仲麻呂については一般には百人一首の「天の原 振りさけみれば春日なる...........」で望郷の歌人として知られ、また玄宗皇帝に寵愛され唐の政府高官になったこと、詩人の李白や王維と親交があったことでも知られる。しかし、異郷に死んだ彼は帰国を許されなかったというよりも帰国を希望せず、唐の国政への参加や盛唐詩人たちとの交流を選んだのであり、「望郷の歌人」視はふさわしくないとの主張は納得できた。
結局かれは35年後にようやく帰国船に乗ったが、暴風雨のためベトナムまで流され帰国は叶わなかった ( 李白は「亡き友」を悔む詩を書いた!)。しかも、彼の帰国を玄宗が許可した理由は仲麻呂に道教を日本に伝え広めさせるためではとの出席者の指摘があり ( 仲麻呂や王維の詩からの推測 ) 、
もし帰国が実現していれば我が国が仏教の受容をめぐって国論を二分して争った時と同じ事態が再現していたかもしれないという。
以上はあくまで帰国していたらとの仮定の話だが、論者によれば仲麻呂は日本外交を助けた名外交官だった。「争長事件」として知られている由だが、753年の元旦の儀式で当初は新羅の使節が日本の使節よりも上席にランク付けされ、日本の使節の大伴古麻呂が出席を拒否しようとしたが、仲麻呂の努力で日本が上席に変わったという (この頃から日本と朝鮮はいがみ合っていたのか!)。他の周辺諸国と異なり中国暦や科挙を採用しなかった日本は形式的には新羅や渤海国を自国と対等と見なしていなかった。
結局仲麻呂は中国文化に魅せられて唐に残留したとのことで、司会の磯田道史氏はかれを「グローバル人材第一号」だったと評した。晩年にベトナムの長官 ( 鎮南都護 ) を務めたかれは日本人とベトナムの係わりの先駆けだったとも言える。日本人としてではなかったが。
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