2016年3月21日月曜日

山中の鉱山跡

昨日の『東京新聞』に、「秩父鉱山  にぎわい伝える」「3000人が暮らした街  写真と証言」という記事が載っていた。アマチュア写真家?が著した『写真と証言でよみがえる秩父鉱山』(同時代社)にかこつけた記事だった。

現場は秩父地方の主邑秩父市から中津川を遡った長野県境に近い最奥の山中で、木造の鉱山住宅が若干残っているが、現在はここに3000人が住んでいたとは到底思えない狭い斜面である。私は北海道の美唄炭坑の無人の炭住街を訪ねたことがあり、やはり寂寥感は否めなかったが、無人の鉱山跡の寂寥感はひとしおである。中津川渓谷は紅葉の名所として関東では多少は知られている。私が最初に訪れた時も主に紅葉見物のためだったが、親族の一家が戦後すぐごく短期間済んだとは聞いていた。

親族一家は戸主が地質鉱物学科の出身で日窒鉱業 ( 現チッソ? ) に入社し、現在の北朝鮮のダム建設の地質調査のため一時期ソウルに住んでいた。戦後は同社の秩父鉱山に短期間勤務したが、のち商社に移り東南アジアのダム建設のための調査に従事した。

再度わたしが秩父の現地を訪れた時は鉱山跡の訪問が主目的だったが、険しい山中の半ば朽ちかけた住宅地には足を踏み入れることさえ困難で、遠望 ( というほどの距離ではないが ) しただけだった。戦後の日本では戦前から続いた多くの鉱山が海外との競争に勝てず閉山となったが秩父鉱山もその一つだった。今ではその記憶を持つ元住民さえこの世を去るか去りつつある。『荒城の月』の岡城跡ほどドラマチックな遺跡ではないが、史実の一端を知るものとしてその次第を紙碑として残しておきたい。

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