私が最初に北海道を訪れた1970年代初め、最後の地函館には一泊しかしなかったので、五稜郭など立ち寄れなかった場所は多かったが、森昌子の歌でも知られる立待岬の入り口にある啄木一家の墓と、箱館戦争の旧幕軍の戦死者たちをまつる碧血碑には立ち寄った。当時は旧幕軍に参加した新撰組の残党や土方歳三も現在のようなブームには程遠かった。それでも碧血碑を訪ねたのは彼らを賊軍と切り捨てる官軍史観に反発したから。誇張して言えば函館は私には嘆きの地に思えた。さらに、啄木の「我泣きぬれて...........」や「函館の青柳町こそ悲しけれ.......」は私に函館を不遇と悲しみの町と印象付けた。
我が国の交通事故史上逸することのできない1964年の洞爺丸事件が起きたのも函館郊外の七重浜だった。乗客の米人宣教師が自分の救命具を他人の子供に与えて亡くなったエピソードは三浦綾子の『氷点』に出てくる ( たしか!)し、この事故を利用して北海道を脱出した犯罪者のの哀しい運命を描いた水上勉の『飢餓海峡』(と内田吐夢の同名の映画 ) も函館を語るとき忘れたくないエピソードである。
0 件のコメント:
コメントを投稿