2018年7月30日月曜日

想い出のボクサーたち

ボクシングのWBOスーパーフェザー級王座決定戦で日本人の伊藤某選手が勝利し、世界チャンピオンになったと報道されているが何の感慨も湧かない。敵地フロリダでの勝利は同選手が内弁慶ではない事を示し立派である。しかし、日本人のボクシング世界王者が現在7人と聞いては感慨が湧かないのも仕方がない。クラス分けの細分化とタイトルを授与する関係団体の乱立の結果である。

1950年代、日本人ボクサーの世界王者第1号の白井義男とコーチで恩人の米国人カーン博士との師弟愛はのち語り草となったが、日本中のボクシングファンの期待を一身に集めて闘ったのは1960年代の海老原博幸とファィティング原田だろう。二人は同じフライ級で直接対決は一度だけで原田が勝利した。しかし二人とも当時最強の世界王者のポーン・キングピッチ (  タイ )に初戦で勝利し世界王者となったが、リターンマッチでポーンに敗れた。

海老原はカミソリパンチと呼ばれた強烈なパンチの持ち主で、開始早々の一回にポーンをノックアウトして我々を唖然とさせた。対照的に原田はパンチ力はそれほどでは無かったが、ファィティングの名の通り左右のパンチの連打に次ぐ連打でポーンの戦意を喪失させ、世界王者となった。

海老原は強烈パンチのゆえに何度か指を骨折し、世界王者に返り咲くことはなかったが、原田は体重の増加に苦しみながらも1階級上のフェザー級で再び世界王者となった。

海老原は身内の不幸と深酒のため51歳で早死にした。原田は日本ボクシング協会長として功なり名遂げて現在は協会顧問とか。原田は親の死でも泣かなかったのに僚友の死に泣いたと言う。対照的なボクシングスタイルで対照的な後半生だったとはいえ、オールドファンには忘れられない二人である。

2018年7月29日日曜日

美辞麗句では通用しない?

今朝の朝日新聞の編集委員のコラム『 日曜に想う』に大野博人なる記者の「1票の『格差』か、1票の『不平等』か」との論説的文章が載っている。議員定数を6増した最近の改正選挙法に関する報道 ( 政府広報も?)が、「1票の価値の格差是正」と呼んでいる。しかし、選挙権でも所得でも外国では「格差」よりも「不平等」の使用が一般的である。不平等を格差と表現する ( 訳語までそう変えている !) ことにより印象が薄められ、事の本質が歪められていると大野氏は言う。

不平等を格差と表現することの問題性を指摘する大野氏に私も同感である。しかし、そこには問題を矮小化する意図以上に、赤裸々な表現にたじろぐわれわれ日本人の心性があると思う( メデイアに矮小化する意図があるとは思えない )。20数年前、日米間の貿易不均衡を是正するための「経済構造協議」が行われたが、英語では Structural  Impediments ( 妨害、障害 ) Initiative だった。この日本語訳では米国側の本気度 ( むしろ怒り ) が日本国民には伝わらなかった。

さらに遡れば、わが国の歴史教科書が近代日本による侵略を正直に書いていないとの国の内外の批判があった。しかし、教科書には「日本の侵略」との表現も無かったが、英国の「インド侵略」もフランスの「インドシナ侵略」も「進出」としか書かれていなかった。控えめの表現 ( understatement ) は日本人気質の一特徴なのである。しかし、この国際化時代にはそうも言っていられなくなるだろうか。

2018年7月24日火曜日

スポーツと人種偏見

今朝の朝日新聞によると、ワールドカップ・サッカーのドイツ代表の1人でトルコ系のエジル選手がトルコのエルドアン大統領と面会した写真をドイツ国民から批判され、怒って代表から引退するという ( 新聞報道は他に1紙のみ。多分 )。「写真に政治的意図はなかった。家族の出身国の最高職位者への敬意と弁明したが、6月のトルコ大統領選の直前で、政治的に利用された面は否めない」と記事は伝えている。

前回のブラジル大会でのドイツチームの優勝に貢献したエジルは、「試合に勝てば僕はドイツ人で、負ければ移民の子だ」と反撥しているという。ドイツ社会の非難に「民族差別と軽蔑を感じた」とのエジルの反撥はおそらくその通りなのだろう。しかし、最近のエルドアン大統領の施政は言論の自由をはじめとする西欧的価値観を逆なでする行動の連続であり、ドイツ世論がエジルの軽率さ (  NHKテレビ?によると「私の大統領」と発言したとか ) を非難したのも理解できる ( トルコは貧しい低開発国ではない ) 。エジル選手の個人的資質もあろうが、子供時代からスポーツ漬けで社会常識を欠く一部スポーツ選手の欠陥が露呈した面もあろう。

逆に今回優勝したフランスは、これがフランスチームかと言いたくなるほどアフリカ系選手が多い。属地主義というか、フランスでは民族や人種の違いよりも言語をはじめとするフランス文化を共有しているか否かが重視される。かつて同国が世界第2の植民地領有国だったころ、「文明化の使命 mission civilisatrice 」という正当化論が唱えられた。もちろんそこに欺瞞を見ることは容易だが、フランス人がどれほど自国の共和制文明の優越を信じていたかがうかがわれる。

とは言え、今回のドイツ社会のトルコ系選手への反撥が、最近の移民難民への警戒というヨーロッパの風潮と無縁とも思えない。フランスとても何時まで例外でいることが出来るだろうか。感情が激しやすいサッカーは予兆かもしれない。




2018年7月22日日曜日

「脳科学」の進歩?

邦画『万引き家族』がカンヌ映画祭で金賞を得たのはもう旧聞にぞくする。一部に国辱的とのネットの?声もあったと聞くが、たしかに現代の日本でもこれほど貧しい家族は少ないのにとは思った。しかし、前回のブログで取りあげた西欧人の孤独とは対照的で、そこには貧しくとも家族愛 ( 他人の子どもにまで及ぶ ) があり、そこが審査員たちの心を動かしたとも想像する。

是枝氏の映画の中の万引きは貧しさが主な動機と思われるが、NHKの『クローズアップ現代』の「万引き痴漢という病」( 7月18日 ) は別の動機を取りあげていた。番組によると万引き犯の1割か2割は盗みという行為が嬉しいからおこなうので、盗品は必要がないから捨ててしまう!  これは「クレプトマニア」という病で、ストレスなど心に何らかの傷を負っているのだという。

痴漢も同様に自分の中の衝動を抑えられず、「もう死にたいくらいの気持ち」なのに犯行を重ねてしまう ( もちろん当て嵌まるのは一部の犯人だろうが )。そうした人の場合、刑務所内の講習を受けても結果に大きな差は無いという。要するに万引きも痴漢も本格的治療が必要な病気のケースがあるということだろう。

最近、「脳科学者」という聞きなれない肩書きでテレビによく出演する女性がいる。脳内のどの部分がどんな働きをするかは以前から大まかには知られていた。現在の脳科学はさらに進歩し、どの部分の不全がどういう症状を生むかまで解明しつつあるらしい。つまり、精神的存在としての人間も物質的存在として見直す必要があるらしい。何だか、知りたくないこと、見たくない現実までつきつけられつつあるような妙な感じを禁じえない。真実は快いことばかりでもあるまい........。

2018年7月19日木曜日

「孤独担当大臣」の誕生

何ヶ月か前、英国政府が「孤独担当大臣」を創設したと報ぜられ、奇異の感を抱いた。昨日の朝日新聞に「英国人     実は孤独?」との見出しの記事が載っている。それによると英国赤十字の調査では成人の5人に1人!が孤独を感じており、75歳以上の半数が独居老人とか。担当大臣を創設したのもなるほど分からぬでもない。その効果のほどには疑問もあるが。

こうした事態が英国にとどまらないことは予想される。南欧とくにイタリアなどは家族の絆がまだ健在とも聞くが、南北の境界に位置する?パリでは犬のフンを踏む危険が少なくとも以前は大いにあった。やはり愛玩犬で孤独を癒していると考えて間違いあるまい。わが国でも冠婚葬祭を除くと親族との交流は乏しくなった。

近代の個人尊重の風潮の先頭を走って来たと考えられる西欧大国の老人 ( 老人だけではない ) が孤独に悩むとは考えてみれば皮肉である。明治大正時代の我が国では藤村や漱石の作品が示すように、家制度の抑圧に悩む近代的自我が文学の大きなテーマだった。しかし、家の束縛が薄れるにつれ個人は孤独の影を深めた。

人間社会では長所と短所はしばしば背中合わせである。政権交代という議会政治の正道を求めて四半世紀前我が国は小選挙区制を採用した。それが間違っていたとは思わないが、国会議員の小粒化は明らかに進行した。官僚に背後から操られる政治を改めるため内閣が官僚の人事権を握ったら、政治家の意向を忖度して行動する官僚が続出した。どんなに立派な制度を採用してもそれを運用する人間の質の向上が伴わなければ意図した効果は望めない。それでも試行錯誤を諦めてはならないのだろう。

2018年7月15日日曜日

「朝日ぎらい」の理由?

橘玲氏の『朝日ぎらい    よりよい世界のためのリベラル進化論』( 朝日新書  2018 ) を読んだ。タイトルを見れば誰でも嫌韓本、嫌中本の類いと思うだろう。しかし、サブタイトルを見ればわかるように、朝日新聞に代表される日本型リベラルをどう正道に戻すかのレシピーを論じた本である。とはいえ日本型リベラルの是正を目指すにはその病状を指摘することなしには不可能で、本書を「嫌朝日本」と見る向きも当然あろう。本書の数多くの指摘をここで紹介することなど不可能だが、その根源は何か?

「安倍一強の状況の続くなか、政権批判はおうおうにして『國民 ( 有権者 ) はだまされている』というものになる。だまされるのはバカだからで、そのことを指摘するのは自分たちエリートの責務だーー。いうまでもなくこの度し難い傲慢さが、リベラルが嫌われる ( 正当な ) 理由になっている」との引用が示すように、リベラルにつきまとうエリート意識が問題だと著者は見るが私も同感である。その典型は昨年の総選挙での安倍自民党の大勝を評した山口二郎法政大教授の「國民をたぶらかして勝利をおさめ」たとの発言だろう ( 『東京新聞』の「本音のコラム」10月29日 ) 。これでは氏の専門である政治分析として合格点はつけられない。

最大の問題は朝日新聞に代表される日本型リベラルが自らが高齢者の既得権や業界 ( 例えば都市の獣医 !) の既得権の擁護者と化していることを自覚せず、現実には保守と化していることだろう。そして若年の有権者からその主張の根拠を疑われていることだろう。

とは言え本書が、「誰も言わなかったリベラルの真実」との帯をまとい、他ならぬ朝日新書の一冊として世に出たことは一定の評価をすべきなのだろう。誰よりも先ず朝日新聞の記者たちに読んでほしい本である。

2018年7月9日月曜日

日本刀から見えてくること

NHKの番組『英雄たちの選択」を面白そうなテーマの回を選んで見ているが、5月10日放映の「刀剣スペシャル」は特定人物と関係のない異色のテーマだったので奇異に感じ、録画しておき昨日見た。

私は大学のジュニアコース時代わずか半年間だが剣道部に入部していた。当時は左翼的風潮が強かった文学部自治会 (他学部もそうだった ) の委員を半ば押し付けられながらも大過なく勤めたように、私が「日本的なもの」に憧れたためではなく、単にカッコウよさに惹かれたのである。その性癖の延長か、日本刀を所持したいとかねて思っていた。しかし最近、漫画の影響で「刀剣女子」ブームが到来し、彼女らの同類と見られるに忍びずチャンスを逸してしまった。

これまでの「英雄たちの選択」の場合、対象の人物について私が全く知らないのではなく、別の解釈への関心から見ていたが、今回の場合の私の知識はほとんど白紙状態だったので、教えられることが多かった。日本史のある時期、日本刀は重要な輸出品だったこと。朝鮮や中国では刀工の名は残らなかったのに、我が国では多くの刀工の名が伝えられ敬意を払われていたことは今日の技術大国日本を予示していたこと ( 自動車メーカーのホンダの正式名は本田技研工業株式会社であり、本田宗一郎は刀工の家系だった!)。明治初年の「士族反乱」が、武士のみ刀剣の所持を許され身分制の象徴でもあった刀剣の携帯を禁じた「廃刀令」の直後起こったこと。終戦直後のGHQが刀剣を軍国日本の象徴と見て民間人の刀剣保持まで禁止したこと ( 歌舞伎興行の禁止と同じ ) など、私の無知をいくつも正してくれた。その結果、刀剣への私の関心はますます高まったが、さて.......。

P.S.  札幌在住でこのブログの読者でもある教え子のSさんが、元札幌市助役の平瀬徹也氏が今春亡くなったと知らせてくれた。同氏は札幌の名士だったようだ。ご冥福を祈ります。

2018年7月6日金曜日

麻原教祖らの死刑執行

オウム真理教の麻原教祖ら7名の死刑が執行された ( 本日正午現在 )。死刑判決を受けた残り数名の弟子たちも後に続くのだろうか?

地下鉄サリン事件から数えても20年以上経つ。私は死刑執行が遅すぎると思うだけで、当然の処罰だと考える。それでも麻原に惑わされた12人の弟子たちの死刑執行にはそこまでしなくてもと思う気持ちもあるが、命だけは奪わないでと懇願した弁護士夫人に対し聞く耳を持たなかったと聞けば死刑もやむを得なかったとも思う。

死刑廃止論者からの反対はもちろん、一部には東京オリンピックやラグビーの世界大会の開催をひかえてEU諸国ら死刑廃止国の非難を心配する向きもあるようだが、そうした配慮が必要だろうか?  以前に本ブログにも書いたところだが、戦後すぐはともかく現在の日本では本人が犯行を否認しているケースでの死刑執行はほとんどないようだ。もう一つの、犯罪防止に役立っていないとの批判もあるが、何よりも正義の回復が問題なのである。前近代のような仇討ちが望ましくないとすれば、国家が被害者に代わって正義を回復する必要がある。

現行の絞首刑は廃止して毒薬注射などより恐怖を低める死刑方法に変えるべきだが ( 死刑囚のためだけでなく、死刑執行役の刑務所員の苦悩軽減のためでもある ) 、死刑廃止論者が人道主義者だとは私は思わない。

2018年7月3日火曜日

キラキラネーム考

最近の若い人の名前 ( パーソナルネーム )にいわゆるキラキラネームが多いことは常識だろう。今朝の朝日新聞の「君の名は」とのタイトルの名前をめぐる3人の識者の論評は特別にキラキラネームを論じたものではないが、過去3代の計8回の明治安田生命のその年生まれの男女の1位の名前の表 ( 大正1、昭和3、平成4 ) が載っており、参考になった。

それによると平成22年の調査までは男女とも私にも何とか読めたが ( 多分!)、去年の男性名 ( 悠真、悠人、陽翔 ) と女性名 ( 結菜、咲良 ) の呼び方は想像するばかりである。学校では卒業式などで学生全員の氏名を教員が読み上げることも多いのではないか。私の現役時代、教務課が親切に ( それとも心配して?) 振仮名をつけてくれる名前は一割もなかったが、最近ではとてもその程度では済まないだろう。キラキラネームは何よりもまず教員泣かせである!

私のパーソナルネームは珍しくないが、氏 ( ファミリーネーム ) を併せるとそうでもない。それでも昔、某百万都市の助役に同姓同名の人を発見し、ある年、年賀状を出した。早速返事の賀状が来たが、私よりも同居の母親がレターボックスで見つけ、何を馬鹿なことをするかと呆れられた。私のイタズラだと思われたのである。

親は子の名前を決していい加減な気持ちで選ぶとは思えない。しかし、一読して見当のつかないキラキラネームを親がつけるのはどんなものだろうか。その煩わしさは教員泣かせにとどまらず、子自身が苦労するのではなかろうか。太郎や花子がベターだなどとは言わないが..........。


2018年7月1日日曜日

be あなたの好きな山

昨日の『朝日』の付録『be ランキング』は「あなたの好きな山」20傑だった ( 10位まで短評つき )。「好きな」とあるように、故郷の山、自ら登った山など極めて主観的な選定基準の総合の結果であることは前提だが。私が選ぶ場合、「山容」が基準となる ( カッコ内はbeの順位 )。

富士山がダントツにトップに来るのは同感する。山梨県側からも静岡県側からも近づくほどにその高さは「一頭地を抜く」感があり、残雪があっても無くても文句の無い一位だろう。山容で選べば、春に庄内平野から眺める鳥海山 ( 14位 )と弘前城公園からの岩木山 ( 選外 )は素晴らしいが、東京圏や関西以西の票が少なかったのだろう。サロベツ原野から見る海上の利尻岳 ( 12位 ) も雪をいただく季節なら絶景といってよかろう。伯耆の大山 ( 9位 ) と岩手山 ( 選外 ) はそれぞれ西側と東側から見れば独立峰の趣があり、優美である。

他方、峨々たる山容の山ならば槍ヶ岳 ( 5位 )と剣岳 ( 11位 ) が登山の思い出も加わって断然上位にくる。逆に立山 ( 3位 )や穂高岳 ( 4位 )は有名ではあるが独立峰の美しさを欠くので思い出はあっても選びたくない。ランキング2位の阿蘇山は火口底が覗ける活火山の希少性で上位に選ばれたのだろう。

我が国は国土の6割が山地なわりには富士山以外は海外にもよく知られた山は少ないが、狭い範囲に火山など多様な山があるのは外国人観光客には魅力だろう。副産物としての地震ぐらい仕方のないことか?   いまに見てろ ( 地震の声 )。