それでも選手たちがついていった ( 大松の自著『俺についてこい』) のは「大松先生の厳しさにはすべて理由があった」との篠崎洋子選手が語るように、監督と選手の間には強い信頼関係があったからだろう。もっとも、途中から加わった篠崎選手は経験しなかったろうが、初期には総員ビンタ ( 今は何と呼ぶ?) も珍しくなく、選手たちは監督が全力を出せないよう出来るだけ密に並んで裏をかいたという!
想像だが、大松監督はなかなかの容貌だったので選手たちに一種の恋愛感情めいたものがあったのではないか ( 男子チームでも監督が女性なら同じだろう。女性監督は稀だろうが ) 。それがこの監督を優勝させるためならどんな苦しみにも耐えさせたのではないか。そうでなければときに払暁に及んだ自主練習など出来まい。
その証拠という訳ではないが、オリンピック終了後大松監督が日紡を退社すると栄光の選手たちも退社した。彼女らは日紡からの給料だけで世界一になっても報奨金はなかったという。その後は選手たちはママさんバレーの指導者になった。
国情も時代も違うとはいえ、欧米を中心にスポーツで年間億単位から十億単位の収入のアスリートは少なくない。以前にこのブログで言及した覚えがあるが、1900年のパリ・オリンピックを描いた映画『炎のランナー』で、試合当日が日曜日となりキリスト教の安息日には出られないとして予定の100メートル走から200メートル走に変更して優勝した英國青年は、その後は宣教師となり中国に赴いた。オリンピック優勝の栄誉以上を求めなかった点で65年後の東洋の魔女たちも同じだった。
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