2019年3月30日土曜日

別れの歌

朝日新聞の土曜版beの「beランキング」は3月30日で一先ず終了とのことで、最後のテーマは「心に残る卒業ソング」ベスト20だった。最後の号が卒業ソングとはよく考えたものと感じた。

第1位が「仰げば尊し」だったのは旧世代の私には納得できたが、最近は卒業式であまり歌われないと聞いていたので意外だった。アンケートの回答者に中高年が多かったのだろう。私は大好きだが最近の新聞に、聴いていて居心地が悪かったとの教員の投書が載っていた。私は教員として聴いたことは多分ないが、日ごろジャージー姿で教えるとそんな気持ちになるのだろうか( 高齢者の嫌味!)。

第2位は「蛍の光」だった。これには何の不思議もないだろう。卒業式と言わずあらゆる別離の機会に歌われるから。客船が出港する際、別れのテープとともに演奏される場面が1番に頭に浮かぶ。モンゴメリー・クリフト主演の名作映画『地上より永遠に』のフィナーレにハワイを出港する客船は「アロハオエ」の演奏で送られていた。これまた素晴らしい別離の歌だと感じたのは映画の余韻に浸っていたからか。ナホトカ航路のソ連の客船は横浜の出港時、「カチューシャ」を演奏した。「歌声喫茶」の時代、よく聞きよく歌った曲なので感慨ひとしおだったが、別れの歌とは知らなかった。

半世紀前の英国で、年末の休暇に親友のニューカースル・アプオン・タイン ( スコットランドに近いイングランド最北の都市。のちに郊外のサンダーランドに日産が進出した ) の家に招かれた。大晦日の夜、そこから奥地に小一時間ほど入った村で、村人がかがり火を載せた桶を頭の上に載せて歩く素朴な行事があり、最後に見物客が腕を組み大きな輪になって蛍の光を歌って旧年に別れを告げる。その後テレビ全盛時代になって観光客が増えたと聞いたが、忘れられない蛍の光の思い出である。

2019年3月29日金曜日

秋篠宮家の内紛?

しばらく前から秋篠宮家で親子間に波風が立っているかのような報道が週刊誌に報道されていたが、今週は『週刊新潮』と『週刊文春』の二大?週刊誌が派手に取り挙げた。「奔放プリンセス  佳子さまの乱  全内幕」とのセンセーショナルな見出しにもかかわらず、一読したかぎりではどの家族にもある親子間の意見不一致程度の内容だった。

佳子さんが「当人の意志を尊重してほしい」と仲良しの姉への理解を示したのは何ら驚くには当たらないが、父の秋篠宮が小室さんからの納得のいく説明がない限り話を進めないと既に意思表示をしていた以上、「乱」になるのは皇室メンバーの避けられない運命なのだろう。なにしろ両誌とも結婚には一億円以上の御下賜金があると書くことを忘れていない。

それにしても秋篠宮と紀子妃とくに後者に対する週刊誌ジャーナリズムにそこはかとない意地悪さを感じるのは私だけだろうか?何やら紀子さんを皇后と呼びたくないとしか思えない。たしかに屈指の名家出身の美智子さんやハーバード大学やオクスフォード大学に学んだ ( 東大も忘れないで!)
雅子さんと比較されて見劣りのしない人などそういるものではない。不公平と言えばそのとうりである。

それもこれも愛子さんが将来皇位に就かれないことへの国民の潜在的なわだかまりもあると私には思えてならない。そもそも君主制での最大で唯一の後継根拠は血筋だろう。合理的であろうと無かろうと国民は直系の相続者なら納得する。日本史上の女性天皇は中継ぎ的だったと聞くが、すでに先例があるということは小さな事ではあるまい。天皇は男子でなければならないとする人たちは皇室への国民の敬愛の念を掘り崩すのではないか。

2019年3月27日水曜日

訂正

先ほど大和和紀の『あさきゆめみし』の展示と書きましたが、同氏の『ヨコハマ物語』の誤りでした。悪しからず。

大佛次郎記念館を訪ねて

先週土曜日、横浜の港の見える丘公園の隣りにある大佛次郎記念館を訪ねた。3月25日まで特別展示「大佛次郎『天皇の世紀』1555回の軌跡  取材旅行から絶筆まで」が催されており、担当した私の元ゼミ生のYさんに訪問を要請されていた。出来れば桜見物もと不届きにも訪問をギリギリ引き延ばしていたが、桜はついに時間切れとなった!

大佛次郎が『鞍馬天狗』などの大衆小説から『帰郷』などの純文学、さらには『天皇の世紀』10巻のような歴史書まで執筆した知の巨人であることはむろん私も承知していたし、朝日新聞夕刊に1555回掲載されたときほとんど目を通していた。Yさんの解説付きでそれら関連資料を興味深く拝見した。他にも大仏が横浜生まれで生涯横浜を熱愛したこと、生涯に500匹の猫を飼ったほどの猫好きだったなど初耳の事実も多かった。

展示に接したあと昼食時、館内のコーヒールームで大きなサンドイッチを食べながらOさんとつもる話に興じた。天気が今ひとつだったので市内の見物は省かなければならなかったが、東横線が中華街駅まで延伸されていたなど浦島太郎の心境だった。

4月3日から横浜出身の漫画家の大和和紀の『あさきゆめみし』を中心とした展示が始まる。港の見える丘公園の桜とあわせて訪ねてはいかが。

2019年3月21日木曜日

大松博文と東洋の魔女たち

朝日新聞に今日まで8回にわたって 、1964年の東京オリンピックで金メダルを取った東洋の魔女たちと大松博文監督の回顧記事が載っている ( 未完?)。同チームの中核となった日紡貝塚女子バレーチームの猛練習は私もニュース画像?で見たことがあったが、壮絶とでも言うべき苛酷なものだった。当時でも、うら若い?女性に対してこんなことが許されるのかと思わせた。

それでも選手たちがついていった ( 大松の自著『俺についてこい』) のは「大松先生の厳しさにはすべて理由があった」との篠崎洋子選手が語るように、監督と選手の間には強い信頼関係があったからだろう。もっとも、途中から加わった篠崎選手は経験しなかったろうが、初期には総員ビンタ ( 今は何と呼ぶ?) も珍しくなく、選手たちは監督が全力を出せないよう出来るだけ密に並んで裏をかいたという!

想像だが、大松監督はなかなかの容貌だったので選手たちに一種の恋愛感情めいたものがあったのではないか ( 男子チームでも監督が女性なら同じだろう。女性監督は稀だろうが ) 。それがこの監督を優勝させるためならどんな苦しみにも耐えさせたのではないか。そうでなければときに払暁に及んだ自主練習など出来まい。

その証拠という訳ではないが、オリンピック終了後大松監督が日紡を退社すると栄光の選手たちも退社した。彼女らは日紡からの給料だけで世界一になっても報奨金はなかったという。その後は選手たちはママさんバレーの指導者になった。

国情も時代も違うとはいえ、欧米を中心にスポーツで年間億単位から十億単位の収入のアスリートは少なくない。以前にこのブログで言及した覚えがあるが、1900年のパリ・オリンピックを描いた映画『炎のランナー』で、試合当日が日曜日となりキリスト教の安息日には出られないとして予定の100メートル走から200メートル走に変更して優勝した英國青年は、その後は宣教師となり中国に赴いた。オリンピック優勝の栄誉以上を求めなかった点で65年後の東洋の魔女たちも同じだった。



2019年3月15日金曜日

記憶に残る選手

テレビに久しぶりに元スキージャンプ選手の原田雅彦氏が出ていた。1994年のリレハンメルオリンピックのジャンプ団体で日本男子チームは金メダルに手が届きかけていたのに失敗ジャンプをして国民をがっかりさせ、次の長野オリンピックの最終ジャンパーとして金メダル獲得に貢献したことを覚えている人は多いだろう。前よりは少し歳をとったと感じたが、人懐こい笑顔は健在だった。

20年以上前、オーストリア観光のツアーに参加したことがある。ミュンヘン空港からオーストリア入りして最初の観光地はスキーの競技場としても知られるバートガシュタインだった。トニー・ザイラーが世界選手権で三冠を達成した ( コルチナ・オリンピックに続いて ) スキー場のジャンプ台でガイドの説明を聞いていたとき、傍らの柱に目を走らせたら、ここでバッケンレコード ( このジャンプ台での最長飛距離記録 )を達成した選手たちの名を刻んだリストがあり、原田選手の名があった。エッ、原田選手って偉かったんだとびっくりした。

というのも、リレハンメルオリンピックでの失敗ジャンプの印象は強烈だったし、長野での最終ジャンパーとしての着地姿勢はいまにも尻餅をつきそうでヒヤヒヤものだった。それでも天は原田を見捨てなかった!

スポーツでは記録よりも記憶に残る選手はいる。原田は後者の代表だったが、立派な記録も残していたと知ってほしい!

2019年3月13日水曜日

はやぶさ2は無駄か?

昨日 ( 12日 ) の『朝日』の「声」欄に、「『はやぶさ2』偉業に酔う前に」との大学教員の松井利仁氏の大胆きわまる投書が載っている。インターネットで調べたら同氏は京都大学工学部出身で現在は環境騒音を専門とする北海道大学工学部教授とのこと。

はやぶさ2による小惑星探索が我が国のメディアで快挙として大きく報道されたことは記憶に新しい。しかし松井教授は「惑星探査は今の世の中で必要なのだろうか」と問いかける。「世界で5秒に1人が餓死し........、国の借金は1千兆円を超えている」。はやぶさ2は「『真理の探究』という美辞に包まれたエンターテインメントに過ぎないのではなかろうか」「惑星探査に正義があるとは思えない」と手厳しい。

こうした意見が正面きって表明されることは滅多にないが ( むしろ空前絶後?)、じつは国民の一部に分け持たれている意見かもしれない。しかし、ことは宇宙探索だけでなく純粋科学全般にかかわる深刻な問いかけである。大学理学部で追及される自然科学は結果として人類に貢献するかもしれないが、本来はこの世界の理解が目的だろう。ニュートリノ研究でノーベル賞を受賞した梶田隆章教授が研究目的を問われて「知の地平を拡大するため」と語ったのは、多年浴びた質問への考え抜かれた回答なのだろう。

他方、やはりノーベル賞を受賞した山中伸弥教授は、iPS細胞研究から画期的な創薬が為されないならば私の研究は何の意味もないと言い切っていた。同じ科学者でも山中教授が医学部出身であることと無関係ではないだろう。

じつは理学部の研究活動と同様、文学部の研究活動も実用に資することを目的としていない。あるいは前者以上に後者は「虚業」だろう。しかし理学と同様文学も効用が無いわけではない。何より基礎科学に手を抜いたとしても世界で5秒に1秒餓死者が出る現実に何の効果もない。基礎科学者からの松井教授への反発や批判は避けられないだろう。

それでも素人にも理解が容易な研究活動が過度にメディアに持て囃される事実は否めない。敢えて「暴論」?を語った松井教授に敬意を表明したい。

2019年3月11日月曜日

東日本大震災から8年

東日本大震災の第8回記念日にあたる今日は、テレビ各局とも終日震災回顧の報道で持ちきりだった ( 見る方も暇なのね!)。震災当日の津波の動画は何度も目にして来たが、改めて見ると乗用車が何台もまるで木の葉のように流されている様は壮絶とでも言うほかない。

あらためて今後は画期的津波対策が必要になるのでは。東京湾岸も堤防により守られていると言っても東日本大震災クラスの地震が襲ったとき果たして無事だろうか。ビルが林立する都区内では上層階に逃れれば失命することは無いだろうが物質的損害は巨額になるだろう。

東日本大震災よりも大規模災害になると予想されるのは南海トラフの移動で起こる西日本の太平洋岸をおそう大地震である。海岸沿いの都市や村落の住民は高さ10数メートルと予想される津波に技術的に対処できるだろうか。

しかし今日たまたまテレビ画面で見た四国の海岸地帯では避難用タワー ( むしろ壁の無いビル ) が視界内だけで3棟造られていた。たまたま先進地帯だったのかもしれないが、生命を守ることは可能だとの印象だった。今後早急にタワーを普及させることが肝要だろう。

震災後の東北へは五本の指で数えるほどは訪ねているが、石巻以外の被災地は訪ねていない。今年はなんとか三陸海岸を訪ねたい。ボランテイアは到底不可能だが。

2019年3月9日土曜日

沖縄と本土の戦後 (2)

現在、本土政府と沖縄県との間の最大の対立因となっているのは言うまでもなく米海兵隊の普天間基地の名護市辺野古への移転問題である。

1996年、村山氏に続いて自社さ ( さきがけ ) 政権の2代目首相となった橋本龍太郎は当時差し迫った「日米安保体制の再定義」問題の協議のためクリントン大統領と会談した。当時、米兵による少女暴行事件で沖縄県民の怒りは激しいものとなっていた。大統領の友好的態度にうながされて橋本首相は思いきって海兵隊基地の全面移転を提案したところ再検討が約束された。大田昌秀沖縄県知事にとってさえ「青天の霹靂 」だった展開に橋本首相が舞い上がったとしても無理はなかった。

しかしその後の日米交渉で決まった普天間基地の返還のための代替地は、当初の嘉手納米空軍基地への統合案に米軍も周辺住民も反対したため実現不可となり、最も抵抗が少ないと予想された米軍の既設基地 ( キャンプ・シュワブ ) のある名護市辺野古が選ばれた。しかしここでも米軍の要求と住民の反対の間に橋をかけることは困難であり、鳩山由紀夫首相の「最低でも県外」発言の後は沖縄の自民党までこれまでの条件闘争的態度から県内米軍基地の廃止に変わった。

20年以上も空しい期待を強いられた宜野湾市民の普天間返還の要望に早急に応えるべきは当然だが、辺野古の埋め立て予定地に新たな軟弱地盤が発見され、さなきだに長い工期がさらに延びる上に沖縄県の試算では基地完工まで2.5兆円の費用が必要とのこと。米軍の戦略変更でいつか海兵隊が去ったら全てが無駄になりかねない ( 米軍立川基地の前例もある。可能性ゼロとは言い切れない ) 。いっそのこと基地の危険と騒音を避けたい宜野湾市民に市内ないし市外への移住のための資金を給付する方が待機期間の大幅減少ともなり、賢明に思える。

6日の朝日新聞の夕刊に、「馬毛島に変更  一考を」との作家の池澤夏樹氏の提案が載っている。現在、岩国基地の米軍艦載機の離着陸訓練の候補地としても注目されている同島への海兵隊基地の移転は決して同氏の一時の思いつきではなく、20年来の持論とのこと。「短期間の工事で実用化が可能、付近住民の危険がなく、騒音問題もなく」はその通りだし、私も
離着陸訓練地としては最適と思う。しかし、樹木も無い裸島に水源があるとも思えず、短期利用以上の基地となりうるだろうか。

2019年3月6日水曜日

沖縄と本土の戦後 ( 1 )

こんにち、沖縄がわが国の一部であることは日本人 ( 少なくとも内地人 ) にとっては自明の理である。しかし、70余年前はそうではなかった。米英中の三国が発表し ( ソ連は未だ中立国だった ) わが国が受諾したポツダム宣言では、日本国の主権は「本州、北海道、九州及四国ならびに吾等の決定する諸小島に局限 」されていた。二度の原爆投下とソ連の対日参戦に意気沮喪した日本はそれを受諾するしかなかった。サンフランシスコ講和条約でも沖縄は米国の施政権下にとどまっていた。1965年に佐藤内閣が沖縄返還を公式に提起するまで、我が国は「諸小島」との歴史的人種的文化的つながりを指摘することしかできなかった。

その意味で佐藤首相の「 沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後は終わっていない」との言明は、沖縄県民の日本復帰運動の高まりを受けてとはいえ画期的であり、その後の困難な対米交渉を含めて沖縄返還への佐藤氏の多大な貢献は否定できない。

その後も基地問題を中心とする対米交渉の陰には、メディアでは稀にしか報道されなかったが山中貞則、梶山静六、野中広務、小渕恵三、橋本龍太郎ら沖縄への思い入れの深い、あえて言えば贖罪意識に強く動かされた政治家たちの真摯な ( 最近乱発され価値低下した言葉だが ) 努力があった。官僚案では第8位 ( 警備や宿泊や輸送の困難から ) だった沖縄を敢えてサミット会場に選んだ小渕首相は沖縄説得訪問の1週間後、サミットに出席することなく脳梗塞で急死した。

本年1月に出版された塩田潮 『内閣総理大臣の沖縄問題 』( 平凡社新書 ) は新書版ながら300ページの内容の詰まった著作であり、私の失いかけた記憶をよみがえらせてくれた。深謝。