2018年1月31日水曜日

人体実験の思想と実践

ドイツの三大自動車メーカーなどの支援を受けた研究団体がサルやヒトを使った排ガス吸引実験を行っていた疑いが明らかになり、波紋が広がっているという。実際には密室にサル10匹を入れ排ガスの影響を調べたほか、ヒトの男女25人にさまざまな濃度の窒素酸化物を吸引させていたという。一読してドイツ人らしいと感じた。

医学を始めとする科学実験のため、たとえ死に至るとも動物を利用するのは非難さるべきではない。今回は分類上最もヒトに近いサルを利用したことで問題視されたのだろうが、自然科学の世界ではサルの場合、完全に否定できるだろうか?

ヒトのケースは単純ではない。死に至る実験は決して許されてはならないが、サル利用では実験結果が不十分なときに完全な自発的合意のもとでのヒト利用の実験まで禁止すべきなのか?  息子を天然痘治療の実験に供したジェンナーは非難されなかった。

それはさておき、理屈が通るなら人間的感情を排して論理的帰結まで進むのはドイツ人の長所とも短所ともなる特性のようだ。最近では、ホロコーストが優生学にもとずくそれ以前の精神障害者抹殺の単純な延長だったのではとの指摘もある。逆に福島原発の事故直後の原発廃止の決断の速さには唸った。思想から実践への距離が近いのである。

最近わが国では愛玩動物の殺処理を禁止する法令が作られたという。その結果、動物援護団体に持ち込まれる犬が激増し、収容施設の犬たちは劣悪な飼育状況に追い込まれているとのテレビ・リポートを見たが、じっさい殺処分とどちらが人道的かはなんとも言えなかった。自己意識のあるヒトと動物とを同じに遇するのが正しいとは必ずしも言えないと感じた。

2018年1月28日日曜日

野中広務の生と死

自民党幹事長や小渕内閣の官房長官を務めた野中広務氏が亡くなり、新聞各紙が大きく取り上げている。各紙とも彼の権力政治家の側面とともに、晩年のハト派、護憲派の側面、「在日朝鮮人、同和、沖縄、ハンセン病などの差別問題に熱心な」(『毎日』)弱者の味方としての側面を紹介している。

私の同氏の印象は長いあいだ古いタイプの剛腕政治家であり、森喜朗内閣に挑んだ「加藤の乱」の鎮圧の中心人物として、むしろ不愉快な存在だった。しかし、彼が権力の座を離れてからメディアが、従軍経験に基づく彼の平和指向を指摘するようになり、意外の感を持ったことはこのブログにも書いた。

死者の悪口は言わない日本人の美徳も手伝ってか?、各党の政治家が彼を讃えているのは理解できないではない。しかし、当時の新聞が自民党内の派閥抗争と批判の対象としたものが「当時の自民党がいかに健全な多様性を有していたことか」(『朝日』) との評価に変わるのには、その変わり身の速さに目が点となった。野中氏が同紙が反対した「国歌・国旗法」の成立に剛腕をふるった事実  ( 『毎日』)に一言も言及しないとは.........。

私は野中氏が「弱者に寄り添うリベラル」( 同紙 )だったことを評価する。しかしその原点に氏が被差別部落の出身であった事実 ( 氏自身がそう言っている ) に言及する新聞が一紙もないことを不思議に思う。


2018年1月26日金曜日

不寛容の時代?

先ごろ、カトリーヌ・ドヌーブらフランスの女優や女性作家百人がセクハラ犯罪を取り締るのは良いが、口説き程度の行為を女性蔑視と糾弾し「社会的制裁」をくわえるのには反対だとの声明を出したことはご存知だろう。批判されて謝罪に追い込まれたらしいが、その後ブリジット・バルドーが自分の肉体的魅力を話題にされて悪い気はしなかったとの発言は一部のメディアでしか報じられなかった。

一昨日の東京新聞の投書欄に「人間味を欠く窮屈な時代」と題する46歳の女性の文章が載っていた。「戦時中と今の時代は大げさに言うと、何となく似ているような気がする」「戦時中は言いたいことが言えない時代。今は法律・規制に守られているが、窮屈な子ども時代の校則のような時代」と説き起こし、「確かに人権などの権利は守られているようだが、何となく曖昧の良さが許されない感じだ。理不尽さは減るが、人間味が感じられない」「ミスコンへの抗議にしても、綺麗な女性の強制的な集まりなら、その意見も分かるが、参加者が自主的に出ている以上、大人ならやんや言うことではないと思う」と結んでいる。直接にはミスコンにしか言及していないが、時期からしてドヌーブらの声明 ( とそれへの批判 ) に触発されたと想像して良いのではないか。むろん犯罪は厳しく罰せられるべきだし ( 最近わが国でもその方向の立法がなされた ) 、投書者も大目に見ろなどと言っていない。

米国を中心に女性、人種的マイノリティー、同性愛者などへの批判的発言に反対するPolitical  Correctnessの主張が拡大している。フランスとてもその例外ではないだろうが、同国はそれ一色ではないようだ。さすが、寛容の大切さを説いたヴォルテールの母国と言ったら言い過ぎだろうが。

自分たちはメイフラワー号に乗ってきた清教徒の子孫だという国家神話 ( 彼らは渡航者の一部なのに ) が支配する米国では、独立以前のニューイングランドの魔女狩りに始まり、第一次大戦後の禁酒法制、第二次大戦後のマッカーシーズムと極端に走る運動が絶えない ( 実は第一次大戦後の赤狩りの激しさはマッカーシーズムに劣らなかった。F.L. アレン『オンリー・イエスタデー』)。善は強制して構わないとのピューリタニズム的伝統は最近のキリスト教福音派にも流れているようだ。自分の信条が100%正しいと信じれば寛容の余地はない。何事によらず一色の風景は言論の自由との相性が良くない。

2018年1月22日月曜日

南欧人気質

なぜか産経新聞にしか訃報が載らなかった ( 見落としでなければ ) が、著書『南仏プロヴァンスの12ヵ月』でわが国でもプロヴァンスへのあこがれ的関心を生んだピーター・メイルが亡くなった。それまではオペラ『椿姫』の中の曲「プロヴァンスの海と陸」で知られるぐらいだった ( それ程でもないか ) プロヴァンスの名はわが国でもよく知られるようになった。

同書は一面ではプロヴァンス賛歌でもあったが注意して読めば、人は良いが約束を守ろうとしないズボラな同地の住民への怒りの書でもあるとこのブログに書いたことがある (ような気がする )。同じ気質は南欧気質と呼んで良いだろう。1970年代、イタリア政府は発展の遅れた南イタリアの経済発展のためミラノの名門企業アルファロメオの工場をナポリ近郊に作った。天才ジウジアーロのデザインになる小型車「アルファスッド」 ( スッドは南の意 ) はいっとき私も持ちたいと思ったが、低品質のため人気は先細りとなった。労働争議も一因らしいが、自動車のような高度技術の商品の組み立てはやはり南イタリア人には向かなかったようだ。

日本の某一流企業は英国での自社工場だけでなく、南イタリアに合弁工場を持ち、ロンドン在住の邦人の現地会長はナポリに毎月出張していた。その後帰国し副社長になった同氏は、ナポリの工場を完全自社化するという社長の方針に反対して顧問という名誉職に追いやられた。同社の海外部門を無から創り上げたと言って良い同氏は南イタリア人気質にさんざん苦労していたのではないか。あくまで私の想像だが、それを知らない社長が歯がゆくてつい強い言葉で主張したのではないか。

彼は中学生の頃の草野球仲間であり、いわば竹馬の友である。最近は万全の健康体ではない彼の回復を祈っている。


2018年1月20日土曜日

東山魁夷展を見る

一昨日、八王子の東京富士美術館の開館35周年記念の東山魁夷展を見た。八王子で約80点もの同画伯の作品が展示されたのは、長野市の信濃美術館  東山魁夷館が改築工事で休館中のため利用できたことが大きいようだ。

私は同画伯の絵が特別好きというわけではないが、唐招提寺の襖絵が同寺に納入される前にデパート ( 三越?)で展示されたのを見たことがあり、20年ほど前には善光寺にほど近い東山魁夷館を訪ねたことがあった。

今回の展示で最も有名な作品は奥蓼科の御射鹿池に白馬がたたずむ『緑響く』だろうが、他に代表作の『道』( 1950年 ) の準備作群( 下絵と呼ぶには完成度が高い ) のうちの4点や唐招提寺の襖絵の準備作数点など見応えのあるものが少なくなかった。とくに『道』の下絵は、一本の道を正面から描いた単純極まる構図なのにわずかな違いの効果を研究し尽くした感があり、素人の私にはどれも同じように見えたのは情けなかった。また、『緑響く』以外にも白馬が姿を見せる作品が数点並べて展示されていたが、白馬は画伯の祈りだという解説を読んでも白馬の必然性はよく分からなかった。

絵画以外に画伯は数多くの紀行文集を上梓しており、信州や甲州を中心とした『わが遍歴の山河』( 1957年 新潮社 ) は私も愛読した時期があった。しかし、私がある日曜画家に同書を誉めたら「画家は絵を描けばいいのだ」と反論された。双方に才能があるなら両立も悪くないのに.......。

美術館の帰りの車内で家内が、我が家には東山魁夷の複製画があると言う。まったく記憶がないので否定したら、帰宅後『四季巡遊』という10枚ほどの複製画とそれを入れる額縁一つを奥から出してきた。最近もよく魁夷の複製画の広告を見かけ複製を持っても仕方が無いと思っていたが、我が家にもあったとは!  今となっては厄介な終活の対象でしかないが..........。

2018年1月19日金曜日

韓国国民のウリ 意識

文在寅政権のもと、韓国と北朝鮮の交渉が後者の冬季オリンピック参加問題をきっかけに進展し、その内容はオリンピックに限られなくなりつつある。

今朝の朝日新聞の第3面と第11面に、脱北した北朝鮮幹部が持ち出した内部資料にもとずく牧野愛博特派員の「韓国を利用し   米引きずり出せ   北朝鮮、幹部らに指示」( 3面 )、「北朝鮮   挑発姿勢崩さず   幹部らに『対話、幻想抱くな』」( 11面 )との見出しの記事が載っている。それによれば「北朝鮮が今月、南北関係改善を利用して米国を対話に応じさせさせるよう幹部らに指示した......核武装を維持し、米韓同盟に亀裂を入れ、韓国を警戒する北朝鮮の最近の戦略が浮き彫りになった」「米国を対話に引きずりだすため、南朝鮮を利用すべきだ。対話で主導権を握れば、米韓にくさびを打ち込める」(  3面 )、「最も完全な統一は武力統一だと語った金日成国家主席と金正日総書記の遺言を忘れてはならない」( 11面 ) と資料が引用されている( 他紙にはこの資料の記事はない ) 。

他方、おなじ3面には「平昌   統一旗で合同入場   韓国「反対」上回る」との見出しで、最近の韓国の世論調査では統一旗を掲げた入場への支持は40.5%、国旗派49.4%。 女子アイスホッケー合同チームについての賛否は賛成44.1%、反対42.6%と報じている。

文政権の施策に韓国で反対が上回るとの見出しにもかかわらず、私には未だに韓国の世論は賛否半ばかとの印象が強い。韓国でどの程度上記の資料が知られているかは分からない ( わが国でも他紙には記事はない ) 。また、北朝鮮として文政権の融和政策を利用しようとするのはある意味で当然である。しかし、南北離散家族の再会の願いに応えない金王朝に対する期待を未だに失わない韓国国民のウリ ( 同胞 ) 意識の強さには驚く他ない。韓国では「漁業戦闘」に駆り出された北朝鮮の木造船の悲惨なニュースは紹介されていないのだろうか?


P.S.    昨日の読売新聞に、「古今おちこち」との磯田道史氏 ( 「西郷どん」の時代考証をしている ) のコラムは西郷のスケールの大きさを説く一方、「だが、一方では西郷は一度「謀略」を始めると、暗殺、口封じ、欺瞞なんでもやった。恐ろしく暗い闇を抱えた男でもあった」「ただ『薩長史観』のドラマでないことだけは言っておきたい」と宣言している。果たしてどうか?

2018年1月16日火曜日

理想の入試問題とは?

最近、大学教員と高校教員からなる協議体が、歴史教科書に載る人名などが多過ぎ生徒とくに受験生の過重負担になっていると指摘し、その削減を提言する方向と聞く。上杉謙信や坂本龍馬まで教科書から姿を消すとの危惧の声も挙げられている。私は現在の事象の理解も過去の事実との比較により深化すると考え、むやみな削減には疑問を感じていた。しかし.......。

この土曜日に実施された大学入試センター試験の世界史Bの問題に何年かぶりにチャレンジしてみた。回答時間数は不明だが私は40分を費やし、合計36問中21問しか正答がなく愕然とした。仮にも高校の世界史の教師を3年ほど務め、大学では約30年間出題にも関与したのにである。私が現役教師を離れて10年以上の間に記憶力が減退したこともあるが、何しろ聞いたこともない史実が問われていることの方が大きい。

問題自体はよく練られており、時代や地域にも偏りのない優れた出題である (出題者たちの苦労がしのばれる ) 。統計を読み解く「考えさせる問題」も一つだがある。歴史の出題となればどうしても史実の記憶が中心となるのは避けられないと思う。私はその効用を否定したくない。しかし........。

世界史に限らず全科目とくに英語や国語で長文の出題が目立つ。今回、どの教科かは分からなかったが配布される問題プリント ( 社会?)が小冊子としか見えなかったのも気になった。今後の傾向として資料を読み解く判断力テスト的な問題が多く出題されるようになれば質問文はさらに長くなるだろう。万事にテンポの速い大都会出身の受験生が地方出身の受験生より有利となることは考えられないだろうか?

暴論なのだろうが、出題問題が理想に近ずくほど大学間の格差は増大するのではないだろうか。そもそも人間の多面的才能はペーパーテストでは計れないとある地点で割り切らないと、入試問題はますます複雑化長大化する一方になるだろう。

2018年1月11日木曜日

アクティブ・ラーニングとは?

NHKテレビの「朝ドラ」終了後の有働アナ中心の番組「あさイチ」を私はたまにしか見ないが、昨日の朝は「知っていますか教育改革」というテーマだったので、元教師として最後まで見ることにした。

アクティブ・ラーニングという言葉を最近良く見聞きするが内容がよく分からなかった ( その逆がパッシブ・ラーニングと考えれば多少分かったのだが ) 。 番組では「知識を使う力」を養う教育と位置づけ、大阪の本田小学校の「考える体育」「考える社会」の授業を紹介していた。

「子供達が主体の授業」「教師は助言者」との目標を実現するため、「考える体育」では走り高跳びの成績向上の方法を生徒たちに考えさせていた。「考える社会」では生徒は教科書の内容を予習してくる ( この日は配られた映像を自宅で見てくる だった ) 。その日は戦争の映像を見た子供達に戦争犠牲者は男性と女性のどちらが多いかと問いかけ、大多数の生徒は女性と答えていた。( しかし正答は男性 )。生徒たちの誤りは戦争の最大の被害者は女性や子供であるとの情緒的主張をメディアや親たちに吹き込まれてきた結果では? いくら前線と銃後の区別が曖昧になった現代の戦争でも、兵士が最大の被害者であることは理性的に考えれば明らかなのに........。

こうした参加型授業への疑問として、「先生は対応できるのか」「喋るのが苦手な生徒は不利では?」などの疑問が挙げられていたが、同感である。知識授与型の授業に比べていくら望ましい授業であっても ( それは確かである ) 、多忙と言われる今の教師たちにとり過大な要求となる恐れはある。クラブ活動指導を始めとする勤務時間の短縮や1クラスの生徒数の減少に政府の側が努めるとともに、親や社会の側も学校に本務以外の負担を期待すべきではない。

P.S.  昨日の朝日新聞に「アフリカ  人口爆発」という見出しの記事があり、それによるとアフリカ全54ヵ国の人口約12億5600万人は国連の統計では2050年には倍増して約25億人となり、大陸最大の人口のナイジェリアの人口は1億9000万人から4億人になるという。前回のジャレド・ダイアモンドの人口減少の勧めが何やら正しく思えても来るが.......。

2018年1月8日月曜日

少子化 是か非か

我が国の少子高齢化がもたらす悪影響にストップをかける方策の一つとして、外国人労働力の受け入れ拡大が挙げられている。やがて帰国する人が多数だろうが、住みつき日本の国籍を取る人も一定の割合でいるだろう。反対の意見もあるが、私は帰国した人の大多数は親日家になると信ずる。

朝日新聞の今年最初の別冊  The globe ( 1月7日 ) の特集「いま日本で働きたいですか?」はアジアの人たちの日本希望は確実ではないと訴えている。生活水準が急上昇した中国人にとって現在の日本はかつてほど魅力的な働き場ではない。それに代わるはずの東南アジアの若者も、調査したカンボジア、ベトナム、インドネシアの場合、日本よりも韓国や台湾 ( とくに後者 ) を働き場として選ぶ者がずっと多かった。今や東南アジアの若い労働力は日本にとって確実な供給源では無くなっているらしい。

ところが同じ別冊の同じ号に、一時わが国で話題となった『銃・病原菌・鉄』(  草思社 2000年 ) の著者ジャレド・ダイアモンドは「日本人は人口減を気にしすぎる」と語っている。「近代文明が危機にひんし、食糧や資源の確保が難しくなる状況下では、人口増より人口減の方がメリットが大きい」。日本は「資源に乏しく輸入に依存する国だからこそ、人口が減り、必要な食糧や資源が減るのは強みになるはずだ」という。少子化を重大視すべきか否か、専門家でない私にはどちらが正しいとも確言できない。

今日の東京新聞の「本音のコラム」に常連寄稿者の宮子あずさ氏は、「以前はこれ ( 妊娠後の結婚を表す名称 ) を『できちゃった婚』と言ったものだが、今では略して『でき婚』....『授かり婚』などとも呼ばれるようだ。ネガティブな響きが消されてきたのは大変けっこう。だが『授かり婚』まで美化されると、どっちが先でも産んでくれという、社会をあげての必死さを感じ、オソロシイ気持ちにもなる」と世相を揶揄している。

2018年1月6日土曜日

西郷隆盛ブームへの危惧

テレビ局が間も無く開始するドラマの宣伝のため出演者を他のバラエティ番組などに出演させるのは見慣れた光景である。しかし最近のNHK、とくに間も無く始まる西郷隆盛の前宣伝番組の多さは目に余る。公共放送がそこまで番組視聴率にこだわるのかと言いたくなる。

私は同局の日曜時代劇はこれ迄かなり見ている方だが、今回の西郷宣伝番組群はほとんど見ていなかった。しかし偶々1月3日夜の『英雄たちの選択 SP..........これが薩摩藩の底力』は、私自身かなりの磯田道史ファンでもあり、旅先ですることもなく途中からだが見ることになった。番組は西郷や大久保利通を生んだ薩摩藩の少年教育制度などがテーマであり、両名の歴史的評価を正面から論じたものではなかったが、全体として肯定的だったとは言える。

これまでのこのブログの読者は、私が西郷や大久保が公武合体論を排する「王政復古クーデター」で戊辰戦争を惹き起こしたことに批判的であることを御承知だろう。今回の『英雄たちの選択』は全体として討幕の是非を論じていなかったが、西郷らが当時の開明派で彼らにも影響を与えた信州上田藩の学者 ( たしか ) を自分たちの討幕計画を知られたため暗殺した ( それも薩摩藩邸での会合の帰りに ) とのエピソードにはやはりそうかとの思いを禁じえなかった。

坂本竜馬の暗殺に薩摩が絡んでいた ( 実行者は見廻組でも ) との説は新しくはなく ( 私自身は確か三好徹『龍馬暗殺異聞』1969年原作のテレビドラマで最初に知った ) 、専門家にはおおむね否定されているようだろ。しかしこれ迄の同志的関係はともあれ、公武合体論に転向した竜馬が西郷や大久保にとって邪魔者となっていたことは否定できない。

NHKの日曜時代劇は歴史の装いをした娯楽作品であり、目くじらを立てる対象ではないかもしれない。しかし、今の持ち上げぶりを見ていると新番組が単なる西郷賛美に終わるのではとの懸念を禁じ得ない。