2015年8月21日金曜日

裁判の難しさ

やや旧聞に属するが、広島長崎への原爆投下日前後に両市の惨状が改めてテレビなどで紹介された。プーチンの側近が米国による原爆投下は「人道に対する罪」として訴追されるべきだと語ったとの報道に思わず賛成したくなる ( 人道に対する罪に時効はない )。それが米国への嫌がらせと分かっていても。

それに対しては旧ソ連による日ソ中立条約違反や日本降伏後の攻撃、捕虜のシベリア抑留 ( すべて国際法違反 ) は何なのだと日本人なら言いたくもなる。しかし私は旧ソ連と現在のロシアとを同一視することには賛成できない ( それでは某国と同じになってしまう )。スターリン暴政の最大の被害者は旧ソ連国民なのだから。

最近号の『文芸春秋』に、A級戦犯として処刑された7人の1人木村兵太郎大将の長男の、中島岳志氏との対談が載っている。私も含め殆どの日本人が知らない名前だが、東條内閣の陸軍次官で、ビルマ戦線末期に派遣軍総司令官を務めた。A級戦犯となった理由は後者しか考えられず、ビルマから一度は追い出された英国が復讐と見せしめの対象に選んだのだろう。

同じことはシンガポールで英軍を降伏させた山下奉文将軍とフィリピンで米比軍を降伏させた本間雅晴将軍の死刑 ( 現地法廷での判決 ) にも言える。英国の東洋支配の拠点シンガポールの陥落は当時世界に喧伝されたし、フィリピンの「バターン死の行進」は真珠湾奇襲と並んで米国民を憤激させた。しかし、教科書裁判で知られる家永三郎氏が、これが戦争犯罪と言えるのか何とも言えないとしている ( 『戦争責任』1985 年 ) ように、思いもよらない多数の捕虜を獲得して彼らを炎天下に長距離歩行 ( 42キロ。残り80キロほどは鉄道とトラック。Wikipedia ) させたのは、当時の日本の国力からすれば残虐行為とまでは言えなかったろう ( 『風と共に去りぬ』の読者はリンカーンが残虐行為で作者に避難されていることを覚えていよう。南軍の多数の捕虜に北軍が対応しきれなかったようだ ) 。緒戦でフィリピンから逃亡したマッカーサーはその原因を作った本間将軍 ( 人格者として知られる ) を見せしめのため殺さねばならなかった。

我々は戦犯裁判の判決を受諾して講和条約を結んだ以上、対外的に「蒸し返す」べきではないが、不公平な扱いを受けた戦犯の無念は忘れたくない。

2015年8月18日火曜日

映画雑感

新聞休刊日を利用して午前中に近くのシネコンで「日本のいちばん長い日」を見た。九時過ぎに初回の上映なので余裕を見て出かけたがすでにチケット売り場には数十人の列ができ、しまったと思った。しかし子供連れの三、四人の家族が大半 ( 他作品が目当て ) なので上映には間に合った。

観客は40人ほど ( それでも「アナと雪の女王」についで多い )。終戦の決定に至る映画の内容は特別新しいものではなかったが、英語のタイトル The Emperor in August  にふさわしく昭和天皇の言動はかなり詳しく (初めて?)扱われており、一応満足できた。天皇役者も似ていなくもなかった!

昭和天皇は個人としては平和主義者だったと私は考えるが、元首としての開戦責任は当然有ろう。それでも戦後昭和天皇が退位しなかったことは保守派の人たちにもいろんな意見があったろう。ただ天皇の主観では最後まで国民への責任を果たしたいの一心だったのだろう。

そう思うようになったのはエリザベス女王や両陛下 (天皇は私と同年 ) が見るだに痛々しいと感ずるのに退位しないからである。英国王室も天皇家も働き盛りの後継者が育っているのに。しかし、こればかりは側近でも助言ははばかられるのだろう。

もし天皇が憲法を超えた独裁者だったらあの戦争は起こっていただろうか。それはわからないが中途半端な民主化 ( 明治憲法程度でも ) には危険が伴う。現在の中国は独裁国であることは疑いないが、胡錦濤時代いったんは集団指導制を取り入れたため逆に思い切った改革は出来なかった (宮本雄二 『習近平の中国』 著者は元駐中国大使 )。メディアはしきりに習近平政権への権力の集中を批判的に報ずるが、恐らくそれなしには日中関係の改善は困難だろう。第一次大戦中から「外交の民主的統制」が叫ばれるようになり、講和条約締結までの期間は長引くばかりとなった。

2015年8月16日日曜日

「ヴェール着用」の可否

ヨーロッパ諸国で移民や難民の急増が問題になっていることは再三報道されているところだが、それが惹起した問題の一つのヴェール着用の可否を論じた書物 ( クリスチャン・ヨプケ『ヴェール論争   リベラリズムの試練』法政大学出版局 ) の書評が今朝の新聞に掲載されている。私は原著を読んでいないが、この問題はマイノリティ民族の文化を何処までみとめるかという難問に関わる。

問題は実際的なものと原理的なものに分けて考えられる。書評によれば英国では「治安上の懸念」として浮上した。確かに眼しか出していない服 ( ニカブ ) では男女の別を隠すことも容易だし、ゆったりした服なので小銃を所持していても分からない。現実に今以上にイスラム過激派のテロが頻繁になったら公共の場 ( 街頭や交通機関など ) での着用制限はある程度止むを得ないだろう。

公教育の場でのヴェール着用はもっと厄介な問題である。スカーフ程度なら実害はないが、ニカブなどとの間の何処に線を引くかは難しい。その上フランスのように公教育から宗教を文字どうり追放した国では原理からして特定の宗教にだけ寛容にはなれないだろう。他方、フランスほどには政教分離が徹底していない国では「外来宗教」?の扱いの不平等という問題が生ずるだろう。

私自身ロンドンの街角でニカブ姿の女性?と出会ったとき、強い違和感 ( むしろ衝撃 )を禁じ得なかった。昔から住むマイノリティ民族と最近の移民とでも一般の受け取り方は微妙に違うだろう。最近は少なくとも先進国では多文化共生が理念として受け入れられつつあるが、多数派民族の側の受容努力とともにマイノリティ ( とくに新移民 )の側も新しい仲間との間の差異縮小の努力を一定程度必要とされるのではないか。今のまま移民の激増だけが続けば社会や政治の保守化さらには非寛容化は確実に進むだろう。ゲルマン民族至上主義のナチスが選挙を通じて政権に到達したことを忘れるべきではない。

2015年8月15日土曜日

安倍談話と新聞

いろいろな点で注目されていた戦後70年の安倍談話が発表された。新聞各紙の論調は当然それぞれ異なっているし、掲載された「識者」たちの論評も同じではない。『朝日』と『読売』の社説は前者が否定的評価を、後者が肯定的評価を下している。予想どうりととる人が多いだろうが、『読売』は過去に日本の戦争責任に関するプロジェクトを実施して成果を刊行しており、他の諸問題とくに安全保障問題と異なりこの問題に関しては、管見の限りでは厳しい態度を取ることが少なくなかった。

意外だったのは両紙に三谷太一郎・東大名誉教授が論評を寄せ、『朝日』では首相談話を100%批判する一方、『読売』では大略批判6割、賛同4割の談話を発表していることである。「識者」は掲載紙の傾向に合わせた発言をするものなのか。しかし私はそう断定する気は毛頭無い。インタビュー記事での発言だったから。

以前、ある考古遺跡発見の意義について年長の知人が新聞にその大きな意義について発言していた。たまたま直後に顔を合わせたので、「あそこまで言っていいのですか」と聞いたところ、「本当に困っているんだよ」ということだった。知人はいろいろ前提条件をつけて発言したのにその部分が全く省かれた記事だったため、同業の友人にも私と同じ疑問を呈されたとの事だった。記者による歪曲であり、社の方針 (この新聞は考古関連の記事がよくトップ記事になった ) ろが優先したのである。今回の三谷氏のケースも同じかもしれない。

今回の何人かのインタビュー記事では「おおかたの日本人が共感するところであると思います」との関川夏央氏のそれが一番同感できた。氏の処女作?『海峡を越えたホームラン』以来私が氏のファンであることもあるが、他の論者たちが何故か誰も触れたがらない中韓の「外交カード」の側面にもきちんと言及しているからである。もっとも、「千年たっても加害者と被害者の関係は変わらない」と断言した朴大統領 (それが正しいなら日本は元寇の故に現在のモンゴール国を対等視してはならないことになる ) には、外交カードを利用するという意識はないかもしれないが........。

2015年8月13日木曜日

ドイツ的性格再論

昨今話題の芥川賞受賞作品を読みたくて発売当日『文芸春秋』を買い求めたが、真っ先にギリシャ危機に対するドイツの対応を批判する二つの文章、E. トッドの「ヨーロッパは三度自殺する」と塩野七生氏の巻頭の小随筆「なぜ、ドイツ人は嫌われるのか」が目についた。

前者はインタビュー記事で、以前に当ブログで言及した単行本 ( 新書 )の趣旨をさらに一歩進めて、現在のドイツを放置すれば世界は第一次大戦と第二次大戦に次ぐ第三の災厄に見舞われるだろうと警告する。現在のギリシャの危機が財政緊縮や当面の国際的融資で解決するような生易しいものではなく、債務の大幅軽減を必要とするとのトッドの判断は多分正しいだろう。そして、そうした根本的解決にドイツが障害となっているのも事実だろう。今回の新しい論旨は前著のように障害をドイツ人の国民的性格 ( 融通のきかなさ、他国への猜疑心=騙されることへの恐れなど ) に帰するだけでなく、ドイツの大部分を含む北ヨーロッパ諸国のルター的プロテスタンティズムに原因を求めている点である ( カトリックのポーランドは例外 ) 。

他方、ローマ史家の塩野氏がギリシャを含む南欧の主張に同情的なのは「やはり」と言いたいところだが、氏はドイツ ( 南ドイツを除く ) がローマ帝国の領域外だったことに原因を見出す!  ローマ帝国は「勝って譲る」という懐の深さで他民族を心服させたが、ドイツ人にはその度量が無いと言う。私は今回の南北ヨーロッパの対立 ( トッドは南欧は本心ではギリシャの味方だという )を常識的にゲルマン民族とラテン民族の気質の違いと捉えてきたが、トッドや塩野氏のように論旨を拡大されると戸惑ってしまう。

ヨーロッパのユーロ貨採用も外国人旅行者としては本当に便利だったが、相当に無理があったように感ずる。最近の非ヨーロッパ系移民の激増 ( とその一部の国への集中 ) ひとつをとってみてもEUへの批判は今後強まりこそすれ弱まることはないだろう。古い考えかもしれないが、国家という単位はそれなりの存在理由があるから続いてきたのではないだろうか。私はEUの分裂を望まないが今後あり得るとは考えている。

2015年8月7日金曜日

70年談話 有識者懇の報告書

きのう上記懇談会の報告書が発表された。新聞掲載の「要旨」を読んだだけだが、その限りではおおむね妥当なのではないか。

「満州事変」以後の日本の対中国軍事行動を侵略と認めるのは止むを得まい。それに先立って中国人の在中日本人に対する犯罪やボイコットがあったことは事実てある。尖閣列島国有化の際の中国人の「愛国無罪」の蛮行は、80年前もこうだったのかと思わせた。しかし日本側の反応(とりわけ「暴戻支那人」と煽り立てる新聞の反応 )は過剰反応だった。その根源に自国民の生命を特別視する自民族優越思想があったことは否定できない ( 現在のイスラエルのアラブ人への対応と同じ )。それを正当化するのは困難である。

我が国が欧米の植民地支配からのアジアの解放のため戦ったというのも「正確ではない」。そう信じた同胞は少なくなかったと思うし、結果としてアジアの解放に寄与した側面があることを否定したり無視したりするのは賛成できないが、日本の国策がそれを目指して居たというのは強弁だろう。日本を動かした動機はアジアの資源の獲得であったと見るのが大筋では正しいだろう。

台湾ついで朝鮮の植民地化は、欧米にそれを非難する資格があったとは思えないが、民族自決に反したことは事実である。報告書が1930年代から日本の「植民地化が過酷化した」としているのは戦時徴用の導入もその一例なのだろう。私は戦時中朝鮮人の「飯場」に級友を訪ね歓待された事がある。その活気に満ちた雰囲気を覚えているが、彼らの職場が鉱山や土木工事など危険の多い仕事場だったことは否めないし、飯場を訪ねる地元住民は稀だった。

戦後しばらくは中国が日本に対し「軍民二元論」を採り指導者層と一般国民を区別していたのはマルクス主義の階級史観にもとずくものであったろうが日本にとって有難い事ではあった (マルクス様々?)。長い中断期を経て最近習近平政権が「軍民二元論」を復活させようとしているかに見える。それなのに野党が参院審議で安倍首相の念頭にある仮想敵国が中国であるとわざわざ言わせたのは賢明だろうか。中国も名指しされれば面子も当然あろう。そもそも十年ごとに首相談話を出す必要はないのに安倍首相がいわば寝た子を起こしたことと同様賢明ではなかった。

2015年8月3日月曜日

つくば市民に敬意

茨城県のつくば市長が市の郊外に陸上競技場をはじめとする大運動施設の建設を計画したが、住民投票は圧倒的にこれを否決した。住民投票には強制力は無いらしいが、市長は結果を尊重せざるを得ないようだ。

市長は予定地近くに大病院を経営しているとのことなので、周辺の土地開発に特別の利益を期待したのかもしれない。テレビはそれを匂わせていた。しかしそうでなくとも自治体首長は大きな「ハコモノ」を作って自分の業績として長く残したい誘惑に駆られるようだ。それを助長するのが国の補助金である。今回も総額百数十億円の半分 ( 46% )をそれで賄うという。( 他に49%が市債という名の借金とか )。私は補助金のエサに釣られなかったつくば市民を立派だと思う。

私がこの事実に注目したのは似たことが私の住む市でも過去にあったからである。私宅に近いロータリー (いまやラウンドアバウト )に面した土地に市が、老人が会合などに利用する小建物を建てようとし、周辺の数軒の住民が反対した。最初私は老人は騒音源とはならないのに反対するのは住民エゴではないかと感じた。しかし市長はそれまでそうした計画を示したことは一度もなく、たまたま、リーマンショック後に政府が特別高率の補助金を出して全国に事業を募ったのを利用するためと知った。けっきょく施設は建設され利用もそこそこ為されているようなので、市としては面目は立った。

しかし、リーマンショック当時は景気対策として例外的に必要があったとしても、補助金があるが故に不必要なあるいは過剰な施設が建設されのを放置して良いわけがない。全国の自治体住民はつくば市民を見習って欲しい。