2015年2月27日金曜日

テレビキャスターの死

フジテレビの元アナウンサーで他局の番組の司会も長年つとめ名が知られた宮崎総子さんが亡くなった。どの新聞の訃報欄でも仲代達矢の妻宮崎恭子の実妹と紹介されていた( 『日経』だけ言及せず。意図してなら見識である )。私は誤解して彼女の前夫( 離婚 )を、同じフジテレビの山川千秋キャスターと今日まで覚えていたが、同じ局の別の山川氏だった(どちらも離婚歴あり!)。

山川千秋は同テレビの初代ニュースキャスターとして同時期のNHKの磯村キャスターの向うを張った?が、二十数年前ガンで死に、当時そのことで話題を呼んだ。私は彼と小学校で五年半同級生だった( なぜかクラス替えが無かった)。記憶に誤りがなければ彼の父は海軍軍人。世田谷区は新開住宅地として軍人の所帯が少なくなかった。父親の職業欄に軍人と記入する同級生に対し会社員と記入する私は本当に肩身が狭かった。彼の母親は教育熱心で、普段の日に彼の弟を負ぶってよく授業参観に来た( 当時でもそういう親は稀だった)。

私はその後東京を離れていたので、彼が同じ大学に同時期に在学していたとは知らず、のちに私の教え子がフジテレビのアナウンサーと結婚した折、披露宴で30年?ぶりに再会した。間も無く新書版の『日本人が見えてくる本』(主婦と生活社)が贈られて来た。特派員として何年も欧米に住んだと知ったが、書中、欧米人は夜など観劇やコンサートによく出かける、日本人はテレビを見て過ごす、文化のレベルが違うとあるので、テレビ界の人間がそんなことを書いて良いのかとびっくりした。気骨がある人間だからか、外国ぐらしでKY人間になったのか、確かめる機会もないまま死なれてしまった。

死に急がなけれはもっと活躍したろうにと残念である。長男は山川冬樹という歌手兼パフォーマンス・アーティストだとか。

2015年2月25日水曜日

生活難の実体は?

ガストやロイヤルホストなどファミリーレストランで値上げした料理の人気が高く、経営の改善に寄与していると言う(『週刊ダイヤモンド』。ただしインターネット)。𠮷野家の牛丼も一挙に80円値上げしたと聞いて他人事ながら心配していたが ( 米国肉に固執する頑固さに感心していた)、売れ行きは悪くないとか。その理由として若い年齢層の客が減っても高齢者の客が増えているためという。
考えてみれば納得がゆく。若い夫婦の場合子供連れが多いから支払額はバカにならないだろうし、逆に高齢者は夫婦二人が多いから大した出費にならない。とはいえ今でもファミレスに子供連れの一家は少なくないし、学校帰りの高校生仲間も目に付く。メディアが物価高による生活難を再三取り上げるが半信半疑にもなる。

卵や牛乳など物価優等生だけでなく、もやしを始め進じられないほど安い食材は少なくない。肉類も貿易自由化のおかげで外国産は安い。昔は蒲焼や寿司は日常の食べ物では必ずしもなかったし、今でも店で食べれば安くないが、寿司などスーパーで手軽に買える。

食材以上に衣類は安くなった。私が社会人になりたての頃新着のスーツは布地から選ぶのが普通で、一着の値段は相当だったし、それが普通だったが、今は二着いくらの安さ。カジュアル衣料のユニクロは「日本を滅ぼす」(浜矩子)ことが心配されるほどの人気である。

衣食住のうち住居は相変わらず高価だが要求レベルが高くなったためもあるようだ(四十数年経つ拙宅は改築した家々に囲まれ肩身が狭い!)。共働きの夫婦にはそれほどの負担でないのか都心のマンションが人気だそうで、郊外は高齢者の街になりつつある。日本人の生活が苦しくなったとは思えない。物事を数十年のスパンで考えることはそもそも間違いなのか?

PS   「北斗星」の始発駅は今も上野駅でした。訂正します。

2015年2月23日月曜日

その顔見たくない!

今朝の新聞の投稿川柳に「新軍歌   世界平和のためならば」という句が載っている( 選者の寸評は「外せや外せ歯止めなど」)。この句の意味は75才以下の人には理解困難だろう。戦時中の軍歌の一節「東洋平和のためならば何で命が惜しかろう」を踏まえているから。

選者( この人の短評は何時も秀逸 )の選句の傾向が大方野党的なのは多少気になるが、世相や権力者の冷やかしという川柳の性格からある程度止むを得ない。少なくとも夕刊のコラム「素粒子」ほど一方的ではない。後者とても一行か二行で表現する必要上断定的にならざるを得ない側面はあるだろうが、物事はそれほど正邪の別がはっきりしているものなの( 筆者はいつからそんなに賢者になったの )と言いたくもなる。

今朝の川柳には珍しく?「出ちゃならぬときに出てくる困りもの」( 選者評は「元首相でもいい? と沖縄知事に面会」)と野党元代表鳩山由紀夫氏を槍玉に挙げている句が選ばれている。私も、普天間基地の県外移設を約束しながら「私の勉強不足でした」と主張を取り下げた氏が今更どのツラ下げてと思う。私の嫌いな政治家はむろん数々いるが、氏は小沢一郎氏と並んで最も顔を見たくない人物である。新内閣が発足すると野党もメディアも一年ほどは厳しい批判を自制するのに、その貴重な一年間を台無しにして民主党政権の顔に泥を塗った元凶の二人である。

鳩山由紀夫氏は東大工学部出身らしいが、優秀な家庭教師を長年雇えば東大くらい誰でも入れるという見本ではないか!! とにかく、鉄面皮という言葉がこれほどピッタリの人物は空前絶後だろう。

2015年2月21日土曜日

桜を唄った歌

今朝の新聞( 『朝日』be )に「あなたの好きな桜ソング」の読者ランキング20位が載っている。私が知っているのは1位の森山直太朗の「さくら」、3位の日本古謡の「さくらさくら」、5位の「夜桜お七」、8位の「同期の桜」だけ。最近の若者の歌を私がいかに知らないかが改めて分かった。森山と坂本の歌はテレビで随分聞かされたが特別の感慨はない。感慨が湧いたのは矢張り年齢相応の歌だった。

「同期の桜」はむろん海軍兵学校生徒を歌っているが、会社の同期会あたりでも歌われるだろうから、若い人でも知っている人は少なくないかも。戦時中、「ああ紅の血は燃ゆる( 学徒動員の歌 )」と並んでよく歌われたが、肝心の兵学校生にどの程度歌われたかは知らない。前の戦争は愚かな戦争だったが、若い人たちの純粋な心根には聞く度に厳粛な気持ちになる。「ああ紅の.....」も「花もつぼみの若桜....」とあるように桜を歌っているのだが、知る人は少ないだろう。釣り堀の丸太の柵の上でこの歌を歌った小学同級生Hが陶酔して? 歌いながら釣り堀に落ちた。釣り堀は今は住宅地になっている。

「さくらさくら」は私の好きな歌で、日本の国歌にふさわしいと思う。同じ意見を新聞の投書欄で見たことがある。フランスや中国の国歌など戦争から生まれた国歌が多い中で、「さくらさくら」は古雅で平和的で日本の国歌にふさわしいと思うのだが、どの政党からも無視されている。「君が代」に反対する人たちがいつまで経っても少数派なのは代わりの歌を提示しないからではないか。「君が代」が侵略戦争中大いに歌われたと言うならフランスやイギリスの国歌はそれ以上のはずで、私には反対理由たり得ないと思う。新しく作ると言ってもどんな歌になるか分からないでは多数の支持は永久に得られまい。私は単純に「君が代」よりも「さくらさくら」の方が音楽として気に入っているのだが(何しろ素人なので逆の意見も否定する気は無いが)。

2015年2月19日木曜日

トクヴィルの現代性

200年近く前、フランス人のトクヴィルは米国旅行の経験をもとに名著『アメリカの民主政治』を著した。まだ貴族制の名残のあるヨーロッパの人間のかれ ( 自身も貴族出身 )は米国社会の平等傾向に強い印象を受けたが、それが大衆民主主義下の同調圧力、多数派世論による専制を生む危険を警告した。

今朝の朝日新聞に、帝国論で思想界の注目を浴びたフランスのE.トッドの長文インタビューが載っている。彼は現在のフランスで『シャルリー』を批判する権利を口にすると相手は、「君は表現の自由に賛成じゃないのか、本当のフランス人じゃないな」と「決めつけられる」とこぼし、「今日の社会で表現の自由を妨げるのは昔ながらの検閲ではありません........。今風のやり方は (中略 )世論の主導権を握ることです」と語っている。

少し古いが2月8日の読売新聞の世論調査で、「政府は日本人が外国の危険な地域に行かないよう呼びかけています。危険な地域に行ってテロや事件に巻き込まれた場合、その最終責任が本人にある」との設問への回答は、イエスが83%、ノーが11%、答えなしが6%だった。いかにも誘導的な設問だが、そうでなくとも結果が逆転するとは思えない。だが、逆であってもなくても良い。問題なのは諸新聞の投稿欄に二人の人質の責任を指摘する投稿が全く見当たらないことである。そうした投稿がないはずがないのに、新聞が取りあげない (ふだんあれほど意見が対立している新聞がどちらも )。「死者に口なし」との諺があるが、現代日本では逆に死者への批判は厳禁となる。

今日、「世論の主導権を握る」のはマスメディアである。それが公正な報道をしないならば、「作られた世論」が支配的になる。トクヴィルの警告は現代の米国やフランスだけでなく、残念ながらわが国でも真理ではないだろうか。

2015年2月16日月曜日

寝台列車廃止とは悲しい

札幌から大阪まで日本海沿いを走る寝台列車「トワイライト」が雪のため25時間遅れで大阪に到着したという。この1週間で3回目の延着だが前2回はそれぞれ十数時間の遅れだったので今回が最長の遅れ。しかし途中の青森駅で東北新幹線に乗り換えた人は130人中30人。100人の乗客は新聞によれば遅れを「満喫」したという。JRの対応も万全だったようだが、いまどき多忙な人が寝台列車を利用する筈が無いので、「満喫」もウソでなかったろう( 私も乗りたかった !)。

私自身はトワイライトに遂に乗ることなく終わるだろうが、札幌までの「北斗星」はこの十数年間?に2度利用した。初回は「札幌雪まつり」のツアー ( 新庄選手の雪像の年 )で、まだ上野駅始発だった。札幌一泊で帰りも北斗星。現地では自由行動だったので当時札幌在住だった教え子(男性!)とも再会。 雪の小樽の散歩もでき満足一杯だった (「粉雪舞い散る」小樽駅の見送りの曲はやはり「小樽のひとよ」だった! )。二度目も確か上野駅始発だったが、阿寒湖や知床半島など定められた観光中心。帰路は女満別空港からの空路だった。正直、北斗星利用だから参加したのだが矢張り寝台列車の旅は楽しかった。

トワイライトも北斗星も出雲も車両が老朽化したから ( 海峡トンネルの新幹線との共用困難も) 廃止と聞くが、新造は割りに合わないのだろうか。南北に長い日本列島は寝台車利用に大変適していると思うし、急増が見込まれる外国人客も喜ぶと思うのだが。外国でもオリエント急行など古い車両を修理しながら使っているようなのに。寝台列車の情緒が自国で味わえないのは悲しい。

2015年2月14日土曜日

早くも訂正!

発信したばかりのブログのウチナンチューはヤマトンチュー(内地人)の誤り。悪しからず。

陳舜臣氏を悼む

陳舜臣氏が亡くなった。氏のおびただしい諸作品を私は今まで殆ど読んだことがなかった。わずかに新聞連載の『チンギスハンの孫たち』?を読んだ程度。1993年のNHK大河ドラマ『琉球の風』は感銘深いドラマだったが視聴率は高くなかったと聞いており、ウチナンチューの沖縄への関心の低さが不満だった。しかし原作者が陳氏だとは今日が初耳だったので、偉そうな口をきく資格はないようだ。

そこで氏の逝去を機会に氏の『江は流れず  小説日清戦争』全三巻を読んだ。主人公は前半は主に袁世凱、後半は李鴻章で、前者の有能さと後者の人物の大きさが印象的だったが、黄海海戦の敗軍の将丁汝昌 (定遠艦長)がその後自決したことは私も知っており、武人らしい最後と感心していたが、本書によると同僚 (鎮遠艦長 )が一足先に死刑、それも衆人環視下の公開処刑されたのを知っての自決だった。李鴻章自身も下関で日本人暴漢に襲われ負傷して世界の同情を買ったことがむしろ彼の生命を救ったかもしれないとは............。清国や李氏朝鮮など前近代の東アジアの政治の苛烈さが印象に残った。

『チンギスハンの孫たち』が新聞に連載されていたとき、中国が南京虐殺事件を史上稀な暴虐とキャンペーンしていた。それを意識してかは知らないが陳氏は作中で、都市が抵抗した場合北方遊牧民族は住民の男子は皆殺しに女子や子供は奴隷化した事実を中国では古来「屠城」と呼んでいたと教えてくれた。また、自己の財産を孫文を助けるため費消し尽くした梅屋庄吉の名前を私が初めて知ったのも陳氏の筆を通してだった。氏の逝去を心から残念に思う (ただし、『江は流れず』の中で陳氏は日清戦争時の日本を帝国主義列強そのものと描いている。念のため )。

P.S. 『江は流れず』を読了した翌日(2月12日)、パンフレット『公立共済 友の会だより』二月号を手にしたが、そこに日清両国の戦没者を弔うため、また負傷した李鴻章を手当てした陸軍軍医総監(三代目順天堂主)の顕彰のための〈活人剣碑〉が静岡県袋井市の可睡斎 (禅寺)にあると知った。今秋、地元と順天堂大学が行う碑修復完了の記念行事があるという。

2015年2月13日金曜日

渡航の自由を守るには

また一人、どうしても取材でシリアに入りたいというフリージャーナリストが現れた。他人の迷惑には配慮しないという風潮はどうかと思うし、旅券没収にも一応の根拠はあると思うが、これでは私の職業である「フリーカメラマンの仕事を失うことになる」との杉本祐一氏の主張も一応の理屈ではある。

私の職業であるということはこれが「メシのたね」だということであり、その点は後藤健二氏と同じである。後藤氏が現地報道が必要だと説いてもそれが氏にとり生活手段であることも否定できないし、既成メディアも取材できる範囲の報道ではどのメディアも欲しがらなかったろう。ただ杉本氏ほど正直に言わなかっただけである( 言うまでもない事との反論もできる )。私は国家が自国民を何としても守る義務があると書かれた法律があるかは知らないが、恐らくは当然のこと、常識だということではないか。しかし常識が通じない相手が相次ぐ昨今なら対応を考え直すのも一つの方法である。

今後、杉本氏のようなケースでは、1 ) 国家は救出のための何の手段も尽くさないと前もって宣言するか、2 ) 救出の費用は本人ないし遺族が負担すると約束させるか のどちらかが適当だろう。そうすれば渡航の自由も取材の自由も守られる。費用の自己負担は登山者の遭難ではしだいに原則となりつつあるようだ。

しかし米国のように身代金支払いも人質交換も原則として応じないで通用する国と違い、メディアが是迄のように日本人の生命が危ういとなると半狂乱になる我が国では、政府が動かないではいられなくなる。メディア( も国民 )も理屈よりも情緒に動かされる心性が変わりそうもないならば、救出の費用を本人か遺族に負担させると発表するのが最も実際的な措置だろう。私は杉本氏のために税金が使われるのには耐えられない!!

2015年2月7日土曜日

死刑廃止は正しいか?

新聞の投稿川柳に「裁判員ご苦労さんと最高裁」とあった。むろん裁判員が加わった死刑判決二件を最高裁が無期懲役に減刑したことを取り上げている。ユーモアがウリの川柳としてよく出来ているが、判決に納得し切れない気持ちも込められているように感ずる。最高裁の挙げる死刑の重大性、過去の判例との公平性はむろん立派な変更理由ではあるが、私が当事件の裁判員だったら二度と裁判員をやるものかと思うだろう。私のそうした思いには私が死刑存置派であることも何ほどか関係あるだろう。

刑罰の本質を専門家がどう説明しているかは知らないが、私の単純な思考では被害者側の報復やリンチを許したら『ロミオとジュリエット』式の報復の連鎖を生むから、国家が代理を務めるものである。いわば国家による正義の実現である。日本滞在中の英国人女性を英語の個人指導を口実に呼び出して殺害した犯人への無期懲役の判決に女性の父親はJustice has been done  (正義は果たされた )と叫んだ。死刑を望んでも日本では死者が一人では死刑は期待できないと無論聞いていたろう。また、米国がビン・ラディンの隠れ家を急襲して彼を殺したとき、オバマ大統領も矢張りJustice has been done と叫んだ。

EU諸国をはじめ世界では死刑廃止国が多いことは私も知っている。しかし、最大の理由である誤判による死刑は、我が国では本人が罪を認めない場合執行されることはほとんど無いようだ。多くの国で未だその恐れがある政敵迫害の極致としての死刑は我が国ではおよそ考えられない。政治家では亀井静香氏が代表的な死刑廃止論者だが、彼の書いたブツクレットに新味はなかった。最近、死刑が執行されるとその事実とともに犯罪内容があらためて公表されるようになり、私などその非道さ、凶悪さに慄然となる。私には他人の一つしかない命を奪った以上死刑は当然に思える。

今日の新聞にブラジルで最近、リンチによる死が多発しているとある。それと事情はことなるが、以前同国で警官たちによる殺人が続発していると報道された。何ということをと思ったがよく読むと、裁判所が殺人犯らに甘い判決を言い渡すため、犯人逮捕に仲間の犠牲者を出したであろう警官たちが怒って出所した犯人を殺すということだった。国家が報復の代理を務めないなら結果は私的報復の横行となるのは自然である。

ただ私は絞首刑には賛成できない。不必要な残酷さは避けるべきである。毒液の注射などをぜひ考えて欲しい。執行官の心理的負担の軽減のためにも。

2015年2月4日水曜日

ギリシャ回想

ギリシャとEUの対立が険しくなっている。このまま行けばギリシャのEU脱退に至るかも。対立が世界経済に与える影響も一年前よりは小さいものになっているらしいが、本当のことはわからない。

20年近く前になるが春休みを利用してギリシャへのツアーに夫婦で参加した。観光が目的だったが、当時元教え子がアテネ大学大学院でギリシャ考古学を学んでおり、激励もしたかった。そのため前もって当人に予定を知らせたのだが、何しろ現地の邦人社会は狭いので、我々を案内する現地ガイド(日本人女性)にまで私の身元が知られてしまった。その結果私自身はギリシャ史の門外漢なのにガイドは警戒感?を抱いていたようだ。

外国の風物や遺跡見物はいつでも楽しい体験だが、パルテノン神殿など教科書でおなじみの名所から赤いアネモネの咲くオリンピック遺跡や、岩山の麓の松林の中の清浄そのもののデルフォイのアポロン神殿( その神託で知られる )など楽しさは格別だった。しかしデルフォイに、ここが世界の中心だとされる直径1メートルほどの石の球体があり、「汝自身を知れ」との銘文が刻まれて(書かれて?)いた。ガイドはこれはソクラテスの有名な言葉ですと紹介した。その通りなのだが、私は偶々何かの本でソクラテスは先哲の言葉を紹介したのだと記憶していたのでそう言ったらガイドはキッとなり、ギリシャ人ガイド(若い女性アルバイト)に確かめてソクラテスに間違いないとむきになって反論した(実際はタレスら6人の先哲の誰かの言葉。ギリシア人だから必ず正しくはない!)。

それ以来ガイドはますますよそよそしくなった。メテオラの岩山の上の修道院は現在では岩を刻んだ階段で登るが、、どうしてこんなところにと誰もが驚く場所にある。ガイドが皆さんこの岩壁を当時どういう方法で登れるようにしたかと質問した。岩に穴を穿ち木片を差し込んで足場としたという答えを期待していると感じたが(正解もそう)わざと「よじ登った」と答え、またまた彼女をキッとさせた。それも今は楽しい思い出である( 私には! 彼女もそうだとは言わない )。

アテネを去る晩は元教え子を食事に招き(招かれ?)歓談した(ガイドも招いたが断られた!)。ギリシア旅行の唯一の不満は日本からの直行便がなく、ロンドン空港で行きも帰りも5時間ぐらい待たされること。彼女によるとそれが常態だということだった。

2015年2月3日火曜日

最も弱い立場の人たちは誰か

昨夜のNHKニュースで日本に住むムスリムの生徒が学友に非難されたと伝えた。二人の日本人の思慮に欠けた行動の影響が早くも顕在化した。在日のムスリム住人が異口同音にイスラム国への非難を口にしているのは、日本人にテロリストの同類視されることを恐れたことが大きいだろう。私は大人の日本人が事件の影響でムスリム住民に辛く当たるとは思わないが (そう信じたい )、子供にその分別はない。

在日ムスリムだけではない。あるテロ対策専門家 (板橋功氏 )によれば「今回の事件でI S以外のテロ組織にも日本の存在が印象づけられた可能性がある。日本人が狙われる危険が高まったことは間違いない」(毎日新聞 2月2日)。事実、今朝の新聞によれば企業では安全対策を強化し出したという。それだけでなく、事件の決着がさらに長引いていたら親日国ヨルダンの政治的混迷はさらに深刻化していただろう。これほどはた迷惑な話はない。

メディアではフリーランスのジャーナリストたちを中心に池上彰氏まで、後藤氏を持ちあげる発言があふれている。しかし、故国を遠く離れた在日ムスリムや海外で働く日本人を不安や危険に陥れることになる行動は思慮に欠けていないだろうか? 彼らこそ最も弱い立場の人たちではなかろうか。

フリーランスのジャーナリストには、一流通信社の職をなげうって当時未だ注目されていなかったアフガニスタンの北部同盟を長期間取材した長倉洋海氏のように、真に尊敬に値する人もいる。後藤氏の今回の行動が仮に善意に発するとしても(私には俄かに信じられない )全く逆の結果を生んでいると私は思う。私は在日ムスリムや海外邦人の真の声を聞きたい。