和は輝いていた』で、「元祖怪物ハイセイコー」を見た( 9月17日 )。1970年代前半のことなので詳しくは知らなくても、名前を聞いたことはあるのでは?

ハイセイコーは地方競馬で六連勝したため中央競馬に移籍され、そこでも四連勝し異常な人気を得た。学歴の乏しい田中角栄が首相就任後しばらくは「今太閤」として高い人気を得たのと同じく、庶民はエリート出身でないハイセイコーに自分を重ねて? 熱い期待を抱いたのである。

番組では、それまで競馬はギャンブルと見られ公共の乗り物で競馬新聞を開くのははばかられたが、ハイセイコーがファン層を若い女性にまで広げたので競馬はスポーツ、さらには週末のレジャーとなったと解説した。1973年の日本ダービー前には人気は頂点に達し、記者会見にワイドショウのリポーターらが百人集まったという前代未聞の事態となった。しかし私を含め誰もが期待したダービーでの勝利は叶わなかった( 三着。敗因は長距離レースはそれほど得意でなかったためという)。それでもその後しばらく優勝から遠ざかったのに、馬券人気は一位が続いたという。ファンはハイセイコーを見捨てることが出来なかったのである。

武田鉄矢が司会する番組は楽しかったが物足りない点もあった。ハイセイコーの子のカツラノハイセイコーが六年後、父の果たせなかったダービー優勝を果たしたことに触れなかったのである。最後まで庶民の心を熱くさせる親子だったというべきだろう。

2014年10月19日日曜日

巨人阪神戦を見て

三、四年ぶりか、昨晩東京ドームでプロ野球(巨人阪神戦)を観戦した。これ迄のようにチケットを頂いたので友人を誘い出かけたのだが、昨日は日本シリーズ出場を賭けたクライマックス・シリーズでの阪神三勝を受け、これに負ければ巨人の今シーズンが終わるという大変な試合だった。

久しぶりの観戦のため両軍選手の半数は名前を知る程度となっていた。試合そのものは阪神が勝ち、アンチ巨人の私は満足だったが、最初から得点差が開いたのでやや緊張感に欠ける試合となった。もっともそれは私が巨人ファンでないからで、スタンドの七、八割?を占める巨人ファンには緊張感に欠けるどころではなかった。それにしても今回のシリーズは大方の予想に反する結果だったのでは?

数日前の朝日川柳に、「秋なのにまだ阪神がやっている」が載っており、全く同感だった。むかしから阪神は夏頃まではライバル( 主に巨人 )と首位争いをしていても、必ず!秋には脱落していた。忘れもしないが、ある年パリで一ヶ月近く仕事をし、九月に帰国したが、機内の日本の新聞で阪神が未だ首位だと知り信じられなかった。バースが大活躍をして阪神が優勝したあの年、阪神ファンには多分生涯忘れられないあの年のことだった。

私がアンチ巨人なのは1949年の別所移籍事件の昔から巨人が金にあかせて他球団の有名選手を引き抜いてきたから( 阪神もカープファンから見れば似たようなものかもしれないが )。米国ではそんな事は日常茶飯事のようだ。さらに、同国の有名無名のプロスポーツ選手の年俸の差は目が眩むほど。あまり真似して欲しくない先例だが、日本も確実に同じ方向に向かっているようだ。止める方法は無いのだろうか。

2014年10月17日金曜日

時代劇映画今昔

続けて近作時代劇映画を二作見た(  『蜩(ひぐらし)の記』と『柘榴坂の仇討』)。前者はモントリオール国際映画祭で受賞したという理由と、家内の友人が褒めていたと聞いたためであり、後者は前者と比較して見たかったから。

二作とも武士の意地を貫いた男たちの物語であり、出来栄えも甲乙付け難いが、私の好みは『柘榴坂の仇討』にやや傾く。『蜩の記』は原作は直木賞受賞作らしいが、藩の御家騒動が絡んでおり、やや意外性に欠ける。御家騒動がらみでは近年でも藤原周平原作、山本洋次監督の三部作があり、さらに古くはNHKテレビの日曜ドラマ『樅の木は残った』がある。特に原作の重厚さという点で『樅の木』はやはり抜きん出ていた。『柘榴坂』は桜田門外の変で主君井伊直弼を守りきれなかった警護役の十三年にわたる仇討の物語であり、筋書きの斬新さは『蜩』に優っていた。単に主君への忠義のためだけでなく、直弼の人柄への傾倒の故としたのも悪くなかった。


偶々、出たばかりの『サンデー毎日』10月26日号に中野翠が時代劇映画ベストテンを書いており、一位『七人の侍』、三位『切腹』( 二位は『幕末太陽伝』、私は?)は全く納得した。前者はベネチアかカンヌの映画祭で、レナート・カステラーニ監督の『ロミオとジュリエット』に最高賞を譲った。しかし、その後も『七人の侍』はヨーロッパでもときに再映され、評価も高いのに、『ロミオとジュリエット』を知っている人は殆どおるまい( 素人から選ばれ一作で映画界を去ったスーザン・シェントゥールのジュリエットの気品ある美しさ、ルネサンス調のテーマ音楽『プリマヴェーラ』は忘れ難いが )。やはりヨーロッパ人はシェクスピアの原作が現地ロケで色彩豊かに描かれると贔屓してしまうのだろう。  

小林正樹監督の『切腹』は英国の大学町で再会した。観客は大半学生で、併映したゲーリー・クーパー主演の『真昼の決闘』が彼らのお目当てだったと私はにらんでいるが、二本目の『切腹』が終了した時、すぐ立ち上がる者は殆ど居なかった。それほど圧倒されたと私は信じている。最も日本に理解があると考える二人の知人にぜひ見て欲しいと望んだのだが、彼らは曖昧な返事しかしなかった。ヨーロッパ人は切腹( 英語版のタイトルはHarakiriだった)と聞いただけで怖気を振るうらしかった。

なお、『七人の侍』も『切腹』も脚本は橋本忍だった。市川崑監督が映画の出来を決めるのは脚本七割、俳優二割、監督一割だと語ったと聞く。謙遜も含まれているだろうが、『七人の侍』以後の黒沢映画が今ひとつなのは橋本が離れたためだろう。日本映画の全盛期の最大の功労者は橋本忍だと私は考えている。

2014年10月16日木曜日

領土問題の捉え方

『週刊新潮』で「尖閣棚上げを口走る逆臣二階総務会長」との記事が掲載されているようだ(  未見)。来月北京で開催されるAPEC会議を機会に日中首脳会談を開くよう水面下での交渉が進行しているらしい。仄聞するところでは中国側の開催条件は、安倍首相ら政権幹部の靖国参拝の中止と尖閣列島の帰属棚上げだとか。

日本は中国や韓国に頭を下げてまで首脳会談をしなくてよい( 財界は会談を望んでいるだろうが ) 。経済関係が悪化して困るのはお互い様であり、会談のために日本が一方的な譲歩をする必要はない。しかし、相手の要求が不当でないならば話は別である。私は中国が要求している( らしい )二条件は受諾可能だと思う。安倍首相の靖国参拝への私の反対については既にブログ( 8月29日 )で述べた。のこる尖閣問題は、棚上げも一つの方法と考えている。

そもそも私は領土問題で「歴史的にも法的にも疑いもなく自国の領土」とむやみに力むことに疑問を持っている。国境線はフランスとドイツ、ドイツとポーランド、ポーランドとロシアのように、両国間の力関係により一方が強いときはその国に有利に、弱いときは不利に決まることを繰り返してきた。韓国との竹島帰属もその例外ではなかったようだ。尖閣列島の場合は竹島より日本の立場は強いようだが、日中国交回復交渉では帰属で対立は解けなかったようだ。鄧小平が来日時に「後世の人に解決は任せよう。彼らは我々より賢明だろう」と言ったのは、今から思えば棚上げの主張だった。当時は私なども「なるほど、これが大人の態度か」と感心し、マスコミもそれを問題視しなかった。鄧小平の老獪さに乗せられていた( 私の場合 )、ないし目をつぶっていた( マスコミの場合 )のである。

領土問題を国際司法裁判所などに提訴しても不法占拠国を当事国に代わって追い出してくれるわけではない。日中韓のどの国も領土主張をして艦船を現地に送り込むだけが能ではあるまい。権益なら関係両国の間で分け合うことも出来る。私は利権の匂いのする「小角栄」のような二階氏を元来好まないが、逆臣呼ばわりは酷すぎる。

2014年10月13日月曜日

ノーベル賞受賞を慶賀する

今年は冬季五輪、サッカー・ワールド杯とマスコミの狂騒曲が続いたが、ノーベル賞狂騒曲もありとは予想できなかった。年内にまだ一回ぐらい何かが後ろに控えているかも。

ノーベル賞騒ぎも大分収まってきたようだが、その間、私も無論無関心ではいられなかった。むかし、英国滞在中に朝永振一郎博士のノーベル物理学賞受賞が報ぜられた。何しろ日本人二人目の受賞だったので、野暮だとは思ったが二、三の英国人にその事実を口にしたが、反応はほとんどゼロだった。英国は米国に次いで受賞者が多いとは知らなかった。

その頃に比べれば日本人の受賞も珍しくなくなったのに、相変わらず我々はノーベル賞慣れしていないようだ。しかし今回は、一度に三人の同胞( 中村氏は研究費獲得の必要から米国籍とか )が受賞したこと、青色ダイオードが世界に恩恵をもたらしつつあることなど、日本人として誇りに思って当然だろう。また、赤崎、天野両氏の謙虚さ、中村氏の率直さのどちらにも好印象をもった。我ながら矛盾しているが、これがノーベル賞のオーラというものか!

しかし、物理学教授だった友人のメールによれば、今回の受賞は喜ばしいが既に過去の業績であり、今後の我が国の自然科学界の前途は、他国と比べての論文数の減少傾向を考慮すればむしろ暗いとのこと。それが事実なら( 図表まで添付されている )由々しいことであり、中高での理科教育の一層の充実( とくに実験など )を始めとする振興策が欠かせないだろう。

文学賞や平和賞を逸したのは残念だった。日本ではどちらも有望との下馬評だったが。今年はライバル( とくに平和賞 )が強力だつたことを認めざるをえない。憲法第九条の場合は、すでに何十年も解釈改憲がなされていることが考慮されたかもしれない。何れにせよ両賞とも他日を期すほかない。

P.S.訂正と補足を。10月2日のアクトン卿の名言を英語でも六語と書いたが、七語ないし八語が正しい? Power (tends to ) corrupt. (And ) absolute power corrupts absolutely.のカッコ内を忘れた。もっとも、Wikipediaが必ず正しいとも言えないが、原典で反論できない!
9月24日に、隣家の火事で警察の質問を受けたと書いたが、隣家の夫婦仲を聞かれたのは父で、中学生の私ではない。
9月25日に高橋源一郎氏が引用した文章( 正義より事実を選ぶとの )の作者を10月12日のブログで失念したと書いたが、スーザン・ソンタグでした。


2014年10月12日日曜日

非正規労働者問題の真実は?

昨日の朝日新聞にアンドルー・ゴードン・ハーバート大学教授へのインタビューが載っていた。「中流家庭は崩れてしまったのでしょうか。格差は広がるばかりですか」との記者の質問へのゴードン氏の答えは全く意外だった。

「日本で正規雇用されている労働者の数は、80年代に約3400万人ですが、この数字は今もあまり変わりません。非正規の数は其の間に約600万人から約二千万人に増えました。その原因は、より多くの高齢者や女性が非正規で働くようになったこと。自営業と家族労働に従事していた人たちが雇用者( 被雇用者の誤訳?)として働き始めたことにあります。ですから、正規を直接犠牲にして非正規が増えているわけではありません」。

わが国のメディアでは非正規労働者の増加がひんぱんに論じられ問題視( 大問題視)されてきたが、実際には正規が非正規に置きかえられてきたとは必ずしも言えないという。むろん安心などしてはいられない。しかし、長期間の激しい円高にもかかわらず正規雇用が減少したわけでは無いとは初耳で、日本のメディアでは決して聞いたことのない事実である。我が国が正規雇用の絶対数を維持してきたことはそれなりに評価すべきだろう。

よく考えれば、朝日新聞の従軍慰安婦と原発所長との二つの誤報問題とこれまでの非正規雇用問題の報道( 全メディアの)とは全く同根である。高橋源一郎氏が先日の同紙の「論壇時評」で二つの誤報問題に関連して、正義と事実のどちらかを選ばなければならないなら事実を選ぶとの誰か( 名前は失念 )の発言を紹介していたが、全く同感である。事実を等閑視した正義はもはや正義ではないからである。非正規労働者への同情からといえども事実を隠すなら矢張り誤報に限りなく近く、報道関係者がやってはならない事の筈である。

外国の学者に指摘されるまで日本の学者は事実に気づかなかったのだろうか。それとも同じ事を日本の学者が指摘しても無視され、外国の学者が指摘すれば取りあげるというわが国の悪弊がまた繰り返されたということだろうか。

2014年10月9日木曜日

保育園は迷惑施設?

今朝の新聞の折り込み広告に我が家のある宅地の土手の雑草の草刈りの予告のビラが挟まれていた。工事に伴う停電や断水の予告は珍しくないが、雑草刈りの予告ビラは近年のものである。誰かから苦情があったのだろうか。

たしかに土手に接する我が家の当日の騒音は小さくない。しかし、その時間は長くても一日、普通は半日程度である。一夏に伸びる雑草の背丈は膝を没するほどになる。ほっておけば枯れる冬の火の用心もしなければならない。私は草刈りを感謝こそすれ迷惑だなどとは思わない。それを予告するのは具体的に苦情があったか否かはともかく、実施者側がその怖れを感じているということだろう。

やはり今朝、テレビで保育園新設への反対の動きを伝えていた。園児の声がうるさく、「静かな住宅地が壊される」ということである(他に保護者のマナーや交通渋滞への不満もあるが )。たしかに園児は周囲の迷惑まで考えないだろうが、質的にも工場騒音などと同列には論じられないのでは。

私とても、近くにゴミ処理場の新設が発表されたら反対する可能性は高い。しかし子育てに不可欠な保育園や幼稚園に反対すれば親たちはどうしたら良いのか( もっと遠くに作れとは言えない )。子供達の叫び声まで迷惑視するのは行き過ぎとしか思えない。「迷惑施設」の側も周囲への配慮はして欲しいが、それにも限度があろう。今朝のメディアの腰の引けた報道姿勢は気になる。社会の不寛容化への警戒は必要だろう。

2014年10月7日火曜日

外国資本による資産買収

ニューヨークのウォルドーフ・アストリア・ホテルといえば同市きっての名門ホテルと私でも知っている。そのホテルを中国資本が約二千億円で買収したという。私にはその金額が妥当なのかどうか見当がつかないが、巨額であることも新聞記事になった理由だろう。

企業行動としての外国資産の購入を誰も非難できない。それどころか、バブル経済最盛期に邦人資本が同市のやはり高名なロックフェラーセンターを買収した( そしてバブル崩壊後手放して多額の損失を蒙った )ことは記憶に新しい( そうでもないか? ! )。中国資本とても購入は自由である。ただ中国資本が外国で不動産だけでなく美術品や骨董品まで買いまくり相場を高騰させている( と聞く )のは、同国が社会主義の土地公有制の建前から国民に土地の五十年間の利用権しか認めていないことにも依ろう。まさか五十年後に無償で返却とはならないだろうが、それを決める権限は政府にある。富裕な国民はモノや外国の不動産に投資して当然である。当面は相手国の景気浮揚に貢献するから反発ばかりではなかろうが、ロックフェラーセンターの場合がそうだったように、多年国民に親しまれた建物の買収が国民世論に与える影響は微妙である( 帝国ホテルが外国資本に買収されたと想像すればよい )。  

わが国でも最近目立つ外国投資ファンドによる企業買収も、商取引として何ら問題では無いかもしれない。それでも、企業の社会的責任の観点からすれば、企業価値を高めてから売却して利益を得るという手法の野放図な横行を放置して良いとも思えない。白鵬の手にする毎度の懸賞金の束や、韓国人プロゴルファーの優勝賞金獲得のような実力の対価とは違うように思うが............?!。

2014年10月2日木曜日

習近平評価の難しさ

新しい行政長官選挙法への香港市民の抗議行動が高揚している。当然だろう。これ迄の一部の選挙人による選出と実質的な変更はないかもしれないが、上部が決めた三人の候補への投票を普通選挙と呼ぶ偽善に若者たちは耐えられなかったのだろう。これでは香港だけでなく台湾市民の心も離れるだろう。それが容易に予想されるのに、どうして中国は今回の挙に出たのか。

いちばん根源的な答えは中国政府は人民を信頼できないでいると言うこと。それも当然だろう。今や共産党政権の腐敗は目に余ると言っても過言ではない。政権幹部たちは外国に財産を移すばかりでなく、子弟に外国籍を取らせるため留学させるという。そうした彼らが人民を怖れるのも当然だろう。結局のところ、毛沢東の百万言もアクトン卿の「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する。」のたった六語(英語でも )の名言に遠く及ばないということだろう。

習近平政権の最近の強硬な外交は際立っている。しかし、甘いと言われるだろうが、私は習主席は彼の信念に従って行動しているというよりも、共産党政権の最悪の遺産にしばられ苦闘しているとも考えている。彼による幹部たちの腐敗の追求は今のままでは共産党政権の将来は危ういと彼が考えているからだろう。中国軍人( 制服組 )最高位の人物や、従来は不可侵だった政治局常務委員らの腐敗を理由とする追放は権力闘争そのものだが、まともな国を目指すなら必要な闘争である。さらに、この権力闘争はわが国にとっても他人事ではない。

中国人の反日的行動の半ばは自国政府への不満の屈折した表明だと私は見ている。習近平が腐敗と本気で闘っていると国民が感じれば、反日的行動は今ほどではなくなるだろう。仮にそれが楽天的すぎる見方としても、習近平政権の対日政策の自由度は拡大するだろう。今は何としても習近平に反腐敗闘争(それは江沢民閥との死活の闘争である可能性が高い )に勝利してもらいたい。江沢民の院政が復活したら日中関係の改善ははるか先となろう。

そのためには香港市民の抗議行動が江沢民派に習近平打倒の口実に利用されないか心配である。天安門事件で学生に宥和的だった趙紫陽元総書記の失脚の先例もある。私の心は香港の若者たちへの共感と習近平支持との間で揺れ動かざるを得ない。