2015年1月30日金曜日

人質狂騒曲

新聞やテレビで世界や日本のニュースに接することほど私にとって興味深いことは無いのに、この一週間の報道は人質関連のニュースばかりでウンザリする。前々回?のブログに書いたように、私は二人の日本人人質に同情しない。「何が起こっても責任は私自身にあります」と断言した後藤氏が繰り返し助命を嘆願し、あまつさえ自分が多大な迷惑をかけているヨルダン政府に脅迫がましい要求をしている。

私自身が人質だったらそんな卑怯な真似はしないと言うつもりはない。私にはそんな自信はない。ただ、後藤氏に対して私が言いたいことはもし生きて帰国出来たら土下座して日本国民とヨルダン国民に謝罪せよということだけである。それ以上を期待できる人間とも思えない。フリーランスのジャーナリストたちの後藤評価などおよそ史料批判に耐えるものではない。彼らは同業者としていつ何時自分も同じ立場に立つか分からない人たちであり、広い意味では利害関係者なのである。その発言をそのまま信じられるほどお人好しには私はなれない。

我が国のメディアが日本人だけが被害者であるかのように人質報道にのめり込んでいるのは、それ以上に困ったものである。30年ほど前、東南アジアの空港から南アフリカへの旅客機がインド洋に墜落したとき、日本人の漁船乗組員 ( 交代要員 )が十数名?亡くなった。私はアパルトヘイト政策で世界の非難を浴びている南アにどういう人たちが訪ねようとしていたのか知りたかったが、国籍を含めて非日本人についての報道は皆無だった。日本人が同胞の生死に第一に関心を寄せるのは当然である。しかし、邦人犠牲者の家族の嘆きが連日報道されているのに外国人乗客には一顧だにしないメディアの報道には強い違和感があった。国際理解の必要を説いても本心は日本人のことしか気にかけていないとしか思えなかった。30年経ってもその心性は何ほども変わっていないと感じる。

2015年1月25日日曜日

病院管見

ようやく両眼の白内障手術を終え帰宅した。前回と合計しても4泊6日の経験に過ぎないが、自分の経験を一般化したがるのは人間の常。最近の大学病院の実状は垣間見られた。

感心したのは医師、看護師らのキビキビした働きぶりと慎重な対応である。後者は絶対にミスを犯さないためであると同時に、以前のブログに書いたようにモンスター・ペイシェント対策もあるのだろう。その結果提出書類も増えるし、提出窓口も複雑になったが、止むを得ない。ともかく最後に個人名入りの腕輪(何やら新生児のようでもある!)を外すまで責任をもって処遇していただいたと感じた。

それ以上に印象的だったのは病院関係者の働きぶりだった。どんな職業の人もプロフェショナルとしてそれぞれが重要な働きをしていると信ずるが、医療の場合文字どうり生命や健康に直結するだけに、その対応は良くても悪くても心に響く。好印象を抱いて退院できたのには感謝する。

最後に会計で支払いを済ませたら二週間前よりも低額だった。全く同じ手術なので、もしや計算違いではないかと申し出たら誤りなしと告げられた。その説明はにわかに理解できなかったが、私の場合一ヶ月以内の医療費が4万5000円ほどで自己負担限度額を超えるらしい。難病には高額医療費の免除があるとは聞いていたが、今回程度の医療でもそうした扱いがあるとは知らなかった。医療費の一割負担の上に上限まであったとは。日本の医療保険は世界一かも?  英国の医療制度NHSは留学当時無料だったし、今でもそうかもしれないが、手術を半年も待たせられるとも聞く。がん患者なら命に関わる。現在の日本の医療保険制度はぜひ守りたい。そのための負担増加は高齢者も甘受すべきではないだろうか。

2015年1月21日水曜日

イスラム国の人質

イスラム国に捕らえられていた二人の日本人が日本政府による2億ドルの身代金支払いがなければ殺されることになった。これ迄の前例を考えれば、彼らの要求を呑まなければ二人は殺害されるだろう。かといって列国との協調を考えれば支払いには応じられまい。政府は一応人命尊重を第一にと言っているが本心ではあるまい。通常なら頼れる中東の諸政府やグループの仲介も今回は期待薄だろう。

私は人質の二人に全く同情を感じない。彼らは日本大使館の館員たちも全員退去した極めて危険な国に自ら赴いたのである。彼らのために国民が苦労して稼いだ金を使うべきではない。かつてダッカ空港事件で日航機の乗客と乗務員百数十人の人質を救うため日本政府は赤軍派に大金を払い列国から批判された。それでも、何ら非難される余地のない乗客乗務員の生命を救うためならまだしも止むを得ない側面はあった。今回は全く事情が違う。民間軍事会社設立のためはもちろん、現地の実情の報道のためであっても他人( 交渉のための外交官など )を危険にさらす可能性はある。この二人のためにたとえ他国人でも別の犠牲者が出ることなどあってはならない。

私の購読する新聞は「毅然として向き合っていくべきだろう」と言う一方で「人命の重みを最優先に対処すべきだ」と言う。両者は簡単に両立する命題ではないのに。政府首脳の発言には制約がある。しかし、言論機関が当たり障りのない提言をしている場合なのだろうか。



2015年1月19日月曜日

何ごともほどほどに

我が家の朝食はふつうパン食だが、今朝は中華饅頭で変化をつけた。ところが某社の肉まんは中味が野菜( ? )ばかりで肉は少なかった。安いのだから仕方が無いという考え方もあろうが、仮にも経済大国と呼ばれた国でここまでケチる必要があるだろうか。

数年前のことなので現在は変わったかもしれないが、国会図書館の食堂のカレーライスに肉は小さいのが二切れしか入っていなかった( その前もそう )。野菜カレーならあり得るがそう謳ってはいなかった。国会図書館は外国人研究者も利用するはず。高度成長期以前ならともかく、あれほど貧しいカレーライスを出す必要があるだろうか (食い物の恨み! )。

40年近く前になるが、バンコック空港の食堂のカレーライスには肉がたっぷり入っていた。誇張して言えば外国のカレーライスは肉をカレーで煮たものという感じだった。

その一方で我が国では高級料理店で高い料理を注文する人も結構いるようだ。客の階層が違うのだろうが、普通の日とハレの日とで大きな差をつける日本の慣習と関係があるのかもしれない。何に金を使うかは個人の自由なので高い方に文句を付ける気はない。しかし、少なくとも公共施設の食堂のメニューがあまり貧しくあって欲しくない。人生の楽しみも味あわず、ガツガツ働くだけの日本人というイメージを持たれたくない。

2015年1月16日金曜日

フランス的天才

意図した訳ではないが、フランスに批判的なブログが二回続いたので、今回はフランス人の才能の高さを取りあげて罪滅ぼしをしたい!

カリフォルニアの高速鉄道の建設が本決まりとなり、世界の10社が自社の方式の採用を働きかけることになるという。価格も重要な要素なので技術面の優位で決まるわけではないが、安全性を重視すれば日本の新幹線方式とフランスのTGVは双璧だろう。新幹線方式は従来の技術を限りなく改善し( ? )、五十年間人身事故なしの偉業を達成した。これに対しTGVは各車両の連結器の真下に車台を持ってきたので、脱線しても構造上車列が乱れにくい( いわゆるジャックナイフ現象が起こりにくい )。事実、時速200キロて起こした脱線事故で一人も死者を出さなかった。立派である。

パリのドゴール空港の第一ターミナルビルは円形で、いくつかのサテライトビルに囲まれ、両者は地下式エスカレーターでつながる。したがって航空機はサテライトの一つに自力で到達し、自力で離れる。他の空港のように離陸に際しトレーラーに押されて後退しビルから離れる必要がない。私は素晴らしいアイディアだと感心しきりだったが、十数年のち建てられた第二ターミナルビルは何と他空港と同じ方式となった。変更した理由は不明だが ( 機体の大型化や多様化に対応しにくいのだろうか )、フランス人の理論倒れを絵に描いたようだ (また悪口?)。

19世紀末の鉄の時代の (私が勝手に選んだ)三大構造物、パリのエッフェル塔、ウィーンのプラター公園の大観覧車、エジンバラのフォース鉄道橋のうち、科学技術だけでなく美しさでもエッフェル塔は断然一位だろう。フランス人の才能は芸術方面でも抜きん出ている。フランス的天才( genie francais. French genius )とは記憶にある言葉だが辞典に載っていないのでもしかすると私の造語かもしれない。しかし、フランス人にそう言えば多分理解するだろう。何故ならフランス人は自分たちが天才的であると疑っていないから ( これって悪口? ノン。私は真面目に彼らが天才的だと考えているから )。

2015年1月14日水曜日

decencyの回復を!

英語にdecencyという単語がある。品位、礼儀などのどの一語に訳すのも難しい言葉だが、その形容詞のdecentと共に私の好きな言葉であり、人間としてぜひ持って欲しい特性である( 私がそうだと言っているのではない! )。現在のアルジェリア系フランス人と土着フランス人の軋轢の根には双方の側にdecencyが不足していると感ずる。

フランスにはアルジェリア系ムスリムだけでなくモロッコ、チュニジアなどからのムスリムもいる。両者の違いはアルジェリアの独立が他国よりも激しい流血の闘争を伴ったことである。そのしこりの上に、独立戦争でフランス駐留軍に補助兵として参加したアルジェリア人は新政権の厳しい報復を受け、その一部はフランスに逃げざるを得なかった。アルキと呼ばれた彼ら(当初14万人。林瑞枝、『フランスの異邦人』 )は経済難民と異なり本意ではなくフランスに来た人たちであり、フランスに怨念こそあれ従順である理由はなかった。フランス政府は冷たく、左翼からは植民地主義の協力者視された。

二、三年前、アルジェリア政府の首脳たちを迎え両国対抗のサッカー試合が開催されたとき、開始時のフランス国歌の斉唱はアルジェリア系観衆の激しいブーイングを受けた。さらにフランスチームの勝利に終わる直前、アルジェリア応援の観客がフィールドに乱入し試合は中止、同席したフランス政府首脳の面目は丸つぶれとなったし、フランス国民も同様の思いだったろう。私には今回の370万人とも言われるデモ参加者が表現の自由擁護だけのため集まったとは思えない。

イスラム教では宗教が政治などすべてに優先するようだ。他方、フランスは左右の長い政治闘争を経て政教分離を実現した国であり、その点での妥協は困難である。私は「スカーフ論争」当時、公立学校での女子のスカーフ着用を禁止するのはやむを得ないと考えた。スカーフにとどまる保証は無いからである( 両眼しか露出しないニカブ着用者に満足な指導はできまい) 。しかし今回の預言者への風刺は私にはdecentな行為とは思えない。まして数万部の小新聞が300万部を刷るのには賛成できない。私にはエジプト宗務裁定庁の「その行いは、文明間の平和共存と対話に寄与しない」との声明の冷静さに同感である。フランス政府は表現の自由擁護と大上段に振りかぶったため、進退に窮したのではないか。理論過剰はフランス革命以来のフランス人の伝統である。

2015年1月12日月曜日

テロに襲われたフランス

フランスでイスラム教徒の住民が惹起した銃撃事件で二桁の死者が出た。これが憎むべきテロであることは疑いないが、植民地支配の後遺症でもあり、フランスの悩みは深い。

アルジェリア出身者などムスリム系住民はフランスの人口の7%を占めるという。彼らの親たちは母国の貧しさを逃れるため移民となった故、底辺の仕事に耐えた。しかし、親と異なりフランスの教育を受けフランス語も達者な移民二世なら底辺以外の仕事を求めるのは自然で、失業率は高い。過激主義に走るのも分からぬではない。また、漫画にせよ預言者ムハマッドを揶揄したことには私は賛成しかねる。フランスやドイツではナチス礼賛やヘイトスピーチは法律で禁じられているではないか。言論の自由といえども無制限ではないと認めているはず。アラブ諸国の首脳たちも取りあえずテロを非難しても、ムハマッドの戯画化に不快でないはずがない。まして各国首脳のデモの最前列に「ユダヤ教原理主義者」のネタニヤフ首相の姿を見ては。

とはいえこの事件がフランス人の反移民感情を強めるだろうことは予想できる。M.ルペン党首の国民戦線にとってこれ以上の援軍はない。テロリストの行為はムスリム同胞をさらに苦しめる結果となるだろう。

射殺された警官は犯人と同じアルジェリア系市民だった。白人がマジョリティの国で警官になれたのは人並み以上に実直な人柄だったのだろう。ニューヨークでパトカーで行動中黒人に射殺された二人の警官も中国系と中南米系、マイノリティの出身だった。殺された警官本人の無念、家族の嘆きを犯人たちはやむを得ない犠牲と割り切るのだろうか?

2015年1月10日土曜日

二泊三日の病院旅行

世界では大事が起こっていたが、当方は小事に追われた。この二年ほど白内障による視力の低下から手術の必要は感じていたが、光がまぶしいわけでも視野が白っぽいわけでもないので先延ばしにしていた。しかし、今年は運転免許の更新のため先延ばしは出来なかった。

経験者からは簡単な手術だとさんざん聞かされていたが、やはり眼にメスを入れられることへの恐怖はあった。実際にはメスを入れられるという感じではなかったが、半時間足らずとはいえ眼をいいようにされている(?)感じではあった。こんなことまで出来るとは医学の進歩は凄いと思うと同時に、その進歩が何故か恐ろしいとも感じた( 何せ「身体髪膚これを父母に受く...........」の世代なので!)。二週間後にもう一方の眼も手術することになる。次回も大過ないことを祈るばかり。
意外だったのは左右の目に映る景色の色が違うこと。以前と変わらないと考えていたのは思い違いだった。

幸いなことは歩いても半時間のところに某医大の病院があったこと。逆にと言うか、大病院ほど手術同意書を始め提出書類が多いのには閉口した。モンスター.ペイシェントに備える必要もあるのだろう。単なる想像だが、救急車で搬送される病人が多いと聞くのは、面倒な手続きを避けるためではと疑いたくなった。次は私も!

2015年1月7日水曜日

訂正のてんこ盛り?

考えていたのに間違うのはどういうことか。4日のブログで我が国の防衛費が国家予算の1%としたのはGDPの1%の誤りでした。また、山田( 洋次 )を山本、藤澤 (周平 )を藤原とした(10月17日)のも誤り。その他にもあるのだが確認が面倒。これは誤りではないが、長江の水が虎跳峡で濁流だったと書いたが、Wikipediaの写真は濁流ではなかった。私の写した写真はどれも泥水なのだが、季節によるのだろうか?
この文章が突然太字になった理由がわからないし、訂正できない。今後すべてこうなるのか!

米国の「人権原理主義」

イランのロハニ大統領が米国との三十余年ぶりの国交回復をめざして国民投票を提案しているという。保守強硬派が支配的な国会を牽制するためであり、大統領はそれなりの危険を自覚しているだろうのにオバマ大統領の反応は今ひとつ鈍いようだ。この際、イランの穏健派を援けることは必要ではなかろうか。ロハニ氏が大統領になってから一年以上経つのに対米関係で成果を出せないのでは、強硬派政権が復活する危険は大きい。

イランにせよ、キューバにせよ、ロシアにせよ、米国の基準からすれば言論の不自由な強権的体制の国家だろう( 何しろ米国には他国の現役指導者の暗殺をテーマとする映画を作る自由まである!)。だが、それぞれの国の国情や発展段階を無視して自国の基準を押し付けることは賢明だろうか。それは私にはときに「人権原理主義」と映る。或る種の「宗教原理主義」と比較すれば遙かに「まとも」だが、それでも他国の人権状況への過度の干渉に至れば行き過ぎとなろう。

ふつう国家はいわば自然発生的に成立するが、米国と旧ソ連は民主主義や共産主義というイデオロギーを標榜して成立した特殊な国家である。そのため、内政干渉や革命の輸出はしないと口で唱えても、他国より自国が進歩していると信じている以上、干渉に陥りがちだった。ソ連は崩壊したが、そのため米国は以前にも増して自国のイデオロギーの正当性を信じるようになった。混乱しがちな世界では「強い米国」の必要を私は否定しないし、まして人権の重要性を否定しない。しかし、国情や発展段階を無視した口出しはときに有害である。良き意志が良き結果を生むと限らないのが政治の現実ではなかろうか。

以前テレビで中国人滞在者の座談会を見たが、日本の自由な言論の価値を十分理解しているはずの彼らの半数以上が自国の急激な改革を望まないと語った。混乱を恐れるその心情を私は否定したくない。

2015年1月4日日曜日

世界平和( 度 )指数

今日の新聞に日本留学中のソマリア人学生の記事に世界平和 (度 )指数の説明があった。以前、一度は耳にしたことがある言葉だが、英国の『エコノミスト』が中心の調査で、10万人当りの殺人犯や囚人の数、銃の入手のし易さ、政治の不安定度、GDPに占める軍事費の割合、核や重兵器の能力、隣国との関係性など22項目の結果だと言う( 162国中ソマリアは158位、日本は8位 )。

項目の選定には当然批判もあるということだが( Wikipedia )、上位20カ国中、非白人国は日本と16位のブータンだけ。中国は108位、韓国は52位、米国は101位だった。20位以内に人口一億人以上の国は日本だけなので、中国が低いのは大国なのが一因だろうし、韓国は北朝鮮と境を接し、過大な軍事費が原因だろう。日本は2010年の3位から徐々に順位を下げているとはいえ、人口大国としては立派と言える。銃器の入手困難、軍事費が国家予算の1%以下なども大きいだろう。

予想通りとはいえ、1位アイスランド、2位デンマーク、3位オーストリアを始め北ヨーロッパの小国がずらりと上位を占めている。教育水準を含めた民度の高さや、貧富の差が比較的小さいことなどが矢張り物を言ったのだろう。

本来の記事のテーマはソマリアを出国せざるを得なかった留学生の苦しみなのだが、その見出しは「平和こそが すべてなんだ」とある。しかし、国内平和という表現こそあれ、通常平和は国際間の状態を言う。ところがソマリアは他国と戦争している訳でもなければ、他国にそそのかされて内乱状態なのでもない。それならば見出しは「治安こそがすべてなんだ」でなければ正しくない。真実を曖昧にする不思議な見出しという他ない。