スイスと言えばアルプスや牧場の画面を想像していたら見当外れで、ジュネーヴからバーゼルまでフランスとの国境のジュラ山脈の東麓を走る路線の旅だった。私はフランスに帰るため二度この地方を車で横切ったことがあったが、この辺一帯はじつはスイス時計の産地が連なっている地方で、住民はフランス語を話す人びと。極小の部品を製造し組み立てるおそろしく忍耐強い作業をこなす人びとを見て、ラテン民族は陽気だが多少チャランポランなところもある人たちという私の偏見は粉砕された。途中のラ・ショー・ド・フォンは世界的建築家ル・コルビジェの生地で、若い頃の彼が設計した家が三軒ほど紹介された。しかし後年ピロティ式建築で有名な彼の作品だがその片鱗もなかった。大きいと言っても個人住宅だからか、ピロティ式はその後の構想だからか?
終着のスイス第三の都市バーゼルはライン河中流の商工業都市だが、大聖堂をはじめ古くからの名所もある。そのひとつ、ライン河を見おろすテラスは私も1967年と1993年の二度訪ねているが、其の間何の変わりもなかった。その筈で、200年ほど前の古い版画の風景と、対岸の遠方の煙突を除けば変わりがないのだから20年くらいで変わるはずもない。
バーゼル駅で午後遅くパリ行きの列車に乗り、深夜前にパリに帰着した。当時のパリでは夜遅くは地下鉄は物騒で利用しない方が良いとも聞いており、大きなトランクを抱えての利用は気が進まなかったが仕方がなかった。フランス人 ( 白人 ) は乗客の半分もいなかったが、郊外の住居まで何事もなく帰り着いた。
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