英国の東岸ハーリッジからのフェリーでオランダのフック・ファン・ホランドに上陸すると数両の無人の客車が待機しており、間も無くパリから来た車両と連結してモスクワを目指した。途中東ベルリンなどに停車したがプラットホームに降り立つことも許されなかった。列車内にルーブルへの両替所はなく、モスクワまで食堂車は利用できなかった。モスクワの駅には私たち一家のためソ連旅行社 ( インツーリスト )の職員が出迎え、翌日は市内観光の案内もしてくれた。外国人監視も兼ねていたのかもしれない。
モスクワからイルクーツクまでの旅は白樺の疎林の中を走るばかり。日本ならそのまま別荘地になりそうな風景だったが、流石に退屈した。イルクーツク以後ハバロフスクまでは周囲は草山ばかり。ハバロフスクからナホトカまではまた自然林となった。タイガ ( 針葉樹林帯 )は皆無だった ( 戦前のライシャワーもそう書いている )。鉄道沿線から伐採がすすんだのでは?
モスクワからは渡されたクーポン券で食堂車を利用したが、すぐロシアの食事が口に合わなくなり、車中を売りに来るボルシチを食べてしのいだ。それでも邦人を含む非ロシア人数人との交流を決して忘れることはないだろう。
ソ連邦が崩壊し軍港都市ウラジヴォストークが外国人に開放されたのでカムチャツカ半島ツアーの往復に同地に立ち寄った。シベリア鉄道の終着駅に佇むモスクワ行きの車両を見て今昔の感に堪えなかった。
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