2015年6月29日月曜日

古書目録から感じたこと

古書店の目録の最新版が郵送されてきた。邦文書籍の専門店のカタログで、かつてはその中からたびたび注文していたが、最近は注文することも稀なのに毎度新版を送られるので恐縮である。

ページを繰っていて賀川豊彦の関係書や本人の著書が計23冊に及ぶことに気が付いた。個人として断トツに多いだろう。ある時期 ( 主に戦前 ) の賀川豊彦の人気や影響力がいかに大きかったかが分かる。しかし、23冊中文献 (伝記 )  が3冊で、あとはすべて本人の著書だった。その影響が無視出来ないはずなのに彼を研究する者が少ないのは、大衆に呼び掛けること自体を質が低いと考えたがる思想史家の体質があるのではないか。

同じことは札幌農学校の学友だった内村鑑三と新渡戸稲造の評価にもうかがわれる。「目録」の件数は両者とも10冊だったが、内村の場合は研究書 (娘の回想本を含む ) 7冊、本人の著書3冊なのに新渡戸の場合は研究書が3冊で著書が7冊である。じっさい五千円札に登場するまで新渡戸は一部の研究者を除き忘れられかけて居た。

私は思想史の専門家でも何でも無いので研究者の間での内村鑑三と新渡戸稲造の思想家としての評価の差 ( 人気の差 )に異議を唱える資格はない (内村について調べたことはない )。しかし生涯を思想家として過ごした内村に対し、台湾総督府の官僚 ( 農学者としてだが ) を手始めに官職を歴任した新渡戸、十分な教育を受けられなかった青年子女のため、一部の冷たい視線 (東大教授のくせに !)を知りながら多くの大衆向けの修養書を著した新渡戸 ( 著作だけでなく勤労青年のための「遠友夜学校」や女子教育の「スミス女学校」を設立したり協力した )が研究者の注目したがるタイプではないだろうことは想像できる。それでも内村と新渡戸はお互いを尊敬していた。

この頃は大衆文化の歴史に目を向ける研究も増えているが ( 私の大学時代の友人がエノケンについて一書を世に出した ) 、それとこれは別なのか。権威崇拝でなければ良いのだが。

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