2019年7月11日木曜日

野球と国民性

今朝の朝日新聞の多摩版に、「帰国、日本流を体感    ICU高 白鳥誠大投手」との見出しの記事が載っている。昨日初戦敗退したICU高校のエース投手は小中校時代に米国でベースボールに打ち込んだ。高校から帰国したが、日米の「野球文化の違いに戸惑った」とのこと。

彼は日本の高校野球の「犠打の多さ」、観客席の吹奏楽の応援の「うるささ」に違和感を持ち、「マネージャーって必要?」とも感じたという。しかし、「次第に周囲の支えに感謝の気持ちが生まれた。守備陣の頑張りでピンチを脱し、犠打で好機が広がる。全員野球の大切さが分かった」「うまいだけがすべてじゃないと、日本で少しずつ学んだ」という。

米国の国技の野球がわが国に移植されて100年あまり。両国民の国民性の違いは、ほぼ同じルールのスポーツにまで及んでいるようだ。図式的な言い方になるが、選手の自主性の幅が大きく、伸び伸びとしたプレーを許す米国流に対し、チームの勝利のため自分を犠牲にすることも厭わない日本流との違いである。自由と規律とどちらが良いと言うつもりはない。

米国人はアフリカ系と先住民系 ( と中南米系 ) を除けば全員が自分の意志で大西洋を渡った人たちの子孫であり、当然に自己主張を貫くタイプが多いのではないか。それに対し、近年、日本人も生活感情など昔とずいぶん変わったが、それでも米作農民だった時代の協調性 ( 共同体への忠誠心?)が残存しており、それが時に美意識にまで昇華されているのだろう。

日本人の私も無論その例外ではない。それでもスポーツ観戦記事のあまりの自国贔屓には馴染めないが..........。


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