2016年1月26日火曜日

優勝力士の出身国強調

初場所での琴奨菊の優勝をほとんどのメディアは十年ぶりの日本出身力士の優勝と報じた。日本人ゆえの「快挙」扱いは扱いの大きさにも明らかだった。それに対し『朝日』の投書欄に「『日本出身力士』の強調はおかしい」との意見が載り、『東京新聞』には問題視する記事も載った。「その間に優勝した力士たちの努力や栄誉への敬意を欠く」、「出身国がどこであれ、幕内最高優勝という栄誉の価値は変わらないはず」など投書の内容は始めから終わりまで100%正しい。私自身、体重別のクラス分けのない相撲で、日馬富士や鶴竜ら軽量力士を常に応援してきた。

それでも私も十年ぶりの日本出身力士の優勝を喜んでいることは否定しない。それには五回の大関陥落の危機 ( 私は大関として不名誉極まるとさえ考えていた ) を努力で乗り越えての優勝という意外性や優勝後の琴奨菊の幸せそのものの笑顔も与って力あったが、何と言っても十年60場所の日本出身力士の空白に終止符を打ったことが大きいと認めざるを得ない。やくみつるが理由として白鵬らの賛成し難い所作 ( 『東京新聞』)を挙げていたのにも同感する。

理屈では『朝日』の投書子の絶対的正しさを認めながら十年ぶりの日本出身力士の優勝を喜ぶのは矛盾ではあるが、人間性は理想主義者の考える通りではないということだろう ( 開き直り?)。移民問題も同じこと。ハーフ生まれの人に子どもの頃いじめられた経験を持つ人が少なくないと聞くのは、子どもは本性のままに行動するからである。差異を超えるのは教育の結果なのである。しかし、危機 ( テロの場合も、外国人力士の優勝独占の場合も!)に際会すると、抑えられていた本性が頭をもたげる。それを計算に入れて制度設計はなさるべきなのである。それでも問題提起した投書の意義は認めるべきだろう。


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