同事業は北朝鮮にとっては韓国よりも自国の優位を誇示する「政治的勝利」だったのだろう。したがって韓国の李承晩政権は猛反対したが、米国は韓国にも同じことをせよというだけで本気の反対はしなかった。日朝両国の赤十字の交渉結果を日本政府は人道的事業として受け入れたが、在日コリアンの生活保護受給者の比率が日本人の十一倍だったこと、朝鮮総連系の人たちが不穏分子と見られがちだったことなどから本心は渡りに船と応じたのだろう。
「地上の楽園」と誰が最初に言いだしたかは知らないが ( 朝鮮総連? マスコミ?)、諸新聞によりいっとき北朝鮮の代名詞のようにも使われたこの言葉にうながされて北朝鮮に渡った帰国者たちにどんな事態が待っていたかは他言する必要はないだろう。日本への帰国を許されぬ彼らの苦難を救ったのは在日の肉親の送金だった。しかし、それが逆に住民からの帰国者への嫉妬となる場合も少なくなかったという。
帰国事業は1967年には一旦終了したが、4年後に再開された。しかし在日コリアンが多数応じるはずもなく、総連幹部は北朝鮮からの厳しい要求に直面して自分の子弟を送り出す人も少なくなかったという。
我が国のメディアは当初の「人道的事業」への協賛?を控えるようになったが、稀な例外を除いて帰国事業の評価には沈黙を決め込んだ。その一方で韓国の「軍事独裁政権」への批判は紙面や誌面で絶えることなく続いた。
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