2016年7月31日日曜日

神からの贈り物

朝日新聞の土曜版beの読者アンケートは数回前から「もういちど流行歌」というテーマで各年のある月のベスト15を公表している。なぜか最近の年から年代をさかのぼる形で続いている。最初の一、二回など知っている歌が皆無だったりして、何と最近の歌と無縁かと驚いた。

ということで、その後はせいぜいリストを一瞥するだけだったが、昨日のそれは1974年2月の曲ということで、10位までなら2曲 ( かぐや姫の「赤ちょうちん」とアグネス・チャンの「小さな恋の物語」)以外は既知の曲だった。

第一位の小坂明子の「あなた」は私も好きな曲で、小坂の透明な?声も美しいと感じていたが、今回、彼女が高校二年生のとき作詞作曲したものと聞いて驚いた。父がバンドリーダーだったなら矢張りDNAの仕業なのか。これでは修行とか努力はいったい何なのか! もっともその後彼女が作曲した二千曲はひとつも知らないが。

両人を並べても不謹慎ではないと思うが、フランスの国家「ラ・マルセイエーズ」を作詞作曲したルジェ・ド・リールは国民軍将校だった。すばらしい歌だが、「マリー・アントワネット」、「ジョセフ・フーシェ」などで知られる伝記作家ツヴァイクの『人類の星の時間』の中の「一夜だけの天才」によるとリールはその後音楽とは無縁だったようだ。突然神が乗り移った奇跡としか言いようがない( 学問的に「憑依現象」と言っては味気なさすぎる!)。北朝鮮に拉致された曾我ひとみさんが帰国後、佐渡への上越新幹線の車中で発した言葉はそのまま素晴らしい詩になっていた。二度と見ることはないかと思った風景を見て神が乗り移ったのだろう。

74年2月のベストテンの中では私は五位の「くちなしの花」が好きである。これまでカラオケバーにあまり縁がなく、全部で10回くらいしか経験がないが、「くちなしの花」は一度歌ったことがある。「カラオケの持ち歌だという男性も目立った」と評にあったが、やはり中高年男子の好みということか。

2016年7月28日木曜日

都知事選の行方

米国の大統領選挙と比べればスケールも重要度も違うし、東京都民以外の人たちにどれほど関心があるかはわからないが、都知事選はあと3日で決着がつくことになった。先週末の世論調査では各紙とも小池、増田、鳥越の順に最後の追い込みに入った。

私が都知事に求める資質は単純化すれば、1 ) 専門的素養の蓄積があること、2 )文化外交の当事者として適任か の二点である。そこで三人の資質を私流に判定すると、1の点では増田候補が一歩抜きん出ていることは認めたい。岩手県知事12年間の経験はやはり強みだろう。立候補後の最初の三者インタビューでも主張に最も具体性があった。その後、都政のムダを無くすための方策を問われて、ムダを無くす人材の登用がカギだ、職員はどんなムダがあるかをよく知っていると答えたのは説得力があった。文化外交の担当者としてどうかは不明だが、誰もが感じている地味さはマイナスではある。

小池候補は環境大臣を務めたのだから専門的素養がないとは言えないが、増田候補にはやや劣るだろう。そのかわり、エジプト留学などで身につけた視野の広さや語学力は三人の中で頭一つは優れていよう。初代の女性都知事ということもホスト ( ホステス?) 役として有利に働くだろう。

突然浮上したと自認する鳥越候補はやはり準備不足が否めない。最初の三者インタビューで都知事としての第一の課題にガン検診100%を挙げたのには耳を疑った ( いくらガン対策が大事だと言っても )。 ついで東京都を、働いてよし、住んでよし、環境によし ( あと一つ、忘れた!)の都市にすると述べたが、それらは目標であり、それを実現する手段である政策ではない。憲法擁護や原発反対は都政への具体策の乏しさをカバーするためではないかと疑われる。突然の「淫行」疑惑はまったく真偽不明だが不利に働くことは間違いない。

英国のEU離脱はブックメーカーの賭け率では5対1で負けていたが結果はご存知の通り。あと三日間に何が起こるか誰にもわからない。しかし、公私混同問題の舛添氏と今回の鳥越氏と、週刊誌の暴露記事が二人の将来の帰趨を決めるとすればそれで良いのかという気がしないでもない。いまは都民の成熟した大人の判断を期待するほかない。

2016年7月27日水曜日

訂正

前々回の1900年のパリ・オリンピックは1924年、ハロルドのオクスフォード大学はケンブリッジ大学、エリックの200米走は400米のそれぞれ誤りでした。記憶力の減退です! なお、『炎のランナー』は1981年のアカデミー賞を受賞しているようです。

既視感のある風景描写

今朝、どこかのテレビでアニメ映画の新海誠監督が紹介されていた。私にはその名前は初耳だったが、最近その作品が海外で注目されていると言う。見たことがないので作品自体については何の感想もない。ただ、断片的だが紹介されたいくつかのシーンは太陽光を逆光で美しく捉えた風景が多かった。「アナと雪の女王」は氷の美しさをアニメで巧みに表現したことで画期的だったと聞いたように記憶するが、今回は逆光線の巧みな表現がそれに当たるということのようだ。

新海監督は長野県東部の小海町出身で、故郷の自然の美しさに早く目覚めたが、アニメ映画の中の風景描写としては宮崎駿監督の作品にもっとも心惹かれたという。私はそもそもアニメ映画をそれほど見ていないが、「隣のトトロ」をはじめとする宮崎作品の風景描写の美しさについてはこのブログでも言及したと記憶する ( 計300余回ともなると確かではないが )。空を入れた何でもない風景が、あゝ、こういう風景に出会ったことが有るよなと懐かしく感じる点で新海氏に同感である。ある意味でフェルメールの「デルフトの眺望」に共通する!

私がブログ名に借りた徳富蘆花 (健次郎 )の『みみずのたはこと』の良さも文章で同じ既視感を強く感じさせる点にある。初期の『自然と人生』ほど有名ではないが、『自然と人生』の文章が名文ではあってもいかにもそれを意識した名文であるのに対し、『みみずのたはこと』のそれは毀誉褒貶を度外視した感じの素直な文章である。作中の「安さん」という短編は、しばしば居宅に立ち寄ったおとなしい乞食の安さんの死を聞き、「秋の野にさす雲の影のように、淡い哀しみがすうと主人の心を掠めて過ぎた」と結んでいる ( 一部の漢字を現代式に変換 ) 。深く哀しく思う間柄ではない人物への前半の比喩がじつに巧みである。こういう感慨が人生には有るよなと感じさせる。映像と文章の違いはあってもどちらも心に残る表現と感じる。

2016年7月25日月曜日

ロシア選手のリオ・オリンピック参加

IOCはロシアの国家がらみのドーピング違反にもかかわらず、違反者以外のロシア選手のオリンピック参加を排除しないとの方針を決めた。IOC内部でどんな力学が働いたかはまだわからないし、反対論にも一理も二理もあると思うが私は参加を支持したい。

旧ソ連圏ではかつて国威発揚のため ( 共産主義発揚のため?)、国家が大規模にスポーツ選手を援助し、メダリストともなれば栄誉だけでなく一生豊かな生活を保証された。いま思えば薬剤も大いに使われただろう。ロシアと名を変えてもその悪しき伝統は未だに残っていたとは。IOCの今回の決定でも果たして何人の選手が検査をパスするかは分からないし、開幕まで十日という現在検査が完了できるかも危ぶまれる。

それでも例え少数でも無違反者がオリンピック競技から締め出されるのは不当である。オリンピックは国家間の競争ではなく、あくまで個人間の競争であるとあれほど説かれてきた筈。検査が間に合わなければ事後メダルを剥奪すれば良い。一部?のメディアではロシア選手排除の結果、日本選手が有利になる種目はどれかなど推量している。浅はかというほかない。体操の内村航平選手は今回のIOCの決定を歓迎している。異論の余地のないチャンピオンになりたいのだろう。これこそ真のスポーツマンだろう。

これまで私が見た映画のなかでも十指に入りそうなのが、偶然テレビで見た「炎のランナー」である ( 世評は知らなかった ) 。1900年のパリ・オリンピックに出場して金メダルを取った二人の英国の陸上短距離 ( 100米 ) ランナーの物語である。一人はオクスフォード大学の学生?だがユダヤ人への偏見に苦しみ、一人は競技当日が安息日の日曜になったため出場を辞退し、予定外の200米走に出場し両者とも優勝した。後年、前者は人種偏見を克服して英国スポーツ界の重鎮となり、後者は神への献身を貫き中国で宣教師の生活を送ったという。今日ではテーマ音楽のみ有名だが、真のスポーツマンとは何かを示唆して印象深い映画だった。



2016年7月23日土曜日

訂正

前回、トルコの「政経分離」としたのは「政教分離」の誤りです。

エルドアン大統領の逆クーデター?

トルコ軍部のクーデターが失敗した。選挙で選ばれた政府を武力で打倒するのは本来認められない。世界の指導者たちが一斉にクーデターを非難したのは当然である。エルドアン大統領の強権政治に内心危惧を抱いても、対IS作戦での協力やシリア難民の受け入れを依頼する立場からも一応そうせざるを得ない。

トルコ国民の大多数がクーデター制圧に協力的だったことは事実のようだ。トルコは発展した近代国家であり、過去に再三あったように政府が軍部のクーデターにより退陣させられることを繰り返してはならないとの市民の決意があったのだろう。トルコ国民の成長のしるしとも解せられる。

しかし政権は「テロ組織関係者をすべて排除するため」九千人近い軍人や裁判官らを拘束し、六万人近い政府職員や裁判官や学校教師らを解任や資格剥奪にした (『朝日』7月22日)。驚くのは数字だけではない。クーデター直後にこれだけの処置を断行したことは、それ以前から拘束や解任の長大なリストが準備されていたことを疑問の余地なく示している ( 反対派には当然その情報は届いていたろう ) 。クーデターが政権側の自作自演だったとは思わないが。


作家の佐藤優氏は『東京新聞』(7月22日)の「本音のコラム」に、「トルコに民主主義が定着していて..........民主的選挙で選ばれた大統領を支持したという見方に筆者はくみしない」、「クーデターの失敗の理由はエルドアン大統領の拘束や殺害に失敗したからだ。トルコの民主主義は脆弱だ」と記している。反乱軍がもし大統領の拘束や殺害の写真を発表していれば形勢は逆転していたろうというわけである。私はそこまで断言したくないが、もし現政権の強権政治がさらに強化されるなら「トルコの民主主義は脆弱だ」との意見に賛成せざるを得ない。

意図した結果とは言わないが、現下のトルコ情勢はエルドアン大統領の逆クーデターの様相を呈している。ケマル・パシャ以来の百年近い政経分離が破棄されるならトルコはやはりヨーロッパとは異質な国だと言わざるを得ない。

2016年7月21日木曜日

シルバー民主主義

最近、シルバー民主主義という言葉にしばしば出会う。その意味は「老人の老人による老人のための民主主義」とでも言ったらよいだろうか。人口で他の世代に優越する老人の票が老人層の利益を排他的に守っているということであろう。それに文句があるなら壮年や青年 ( いまや18歳から!)はもっと投票所に行けというのは理屈として間違っていないが、独裁国家のように投票を暗黙裡にでも強制することはできないし、暇な老人の投票率に勝ることは難しい。

シルバー民主主義が問題視されるのは具体的には限られた国家予算が高齢者の年金や医療費に過剰に使われていると言うことだろう。現在の年金額が多くないと言っても、将来は現役世代の二人の収入が老人一人の年金を負担する ( 制度発足時には十何人で一人だったとか ) ということなら相対的には多額だと言える。 さらに毎年1兆円づつ増える医療費の大部分が老人医療費のようだ。

老人の一人として無論言い分はある。NHKの朝ドラで目下連日紹介されている戦後の絶対的貧困を我が国が脱したのは老人世代 ( 私のというより主に私の父母の世代 ) の努力による。当時「酷電」と呼ばれた超満員の電車で毎日通勤した人たちの苦労だけでもよくぞ我慢したと言いたくなる。政府の「持ち家政策」に乗せられてローンで入手した自宅は確実に次の世代に相続される。高齢者は年金も医療費も相当に遇されて良いとの意見もあろう。

しかし医療や年金の制度を支える世代の人間が大幅に減少するのが確実である以上、老人福祉は何処かで制限せざるをえない。さしあたりすべての老人が医療費を最低2割負担することは急務であり、消費税も手遅れにならないうちに10%以上にすることが必要だろう。特に前者は世代間の公平のために必要である。民主主義になったが故に後世の財政破綻が避けられなくなったと後世から言われないようにしたい。

2016年7月19日火曜日

民族と国籍

我が国の国立西洋美術館を含むルコルビュジエの建築作品群が世界文化遺産に登録されることになり、日本の関係者も喜びに包まれている。その筆頭に台東区長が加わっており、私など、「えっ、上野は台東区だったの?」と無知をさらけ出す結果となった。地元が沸くのは当然だが、世界遺産を観光資源と受け取りがちな他の例に習ってほしくはない。

ルコルビュジエを紹介する新聞各紙は、スイス出身とことわりながらも「フランスのルコルビュジエ」と記している。じじつ途中でフランスに国籍を変更したという。ルソーの昔からフランス系スイス人とフランス人との国籍の違いは問題にされないようだ。

スイスはドイツ系、フランス系、イタリア系の民族が使用言語はまったく違っても一つの国民として共存する。それでも第一次世界大戦時には流石に各民族間の緊張は極度に高まったが、国民としての一体性はかろうじて保たれ、その後定着した。だが、それは稀な例のようだ。いま世界ではいたるところで一国内の多数派民族と少数派民族の争いがある。ヨーロッパでも何十年と続いたチェコスロバキアは二つに分かれて今は存在しない。ベルギーではフランス系とオランダ系の対立が続いている。

30年ほど前、ブリュッセルの日本料理店で日本に関心を寄せるベルギーの青年と偶然テーブルを共にした ( うがった見方だが、外国人にとってその国の日本料理店は日本人とのコネを作る一つの方法でもあるのでは?)。いろいろ話題をかわした中で私が、「君はワロン (フランス系 )かフラマン ( オランダ系 ) か」と聞いたら「私はベルギー人だ」と強い調子で返され、赤面したことがある。しかし、ベルギーがチェコスロバキアのように将来分裂する可能性は絶無とは言えないようだ。EUの存在、ともにEUの一員であるということで分裂を防いでいると読んだ記憶がある。

西ヨーロッパから他地域に目を移せば、至るところで多数派民族と少数派民族との流血の争いが続いている。今度のトルコのクーデターは民族対立とは無関係のようだが、同国は第一次世界大戦中のアルメニア人虐殺や現在のクルド人との衝突と民族問題の解決に難渋している。トルコに限らず多数派により大きな譲歩を期待したい。フィンランドはスウェーデン人を少数民族 ( 約1割 ) として抱えているが、道路の地名は両国語で表示されていると聞く。

トルコが抜きんでた親日国と聞くだけに問題を理性的に解決して欲しい。私は我が国の死刑制度に反対ではないが、伝えられるようにクーデターを機にトルコが死刑復活を考慮するようでは念願のEU加盟は遠のくばかりである。もっとも英国離脱でEUの魅力はこれまでとは違ってきたが.......。

2016年7月16日土曜日

ニースの惨劇

南仏ニースの祝日の花火を楽しんでいた人々へのテロで百人近い死者が出た。ちょうど50年前、英国の友人との初めてのフランス旅行 ( 二人とも )で写真を撮りあった「英国人遊歩道」でこんなことが起こるとは。フランスの都市で安全と言い切れるところは無くなった。世界一の観光大国への打撃ははかり知れない。

犯人はISの一員ではなさそうだがイスラム過激主義の影響は間違いないようだ。昨年11月のパリのテロ事件後の政府の治安対策も効果はなかった。フランス政府への批判は高まるだろうが、異教徒に打撃を与えれば天国に迎えられると信ずるジハーディスト ( 聖戦主義者 ) の犯行を完全に防止することは不可能である。そうであれば移民難民への警戒を唱えるルペンらの言説は影響力を増すだろう。

フランスでは非常事態宣言がさらに延長される。しかしそれ以上に事件の影響が予想されるのは米国大統領選挙の行方である。イスラム教徒の入国禁止を口にしたトランプ人気は高まることはあっても低下することは考えられない。銃や爆弾が無くともトラックでも大規模テロが可能であることが示されたことは新しい脅威である。

我が国で同種の大規模テロが起きるとは私は思わないが、海外の邦人の危険増大は憂慮すべき事態である。バングラデシュでは我が国の最良の人たちが犠牲者となった。金銭の問題ではないとはいえ、日本政府の慰労金が僅か200万円とは信じられない。他方、在日バングラデシュ人がつらい思いをしていることには同情する。幸い我が国では彼らへの憎しみが見られなかったと信ずる。そのことは当たり前のようだが、日本国民の成熟を示すもので誇ってよいのでは。

2016年7月10日日曜日

硬軟両用は不可能か?

米国と韓国が北朝鮮ミサイルの迎撃システムTHAADの韓国への配備を決定した。韓国は配備に反対する中国を刺激しないよう、配備を迫る米国の圧力に抗してきたが、北朝鮮の相次ぐミサイル発射に中国への配慮を取り下げざるを得なかった。韓国駐留の米軍を守るためと言われればこれ以上の決定の先送りは不可能だったろう。

中国は猛反発しているが、今日の北朝鮮の現状に手を打たない中国に配備に反対する資格はない。そもそも朝鮮戦争で消滅寸前の北朝鮮を出兵により救ったことが今日の朝鮮半島の不幸の発端であり、その後も陰に陽に北朝鮮の政治体制を助けてきた。現在は考えを変えたとしても ( それすら確かではない ) 、手遅れである。日米韓三國のいずれにとっても配備は急務である。

しかし、金正恩氏やその取り巻き十人ほどに対し国民の人権の甚だしい無視を理由に名指しで個人的制裁を課したのは賢明だろうか。むろん彼らの傍若無人ぶりは目に余る。首領様への幹部の迎合ぶりや民衆の熱狂はもはや狂態と言うべきであり、嫌悪感を禁じ得ないのは私だけではあるまい。しかし、そうした狂態や人権無視は祖父金日成や父金正日の遺産であり、金正恩はそれを継承したのである。功績をあげた故の権力継承で無いことは本人の不安をかきたてる。権力の完全掌握前の改革は危険を伴う。性急に変化を期待するのは正しいだろうか。

ミサイルや原爆の実験は日本にとって見過ごせない脅威だが、北朝鮮にとって米国を交渉に引き込む手段と見ることもできる。そうであれば非難や制裁で開発を中止するはずはない。それよりまだしもトランプ氏の北朝鮮に乗り込んで直接交渉するとの発言に事態打開の可能性がある ( どこまで本気かは別とし、方法として ) 。戦争による北朝鮮の「解放」は誰も ( 韓国人も ) 望んでいないだろう。

他国に自国の道徳基準を当てはめることの誤りはイラク戦争から学んだ教訓ではなかろうか。フセイン政権は隣国イランに対し、自国のクルド人に対し毒ガスを使用する政権だった。米国に住むイラク人が、「イラクをせめて他の中東諸国並みにして欲しいだけだ」とフセイン打倒を願ったことを思い出す。しかし結果はご存知の通りだった。

2016年7月6日水曜日

原爆投下と国家間の和解

昨夜のNHK   BS1の「国際報道」 ( 夜10時~ ) で、オバマ大統領と言葉を交わした被爆者2人のうちの1人の原重昭氏のことを短くだが改めて取り上げていた。同氏は原爆で死亡した12名の米兵捕虜のことを40年間調査した人としてオバマ広島訪問の際にも注目されたことは記憶に新しい。米国人にも殆んど忘れられていた死亡捕虜たちを多大な困難を克服して調べ上げた氏を大統領が抱擁したのは理解できる。
原重昭氏にとっては日本人であれ米国人であれ被爆者であることに何の違いもなかったことが、大統領の感動を呼んだのだろう。米国でも広く報道された ( 一部に批判的新聞もあったらしいが )ことは一個人として原氏は日米の和解に多大の貢献をした人と言えよう。

米国による原爆投下が一般市民を無差別攻撃した国際法違反行為であることは間違いない。それ故にこそ米国は広島市民の反応を恐れ、公式謝罪となることを恐れたのであろう。しかし、広島市民も日本国民も原爆の正しい認識や核兵器の無い未来を謝罪よりも優先した。対照的に、オバマ氏の広島訪問を日本を免罪するものとした韓国新聞や中国政府の志の低さが今回あぶり出されたのは皮肉である。

長い歴史を持つ国はむろん、建国後二百数十年の米国も汚れの無い歴史を刻んできたわけではない。それを自覚すれば他国の過ちばかりを取り上げて謝罪にこだわるのは賢明ではないし建設的でもない。そのことを身をもって示した原重昭氏の存在を讃えたい。

2016年7月2日土曜日

「正論」は常に正論か

朝日新聞に「モニターの目」という欄がある。300人の読者に「紙面モニター」を依頼して月一回自社の紙面を批判してもらっている。今月は舛添都知事の辞職を取り上げ、週刊誌の報道以前に「記者は知っていたのか」、「報道過熱、いじめに見えた」、「甘利氏の追求はどこへ」と読者の三つの疑問を紹介している ( 7月2日 )。

舛添都知事に関するメディアの報道に私がこれまで疑問を呈してきたのは、外国出張が贅沢旅行だったとの報道はメディア側の知識不足であること、他の都知事の先例と比較した上での非難とは思えなかったこと、都知事に必要な専門的素養や文化的素養の点で彼が不適格な人間とは思えなかったことなどがあった。それらを繰り返したくないが、都知事の旅費規定 の宿泊費 (  4万円とか5万円とか ) は今では非現実的だし、司法、立法、行政の三権の長の航空料金がファーストクラスということならその次には都知事は有資格者だろう。厚労相を務めた彼の専門的素養も、外国の政治家や文化人の表敬訪問へのホスト役としての彼の学問や芸術面での素養は役立ったろう。次の都知事候補と取り沙汰される人たちはどれも前知事以下としか思えない。

メディアの舛添非難の洪水の中では、朝日新聞と東京新聞は途中からではあるが少なくとも異論を紹介した。前者は「声」欄に「集団的いじめではないか」との投書を載せたし、東京新聞は以前本ブログで紹介した宮子あずさ氏の「本音のコラム」での高額旅行費弁護の他にも、「もっと巨悪に立ち向かって」( 6月17日 )との投書や、日ごろ野党的立場で知られる山口二郎氏の「私は、同氏が辞めなければならないほどの悪事を働いたのかという疑問を持っている」、舛添氏が「さもしいと思う」が、「叩いても安心な人物は嵩にかかって攻撃する日本のメディアもまた、さもしいと感じた」とのメディア批判を載せている ( 6月19日)。

今朝の「モニターの目」の朝日新聞批判に対し、同紙の東京社会部次長は「厳しく ( 知事の )責任を追求しながらも、新聞ならではの冷静で多様な論点を提示する方法がもっとあったのではないか。いまでも自問自答している」と答えているのは救いである。他の全国紙は見習って欲しい。本当の危険はむしろ画一的空気にあるのではないか。

数日前、テレビ東京は池上彰氏司会でスタジオに100人の各世代の視聴者を集めて意見を聴取したが、舛添氏は辞めるべきだったとの意見が96対4で多数だった ( やはり...........)。反対意見は1 )再選挙に50億円かかるから    2) 責任をとるイコール辞めるではない、3) ( 残りの任期を)タダ働きさせるだった。舛添氏も給与削減などと中途半端な提案をせず、全額返上と最初から言うべきだった( もっと批判に敏感であるべきだった )。