私は日本経済史には素人なので生糸は日本古来の主要生産物と思ってきたが実は徳川中期までは海外からの輸入が主で、それの購入のため莫大な金銀が国外に流失していたという。そうした現状を新井白石が憂い、生糸生産の強化を唱えた。それに呼応した但馬の現養父市の上垣守国は西陣に上質生糸を納入する商人の身元を探り、東北の福島地方と知った。
上垣は但馬地方の新知識独占を選ばず、『養蚕秘録』という著作で全国の養蚕業の進歩に多大の貢献をした。その結果、幕末までには日本産の生糸は世界から求められる輸出品となった。じつに日米開戦まで生糸は日本の輸出額の首位を譲ることはなかった(山本茂実『あゝ野麦峠』)。日本の工業化は製糸工女たちの作る生糸で支えられていたのである。
番組の終わり近く、フランスの製糸技術を採り入れた富岡製糸場も紹介されていた。私も日本の産業遺産に指定後、学科の研修旅行で学生たちと訪れた。発足時にはじつに556人の工女たちが全国から集められ、誇りを持って働いたと番組で紹介されていた。当時としては負担の限界に近かったに相違ない金額で技術導入した明治政府の決断にはあらためて感じ入った。
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