2016年12月31日土曜日

歳末雑感

とうとう一年の最終日となった。年々一年の過ぎるスピードが早まると感ずるのは高齢者に共通の感慨なのだろう。火野正平の迷文句「人生  下り坂最高」は自転車旅行番組「こころ旅」での彼のヤケ気味のボヤキだが、私もとにかく自分の足で歩けているだけでも感謝すべきなのだろう。

歳末には各メディアで「今年の10大ニュース」といった話題が取り挙げられる。海外ニュースならやはりトランプの大統領選勝利と英国のEU脱退が二大ニュースだろうが、国内ではそれほど意見一致を見る重大ニュースがあっただろうか。私個人は熊本地震や糸魚川火災といった災害が心に残っている。震度6程度は経験している私だが、熊本地震の被害は明らかにそれを上回る。打撃を受けた住民にはボランティアの若者たちは神様のように映るだろう。老人にできる唯一の貢献は募金に応ずることくらいだが、今回は機会の無い?まま過ぎてしまった。

糸魚川市の火災が自然災害と認定されたのは相当の拡大解釈だが、師走の寒空に焼け出された人々のことを考えれば妥当な結論だろう。焼け跡の片づけなどかつては自分でやる他なかったが、高齢化時代、とくに地方住民の高齢化がすすむ時代には自力任せでは過疎化が進むばかりとなろう。自然災害とまでは言えないが、今冬の北海道の積雪は災害に近いもののようだ。複数の教え子が札幌に住むので新年には平年並みかそれ以下になって欲しい。

自然災害は避けようがないが、人災は少なくとも減らすことはできる。若い電通社員の自死は人災の最たるものだろう。小企業なら仕方が無いというものでは決してないが、業界のトップ企業が過労死を出すなど許されることではない。責任追及は厳しく為されるべきである。

それでも飢えもテロも無い我が国は、「不条理な死」を世界最少にまで出来る国のはずである。その点で世界からうらやましがられる国ナンバーワンになって欲しい( やはり最後は老人の説教?)。

2016年12月30日金曜日

安倍首相の真珠湾訪問

安倍首相とオバマ大統領のハワイ演説は、どうせスピーチライターが主に書いたものだろうが、よく練られた出来の良い演説だと思う ( 私の好みではどちらも半分の長さがベターだが )。安倍演説に謝罪の言葉が無いのはオバマ氏の広島演説にも無いのだから問題はない。外交は相互主義であるべきである。

中国政府や韓国メディアが自国への言及が欠けていると不満なのは相変わらずで驚くに当たらない。しかし、それを後押しするようにわが国の新聞が、「歴史認識は明示せず」「『戦後』は終わらない」( 朝日 )、「中韓  批判相次ぐ」「『お詫び』『反省』触れず」( 毎日 )、「露中韓とは懸案残る」( 読売 )と、強弱の差はあるにせよアジア諸国や歴史認識へのと言及が無いと安倍演説に不満を示しているのはいただけない。中国は南京訪問を望んでいるが、村山首相と小泉首相がそれぞれ日中戦争発端の地である柳条湖と盧溝橋を訪問している ( 日米間の真珠湾に当たる )事実には口をつぐんでいる。日本のメディアが両首相の両地訪問の際、米国への言及が無いと指摘したとは聞かない。
 
一部の日本人が南京虐殺を否定するのは大きな誤りであるが、現地の展示館が犠牲者数を何倍にも誇張している限りだれが日本国首相でも行くべきではない ( 行けば数字を認めたことになろう )。大都市で戦闘が交わされれば住民に多大な被害が想定されるので、すでに国際法では「非防備都市宣言」が規定されていた ( 1940年、パリはその宣言のおかげでひとまず破壊を免れた ) が、蒋介石総統も南京防衛軍司令官も日本軍や在住外国人代表の無血開城の要求に頑として応じなかった。外国人代表のドイツ人ジョン・ラーベは「とにかくここはアジアなのだ!」と嘆く他なかった  ( ジョン・ラーベ 『南京の真実』 講談社 1997 )。(彼の母国が間もなく数百万人のユダヤ人を殺したのは皮肉であるが )。

以前ソウルを訪問したとき私は「三・一独立運動」発祥の地タプコル公園 ( 当時はパゴダ公園 )に足を運んだ。案内役の韓国人教授に日本の外相は最初の訪韓時にここに来て敬意を表すべきだと話したが、教授は黙っていた。翌日、昨日の自由行動日にどこを見たかと現地ガイドに聞かれたのでパゴダ公園と答えると、「えー。以前、日本の政治家が訪問したとき、韓国人が猛烈に怒った場所なのに」と呆れられた。日本人は「三・一独立運動」に敬意を表してはいけないとは.........。長年日韓交流に尽くしている友人にこの経験を話したが苦笑しただけだった。そんな程度のことでガッカリするようでは日韓交流など出来ないということか。

中国共産党政権が過去の日本帝国主義打倒を自己正当化に利用する限り、また韓国の政治家やメディアが人気取りの道具として「歴史認識」を持ち出す限り、いちいち対応する必要は無いだろう。日本のメディアの良心派気どりは日中関係と日韓関係を損ねているのではなかろうか。だからと言って昭和天皇がA級戦犯合祀以来取りやめた靖国神社参拝を稲田防衛大臣が行うのは浅慮という他ないが。

2016年12月28日水曜日

キッシンジャーのトランプ評価

昨日の読売新聞にキッシンジャー元米国務長官との長いインタビューが掲載されている。米中国交回復の実現の尖兵となって世界を驚かせた人にふさわしく、イデオロギーに囚われない現実主義政治家の面目躍如といったところか。

トランプ氏について元国務長官は「傑出した大統領になるまたとない好機で、これを前向きにとらえ彼にはチャンスを与えるべきだ」とする。奇異に感ずる人もあろうが、まだ新政権の政策が明らかになっていない段階では無暗に批判するのが得策ではないということなら理解できる( 希望的観測であっても ) 。トランプの「米国ファースト」主義のもつマイナス面については「国益というものは他国の国益にも配慮しなければ、孤立するだけだ」と釘をさしている。

我が国にとってはトランプの日米同盟への一層の貢献要求は愉快ではない。しかしキッシンジャーは「トランプ氏の対日姿勢にも一理ある」「日米同盟の責任分担はどうあるべきかというのは重要な問いかけだ。.............分担の割合は両国の国力の変化に応じたものでなければならない」と国力低下に苦しむ米国の立場を代弁している。

ロシアとウクライナの対立抗争については列国はウクライナの「独立を尊重し、領土も保全されるべきだが、いかなる軍事同盟へも加えられるべきではない」とNATO加盟には反対する。ロシアによるクリミア併合については「クリミア半島は特殊なケースだ。ウクライナに編入されたのは1954年とごく最近」だと、これを通常の武力的国境変更とは区別すべきだとするのは私も同感である。
オバマ外交でほとんど唯一賛成できないところである。

中国については「いま起きていること ( トランプの反中国的姿勢のこと ) は私の思いと相入れないが、これはトランプ氏の大統領就任前のことだ。まだ最終的な評価をすべきではない」と対中宥和ともとれる発言をしている。やはり米中和解を実現した ( 日本をつんぼ桟敷において ) 自身の過去や、我が国ほどには中国の圧力を感じない米中間の地理的距離がこうした発言を促すのだろうか。日本としてはにわかに同意出来ないところだろう。

2016年12月26日月曜日

年賀状あれこれ

年末に年賀状を書く人もあり書かない人もあり、それぞれ個人の勝手である。他からの賀状を受け取ってから内容を受け止めて年初に書くのも一つの流儀ではある。私は平凡に師走に書いて出しているが。

十年くらい前から私は自分で写した写真を印刷に出して利用している。世の中には家族や旅行先の風物などを賀状に使用する人は多いが、自分でプリント印刷している人が大部分のようだ。私がそうしないのはプリンターの使用にいま一つ自信がなく失敗が怖いからだが、近所のカメラ店への配慮もある。かつては頻繁に現像やプリントを依頼していたのにプリンターを購入してからは全く依頼しなくなった。他の写真機材も新宿や地元の量販店で購入するようになり、旧知のカメラ店主に依頼するものは年一回の賀状印刷しかないのである。

今回、賀状を書いていて題名の字に自信が持てなくなり困った。「朝露」なのだが霧や霜が何故か脳中に去来する。要は加齢とともに臆病になっているということなのだろう。それでも今朝のNHKテレビの「あさイチ」を見ていたら、素人にも見つけやすい認知症の症候四つ?の一つに「年賀状を書きたくなくなる」があって少しばかりホッとした。なにしろ今日正午に投函したのだから。

私も過去に一度年賀状を中止しかけたことがあったが翌年には再考した。やはり年初に賀状をもらわないのは寂しいと感じたからである。海外の友人に出すクリスマスカードはいつかたった一枚になったが、メールのやりとりはあってもやはりもらって安心する。ただし半世紀近くも続くといつも浮世絵風ともいかず選択に窮する面もある。今年は光琳の「紅白梅図」があったのでこれだと飛びついて買ったが、もしかして二度目?!


2016年12月22日木曜日

ベルリンのトラックテロ

小旅行をしている間に、ベルリンで大型トラックを使ったテロがクリスマス市に突っ込み死者13名を出す惨事があった。犯人はまだ確定していないが犯行の態様からもイスラム過激派の仕業と見られる。これまでドイツはメルケル首相のもと難民や移民に寛大だったが、今後はその政策の再考が必至だろう。最大の被害者はある意味でドイツ内のイスラム系同胞なのだが、それが理解できる犯人なら最初から犯行に及んでいないだろう。

米国でのトランプの大統領選の勝利の一因が「隠れトランプ派」の存在にあったことは知られている。同国ではマイノリティ民族への不満や、同性愛者や女性のジェンダー的主張への違和感などを公然と表明することがタブーとなっていた。大学卒の若者のトランプ支持者が言論の自由のために行動していると語るテレビ画面があった。

現在のEU諸国では移民難民の入国に公然と反対することはやはりPolitical Correctness (政治的正しさ ) に反するとされ、極右と非難されがちである。しかし、テロに走る移民難民が百人千人に一人、否、一万人十万人に一人と頭では理解しても、現実に各種のイベントに参加するのが恐ろしいとなれば、反移民感情は抑えられない。

今朝の毎日新聞の社説は「ベルリン・テロ   独社会の分断を恐れる」との見出しで、「懸念されるのは極右勢力が国民の不安につけこみ、ドイツ社会の分断を深めることだ」、「非道な事件が協調の精神を失わせることになってはならない」と論ずる。たしかに正論ではある。しかし精神論は現実の前には無力である。Political  Correctness  に執着する限り政治の非寛容化が止むことはないだろう。EU諸国は米国のトランプ現象を他山の石とすべきではなかろうか。それも早急に。

2016年12月15日木曜日

寒月の季節

今朝まだ暗いうちに新聞を取りに戸外に出たら、上空斜めに月が浩々と照っていた。寒いので戸外に出たくはないのだが、澄み渡った夜空に寒月を見るのは嫌いではない。

寒月を見ると必ず思い出す文章がある。徳冨蘆花の『自然と人生』の中の「寒月」と題した湘南の逗子の夜を描いた十行に満たない短文である。

 「夜九時、戸を開けば、寒月昼の如し。風は葉もなき萬樹をふるいて、飄々、颯々、霜を含める空明に揺動し、地上の影  木とともに揺動す。..............仰ぎ見れば、高空雲なく、寒光千万里。天風吹いて、海鳴り、山騒ぎ、乾坤皆悲壮の鳴をなす。...........月色霜の如き往還を行く人の屐歯、戞然として金石の響きをなすを聞かずや。...............月は照りに照り、風は彌吹きに吹く。大地吠え、大海哮けり、浩々また浩々たり。」

古風すぎる文章で活字を拾うのに苦心したが、横浜の、みなと未来のタワーマンションに住む旧友はこの月、この風を感じることは稀だろう ( このブログ、つまりは負け惜しみの産物? )。

訂正。前回村木孝蔵としたのは村下孝蔵の誤りでした。『初恋』一曲しか知らないのに無理をした罰!

2016年12月11日日曜日

アニメ映画『君の名は』

アニメ映画『君の名は』は高校生 ( 中学生?)を主人公にした映画と聞いていたので、人気の高いことは知っていたが老人が見るのはどうもと遠慮してきた。しかし評価は高まる一方の上に中国の若者たちが多数映画館に足を運んでいると聞いては日本人の私が知らぬ顔をしていては申し訳ない?と思い、最寄りのシネコンに足を運んだ。ウィークデイの昼間なので若者はほとんどおらず、観客は少数の中高年者だけだった。

結果は無残というか、ストーリーの展開に十分ついていけなかった。田舎の女子生徒と東京の男子生徒の身体が頻繁に入れ替わるということだが、今現在どちらが女子でどちらが男子なのか服装では分からないのだから困った。声で判断しろというのか知らないが私も家内も分かり兼ねた。結末は最後まで伏せておきたいのか、あとでインターネットで調べたが曖昧だった。何年かのち二人は都会で再会したようだが、はっきり示さないのが余韻があるというのか.........。

それでも一度訪ねたことがあり、以前NHKの朝ドラの『さくら』の舞台となった飛騨古川を模した風景は懐かしかったし、ニューヨークのエンパイアステートビルに似たNTTビルや副都心のビルなどの新宿の風景も懐かしかった ( ときどき見ているのに!)。

よく理解したわけでもないのに口幅ったいが、中高生の初恋を描いたというならジャンルは違うが歌もある。村木孝蔵の『初恋』は詞もメロディも良く出来ている。本人が50歳にもならずに亡くなったのは残念だが、一曲でも記憶に残る名歌を残せたのだからもって冥すべきなのか ( 歌に話を逸らすのか!)。

訂正  前回、渋谷にデパートがまだ無かったとしたが、東横デパートが私が2歳ごろに開店している。早とちりでした。

2016年12月5日月曜日

渋谷駅今昔

昨日久しぶりに渋谷駅を利用した。東急東横線の渋谷駅が昨年?地下化して乗り換えが不便になったと不評のようだが、私はまだ同線を利用していない。

戦前の国鉄渋谷駅は今と同じ場所にあったが、忠犬ハチ公の像は現在よりずっと駅寄りにあったと思う。現在のハチ公前広場は当時は市電の出発駅で、三つぐらいのプラットホーム ( と言っても地表といくらも違わない高さ ) から各方面に路面電車が出発していた。当時井の頭線 ( 帝都電鉄と言った ) の沿線に住んでいた私は母親に連れられて銀座や日本橋のデパートに行くためこの市電をよく利用した ( 地下鉄はまだ無かった ) 。どのデパートだったかは分からないが、建物の中央が吹き抜けだったことを記憶しているので松屋か日本橋三越だったのだろう。当時の渋谷にはデパートはなかった。

戦後間も無く路面電車が廃止され、代わりのバスの発着場は東に移った。大学生となり上京して再び渋谷駅を利用するようになったが、渋谷食堂 ( 渋食 ) で五目焼きそばをときどき食べるのが楽しみだった。現在のスクランブル交差点付近でデモに参加し、警官隊に道玄坂を追われたこともある。警察がデモを許可しなかったのか、それとも自治会幹部たちが無届けデモをして一般学生に警察への敵意を持たせたかったのだろうか。

いまやハチ公前広場は国際的な名所となり、昨日も外国人の若者が目立った。中国人が識別できればさらに多く感じただろう。これは外国人の増加のためではなかろうがエイズの予防活動 ( 無料検診 ) が行われており、私にまでビラと男性用防止具?が手渡された!

ハチ公が主人の死後も渋谷駅に日参したのは食べ物をもらうためだったとの説を読んだ記憶がある。しかし犬好きの私は信じたくない。ハチ公前広場は忠犬の伝説とともにいつまでも若者たちの集合場所であって欲しい。

2016年12月1日木曜日

「駆けつけ警護」論議に欠けているもの

朝日新聞にかつて国連政務官としてPKOに関与された川端清隆・福岡女学院大学教授の「危険の分かち合い   議論を」との見出しのインタビュー記事が載っている ( 12月1日 )。わが国のPKOの「駆けつけ警護」論議で最も欠けていたもの、与野党もメディアも避けていた ( 逃げていた ) 論点を指摘して間然するところがない。

川端氏が「PKOの理念は『危険の分かち合い』であり、人道支援や開発援助は代替にはならない」「PKOへの参加国が危険を甘受するのは、国際平和の維持が国益に合致すると信じるからだ」と語っているのは全く同感である。しかしわが国での今回の論議は与党は危険はないと事実に反する主張をし、野党は危険を指摘するばかりでPKOの本質を理解していないことを示した。与党の論理に従えば今後自衛隊員に死者が出ればたちまち撤退に追い込まれるだろうし、野党の論拠に従えばそもそも日本人の生命を犠牲にする大義など地球上に存在しないということにならないだろうか。そこまで「日本人ファースト」に徹するというならトランプの「米国ファースト」と何ほども違わないと私には思える。少なくとも国際援助機関の駆けつけ警護は最低の倫理的要請だろう。 

確かにアラブ系優位のスーダンに反抗して独立した南スーダンに部族社会を超える国家運営の能力があるかと問いたくなる。かつてのカンボジアと同じである。最近NHKの特集番組でカンボジアで犠牲者( 高田晴行氏 )を出した文民警察隊の苦労を知り暗然となった。民間人の中田厚仁さんについては言うまでもない。カンボジアと同様に南スーダンで犠牲者が出ても現地で何ほども感謝されないだろう。虚しい努力だと言うならそれも一つの考えである。

それでも多くの国が危険を知りながら国連に協力して部隊を派遣している ( それぞれ思惑はあろうが ) 。人道支援も開発援助も平和回復なしにはあり得ないからだろう。何十万人の犠牲者を数えたあのルワンダ内乱も遅まきではあったが国連の支援を得て平和を回復している。「危険の分かち合い」の認識を欠いた論議で終わらせてよいとは思えない。