2015年7月13日月曜日

ガッツポーズもほどほどに!

ウィンブルドン男子の決勝はジョコビッチの勝利で幕を閉じた。ニュース番組で断片を見ただけだが、勝利の瞬間かれが派手なガッツポーズで喜びを表しているのに多少の違和感を抱いた。他のスポーツでもガッツポーズは派手になる一方だ。以前、朝青龍が思わず?ガッツポーズをして問題視されたことがあった。チーム競技で勝利したとき仲間と喜び合うのを見ても何の違和感もない。しかし、一対一の競技となると..........。

これまでインタビューでの相撲の力士たちの応答が舌足らずの感じで、元来話し下手なのだろうと考えていた。ところが同じ人が親方になったり解説者になったりすると案外多弁だなと感じたことがよくあった。聞くところでは、勝利ののち多弁なのは負けた相手に失礼だというのも寡黙のひとつの理由だとか。たしかに相手を土俵にたたきつけた後の多弁は心配りに欠けるように思う。相撲ある限りこの配慮は忘れて欲しくない。それこそ国技と呼ばれるにふさわしい心がけである。

寡黙と言えば初代若乃花はぶっきらぼうと言って良いほど言葉少なだった。しかし、私の年長の元同僚は荻窪あたりの呑屋で親方時代の初代とたまたま同席したことがあり、話がはずんだ挙句腕相撲をして勝ったと喜んでいた。元同僚は腕相撲が得意だったとはいえ若乃花がわざと負けたことは明らかだ。初代は思いの外気さくな人柄だったようだ。

突きや押し相撲が全盛の現在、がっぷり四つに組んでの豪快な投げ技やまさかの鮮やかなうっちゃりが得意だった若乃花の相撲が懐かしい。その若乃花も元同僚も亡くなって相当になる。二人があの世でも再会して腕相撲で盛り上がってほしい。

2015年7月9日木曜日

ドイツ的性格

『21世紀の資本』 (読んだことはないが、『21世紀の資本論』が正しい訳では? )の著者として著名なピケッティがギリシャに対する債務減免をメルケル首相に要請する公開書簡を発表した。理由は経済的に緊縮政策の押し付けが愚策で危険だということだが、国際政治の立場からドイツの危険を指摘したトッドの二人がフランス人であることは偶然ではあるまい。

ドイツとの関係が経済的に、したがって国際政治的に対等と言えなくなってきたフランスという事情もむろん有るだろう。だが、フランス人から見てドイツ人の性格への危惧も無視できない。前回のブログでは紹介する余裕がなかったがトッドの本にはドイツ的性格への警戒が再三言及されていたのである。それはドイツ人の性格としばしば指摘される徹底性と言っても良い。

勤勉で几帳面な性格はドイツ人の長所だが、彼らは物事を中途半端に出来ないところがある。ホロコーストもその一例だろう。ユダヤ人迫害はヨーロッパ史上かなり一般的な事象だったし、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世はユダヤ人抹殺を口にしたりした (実行はしなかったが )。ナチスはその頃注目されていた優生学を文字通り受け止め、「劣等人種」や精神障害者は存在の価値がない (または低い )と信じた。人種差別は現在まで続く人類の宿痾だが、ここまで徹底した例は稀だろう。他方、ナチスの宿敵ドイツ共産党のテールマン党首は敗戦半年前まで11年間獄中ではあるが生存していた。ドイツが曲がりなりにも民主共和国を経験していたことも無関係ではないだろうが、かれが「劣等人種」でなかったこともあろう。

ホロコーストに従事した収容所の看守たちも一人一人は「普通のドイツ人」だった。理論的に正しいと確信すれば憐憫といった人間的感情を押し殺すことができるのは無論ドイツ人だけではないが.............。

メルケル首相個人の意向がどうあれ、この問題でドイツ国民の意向を無視できるかどうか。それにしても米国のルー財務長官が債権諸国に債務減免を求めると公言したのは拙劣である。裏面での交渉ならともかく、これではメルケル首相は妥協すれば米国の圧力に屈したと国民の目に映るとどうして分からないのだろうか。
 

2015年7月7日火曜日

ギリシャ問題

ギリシャがEUの緊縮政策要求を拒否して両者の対立が深まっている。

チプラス首相がEU諸国に対してギリシャの民主主義を護ると大見得を切っているのはいただけない。EUはギリシャ人が身の丈に合った生活をすべしと要求しているのである。伝え聞くところではギリシャの年金は現役時代の収入の8割を支給するので、早期退職者も多かったとか。事実なら支給率がもっと低いEU諸国を納得させることは難しい。ギリシャの生んだイソップ童話の蟻とキリギリスの例が今のEU諸国と同国にそのまま当てはまるのは皮肉である。そういえばギリシャの古代文明は世界史上の奇蹟と言っても過言ではないが、その民主政治はあっという間に衆愚政治に変わった。歴史は繰り返すのか (今のギリシャ人はその後南下してきたスラブ民族が主体とも聞くが )。

とはいえ先進諸国はこれまで発展途上国の債務を軽減してきた。ギリシャを途上国と考えればそもそもEUに加盟させたのが事件の発端である。さらに独仏の銀行が多額の資金をギリシャに貸し付けたのは経営判断の誤りであったことは否定できない。また、ドイツはユーロ導入によりマルク採用時より有利な交易条件を享受してきた。借りたものを返せは個人間では当然だが、国家間では必ずしもそうではない。

ギリシャ救済が動き出すかはEUとくにその中心のドイツとの交渉の行方にかかっている。ギリシャが非妥協的な財務相を交代させたのは一歩前進だが、首相のポピュリズム的手法は相手国を怒らせるだけで改める必要がある。他方、EU側もある程度の債務軽減に応ずるのが賢明ではないか。

最近我が国ではE.トッドの『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』(文春新書)が書評にも取り上げられている。NATO諸国が、味方してはならないウクライナ極右翼に肩入れしたとの見解はわたしもまったく同感だが、ウクライナの反露姿勢の背後にドイツがいるというのは疑問があるし、我が国の多くのロシア問題研究家の見解とは逆である。ドイツが地続きの東欧諸国の安価な労働力を利用し、それができないフランスに差をつけていることへの苛立ちがトッドの見方に反映しているのだろうか。それにしても邦語の題名はどうかと思う (既刊書の邦訳ではないので原題名はない )。




2015年7月3日金曜日

女子サッカーのW杯

「なでしこ」チームがW杯の決勝戦に進むことになった。準決勝まではニュース報道で結果を知るだけだったが、対イングランド戦は難敵相手ということもあり、時間的にも見やすかったので始めから終わりまでテレビ観戦した。

結果的には勝利したが、やはり相手もさるものだった。相手選手のオウンゴールで意外な結末となった。オウンゴールをしたバセット選手には同情を禁じ得ないが最善のプレーと信じた上のこと、不運と諦める他ない。執念を貫いたなでしこたちを褒めるべきだろう。

しかし気の毒だったがオウンゴールで勝敗が決したことはまだ良かった。私はサッカー音痴に近いが、もし最初の日本のPKの一点で勝負が決まっていたら後味は良くなかったのではないか。解説者?の誰かが、イングランドのPKも日本のそれも違反というほどではなかったと言っていた。その当否は私には判断できないが、解釈次第で決まった勝利ではスッキリしなかったろう。今回イングランド側は、残念でも審判の判定による負けよりは納得できたろう。なでしこには決勝戦もぜひ勝ってほしいが、そうでなくとも私には何の不満もない。世界二位は文句の付けようがない立派な成績だから。

敗れたチームの国民はその後どのチームに買って欲しいと思うだろうか。以前、サッカーが弱いインドネシアの国民は自国チームの敗退後は旧支配国のオランダチームを応援する人が多いと読んだ記憶がある。私はそうなったら日本以外で一年以上住んだ唯一の国イングランドを応援するだろう。しかしオランダはインドネシア人にとって三百年植民地として自国を支配し、足かけ四年の独立戦争では流血を強いられた敵国だったが............。菊池寛ではないが、「恩讐の彼方」ということのようだ。

2015年6月29日月曜日

古書目録から感じたこと

古書店の目録の最新版が郵送されてきた。邦文書籍の専門店のカタログで、かつてはその中からたびたび注文していたが、最近は注文することも稀なのに毎度新版を送られるので恐縮である。

ページを繰っていて賀川豊彦の関係書や本人の著書が計23冊に及ぶことに気が付いた。個人として断トツに多いだろう。ある時期 ( 主に戦前 ) の賀川豊彦の人気や影響力がいかに大きかったかが分かる。しかし、23冊中文献 (伝記 )  が3冊で、あとはすべて本人の著書だった。その影響が無視出来ないはずなのに彼を研究する者が少ないのは、大衆に呼び掛けること自体を質が低いと考えたがる思想史家の体質があるのではないか。

同じことは札幌農学校の学友だった内村鑑三と新渡戸稲造の評価にもうかがわれる。「目録」の件数は両者とも10冊だったが、内村の場合は研究書 (娘の回想本を含む ) 7冊、本人の著書3冊なのに新渡戸の場合は研究書が3冊で著書が7冊である。じっさい五千円札に登場するまで新渡戸は一部の研究者を除き忘れられかけて居た。

私は思想史の専門家でも何でも無いので研究者の間での内村鑑三と新渡戸稲造の思想家としての評価の差 ( 人気の差 )に異議を唱える資格はない (内村について調べたことはない )。しかし生涯を思想家として過ごした内村に対し、台湾総督府の官僚 ( 農学者としてだが ) を手始めに官職を歴任した新渡戸、十分な教育を受けられなかった青年子女のため、一部の冷たい視線 (東大教授のくせに !)を知りながら多くの大衆向けの修養書を著した新渡戸 ( 著作だけでなく勤労青年のための「遠友夜学校」や女子教育の「スミス女学校」を設立したり協力した )が研究者の注目したがるタイプではないだろうことは想像できる。それでも内村と新渡戸はお互いを尊敬していた。

この頃は大衆文化の歴史に目を向ける研究も増えているが ( 私の大学時代の友人がエノケンについて一書を世に出した ) 、それとこれは別なのか。権威崇拝でなければ良いのだが。

2015年6月27日土曜日

年齢相応はあるはず

昨日の新聞によると、横浜の市立中学校が陸上自衛隊の演習の見学募集をした。理由は「公民」の「平和主義に関する学習と関係がある」とのことで、それに対し「子ども・教育・くらしを守る横浜教職員の会」が「中学生は兵器の威力にだけ魅力を感じてしまうのではないか」との理由で反対している。どんな演習か詳細は分からないが、反対には一理あると思う。提案した教員の意図が仮に平和教育の一環だとしても (その可能性はある )、中学生の理解力や感受性を考慮する必要があろう。

それで思い出したがしばらく前、「はだしのゲン」を残酷な描写があるとの理由で中学校 (小学校?)の図書室の開架式の書棚から引っ込めた学校がひとしきりメディアの批判にさらされた。しかし高校生には適切なことが小中学生には不適切な場合は十分考えられる。開架式の書棚から引っ込めたことが即、表現や言論の自由の制限だとは思わない。映画館でも図書室でも同じことである。

年齢制限と同じではないが文科相が式典での国旗掲揚や国歌斉唱を国立大学も実施すべきであると発言した。税金で運営されているからとの理由を挙げているが、賛成できない。

私は小中学校の式典での国旗掲揚や国歌斉唱には反対しない。国旗や国歌に敬意を表する (胸に手を当てたり立ち上がったり )ことは外国の式典では一般的なようだが、身についていないと咄嗟には出来ないものである。式典ではある程度の規律や厳粛さは必要で、教職員が国旗や国歌に不賛成だからといって座っていたら式典は台無しである。上司や外部の人間が口の動きまで監視するのは行き過ぎだと思うし、私自身は演壇の背後に大きな国旗を掲げるのは見たくない。しかし旗立に立てるとわざと見にくい位置に置いたりされる場合があると聞けばそちらも問題だと考える。

しかし、小中高学校は主として公民としての基礎的な知識を学ぶ場であるが、大学は職業に結びつく教育の場であると共に真理を探求する場でもある。極論すれば国歌や国旗をどう理解するかを根本から考える場である。税金で支えられているから国旗国歌をというのは短絡的で、自由な言論を基本とする大学にはふさわしくない。

2015年6月26日金曜日

「太平記の時代」

最近歴史再考番組が増えたようだ。老舗の「歴史秘話ヒストリア」に加えてNHKで「英雄たちの選択」が始まり、民放局でも同種の番組が誕生している。足利尊氏を取り上げた6月18日放映の「選択」を大分遅れて録画で見た。

戦前の日本の学校教育では後醍醐天皇と彼を支えた大塔宮護良親王 (いつの間にか戦前の「だいとうのみやもりながしんのう」の読みが「おおとうのみやもりよししんのう」に変わった ) や楠木正成正行父子や新田義貞は絶対の善であり、彼らと戦った北条氏や足利尊氏は絶対の悪だった。小学生の私はそれを素朴に信じ、とくに忠臣楠木正成は私にはほとんど神に近い存在だった。

戦後も相当経ってからNHKの日曜時代劇 (「太平記」?  尊氏を真田広之、正成を武田鉄矢が演じた   1991年 ) を見る頃には尊氏がそれなりに大人物らしいと聞き知ってはいたが、それでは善の化身後醍醐天皇と「建武の中興」の評価はどうなるのかと思い新書程度は読んでみた。むろん評価する資格はないが、後醍醐のめざしたものはかなり時代錯誤的な古代王政の復活だったらしいと知った。それでも私の抱く楠木正成への尊敬の念は変わらなかった。勝ち味のない戦いと知りながら、尊氏 (  正成は尊氏を評価し、彼との和睦を進言したが却下された )を相手に湊川で戦って死んだのは、何もそこまでしなくてもとも思うが、一介の土豪から側近の朝臣にとりたてた後醍醐への恩義に殉じたのはそれなりに立派だと思う。武田鉄矢の演じた素朴な正成像も悪くなかった (その好印象の影響もある? )。。

南朝の遺跡でも知られる吉野山を訪ねたのはそれよりまた後で、むろん桜見物のためだったが、出陣する正行が壁に辞世の歌をしたためたという如意輪堂だけは見たかった。もう記憶はおぼろだが、建物にはあまり正行を偲ばせるものはなかったように思う。それでも利か不利かが当然の基準のような時代には長く記憶して欲しい父子だと思う。