1944年12月7日の東南海地震のことは当ブログにも書いたと記憶するが、その37日後の45年1月13日の三河地震の恐ろしさは別種のものだった。未明に発生した三河地震の揺れは東南海地震のときほど大きくなかった。しかし、今回の熊本地震と同様、間断なく襲ってくる余震の恐ろしさは、どうせ余震だろうとたかをくくっていられるものではなかった ( 今回のように本震と思われた後にそれ以上の強度の本震に襲われたのは前代未聞だろうが ) 。
結局、翌日の夜は、ふすまを家型に建てた小屋で一夜を過ごしたが、近所にもそうした家は少なくなかった。今回もそうした写真を見かけたが、当時と異なりほとんど各戸にマイカーがある点では日本社会にも多少の進歩?があったと言える ( 硬い床で寝るよりは耐えられるはず )。とはいえ水とガスとりわけ前者の供給ストップは水道が普及してなかった1945年当時にはない困難である。今朝のテレビが報じた水不足の現地は、山村とまでは言えないが傾斜地に散在する独立家屋が舞台。ここまで水道化されているのかというのが正直な感想だった。
戦時中のことで両地震の報道は最小限に抑えられていたので、私は自分の体験から三河地震の人命被害は東南海地震よりもずっと少ないと思っていた。ところが死者数は東南海地震が1223名、三河地震が2306名と後者が多かったという ( 木村玲欧 『戦争に隠された「震度7」』 吉川弘文館 2014年 ) 。地震の規模 ( マグニチュード ) と被害は必ずしも比例しないのである。首都直下型地震が起こればどうなるのか。政府や自治体もだが個人としても対策や準備に本腰を入れる必要がある。
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