2016年1月16日土曜日

函館は悲しい町?



今朝の朝日新聞の付録beの連載「みちものがたり」は函館の観光スポット「八幡坂」と同地出身の早世 ( 自殺 ) した作家佐藤泰志の『海炭市叙景』を紹介している。私は原作もそれを有名にした映画 (  2010年 ) も目を通していないが、「不遇な作家が描いた『故郷』」との見出しや、「80年代後半、バブルの東京とは裏腹に疲弊していく地方都市を俯瞰する」との本文を目にすると、函館は現代日本の有数の観光地との明るい側面と同時に箱館戦争や石川啄木に続く悲しい側面の印象も併せ持つようだ。

私が最初に北海道を訪れた1970年代初め、最後の地函館には一泊しかしなかったので、五稜郭など立ち寄れなかった場所は多かったが、森昌子の歌でも知られる立待岬の入り口にある啄木一家の墓と、箱館戦争の旧幕軍の戦死者たちをまつる碧血碑には立ち寄った。当時は旧幕軍に参加した新撰組の残党や土方歳三も現在のようなブームには程遠かった。それでも碧血碑を訪ねたのは彼らを賊軍と切り捨てる官軍史観に反発したから。誇張して言えば函館は私には嘆きの地に思えた。さらに、啄木の「我泣きぬれて...........」や「函館の青柳町こそ悲しけれ.......」は私に函館を不遇と悲しみの町と印象付けた。

我が国の交通事故史上逸することのできない1964年の洞爺丸事件が起きたのも函館郊外の七重浜だった。乗客の米人宣教師が自分の救命具を他人の子供に与えて亡くなったエピソードは三浦綾子の『氷点』に出てくる ( たしか!)し、この事故を利用して北海道を脱出した犯罪者のの哀しい運命を描いた水上勉の『飢餓海峡』(と内田吐夢の同名の映画 ) も函館を語るとき忘れたくないエピソードである。

2016年1月14日木曜日

デビッド・ボウイて誰?

1966年のビートルズの来日公演はちょっとした事件だったらしい。らしいと言うのはその年私は英国に居たのでその後の伝聞だけだから。当時の英国では「イエローサブマリーン」がベストテンのトップを続けており、その曲はテレビで親しんでいた ( モンキーズというグループがライバルだった )。

新年早々デビッド・ボウイが亡くなり、メディアでその死は大きく報じられた。私も彼の名は知っていたが彼の曲は一つも知らない。彼だけではない。ローリングストーンズの曲も知らないし、その他のシャウト系??の曲も知らない。外国人だけでなく、日本人のその手の曲も知らない。

音楽の知識も素養もないことは自覚しているが、ビートルズの場合はメロディーの美しさが素人にも分かった。しかし最近の内外の音楽の中にはメロディーが有るのかさえ疑いたくなるものが少なくない ( ようだ )。それでも圧倒的人気を博しているのなら良しとすべきなのか。

NHKの紅白歌合戦をここ数年まともに見たことはない。それは私だけではあるまい。理由は明らかで、聴きたい音楽が世代ごとに違ってきたためだろう。NHKは「国民的行事」の建前を維持するため四苦八苦しているようだが、少なくとも私には踊りが歌の代わりにはならないし、その年の話題の人物を出演させても話題から離れて興味は持てない。

全国民が同一の歌に感動するなど気味が悪いとの意見もあろう。私も例えば国民が国歌に感動すべきとまでは思わない。しかし、せめて童謡や抒情歌ぐらいは最後の砦として?  世代を超えて愛されて欲しい。

2016年1月12日火曜日

廃止駅の哀歓

鉄道の廃止線のニュースは珍しくないが、今朝のNHKニュースに北海道の廃止駅、旭川と網走を結ぶ石北本線の小駅 ( 「旧白滝」駅?) の紹介があった。

かつては住民も少なくはなく、その要望に応えて駅が新設されたが、現在は一日4便しか停車せず、恒常的な利用客は通学の女子高生一人だけ。駅舎もバス停の小屋を大きくした程度。石北峠に近い雪深い駅の冬は近所の一組の夫婦がプラットフォームの除雪をしている ( 自らも通学生だった夫も近年は腰が痛くなると苦笑していた ) 。今春、女子高生が高校を卒業し都市の看護学校に入学するのをきっかけに駅が廃止されるという。

利用客が一人だったということは18軒?の住民も鉄道を利用しなかったということ。地方の人口減少とモータリゼーションの普及を考えれば廃止線や廃止駅の増加は止むを得ないのだろう。それでも大都市の鉄道や都市高速道路などの建設費や維持費の巨額さを聞くと、その何百分の一、何千分の一を地方線の維持に回せなかったのかと思わぬでもない。そのための税金なら負担して良いと考える都市住民も少なくないのでは?

わずかな救いは当の女子高生が自分の通学のため地域の人たち (  駅まで毎日軽トラで送り迎えした父親を含め ) が払ってくれた努力を理解していることだろう。その心を病人たちのために向ける看護師になってくれると信ずる。

PS    前々回、金正恩主席としたのは第一書記の誤り。

2016年1月10日日曜日

トリセツは詳細なら良いのか。

歳末に古い車が去り、新しい車がやって来た。きっかけは12月中に車検の期限が来たからだが、いろいろな点で進化した低公害低燃費車が発売されたことも理由の一つだった。ところがその車は人気を呼び、5ヶ月は待たなければならないという。それは仕方のない事だが、車は変わっても10余年間担当者だったセールスマンの態度が今回心なしか強気になっていたのが面白くなく、デザイン優先でもう一つの候補車を選んだ。

ところが、買い替えの書類の数が特に増えた訳では無さそうなのに手続きの面倒さは想像以上だった ( と言っても実務はセールスマンが主として当たったのに ) 。要するに当方が怠惰になったということらしく、これでは今度の車が「終の車」になることは間違いなさそうだ。

ということで手続きは完了したが、新車の取り扱い説明書 ( トリセツ )の大部なのに閉口した ( ろくに読んでいないが ) 。それなのに10日も過ぎて保険会社から「ご契約のしおり」なるものが送られて来た。それが小活字のA4版192頁で250グラムある ( これをしおりと呼べるのか!?)。全く読む気になれない。面倒なことを避けるため保険に入るのに。

このごろの工業製品はどれもトリセツが大袈裟になったが、保険よ お前もか!  問題が起こった時の責任追及を逃れるためなのだろうが、約款は小活字が多いようだ。読まれないための工夫でもないだろうが............。

2016年1月7日木曜日

北朝鮮の深い闇

正月早々北朝鮮が自称「水爆実験」をした。同国の暴走ぶりは今更驚くことではないのでメディアの相変わらずの騒ぎぶりにはついて行けない思いがあるが、事態の深刻さは否定できないから厄介である。

北朝鮮が核実験を決行した理由は未だ推測の部分もあるが、国内的には党大会をひかえて金正恩主席の威信を高めること、対外的には米国を交渉に引きずり込むこと ( 最近の米国は欧州や中東に関心を奪われているので ) にあったのだろう。何しろ民主主義国家と違って失脚は死に直結する可能性が高いとあれば、他国の反応に気を使う余裕などないだろう。

一党独裁の国は北朝鮮以外にも数多いが、文明国 ( 教育がゆきわたっているという意味で ) で同国ほど常軌を逸した独裁国は稀だろう。これと比較すれば戦前戦中の日本の独裁などたかが知れたものだった。当時の民間右翼や一部軍人によるテロ ( その重要性は軽視しないが )を除けば、昨日まで壇上に立っていた政府要人が翌日には政権により銃殺というほどの酷さではなかった。もはや狂態という他ない。

金正恩氏が主席に就任したとき私は彼に対して期待しそれを本ブログに書いた。青少年期をスイスで過ごした人間が自国の異常さを知らない筈は無く、何とかしたいと思うのではと考えた。しかし北朝鮮は変わらなかった。今でさえ私は同国の変化に完全に絶望してはいない。文字どうり「一縷の望み」であることは承知しているが。

ナポレオンはオーストリアの宰相メッテルニヒに隣国への自らの相次ぐ戦争を「フランス国民は常に私に勝利を期待するからだ」と弁解したという。身勝手な弁解だが全くの嘘ではないだろう。生まれながらの君主ではないかれには自分の地位への不安は抜き難くあったのだろう。フセインにもカダフィにもアサドにも金正恩にも。

2015年12月29日火曜日

日韓の合意成立

慰安婦問題につき日韓両国政府の合意がなされた。両国がいがみ合うのと合意が成立するのとどちらが良いかと問われれば合意成立が良い。むろん合意の内容が大事だが。

合意に反対する意見もあろうが、日韓いずれの側が大きく譲歩しているかと言えば韓国側ではないか。たしかに日本側も10億円の資金拠出に応じたが、すでにアジア女性基金の際、基金の半分以上を政府が支出している。首相のお詫びも今回が初めてではない。代わりに今回は「不可逆的解決」の文言が合意された。これまで韓国側が合意をひっくり返して来たと認めるようなものであり、韓国人がどう捉えているかは知らないが、私には韓国に名誉な文面とは思えない。大使館前の少女像の撤去は韓国は「努力」を約束したに過ぎないが、もし実現しなければ ( その可能性が高い ) 、韓国政府の権威にマイナスになろう。

韓国側の譲歩がより大きいとの私の判断が正しいとすれば、朴大統領は大きな決断を下したことになる。譲歩の理由はまず、未だ詳細不明だが日韓両国への米国の圧力が大きかったのだろう ( 私は第三国の口出しを好まないが ) 。また、日韓不和の韓国経済への悪影響も考慮されたろう。しかし、それでも私は朴大統領の英断だと考える。先月の日韓首脳会談は大統領と安倍首相との間のわだかまりを大きく除いたように見える。考えてみれば両氏とも保守政治家であり、朴大統領としては50年前日韓請求権協定を結んだ父親を激しく批判する教科書を擁護する人たちと対日問題であくまで共闘する気にはなれなかったろう。

朴正煕元大統領に対する評価が韓国で二分されていることは私もむろん承知している。朝鮮戦争の数年後だったろうか、ソウルの街の斜面にびっしりへばり付いた掘っ建て小屋に近い住宅群のフィルムを見て衝撃を受けた。日本の資金を利用してでも日本に追いつきたいと元大統領が考えたとしても私にはそれも愛国心だと思える。

現大統領の前途は安倍首相よりはるかに困難だろう。それを予想しつつも彼女が決断したとすれば高い評価に値するのではないか。次の大統領がまたゴールポストを動かす可能性は低くないだろうが、現大統領の決断はそれとして評価すべきだろう。

2015年12月28日月曜日

阿倍仲麻呂の実像

11月5日放映のNHKの「英雄たちの選択   遣唐留学生 阿倍仲麻呂の実像」を遅まきながら録画で見た。日本古代史に無知な私には番組出席者たちの発言のどこまでが真実かは判然としないが大変興味深かった。

仲麻呂については一般には百人一首の「天の原  振りさけみれば春日なる...........」で望郷の歌人として知られ、また玄宗皇帝に寵愛され唐の政府高官になったこと、詩人の李白や王維と親交があったことでも知られる。しかし、異郷に死んだ彼は帰国を許されなかったというよりも帰国を希望せず、唐の国政への参加や盛唐詩人たちとの交流を選んだのであり、「望郷の歌人」視はふさわしくないとの主張は納得できた。

結局かれは35年後にようやく帰国船に乗ったが、暴風雨のためベトナムまで流され帰国は叶わなかった ( 李白は「亡き友」を悔む詩を書いた!)。しかも、彼の帰国を玄宗が許可した理由は仲麻呂に道教を日本に伝え広めさせるためではとの出席者の指摘があり ( 仲麻呂や王維の詩からの推測 ) 、
もし帰国が実現していれば我が国が仏教の受容をめぐって国論を二分して争った時と同じ事態が再現していたかもしれないという。

以上はあくまで帰国していたらとの仮定の話だが、論者によれば仲麻呂は日本外交を助けた名外交官だった。「争長事件」として知られている由だが、753年の元旦の儀式で当初は新羅の使節が日本の使節よりも上席にランク付けされ、日本の使節の大伴古麻呂が出席を拒否しようとしたが、仲麻呂の努力で日本が上席に変わったという (この頃から日本と朝鮮はいがみ合っていたのか!)。他の周辺諸国と異なり中国暦や科挙を採用しなかった日本は形式的には新羅や渤海国を自国と対等と見なしていなかった。

結局仲麻呂は中国文化に魅せられて唐に残留したとのことで、司会の磯田道史氏はかれを「グローバル人材第一号」だったと評した。晩年にベトナムの長官 ( 鎮南都護 ) を務めたかれは日本人とベトナムの係わりの先駆けだったとも言える。日本人としてではなかったが。