2016年11月30日水曜日

シベリア鉄道の旅

今年がシベリア鉄道の完成100周年だという。その半ばの1967年に英国からの帰国にシベリア鉄道を利用した。当時は航空料金に割引などなく、夫婦プラス四歳児なら東京まで計100万円以上が必要だったろう。それもシベリア鉄道を選んだ大きな理由だが、明治末以来多くの文人が利用し、戦後は日本人捕虜たちが絶望に苛まれながら西へ送られた跡をたどりたいとの気持ちもあった。金銭だけなら往路に利用した横浜ナホトカ航路プラスソ連航空の料金と違いはなかった。

英国の東岸ハーリッジからのフェリーでオランダのフック・ファン・ホランドに上陸すると数両の無人の客車が待機しており、間も無くパリから来た車両と連結してモスクワを目指した。途中東ベルリンなどに停車したがプラットホームに降り立つことも許されなかった。列車内にルーブルへの両替所はなく、モスクワまで食堂車は利用できなかった。モスクワの駅には私たち一家のためソ連旅行社 ( インツーリスト )の職員が出迎え、翌日は市内観光の案内もしてくれた。外国人監視も兼ねていたのかもしれない。

モスクワからイルクーツクまでの旅は白樺の疎林の中を走るばかり。日本ならそのまま別荘地になりそうな風景だったが、流石に退屈した。イルクーツク以後ハバロフスクまでは周囲は草山ばかり。ハバロフスクからナホトカまではまた自然林となった。タイガ ( 針葉樹林帯 )は皆無だった ( 戦前のライシャワーもそう書いている )。鉄道沿線から伐採がすすんだのでは?

モスクワからは渡されたクーポン券で食堂車を利用したが、すぐロシアの食事が口に合わなくなり、車中を売りに来るボルシチを食べてしのいだ。それでも邦人を含む非ロシア人数人との交流を決して忘れることはないだろう。

ソ連邦が崩壊し軍港都市ウラジヴォストークが外国人に開放されたのでカムチャツカ半島ツアーの往復に同地に立ち寄った。シベリア鉄道の終着駅に佇むモスクワ行きの車両を見て今昔の感に堪えなかった。


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