2022年1月31日月曜日

二つの資本主義?

 朝日新聞の土曜付録 beに『下町ロケット』の著者池井戸潤氏の「日本の工場」視察シリーズの第一回として農業トラクター製造で知られるクボタの主力工場(つくばみらい市)が2ページにわたり掲載されている。それによると2700人の従業員が勤務する同工場では30秒足らずの間にエンジンを一台作る。基本は2種類だが注文に応じ3200種類のエンジンを単一の生産ラインで作る。それらは自社の農業機械用の他に7割は他社に提供される。農業従事者は別とし私のような都会住民は、トヨタの自動車生産台数が世界一になったとメディアを通じて知っているが、農業機械を主に生産するクボタの実態や評判を耳にすることは殆どない。この分野で世界的企業が我が国で育っていることを初めて知る人は多いはず。

 農業機械のクボタと同様に土木建設機械製造ではコマツが世界の巨人となっていることを知る人は多くないのではないか。今から数十年以上前、米国のキャタピラー社が日本に進出すると新聞で知ったとき、この世界的企業に日本の土木機械製造業は席巻されると思った。それが今では地位が逆転しているのではないか? 戦後間もない頃、その権威で法王と呼ばれた一万田日銀総裁が我が国は前途が真っ暗な?乗用車生産を断念すべきだと発言した。その予言を覆したのはトヨタをはじめとする日本の自動車企業である。

  折りしも朝日新聞が一昨日まで5回にわたり「強欲の代償」と題してボーイング社の内実を暴く企画記事を載せた。最近二度にわたり同社の737MAX機が墜落事故を起こし1年10個月間就航禁止となった事実は記憶に新しい。航空機製造業の文字通り巨人である同社が部品の下請け依存(それは何処も同じ)はおろか安全設計まで社外に依存して株主の利益向上に狂奔したことが事故につながったとの結論が事実とすれば恐ろしく、最近の米国流の「株主(優先)資本主義」の不健全も極まれりの観がある。我が国の製造業にとって他山の石となって欲しい。 

 

2022年1月25日火曜日

訂正

  書いたばかりで訂正となるが、「検討中としか」は「検討中とは」の誤り。悪しからず。

テケツとは?

  昨日の朝日新聞の多摩版のページに「元白鵬は免除の『テケツ』」との見出しで現役引退後に親方となった元力士の協会内の業務が紹介されている。それによると元横綱や元大関は免除される業務にテケツがある。切符のもぎりがそれで、テケツとはチケットのこと。「テケツのほうが実際の発音に近そうだ」と付記されている。英語に限らず外国語の日本語表記は近似的なものでしかあり得ない。まして開国以後文字よりも耳で覚えた外国語は教科書通りにはいかない。メリケン波止場が好例だろう。

 中には思いもかけない例もある。『ローマの休日』で一躍トップスターとなったオードリー・ヘプバーンとローマ字表記で有名なヘボンが同一とは当初から知っていた人は居なかったのではないか。固有名詞だけではない。英語のiの発音は日本語のイとエの中間なのでミルクがメルクと聞こえたりする。bookも日本語ではブックだがボックと聞こえたりする。

 その程度なら良いのだが、太平洋戦争を終わらせるため連合国が突きつけたポツダム宣言を当時の鈴木貫太郎内閣は受諾の検討に時間を要し、とりあえずignore(無視)と回答したと読んだ記憶がある。もっと明快に検討中と答えれば広島や長崎の悲劇は避けられたろうに。これはミスと言うよりも「聖戦完遂」を叫んでいた当時は結論に達するまでは検討中としか言えなかったのだろう。それにしてももう少しマシな英語が選べなかったものか

 

2022年1月23日日曜日

コロナ対策の難しさ

  昨日、3回目のコロナワクチンの接種を済ませることができた。会場では被接種者はやはり高齢者ばかりで、そのためか市の係員?も十分な人数が配置されていた。今回のオミクロン株の悪性度はこれまでの株ほどには深刻ではないようだが、それでもやはり安心感は増した。早急に希望者全員に接種してほしい。

 欧米諸国の感染者のパーセンテージは我が国より平均して1桁多いが、テレビ画面を見る限りマスクの着用率はずっと低いようだ。その上、接種の強制は国民の自由の侵害であるとしてフランスなど激しいデモが街頭に出ている。それを見ると日本人(私自身を含めて)は従順なのか、逆に理性的なのか私にもよく分からない。

 飲食業や観光業に従事する人たちへの打撃や不安はいかばかりか。それを考えるとオミクロン株をそれほど恐れなくても良いとも思うが、ベッドタウンの多摩市でも半月で1名か2名だった感染者は昨日は73名となった。政府が緩い規制では不十分と判断しても私は批判したくない。それでも入国を希望する外国人に対する厳しさはもう少し緩めても良いのではないか。学問や技能習得の目的地として日本を選んだのは間違いだったと思わせることのマイナスも配慮しなければならない時代ではないだろうか。

2022年1月16日日曜日

謙虚さの代償?

 昨日の東京新聞の『本音のコラム』に師岡カリーマ氏が「謙虚か誇りか」と題する小文を寄せている。それによると「日本人銀メダリストが国民に謝るのはなぜという記事を海外メディアが掲載した」とのこと。氏はこれを過剰な謙虚さの表れであるとする一方、「私たちには金がふさわしいという主張ともとれる」と、うがった見方を展開している。同様に、「新幹線が僅かな遅れで謝罪するのも.........本気で信じているわけではなく、実力宣言だろう」と見る。

 私は銀メダリストに関しては 、1) 我が国のメディアが事前に金メダル候補と持ち上げすぎるためと、2) 選手が企業など出身母体から多額の支援を受けているなど、選手が謝るのは心からの場合が大半だと思う (日本の特殊性?)。 それに対し新幹線の場合、私も過剰な謙虚さだと思う(規則に則っているのだろうが)。 さらに、カリーマの「でもこの謝罪の蓄積が一部の客には過度な権利意識を与え、時にはカスタマーハラスメントにつながっていないか」との指摘には賛成する。

 「お客様は神様です」とは歌手の三波春夫の言葉として知られる(それ以前に松下幸之助松下電器社長が「お客様は王様です」と発言しているが)。神様にせよ王様にせよ、商人や公務員の心構えとして間違っているとまでは言えないが、公務員組合の調査では組合員の6割ぐらいがカスタマーハラスメントの被害を受けているという。私自身、多摩市役所で何への不満か「民間会社なら考えられない」と繰り返し何度も担当者を責める「民間人カスタマー」を見たことがある。学校ではときにモンスターペアレンツに苦しめられると聞く。公務員でも教員でも役職者はカスタマーの不当な要求に苦しむ部下の盾となってほしい。

2022年1月15日土曜日

蜜柑あれこれ

  昨日、蜜柑の収穫を全部終えた。たかが全高3メートル足らずの庭木に450個余り。鳥につつかれて無駄になった30個ほどを加えれば500個ほどになる。予想外の数だった。

 もっとも、数が多かったため店頭で見る大きさのものは半分弱だった。摘果をすればよかったのだが、桃やリンゴと異なり蜜柑の花は小さいので幾つ咲いているか、そのうち受粉したものはいくつかなど皆目分からず、手が出せなかった。やはり専業農家とは違うのだろうが、他の果物と異なりスーパーなどで袋入りで小さいのを売っているのでやはりみかんでは摘果は一般的ではないのだろうか。

 味の方は店で買うものと変わりない甘さのものと、やや酸っぱいものと半分ずつぐらいで、外見では分からない。なぜ同じ木に生り、同じ時に収穫して違いが生まれるのか。家内は日当たりの違いだろうというが、確証はない!

 古事記や日本書紀によれば、垂仁天皇の命により橘を求めよと常世の国に派遣された田道間守(たじまもり)が10年をかけて苗をもたらしたが、その前年に天皇は崩御されていた。それを知った田道間守は悲しみに暮れ天皇の御陵で自殺したという。もとより神話伝説の類と見ることもできるが、戦前の小学校の音楽教科書に『田道間守』と題す唱歌が載っており、悲しげで美しいメロディーの歌は今も覚えている。タブレット類に歌詞は載っているが、メロディーは付かないのは残念である。

2022年1月10日月曜日

ウクライナのNATO加盟は賢明でない。

  ウクライナ国の西欧への傾斜、とりわけNATO(北大西洋条約機構)への加盟希望をめぐってNATO諸国(米国を含む)とロシアの対立が際立っている。独立国の方針はその国民が決めることではあるが、その方針が賢明かどうかは全く別の問題である。私にはウクライナのNATO加盟は最も望ましくないと映る。

 現在の西側諸国とロシアの対立を、8年前のウクライナ領クリミア併合に続く一連のロシアの領土的野心の発露と見る見方は妥当でない。ロシアがクリミア半島を獲得したのは遅くとも18世紀後半の女帝エカテリーナ2世の時代であり、その後も一貫してロシア領だった。ソ連時代にフルシチョフ共産党書記長がクリミアをウクライナに所属替え?した真意は明らかではないが、移管後、ソ連解体によりウクライナとロシアが別の国になるとは誰も当時は考えなかった。

 30余年前のソ連の解体に伴いNATOに対抗してソ連が創設したワルシャワ条約機構も消滅した。本来ならソ連の侵略を防止するため創設されたNATOも同様に消滅すべきだったが、ポーランドやバルト三国など帝政時代からロシアに支配された国々の猜疑心は西側諸国も考慮せざるを得ず、東欧諸国の多くがNATOに加盟を希望し認められた。しかし、ロシアと長大な国境で接しロシアが帝政時代から自国の一部と見做したウクライナのNATO加盟はあまりにもロシアを蔑ろにする行為で、同国の西側諸国への猜疑心を肥大化させる。ロシアをそこまで軽視すべきではない。これはロシアの内政(強権的体質)とは分けて考えるべきである。

2022年1月7日金曜日

核兵器不使用の五大国声明を高く評価する!

  新年早々、核兵器を所有する米英仏中ロが、「核戦争に勝者はなく、決してその戦いをしてはならない」との五大国共同声明を発表した。 この文言はもともと冷戦下の1985年にレーガン米大統領とゴルバチョフソ連共産党書記長が発表した誓いを再現したもので私は留保なくこの声明を歓迎する。

 ところが、新聞各紙(1月5日)は声明を歓迎しつつも核兵器廃止への一歩ではないと指摘し、むしろ五大国の政治的計算が背後にあるとする。『毎日』は「非保有国の不満をそらす」との見出しを掲げ、某一橋大学教授の「核軍縮の議論を自分たちの手の届く範囲に収めておきたいという意図」との指摘を紹介する。『読売』も「軍縮遅れをかわす狙いも」との見出しで『東京』と共にICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)の事務局長の「聞こえの良い声明を書きながら、実際は正反対のことをしている」との言葉を紹介している。

 国家の主張は自国の正当化と離れ難く、この場合も五大国声明への批判には当たっている面は否定できない。しかし、私は五大国側も核問題で早急に動く必要に迫られていたと考える。核兵器が使用されるとき最初に目標となるのは他ならぬ五大国である。それだけではない。

 トランプ政権の末期、大統領の対外強硬発言を誤解しないようミリー米国統合参謀長が2回にわたり密かに中国軍幹部に大統領の暴走(核攻撃命令)に従わないと通告していたことが最近明らかになった。軍人は文民指導者に従うという民主主義国の大原則を破ったこの異常事態は核大国の軍幹部も恐怖に襲われたことを示している。

 ゴルバチョフとレーガンの相互信頼の成果である核兵器不使用宣言に再び光を当てることほど現在必要なことはない。この問題ではどんな前進も相互信頼なしにはありえない。

2022年1月4日火曜日

エッセンシャル・ワーカーにどう報いるか

  今朝の朝日新聞は社会に欠かせない労働に従事する人たちにどのように感謝を伝え報いるかの問題を取り挙げている。大変良い企画記事だと思う。

 そもそもこの問題は危険なコロナウイルスと日夜闘っている医療従事者(医師、看護師、検査技師、清掃係員など)にどう報いるかの問題が発端だったと思う。しかし、それを考えると清掃事業をはじめそれ無しでは少なくとも都会の住民の生活は維持できない人々にどう報いるかが問題となる。紙面の写真にはには台東区の清掃事業所の壁に住民がゴミ袋に貼った感謝の手紙が多数掲示されている。下町には人情が色濃く残っているからか。心温まる情景である。

 しかし、社会にはその職業に就くために必要な就学年数や習熟年数により報酬に大きな差があるのが現実であり、一般には当人の能力差のゆえと考えられている(能力主義)。 そして米国の能力主義の強さは日本の比ではないと聞く。それが同国の活力になっているのは事実だろう。『朝日』の紙面にはハーバード大学教授で最近『実力も運のうち 能力主義は正義か』(邦訳は早川書房)を書いたマイケル・サンデルも登場する。

 私は同書を読んでいないが、親の所得や学歴など言わば「教育環境」が子の能力の育成に大きく影響することは明らかだろう。逆にそうした環境に恵まれなかった人たちへの配慮は欠かせない。「能力主義」の再検討が必要ということではないか。