2016年12月1日木曜日

「駆けつけ警護」論議に欠けているもの

朝日新聞にかつて国連政務官としてPKOに関与された川端清隆・福岡女学院大学教授の「危険の分かち合い   議論を」との見出しのインタビュー記事が載っている ( 12月1日 )。わが国のPKOの「駆けつけ警護」論議で最も欠けていたもの、与野党もメディアも避けていた ( 逃げていた ) 論点を指摘して間然するところがない。

川端氏が「PKOの理念は『危険の分かち合い』であり、人道支援や開発援助は代替にはならない」「PKOへの参加国が危険を甘受するのは、国際平和の維持が国益に合致すると信じるからだ」と語っているのは全く同感である。しかしわが国での今回の論議は与党は危険はないと事実に反する主張をし、野党は危険を指摘するばかりでPKOの本質を理解していないことを示した。与党の論理に従えば今後自衛隊員に死者が出ればたちまち撤退に追い込まれるだろうし、野党の論拠に従えばそもそも日本人の生命を犠牲にする大義など地球上に存在しないということにならないだろうか。そこまで「日本人ファースト」に徹するというならトランプの「米国ファースト」と何ほども違わないと私には思える。少なくとも国際援助機関の駆けつけ警護は最低の倫理的要請だろう。 

確かにアラブ系優位のスーダンに反抗して独立した南スーダンに部族社会を超える国家運営の能力があるかと問いたくなる。かつてのカンボジアと同じである。最近NHKの特集番組でカンボジアで犠牲者( 高田晴行氏 )を出した文民警察隊の苦労を知り暗然となった。民間人の中田厚仁さんについては言うまでもない。カンボジアと同様に南スーダンで犠牲者が出ても現地で何ほども感謝されないだろう。虚しい努力だと言うならそれも一つの考えである。

それでも多くの国が危険を知りながら国連に協力して部隊を派遣している ( それぞれ思惑はあろうが ) 。人道支援も開発援助も平和回復なしにはあり得ないからだろう。何十万人の犠牲者を数えたあのルワンダ内乱も遅まきではあったが国連の支援を得て平和を回復している。「危険の分かち合い」の認識を欠いた論議で終わらせてよいとは思えない。

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