2015年1月7日水曜日

米国の「人権原理主義」

イランのロハニ大統領が米国との三十余年ぶりの国交回復をめざして国民投票を提案しているという。保守強硬派が支配的な国会を牽制するためであり、大統領はそれなりの危険を自覚しているだろうのにオバマ大統領の反応は今ひとつ鈍いようだ。この際、イランの穏健派を援けることは必要ではなかろうか。ロハニ氏が大統領になってから一年以上経つのに対米関係で成果を出せないのでは、強硬派政権が復活する危険は大きい。

イランにせよ、キューバにせよ、ロシアにせよ、米国の基準からすれば言論の不自由な強権的体制の国家だろう( 何しろ米国には他国の現役指導者の暗殺をテーマとする映画を作る自由まである!)。だが、それぞれの国の国情や発展段階を無視して自国の基準を押し付けることは賢明だろうか。それは私にはときに「人権原理主義」と映る。或る種の「宗教原理主義」と比較すれば遙かに「まとも」だが、それでも他国の人権状況への過度の干渉に至れば行き過ぎとなろう。

ふつう国家はいわば自然発生的に成立するが、米国と旧ソ連は民主主義や共産主義というイデオロギーを標榜して成立した特殊な国家である。そのため、内政干渉や革命の輸出はしないと口で唱えても、他国より自国が進歩していると信じている以上、干渉に陥りがちだった。ソ連は崩壊したが、そのため米国は以前にも増して自国のイデオロギーの正当性を信じるようになった。混乱しがちな世界では「強い米国」の必要を私は否定しないし、まして人権の重要性を否定しない。しかし、国情や発展段階を無視した口出しはときに有害である。良き意志が良き結果を生むと限らないのが政治の現実ではなかろうか。

以前テレビで中国人滞在者の座談会を見たが、日本の自由な言論の価値を十分理解しているはずの彼らの半数以上が自国の急激な改革を望まないと語った。混乱を恐れるその心情を私は否定したくない。

0 件のコメント:

コメントを投稿