2019年3月6日水曜日

沖縄と本土の戦後 ( 1 )

こんにち、沖縄がわが国の一部であることは日本人 ( 少なくとも内地人 ) にとっては自明の理である。しかし、70余年前はそうではなかった。米英中の三国が発表し ( ソ連は未だ中立国だった ) わが国が受諾したポツダム宣言では、日本国の主権は「本州、北海道、九州及四国ならびに吾等の決定する諸小島に局限 」されていた。二度の原爆投下とソ連の対日参戦に意気沮喪した日本はそれを受諾するしかなかった。サンフランシスコ講和条約でも沖縄は米国の施政権下にとどまっていた。1965年に佐藤内閣が沖縄返還を公式に提起するまで、我が国は「諸小島」との歴史的人種的文化的つながりを指摘することしかできなかった。

その意味で佐藤首相の「 沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後は終わっていない」との言明は、沖縄県民の日本復帰運動の高まりを受けてとはいえ画期的であり、その後の困難な対米交渉を含めて沖縄返還への佐藤氏の多大な貢献は否定できない。

その後も基地問題を中心とする対米交渉の陰には、メディアでは稀にしか報道されなかったが山中貞則、梶山静六、野中広務、小渕恵三、橋本龍太郎ら沖縄への思い入れの深い、あえて言えば贖罪意識に強く動かされた政治家たちの真摯な ( 最近乱発され価値低下した言葉だが ) 努力があった。官僚案では第8位 ( 警備や宿泊や輸送の困難から ) だった沖縄を敢えてサミット会場に選んだ小渕首相は沖縄説得訪問の1週間後、サミットに出席することなく脳梗塞で急死した。

本年1月に出版された塩田潮 『内閣総理大臣の沖縄問題 』( 平凡社新書 ) は新書版ながら300ページの内容の詰まった著作であり、私の失いかけた記憶をよみがえらせてくれた。深謝。

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