2016年8月29日月曜日

古川隆久『昭和天皇 「理性の君主」の孤独』を読む

天皇の生前退位問題で複数の新聞に意見を求められていた古川隆久氏は昭和天皇について最先端の研究者の一人のようだ ( 大正天皇の伝記の著者でもある )。新書版 (中公新書 ) と言っても400頁という異例の分量なだけに内容は豊富だった。

大正デモクラシーの影響かどうか、昭和天皇の受けた帝王教育は各界最高水準の人たちによるもので、当時としては進歩的教育と言ってよかった。それに加え青年期にヨーロッパ諸国を歴訪し ( それを勧めた一人が山県有朋とは!)、とくに英国王室に歓待されたこともあり英国の憲政の信奉者となった。即位後、天皇として発表された最初の写真は背広姿だったという。戦前戦中の軍服か礼装の天皇の写真しか記憶にない私には驚きだった。

こうして西欧的王室観や国際協調主義を身につけた昭和天皇にとって、明治憲法下で大臣 ( とくに軍部大臣 ) や参謀総長や軍令部総長の輔弼無しに決定を下せないことは不本意の極みだった。一応はリベラルであった西園寺や牧野ら重臣も天皇と軍部の決定的対立を回避するよう助言した。軍内の要職についた皇族たちは軍部の代弁者となり、弟君の秩父宮は「極右的な考え方に共感を示し」て「陛下との間に相当激論」をする有り様で、天皇は秩父宮を擁立する軍部クーデターを恐れなければならなかった。

「満洲は兎も角、支那の領土であるから南北統一しても差し支えない」と中国の主権を尊重する昭和天皇は、満州事変以後の軍部の既成事実の押し付けに抵抗したが彼らに無視された。古川氏は天皇が何度か現実に妥協したことを批判的に指摘しているが、首相選任に際し「ファッショに近いものは、絶対に不可なり」と条件をつけた天皇にとり、太平洋戦争への道は刀折れ矢尽きたという印象が強い。

元首として昭和天皇の戦争責任はむろん否定できない。しかし、傍証は十分ではないとはいえ、天皇がマッカーサーとの会見で自分に全責任があると語ったように ( 『マッカーサー大戦回顧録 』)非公開の場では天皇は戦争責任を認めていた。戦後の各地への行幸も国民への贖罪の意味を持っていたと側近たちは理解していた ( 古川氏も ) 。昭和天皇の一生は戦前も戦後も腹ふくるることの多い生涯だったのではなかろうか。

2016年8月27日土曜日

朝ドラに思うこと

『暮しの手帖』社の女性社長がモデルとされるNHKの現在の朝ドラで、同誌が始めたユニークな商品テストの一つが昨日再現されていた。各社の十数種?のトースターで計一万枚以上の食パンを焼いたテストで、なかには火を出すものまであり、欠点のないトースターは皆無だった。現実がドラマそのままだったかは確言できないが、凄いことを企画したと同誌の本気度に驚いた。

しかし、同誌のテスト結果の公表で自社のトースターが売れなくなり倒産の危機に陥った小企業の経営者に怒鳴り込まれ、ドラマでは主人公が深刻に悩むことにもなった (結末は経営者がテストの趣旨を理解したことになっている )。なるほど、消費者のための文句無しに立派な企画が思わぬ結果を生むことがあると知った。

それと同じとは無論言わないが、同業各社が裏で「談合」して官庁の発注案件を高値で受注する独占禁止法違反行為が後を絶たないようだ。国民の納めた税金を不正に利用することが許されない行為であることは明らかである。しかし、日常的に業界団体などで交流する各社のうち最低値をつけた一社が100%受注し他社が0%という結果は、米国の企業風土では当然であっても日本の企業風土では躊躇されることは日本人の私には理解できる面もある。正当な手続きの結果なら競争力に劣るものは敗れるのは止むを得ないとしても、参入できなかった企業の社員まで敗者となるのは仕方のないことなのか ( 私の周囲でも現に見聞する )。ドラマの中の小企業はどうなったのだろうか。

2016年8月22日月曜日

盛会に終わったリオ・オリンピック

。リオ・オリンピックが無事、盛会のうちに閉会となった。開会式がそうだったように閉会式も当初予算を十分の一に削られたわけではなかろうが、少ない予算をブラジル人の大好きな歌と踊りと電子技術によるバーチャルリアリティ効果 ( 日本の協力もあったとか ) で補い、立派な式典となった。聖火台も斬新でよかった。ラテン的な芸術的才能と言ったら言い過ぎだろうか。     
                                                                                                                                                             一方、大会直前までの治安や準備不足への危惧はいくつか現実となった (『朝日』8月19日 )。開会式ではナイジェリア国歌の代わりにニジェール国歌が演奏され、中国国旗のデザインの誤りは大会7日目まで正されなかった。プールには過酸化水素水が誤って投入され藻が発生し水が緑色になった。大会ボランティア5万人のうち1万5千人は姿を現さなかった ( 制服が欲しかっただけ?)。しかし組織委員会の広報氏は、「誰にでも間違いはあるし、ミスは必ず起こる。入念な計画よりも、軽やかな挽回が大事なんだ。何事も完璧を求め過ぎないことさ」と動じる気配は無かった。

むろん大会準備は万全に越したことはない。とくにテロ対策は重要だ。しかし大会があまりにピリピリした雰囲気に終始するのも望ましくないし、運営の失敗をあまり厳しく問題視したくない。ときにはスポーツ ( 原義は気晴らし ) なんだからと割り切ることもあって良いのでは。メダルを得た選手たちの多くがインタビューで次の東京大会の目標を口にするのは真面目すぎる ( 外国の選手たちもそうだろうか?) 。まずは自分が好成績を得た喜びを噛みしめ、華やかな大会の雰囲気を満喫して欲しい。これまで並大抵でない努力を重ねたのだから。

2016年8月20日土曜日

多文化共生の難しさ

今朝の『朝日』はドイツで、イスラム教徒の女性が全身を覆うブルカやニカブを着用することを公共の場で禁止する方向で検討すると伝えている。ドイツもやはり禁止かと感じたが驚きはなかった。この問題の先進国?フランスでは既に、もっと露出度の多いヘジャブさえ学校などでは着用禁止と聞いている。フランスほど世俗主義をとっていないドイツもフランスの後を追うことになる。    

アラブ諸国からのイスラム移民が多数のフランスと異なりドイツのイスラム移民は従来、政教分離をいちおう建前とする国のトルコ人が中心だった。しかし最近はドイツでもイスラム信仰のあついアラブ系の移民難民の割合が上昇し、今回の再検討の動きとなったのだろう。むろん一連のアラブ系のテロ事件もきっかけだろう。

仮に政策変更となっても私は止むを得ないことと考える。以前にも書いたことだが、ブルカやニカブを着用すると男女の別すら判然としない。多文化主義が叫ばれる現代でも、以前からの住民は異文化に寛容であるべきだが、移民難民の側もある程度現地の文化に順応しなければ文化摩擦は無くならないだろう。

戦前のわが国に住んだライシャワー一家では、日本人の下手な英語を笑いのタネにする米英同胞への反感から、自分たちは日本に住まわせてもらっていると教えられていた。多くの外国人が来日し日本経済のために貢献している現在と当時とは異なるし、旧植民地出身者を特別扱いするのは各国でも普通のことのようだが、「郷に入れば郷に従う」とのことわざは現在でも必ずしも時代遅れではない。人間心理は時代により大きく変化しないからこそ現代の我々が過去の文学を理解し共感することが出来るのではなかろうか。

2016年8月18日木曜日

善意あふれるわがまま ( 続 )

8月9日に表題のブログを書いたが、その後の憲法学者らの発言は奥歯に物が挟まったようなものが多かったと思う。両陛下の体調を考慮しての同情からか、皇室に関して何か発言して反発を招いてもとの警戒心からかは分からない。私とても「わがまま」との表現は、このブログが直接コメントを寄せられない仕組みでなかったら炎上を恐れてもっと穏当な言い方をしていたかもしれない。

今朝の東京新聞に横田耕一九州大学名誉教授が天皇発言について書いた記事 ( インタビュー?)は率直で、我が意を得たものだった。氏はまず天皇発言には「憲法的に賛成できない点がいくつかあります」と、逃げることなく正面から受け止める。憲法上「天皇がしなければならないのは国事行為のみ」であって、その他の公的行為には法律に規定はない。しかるに、「天皇陛下の忙しさはその多くが公的行為なのです」。したがって少なくとも行う義務はない (と氏は言外に言っている )。両陛下の望む「皇室典範の改正は...........差し迫った状況で慌しくやる議論ではないと思います」、もっと根本から「『天皇の公務とは何か』から考え直す必要があるのではないでしょうか」とする。

私は両陛下がフィリピンや旧南洋諸島などで戦没者の霊を慰め、現地の人たちに与えた被害をお詫びすることに何の反対もない。むしろ、よくぞ実行されたと尊敬する。しかし震災地訪問などで膝を床につけて住民と対話されることには違和感を持つ。体力的にもそこまでやる必要はないし、国民と同じ目線でということなら、物理的に同じ高さで話すこととは別のはず。被災者が立ってまたは車椅子で陛下を迎えれば十分だと思う。欧米での生活体験のある雅子妃は異様と感じておられるのでは。次代に受け継がれる必要はないし、私はそれらすべてが彼女の病気の一因ではないかとさえ思う。私は善意も誠意も多ければ多いほど良いとは思わない。自己満足にならぬよう、周囲への影響まで考慮すべきだと思う。

2016年8月17日水曜日

オリンピック団体戦のメダル

まだ途中だがリオ・オリンピックでの日本人選手の成績は予想以上?のようだ。オリンピックは国家間ではなく個人間で優劣を競う競技会だと分かっていても自国選手の好成績は嬉しいし、なぜか団体戦のメダルは嬉しさ倍増である。

今日現在でも、体操男子、男子競泳のメドレー・リレー、男子卓球、女子卓球での日本人選手のメダル獲得に個人戦のメダル以上に感動するのは私だけてはないのでは。選手たち自身も個人戦のメダル獲得以上に喜んでいるように感じる。仲間への負担となってはならないとの意識からやっと解放されたからか。

むろん外国の選手たちも団体戦のメダルを喜んでいるが、日本人選手ほどではないように感じる。ヨーロッパの卓球選手チームには各国とも中国人が必ずのように加わっている。自国の代表チーム入りは困難な選手たちが国籍を変えて出場している。ルール違反でも何でもないのだろうが、オリンピックは個人間の競技とこれまで口にして来た私でも何故か違和感を覚える。私は狭量なのだろうか。勝敗を度外視している?猫ひろし以外に日本人には考えにくいのではないか。

団体戦ほどではないとしても個人戦でのメダル獲得もむろん素晴らしい。今日まででは、絶体絶命のピンチから立ち直って銅メダルを得た重量挙げの三宅宏美選手が、試合後使用したバーベルを抱きしめて感謝している姿には心を打たれた。他にも感動的なシーンは幾つも見たが、三宅選手の謙虚さは長く私の記憶に残るだろう (あと何年生きられるつもり?!)。

2016年8月16日火曜日

池内恵氏の『サイクス・ピコ協定 百年の呪縛』を読む

中東の混乱した情勢はまだ解決には程遠いが、そうした混乱を生んだ元凶としてしばしば糾弾されるのが百年前の1916年5月に英仏二国間で結ばれた秘密協定、サイクス・ピコ協定である。西洋帝国主義、植民地主義による中東の不当な分割の代表例と多くの「識者」が言及する。

しかし、私は以前からそうした決めつけに疑問を抱いてきた。なぜなら第一次大戦までのシリアを中心とした中東地域はオスマントルコ帝国の支配下にあったのであり、独立国を分割したわけではない。そこに西欧大国の植民地主義的動機が働いたことは疑いないが、トルコの敗北後そのアラブ民族支配が継続されるのでない限り何らかの戦後構想は必要であったし、当時のアラブ地域の部族中心の社会では直ちに独立国家群を予想しなかったのは無理もなかった。

ところが英国の支援を得たメッカの太守フサインの兵力が大戦末期に自力でダマスカスを占領したことは予想外の事態だった。当然フサインはパリ講和会議でアラブの大義を主張した。しかし、反トルコ蜂起後のフサインの勢力は一時軍艦の艦砲の届く範囲内の狭い地帯に閉じ込められ、英国の支援無しには存続すらできなかった。

今年5月に刊行された池内恵『サイクス・ピコ協定   百年の呪縛』(新潮選書)は「サイクス・ピコ協定ほど、批判と罵りの対象になった外交文書もめずらしい」が、それは「中東の国家と社会が抱えた「病」への処方箋だった」と判断している。それが中東問題の解決にならなかったことは明らかである。しかし、百年後の今年5月、米国とロシアの間で成立したシリアでの「敵対行為の停止」の合意が、アラブメディアでは「またも外部の超大国の取り決めでアラブ世界の運命が決まるのだ」とも論評されているという ( 「米露間ではシリアの新憲法についての交渉も開始されているという」)。現在も百年前と同じ状況 ( 中東の病い ) に直面しているとも言える。

中東だけでなく世界では、外圧により近代世界に無理やり引き入れられた地域は少なくない。そうした場合、地域の近代化にとって百年は決して十分な長さではない。

ともあれ本書は示唆に富んだ中東問題の解説書だと思う。ウェルベックの『服従』を書評欄で取り上げた新聞は私の知る限り一紙だけだった ( イスラム教への遠慮?)。本書がどれだけ書評欄で取り上げられるかは各紙の中東理解の成熟度のリトマス試験とも言える。

2016年8月9日火曜日

善意あふれるわがまま

今朝の新聞各紙はオリンピック報道に劣らず現天皇の生前退位関連の報道であふれている。私は詳しく目を通す気になれない。

私は陛下と同年なので、2歳下?の美智子皇后ともども体力の衰えを理由とする退位願望はよく理解できる。しかし憲法に定められた国事行為以外の地方訪問などの行事は体力の許す限り行えば良い。それ以上のことは皇太子や他の皇族に分担してもらえば良い。

両陛下が象徴としての強固な義務感を抱いておられることは国民の誰もが知っている。しかし、ときに何もそこまで為さらなくてもと感ずるのは私だけだろうか。公務に重要度で差をつけたくないのと御心と伺うが、物事には軽重の差があって当たり前である。今のやり方を守り通すのは次の天皇皇后 (  現皇太子と雅子妃 ) にも同じ負担を強いることになる (  さもなければ御両人は公務に熱心でないと見られるだろう )。程度を越す善意はときに我がままともなる。

海外では国王の生前退位は珍しくないようだが、英国のエリザベス女王はまだ退位せず頑張っておられる。だが、訪問国の国民はウイリアム王子とその家族の訪問を女王の訪問よりも喜ぶのではなかろうか。王族の役割は相手国に自国への親しみを感じさせることが重要であり、残酷なようだが老人にはその点で限度があろう。

皇室典範の改正は上皇?の地位や権能など、一年程度で決着がつく問題ではなさそうだ。女性天皇創設まで踏み込むならば改正に賛成だが、秋篠宮家に男児が誕生した途端に女性天皇の論議がストップした現状を見ればその可能性は乏しいだろう。私は何時とも知れぬ典範改正よりも摂政を立てる ( そのための改正なら時間を取らないだろう ) ことで解決するのがベターと考える。それが両陛下の希望に反するとしても。 

2016年8月8日月曜日

訂正

図書の購読と書いたが閲読の誤り。機械が間違えた?!

イスラム教国フランス

2022年のフランス大統領選挙が一位のマリーヌ・ルペン国民戦線党首、二位のイスラム同胞党候補、三位の社会党候補の三すくみとなったフランスは、ルペンを「ファシスト」視する社会党が決選投票で二・三位連合を組みイスラム教徒の大統領の誕生を見たとする近未来小説『服従 』(ミシェル・ウェルベック作 ) が話題を呼び、邦訳本も出た。私は自ら購入するほどの熱意は無かったが興味はあったので図書館の十数人の購読希望者の末尾に加わり、半年後にようやく読むことができた ( 多摩市はけっこう文化都市?)。

フランスがイスラム教国になると言ってもテロや戦争によってではなく、選挙と政党の政略で変わったわけだが、その後の変化は大きかった。酒類を売るバーは閉鎖され、列車の食堂は豚肉はご法度のハラールメニューを用意した。それは序の口で、全ての学校で男女共学は廃止され、女子学生は全員ヴェールを着用する。パリ大学はサウジアラビアの資金に買収され、女性教授は解雇。豊富な資金で給与が三倍となった男性教授はしだいにイスラムに改宗した。全女性が労働市場から姿を消した。

しかし本書の注目点は以上の変化を単に家族重視のイスラムの子沢山 ( 産児制限はご法度 ) が生んだ土着フランス人の数的劣勢に帰するのではなく、フランス伝統の個人主義、人間中心主義がイスラム教の「神への無条件の服従」の教義に太刀打ちできなかったことを理由としていることである。本書の主人公は40歳台?のプレイボーイのパリ第三大学教授 ( 文学 )。何ら非難されることなく多くの女性 ( 学生も ) と関係を持ってきた。しかし多くの同僚と同じくしだいに西欧個人主義に疑問を抱くようになり、自由よりも服従に心惹かれたのである。

40歳台の妻と15歳の妻を持つ学長の、「女性が男性に完全に服従することと、イスラームが目的としているように人間が神に服従することとの間には関係があるのです」「イスラームにとっては ( 他の宗教とは )反対に神による創生は完全であり、それは完全な傑作なのです」との説得を主人公は受け入れる。

本書はつまり西欧の個人主義や人間中心主義がコーランの説く「神への絶対的服従」に敗れる物語なのであり、イスラム教の勝利というより西欧的知性の自滅の物語なのである。むろん作者の予想がそのまま現実になるとは限らない。しかし、イスラム勢力の中でも原理主義者がリーダーシップを握れば事態の悪化は小説以上ということもあり得る。100年、200年後にフランスの人口の半数が確実にイスラム教徒に占められるとすればウェルベックの『服従』を妄想の産物とは片付けられない。

2016年8月6日土曜日

リオ・オリンピックの開会式

リオデジャネイロのオリンピックの開会式を同時中継で見た。熱心なオリンピック・ファンではないので北京やロンドンの開会式を良くは覚えていないが、それらと比較しても今回の開会式は見劣りしないし、むしろ上回っているのではないかと思った。北京やロンドンも自国の過去を再現して印象的だったが、ブラジルの場合、歴史は両国に及ばない長さでも世界から多様な移民を受け入れた結果、イベント自体が多様性に富んでいた。

開会式前のブラジルは治安の悪さ、会場や選手村の不備、交通機関の準備の遅れなどをメディアがひんぱんに取り上げた。国民の半数がオリンピック開催に反対と報ぜられ、じじつ式の直前にも会場前の反対デモを催涙ガスを使って鎮めた。現在の同国の政治経済の混迷を考えればデモも理解できる。しかし私は競技が始まりブラジル選手が活躍すれば空気は一変するのではないかと予想していた。これだけ立派な開会式を成し遂げたことは彼らの自信を高め、競技を待たずとも空気を変えるのではないか。愛国心とか国民意識というものはそれほど根強く、ある意味危険となりうるものだろう (終わる頃には私自身も変わっているかも!)。

前回 ( 前々回?)のオリンピックのシリア選手団の行進はそれなりの規模だったろう。国家とはこれほど簡単に崩壊するものだった。開会式ではキリスト教徒、イスラム教徒、ヒンズー教徒、仏教徒の選手たちがひとしく式の熱気に感動したと思うのに。せめてこの熱気と感動が映像を通して諸国民に伝えられ、宗教や領土で殺しあうことの無意味さを考えるきっかけとなって欲しい。そのためならブラジル人が負担する巨額の費用も努力も無駄ではない。

2016年8月3日水曜日

訂正

前回、杉尾氏が長野県知事としたのは参院議員の誤り。また、宇都宮氏の鳥越氏批判の激しさに、「淫行疑惑」の女性側の主張に真実味を感じたのかと疑っていたが、選挙終了後解禁した宇都宮氏のブログhttp://utsunomiyakenji.com/1040  によれば、応援演説を拒んだのはやはりそれが理由だったと読める。鳥越氏は選挙戦敗北の上に裁判まで抱え込んだ。自業自得と言えばそれまでだが。

選挙 内と外

新聞でもテレビでも安倍改造内閣の顔ぶれが次々と報道されているが、全然興味が湧かない。政権政党が変わらないなら大臣に誰がなっても大した違いはないというのはある意味幸せなことなのかもしれない。それより小池百合子都知事のニュースの方がよほど面白いということもある。「小池劇場」にはめられたとも言えるが、同氏のしたたかさを自民党も野党も私も見損なっていたようだ。選挙費用50億円が無駄でなかったとなって欲しい。

最近のこのブログで小池候補が「エジプト留学などで身につけた視野の広さ」と書いたとき、私は彼女の留学期間が5年間とは知らなかった ( 1年や2年では本物ではない!)。しかし選挙中、知事の課題として電柱の地中化を挙げたのには共感した。地震の際、倒れた電柱が道路を塞ぐ危険は大きいが、その他にも都市の美観の点でも東京は都心の一部を除き先進国の都市に比べて見劣りするからである。ともあれ、「抵抗勢力」を排して? 順調な航海をして欲しい。

米国ではヒラリーとトランプの戦いの行方はまだ見えないが、ヒラリーの大会演説 ( 出色の出来だった ) の結果か、彼女が取り敢えず優勢を取り戻したという。このままリードを保って欲しいが、共和党大会でのトランプの演説も中々のものだった。銀行業と証券業の分離を復活する ( 1929年の大恐慌の教訓として分離されていたのに近年復活され、リーマンショックの一因ともなった )との公約は、サンダースの支持者を味方にするため ( サンダースの公約の一つだったとか ) の策ではあるが、ヒラリーが言わない ( 言えない ) 公約ではある。先日、イスラム教徒の米兵の戦死者の父親の演説を代作呼ばわりし、国民の反発を招いているが、「英雄とされる軍人や遺族への批判は米国ではタブー」(『日経』8月3日 ) というのも健全ではない。日本政府の日中戦争の停戦努力に対し当時の東條英機陸相が、戦死者の「英霊に対し申し開きできない」と反発して日米開戦にまで至った歴史は苦い教訓である。当時の日本と現在の米国が同じだなどとは言わないが...........。 

2016年8月1日月曜日

宇都宮健児氏の鳥越批判

朝刊各紙に小池百合子氏の勝因がさまざまに考察されており、いちいち頷ける。逆に鳥越氏の敗因は底の浅い分析しか見られない。たまたまカーラジオを点けたらTBSの伊集院光の番組に宇都宮健児氏が招かれ発言していた。誰よりも早く都知事選出馬の意思表示をしながら後出しの鳥越氏のために出馬を断念させられた経緯は周知の通り。

宇都宮氏は野党統一候補となった鳥越氏への批判には積極的ではなかったが、「依頼はあったろうに何故、鳥越氏の応援をしなかったのか」との伊集院の質問には矢張り本心を隠せなかったようだ。氏は応援演説を求める組織や個人からの強い圧力があったと明かし、応援に条件をつけたが鳥越陣営に受け入れられなかったと答えた。さらに氏は、鳥越氏に「淫行疑惑」が生じたのなら説明をすべきなのに、自身で一言も説明しなかったのはおかしい。多年人権問題に関わってきた弁護士として納得できないと語ったのち、「保守派、革新派の違いよりも、本人の人間性の方が大切だ」と断言したのには驚いた。これが共産党の支援を受けてきた革新派の宇都宮健児氏の言葉とは.....。私は氏の信念吐露に打たれた。

鳥越氏はこれまで疑惑を持たれた各界の人に説明責任を何十回と要求してこなかったろうか。これでは与党の議席数が衆参両院で三分の二に達したので引っ込んでいられなくなったとの氏の説明はそのままでは受け取れない。元記者仲間の三反園氏と杉尾氏がそれぞれ鹿児島県知事と長野県知事に当選したのを見て世の中を甘く見たのではなかったかとの疑いを私は禁じ得ない。だからと言って知名度やテレビ人気を重視して宇都宮氏や古賀氏よりも鳥越氏を起用した野党各派の無定見を見逃して良いわけではないが。