2020年1月31日金曜日

英国のEU脱退があっても..........

明日をもって英国はEUを正式離脱する。第二次大戦後、ドイツとフランスが再び戦争をしないため石炭と鉄鋼の共同体を発足させて以来、EEC、ECと経済統合の歩みを進め、並行して進展したNATOと共にヨーロッパ統合の歩みはこれまで前進し続けた印象がある。しかし、英国の立場はこれまでも単純ではなかった。

1966年、ドゴール仏大統領は英国のEEC加盟申請を素気無く拒否した。ドゴールの眼には対米関係を引きずる英国は完全なヨーロッパの一員では無いと映ったのだろう。テレビのマイクを向けられたフランスの若者は「Oh  mon president !  Oh mon president !(おお、我が大統領!)」とドゴールの頑固さにお手上げの様子で笑いを誘った。しかし、2020年の時点で振り返るとドゴールの拒否にも一理はあったのだろう。 

そもそも戦争の再発を防止するため、また米国の経済力に対抗するため進めてきた欧州統合だとすれば、ヨーロッパの大国間の戦争など考えられない現在、統合に揺り戻しがあっても不思議では無い。しかし、英国のEU脱退決定の日、ヨーロッパ議会では議員たちが自然発生的に「蛍の光」を歌っていた。私にはそれはヨーロッパの文化的一体性を示すように思われ感動を禁じえなかった。今後どれほど経済的に対立しても、「蛍の光」とベートーベンの「歓喜の歌」はヨーロッパ人の共通の歌として歌われるだろう。

2020年1月29日水曜日

矜持に欠ける安倍首相

一国を代表する総理が真実を積極的に明らかにせず逃げ口上を並べているのは見苦しい限りである。
私はこれまで安倍首相を軽率な発言をする人だと思ってもメディアの批判には必ずしも同感できなかった。森友学園への土地払い下げ問題は疑惑に満ちていたが森友氏の人格は最低で、その言はとても信じられるものではない上に、彼は大阪選出の国会議員たち ( その中には引退前は大物議員だった人物も ) とも親しかったと報じた新聞もあったので、安倍夫妻の影響の結果と断定出来なかった。加計学園への獣医大認可問題も事前に首相が知らなかったとの主張は到底信じられないが、公的機関の獣医不足は深刻であり同学園の申請が最も早かったとあったので、認可されても不自然とは言い切れなかった。

しかし、今国会での「桜を見る会」に関する総理の説明は不誠実としか受け取れない。確かに招待者数などに関する取り決めはこれまで明快でなかったにせよ、それを悪用し、民主党政権下の8419人から在任7年間に1万1700人から1万8200人に増やした ( 『東京新聞』1月28日 )。招待客の名簿を抹殺したことなど臆面もない振る舞いというほかない。なにより、後援会関係者との写真撮影のため苑内を小走りになって移動する姿に一国の総理の矜持のかけらも無い。新型肺炎騒ぎなどで追求が半端に成ってはならない。

2020年1月27日月曜日

ダンケルクは奇跡か悲劇か

今朝の産経新聞に英国のBBC製作の『ダンケルク』の大きな広告が載っている。第二次大戦初期にドイツ軍によりベルギー海岸の町ダンケルクに追い詰められた40万の英軍 ( 一部仏軍 ) が10日間に脱出帰国したエピソードは英国では「ダンケルクの奇跡 」として有名である。DVD3枚という分量は製作陣の並々ならぬ意気込みを感じさせる。漁船や個人のヨットに至るまであらゆる船舶を動員して弾雨の中で遂行された救出作戦は英国民にとって大成功だった。

じつは同名の、こちらは映画の『ダンケルク』( 1964年 ) はジャン・ポール・ベルモントの主演で1964年に公開されたフランス映画である。惨めな敗戦の上に脱出もかなわず海岸に取り残されたフランス軍兵士を描いたこの作品の印象はむろん暗かった。私は戦後のフランスが原爆開発を強行した理由は国連の五大常任理事国の面子と共に、いざとなれば同盟国も自国の都合を優先することをダンケルクで思い知らされたことも理由の一つと思う。

ヴェルサイユ条約などで軍備を厳しく制限されていたドイツはナチスのもと英仏を上回る軍事力を短期間に建設した。英仏の政治家は前大戦で自身戦傷者となったヒトラーが戦争を始めるとはどうしても信じられなかった。ナチスドイツの危険を説いたチャーチルは好戦的とみなされた。その結果戦争準備は遅れフランスは降伏し、英国は米国の援助で辛うじて踏みとどまった。父が当時の駐英大使だったジョン・ F・ケネディーのハーバード大学での卒業論文は「英国はなぜ眠ったか Why England Slept 」だった ( 同名の邦訳あり ) 。

2020年1月19日日曜日

前進座の足跡

朝日新聞の土曜版beの先週号 ( 1月18日 )に演劇集団の前進座の歴史を辿った記事が載っており、断片的にしか知らなかった私には大変興味深かった。歌舞伎界の封建制や因習に反発して前進座の2人の若者の中村翫右衛門と河原崎長十郎が、固い結束で戦前戦後の演劇界に大きな足跡を残してきた。しかし、戦後の翫右衛門の新中国への一時亡命や、長十郎の中国文化革命への心酔などが契機となり、2人は袂を分かつことになったとのこと。両雄並び立たずの側面も皆無ではなかったろうが、高い理想が歴史にもほんろうされ和解を見ることなく両人の相次ぐ死で終ったのは痛ましい。

私は前進座製作の映画『箱根風雲録』( 1952年 )を多分見ているが、劇場での上演作品としては井上靖原作の『天平の甍』しか記憶にない。中国で仏教を学ぶため渡海した5人?の若い僧たちが主人公を除き挫折や方向転換を経験する。或る者は寂しさに負け現地妻と結婚し帰国を断念させられる。或る者は自分の能力の限界を知り仏典の翻訳と将来 ( 持ち帰ること ) に専念する ( その仏典は海難を避けるため海中に投ぜられる ) 。或る者はインドに出奔し行方知らず。或る者は中国の高僧鑑真を日本に招くことに自分の使命を見出す。ただ独り、戸惑いながらも愚直に仏教を学んだ主人公は帰国後重用される。

ちょうど留学をひかえていた私には『天平の甍』の渡海僧たちの生き方は他人事とは思えなかった。そこに偶然、前進座の『天平の甍』の名古屋公演があり、長十郎らの力演に感じ入った。前進座の演劇活動はいまも続いているが、あの頃がその活動の山脈の中のひとつの頂点だったのだろうか?

2020年1月18日土曜日

全国統一大学入試の今昔

今日と明日は最後の大学入試センター試験の日。関東地方は雪との予報だったが、大した降りでなくて良かった。しかし毎年降雪情報に一喜一憂しないよう、世界の大勢に合わせて7月入試、9月入学に改めたらと思うのだが、桜咲く校庭での入学式のイメージには今年も勝てない。

ほとんど忘れられているが、全国統一の試験は1950年代の「進学適性検査 ( 進適 ) が最初と思う。各大学での二次試験への「足切り」に使用されたとも聞かず、文系と理系への自分の適性を知るくらいしか利用されなかったと記憶する。私の場合両者の点数差が2点だったのでそれにさえ役立たなかった!  しかし記憶力より理解力重視という最近の「 改革」の方向は進適への先祖返りのようにも映る。

進適は数年も続かず姿を消し、長い中断ののち1990年に「共通一次試験」が発足した。その理由は各大学での試験に難問奇問が少なくないとのことだった。その指摘は正しかったが、全て教科書からの出題となると点数が高くなる。すると統計学をかじった同僚がこれでは得点の理想的な分布曲線から外れるなどと主張する。正式な会議ではどうしても「正論」が勝ち、出題のレベルを高める他なくなる。

現在の入試センター試験の導入事情は良くは知らないが、入試科目の部分利用を許すことで私学の利用率が大幅に高まったようだ。しかし受験者数が増大すれば採点の手間は増大する。そうした中で英語のヒャリング・テストなど良くも実施してきたと感服するが、今回の入試改革案で話す力もテストするとして袋小路に入ってしまった。私も入試の公平性は何としても守って欲しいと思う。

私も含め我が同胞たちの国際シンポジウムなどでの発言が少ないのは否定できない事実だ。その大きな理由はヒャリングに自信がないので発言も少なくなると私は見ている。その意味では聞く力を伸ばせば、公平を期し難い「話す力」を民間業者 ( しかも複数の ) に依頼してまで導入する必要はないと思う。

2020年1月13日月曜日

シーア派の三日月形

香港、台湾と続く若者の異議申し立てはようやくイランにも波及し始めた。ガソリン値上げをきっかけとする反政府デモは多数の死者を出して鎮圧されたが、今回のウクライナ機撃墜事件をきっかけに復活し、公然とハメネイ最高指導者の退陣を要求し始めた。その底には都市民を中心に民主主義からファッションまで西欧化を容認し歓迎する欲求があろう。しかし、地方民のスレイマニ革命防衛隊司令官への追慕の念も強いようで、一直線に民主化に進むとは思えない。

スレイマニ司令官について私はウィキペディアで知る程度だが、その高い人気は否定できないようだ。それは米国や周辺諸国からイランの国土を守ったとの評価から生まれたものだろう。しかし、彼が守ろうとしたのはイラン国家だったのか。それともシーア派イスラム教だったのだろうか。

今朝の東京新聞の『本音のコラム』で定期寄稿者のカリーマ師岡氏がイラン情報省の内部文書に言及している。氏によればその文書は「司令官率いるシーア派軍団が残虐行為により一部イラク人の反イスラム感情を煽っていると警鐘を鳴らした」ものだとのこと。事実、スレイマニ司令官はこれまでスンニ派に対する激しい戦いに従事していたと聞く。

スンニ派中心のフセイン体制の下でイラクのシーア派が抑圧されていたことは知られている。フセイン打倒後の新体制が多少とも反スンニ派的となるのは自然だった。しかし、それはイラクのシーア派が主体であるべきであった。

師岡氏がイスラムかどうか私は知らない。しかし、父親がエジプト人なので、イスラムならばおそらくスンニ派だろう。それがスレイマニ司令官の本当の動機が中東での「シーア派の三日月形」の完成だったと師岡氏に見抜かせたのかも知れない。

2020年1月11日土曜日

カニを食するの記

一昨年あたりからか、新聞に大々的にカニの広告を見かけるようになった。なかなか高価だし、地元のスーパー辺りで買う方が安心に思えて注文したことはない。ところがその影響からか、脚だけのカニ肉はスーパーに並んでいるが、一匹丸ごとのカニをあまり見かけなくなった。見かけないと食べたくなるのは人間の性である。

二駅ほど離れた日野市 ( いまや土方歳三ブームが大変!) の八王子バイパス沿いに魚類専門の市場がある。鉄道駅からは遠いので駐車場はいつ行ってもそこそこ混んでいる。ここでも最近は一匹づつのカニを売っているとは限らないが、このままではカニを食することなく冬が過ぎてしまいそうなので、今週市場を訪ねた。少し小さいとは思ったが手頃な価格だったので毛ガニを二匹買い求めた ( 自宅の皿の上に乗せたらそれほど小さくはなかった!)。生きているので鍋の中の熱湯に入れる時にはその罪深さに我ながらたじろいだ ( 偽善者め!)。

カニに限らず今は電話一本で食品を注文できるのが多忙な人たちの助けになっているとすれば、無職の老人が反対しても仕方がない。自分が注文しなければよいだけの話である。しかしその結果近所のスーパーで入手困難になったり価格が上昇するなら、老人以外の人にも有難くない話だろう。マグロもタイも養殖可能な現在、カニも早くそうなってほしい ( お前の存命中はとても無理!)。

 最初に毛ガニを食したのは1991年 ( 日本海フェリー乗船中ゴルバチョフ追放クーデターの報を聞いた ) 3度目の北海道旅行で札幌の時計台に面した法華クラブの夕食だった。ホテルでも食事付きだったのだろうか。往時茫々である。

2020年1月9日木曜日

トランプ氏を動かしたもの

米国がイランのソレイマニ革命防衛隊司令官を爆殺したのに対しイランが報復を宣言。世界が成り行きを案じていたところ、イランはイラクの米軍基地をミサイル攻撃した。イランは米兵80人を死去させたと主張するが、米国は人的被害なしと発表している。真相は未だ不明だが、両国とも世論の沈静化を図る本音は透けて見える。

直前にイランに対する軍事行動に否定的発言をしていたトランプ米大統領が突然前言を翻した理由は未だ明らかではないが、民放テレビの報道番組で元NHKのキャスターの木村太郎氏 ( たしか ) が、カーター元大統領の二の舞いを演ずることをトランプが恐れたためと発言していた ( 昨晩には在日アメリカ人ジャーナリストのモーリー・ロバートソンがほぼ同様の理由を挙げていた ) 。

1979年のホメイニ革命で王位を追われたイラン国王の亡命を米国が許したことを怒ったイラン国民の一部が、テヘランの米国大使館を占拠し館員52名を一年以上監禁した「大使館人質事件」に対しカーター大統領が無策だった ( 人質の安全を考えれば別の行動の仕様があっただろうか?) として二期目の大統領選でカーターはレーガンに大敗した。二期目の大統領選をひかえ何よりも再選を優先するトランプが年末31日、在イラク米国大使館が群衆に襲撃される様子を見て軍事行動を決断したことは大いにあり得る。

あるいはトランプが31日の大使館襲撃の様子に単純に怒りを覚え衝動的に決断したのかも知れない。いずれにせよソレイマニ殺害が賢明だったかは別にして、外交官や公館の不可侵性など500年間に成立発展してきた外交の規約や慣例を単に欧米人の勝手な産物と軽視するのは誤りである。それらは人類共同の貴重な遺産と考えるべきである。

2020年1月7日火曜日

ホテル三日月のベトナム進出

今朝の新聞各紙にスパホテル三日月の1ページ全面広告が載っており、目にされた方は多いだろう。同社がベトナム中部のダナンに総額120億円を投じてホテルを中心とする一大リゾート施設を建設するとのこと。ダナンは天然の良港を持ち、ベトナム戦争中の米軍の基地として再三その名を見聞きしたし、古くは日本海海戦で敗れるロシアのバルチック艦隊の最後の寄港地だった。

ホテル三日月といえば房総半島一周の途次、鴨川の国道沿いのそれを再三見ているが、最近では舛添前都知事が木更津の同ホテルに公金で家族と宿泊した ( 真偽は知らない ) として名を知られた。しかし、ダナンの三日月の全面オープンは一年以上先の事とのことなので、本当は今広告の下部三分の一で紹介されている鴨川、木更津、鬼怒川の三つのホテル三日月の宣伝が主目的なのかも ( ゲスの勘ぐり?)。

いずれにせよ、ベトナムへのホテル三日月の進出にはわたしは大賛成である。日本人を中心とする?外国人観光客が落とす外貨はベトナムにとり貴重なだけではない。我が国で三年間研修生として滞在したベトナム人が本当に希望した職についたかは大いに問題とされるべきだが、三年間なら日本語はある程度身についたはず。このホテルなどの進出日本企業で有用な働き手として評価されるだろう ( わたしの最後の中国旅行の四川省での日本語ガイドがそうだった ) 。

以前にも書いたと思うが、ベトナムやフィリッピンなど我が国が前の戦争で多大な被害を与えたにもかかわらず親日的な国の国民には大いに日本で働いて少しでも豊かになってほしい。中南米など過去の日本人移民の子弟にあるような特別の居住条件に準ずるような措置があってよい。

2020年1月5日日曜日

北朝鮮帰還事業の欺瞞

昨年12月14日が、北朝鮮帰国事業による帰国船第一便が新潟港を出港した60周年に当たるというので、その前後に新聞各紙の記事が続いた。年が明けて1月2日、NHKのBS1で同じタイトルの番組があった。当時を知る者としても初耳の事実が幾つかあった。

同事業は北朝鮮にとっては韓国よりも自国の優位を誇示する「政治的勝利」だったのだろう。したがって韓国の李承晩政権は猛反対したが、米国は韓国にも同じことをせよというだけで本気の反対はしなかった。日朝両国の赤十字の交渉結果を日本政府は人道的事業として受け入れたが、在日コリアンの生活保護受給者の比率が日本人の十一倍だったこと、朝鮮総連系の人たちが不穏分子と見られがちだったことなどから本心は渡りに船と応じたのだろう。

「地上の楽園」と誰が最初に言いだしたかは知らないが ( 朝鮮総連? マスコミ?)、諸新聞によりいっとき北朝鮮の代名詞のようにも使われたこの言葉にうながされて北朝鮮に渡った帰国者たちにどんな事態が待っていたかは他言する必要はないだろう。日本への帰国を許されぬ彼らの苦難を救ったのは在日の肉親の送金だった。しかし、それが逆に住民からの帰国者への嫉妬となる場合も少なくなかったという。

帰国事業は1967年には一旦終了したが、4年後に再開された。しかし在日コリアンが多数応じるはずもなく、総連幹部は北朝鮮からの厳しい要求に直面して自分の子弟を送り出す人も少なくなかったという。

我が国のメディアは当初の「人道的事業」への協賛?を控えるようになったが、稀な例外を除いて帰国事業の評価には沈黙を決め込んだ。その一方で韓国の「軍事独裁政権」への批判は紙面や誌面で絶えることなく続いた。