2019年4月21日日曜日

中国人学者の元号観

わたしは2週間ほど前の本ブログで元号騒ぎは「終わってみれば大山鳴動、鼠一匹」と書いた。発表までのメディアでの憶測騒ぎがこれで一段落すると思ったのである。それは大間違いだった。その後、テレビ・コメンテーターの吉永みち子によれば、「日本人がこんなに元号に興味を持つと思われなかったというくらいの大フィーバーだった」( 『毎日』4月20日 )。

日本人がフィーバーしたのか、メディアが勝手にフィーバーしたのかは確かでないが、元号決定後の内閣支持率が9%上昇した ( 同 )となるとやはり国民の関心事ではあるのだろう。何しろその間、閣僚の問題発言が相次いだのだから ( 今さら国民は驚かない?!)。

昨日の『朝日』に北京大学教授で元号問題の専門家のインタビュー記事が載っている。辛徳勇教授は「令和はわかりやすく、書きやすいので良いと思う」と好意的である。わたしは我が国が独自の年号 ( 大化 )を採用した意味をこれまで深く考えたことがなかったが、教授によると「元号は天命を受けたことを象徴する」ゆえに日中両国が「対等なのだと明確に示した」のであり、「中国の元号を併用した朝鮮半島などとは異なる」とのこと。

しかし、「中国との文化の違いや『日本化』をことさら強調するのであれば賛成できない。ナショナリズムを助長し、悪影響が出る」との教授の意見には全面的に賛成である。

教授はまた日本人が漢字を借用したと同様、「現代中国語には、明治以降に日本で考案された単語が大量に使われている。それらの言葉がなければ中国人は会話も書くこともできない」と言う。新しく用語を作らなければの意味だろう。私も戦前の中国のマルクス主義文献はすべて日本語からの重訳であると聞いている ( 毛沢東もそれら無しではマルクス主義者になれなかった?!)。その意味では初めて国書が元号に利用されたことなど特筆するほどのことなのか? 「東アジア共通の文化という大きな視点で考えたらいいと思う」との教授の意見に耳を傾けるべきだろう。

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