2025年7月6日日曜日

 二つの地震の思い出

  トカラ列島の悪石島を中心に地震が頻発し、メディアが大きく取り上げている。当初は震度5弱と伝えられたが、この震度は先年の東日本大震災の際の東京の震度と同程度であり、私の実感としても不気味ではあった。しかし、伝えられる最近の震度6弱では住民は本当に生きた心地がしないだろう。

 大学入学前の数年間に移り住んだ愛知県で私は1944年12月7日の「東南海地震」と、翌1945年1月13日の「三河湾地震」を体験した(させられた)。 被害としては私の住む知多半島では後者はそれほどではなかったが、本震後の明け方から始まった絶え間ない余震が大変不気味で、その日の夜は家主が本宅と我が家の住む別宅のふすまを動員して作った掘立て小屋に両家ともに一夜を明かした。

 他方、東南海地震の揺れはもっと本格的であり、一般の住居にもかなりの被害をもたらしたが、航空機組立工場の被害は悲劇的だった。本工場の被害はそれほどでは無かったようだが、旧紡績工場を改造した分工場は煉瓦建築の上、半製品の飛行機を移動させるため?工場内部の柱の数を減らしていたため被害は甚大で、学徒動員で働いていた京都の名門の中学生や高等女学校の生徒たちが多数犠牲となった。勝利の見込みのない戦争をあと一年早く終えていたらと思う。

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