2016年6月29日水曜日

記憶の嘘

BS放送発足いらい放送時間を空白にしないためか、海外旅行や外国紹介の番組がやたらに増えた。私は見たことはないが、イタリアの小さな村ばかりを紹介する番組もある ( あった?)。同国の都市の紹介番組はあまりに頻繁でもう珍しくないからだろう。

フィレンツェは街並みも美術館も見どころが多いので何回も番組に取り上げられている。私も二度訪れているが、美術館は最初のとき ( 1966年 )しか訪れていない。その三十年ほどのちに再度訪問したのはシエナやサン・ジミニャーノなど周辺の町を訪ねたかったから。

ヨーロッパの都市の広場は美しいものが多いが、ヴィクトル・ユーゴーがブリュッセルのグランプラスを、ゲーテ ( ? )がヴェネチアのサンマルコ広場をヨーロッパで最も美しい広場と挙げたといわれ、確かにどちらも素晴らしい ( 私個人はサンマルコ広場がベストと思う ) 。長年の友人とその話をしたら、「シエナのカンポ広場を見たか」と言われ一言もなかったので、何としてもシエナを訪れたかった。専門家ではないので大きなことは言えないが、赤煉瓦一色のカンポ広場は私には今ひとつだった。

最近フィレンツェのウフィツィ美術館の紹介番組を見ていてギョッとしたのは、ボッティチェリの有名な「春」、「ヴィーナスの誕生」を紹介していたから。私は同市のピッティパレス美術館で見たと記憶し、授業でもそう話していた。その際、両作品は思ったより小さかったと両手を半端に広げて見せていた。ところがその後見た美術本によると寸法はその倍ちかくあった。あの有名な絵が案外小さいとの最初の印象がどんどんひとり歩きし、いつしか誤った記憶となっていたのである。所蔵美術館名ともども長年授業で間違いを繰り返していたことは慚愧に耐えない。ここに謹んで訂正!

2016年6月26日日曜日

草の根の反乱

英国の国民投票はEUからの離脱を決めた。その主な理由としてメディアでは 1) 自主的決定権の回復要求、2) 移民流入反対  3) 大英帝国以来の大国ナショナリズム が挙げられている。1 と 3 はむろん関連している ( 3 が1 をさらに強める ) 。

元来EUはフランスとドイツの不再戦を担保するためのヨーロッパ石炭鉄鋼共同体に始まり、途中から米国や日本に経済的に立ち向かうための単一市場の形成が加わった。しかし現在、西欧大国の間の戦争など想像もできない。そうなれば経済のための国家主権の制限にどこまで耐えられるかが問題となる。

個人でも国民でも自分のことは自分で決めたいと思うのは自然である。まして遠いブリュッセルの高給取りのEU官僚のすることに不満が先立つのはやむを得ない。我が国では語学力不足と自国の給与水準の高さのため、国連をはじめとする「国際公務員」の人気は高くないが、ヨーロッパの若者にとっては憧れの職場のようだ。しかし、その恩恵に浴さない大衆から見れば何の有難味もない。

他方、高学歴のロンドンのサラリーマン(金融業従事者が多い )やその予備軍の学生と異なり、移民と直接に仕事口を争う大衆には移民増加はなんの有り難みも無いばかりか賃金水準の低下の原因でしかない。EU加盟の利益を享受する人たちは移民の少ない住宅地の住人だが、移民と日常的に接する大衆には前者の説く経済的利益など他人事でしかない。

英国のEU離脱は英国経済の地盤低下を生む恐れは大きい。しかし、それでも自国のことは自分で決めたい、移民と日常的に接したくないとの草の根の大衆の願いは国民投票 ( レファレンダム )制度により突如顕在化した。民主主義を信条とする限り国民投票に反対することは難しい。しかし、熟慮の政治である議会政治よりも直接民主主義が優れているとの神話は揺らいでいる。

2016年6月21日火曜日

産業デザインの名品たち

テレビのチャンネルを回していたらNHKで「プロフェッショナル   仕事の流儀」を再放送していた。以前あった「地上の星」の後継番組と言って良いのか、まだニ、三回しか見ていない。「地上の星」は昭和の「もの作り大国日本」を支えた無名の人たちを顕彰した番組で、最近の民放局では望めない良質の番組だった ( 受信料を徴収しているのだから当然かも知れないが ) 。

今回の「プロフェッショナル」は書体デザインの制作会社を興したデザイナーを取り上げていた。「自分の明朝体を作りたい」と思い立ち先の見えない冒険に中年から身を投じた氏は、転職も転居 ( 東京から福岡 ) も受け入れた夫人のことに触れたとき涙にむせんだ。何しろひらがなの一字に数十の書体のヴァリエーションがあり、私にはその微妙な違いは分からなかった。

氏のマイカーはちっぽけなフィアット500。戦後間も無くの未だ貧しかったイタリア人の愛車で冷房など付くはずもなく、氏の場合助手席は扇風機に占領されていた! 氏の仕事机にはスポーツカーのモデルが二台置かれていたので、氏のデザイン好みは自動車にも及んでいるようだ。ジブリの宮崎駿監督もやはり戦後間も無くのシトロエン2CVを愛用していた。これ以上簡素な車は有り得ないと言いたい車で、私の師の一人に「あの豚のような車は何だ」と聞かれたことがある。現代ではそれがむしろ清い、潔いと感じられる。

むかし十歳年長の日本古代史の同僚に「仏像の良し悪しがまったく分かりません」と訴えたら一言、「沢山見なさい。そうすれば違いが分かる」と言われた。その後仏像をあまり見なかったので良し悪しがまったく分からないが、クルマのデザインの良し悪しはなるほど沢山見てきたので分かると自負している! 現在のマイカーは三代目のワーゲン・ビートル ( かぶと虫 ) 。初代のビートルは二回所有したが、エアコンが付かないので惜しかったが手放した。現在のそれは流石に電子化が進んでいるが、それでもディスプレイに要求項目を入れる方式ではなく、スイッチを昔風に押したり回したりする方式が残っているので分かりやすい。車なんてこの程度で良いのだと言っても高級車が買えない負け惜しみだと言われそうだが、本人は初代ほどではないが素敵なデザインだと思っている。

書体デザイナーの一字ごとのバリエーションの違いはまったく分からなかったが、六字を連ねた「わるいやつら」の書体は本当に嫌な感じで驚いた( 今回のブログって結局自慢話なの?!)。

2016年6月19日日曜日

天草の神父

今朝のNHKテレビの「小さな旅」は「西海に祝福ありて」とのタイトルで長崎 五島列島の隠れキリシタンの末えいたちの生活を紹介していた。小さいが堅牢な石造りの天主堂はむかし信徒たちが十年かけて建てたものという。しかし現在は住民は15人とか。今後どうやって維持されるだろうか。

かつて訪れた平戸の天主堂は当然もっと大きく立派だった。裏の墓地にかつて「二十の扉」の解答者として人気があった作詞家 ( 「別れのブルース」、「懐かしのボレロ」など ) の藤浦洸の墓があった。案内人は私たち夫婦の年齢なら知っていると思ったと笑ったが図星だった!

同じ長崎県の天草もキリシタンの里であり、崎津天主堂が観光スポットになっている。奥地の大江天主堂は小さいが、吉井勇の歌「白秋とともに泊まりし天草の  大江の宿は伴天連の宿」でも知られる。一度目は一人で、二度目は友人と大江を訪れたのはそのためではなく、この地に49年間住んで1941年に亡くなったガルニエ神父に敬意を表するためだった。当時、西洋の食材など入手不可能だったろう僻地に異邦人が一人で半世紀務めた寂しさはどれほどだったか。信仰とはそれほどの困難を耐えさせるものなのか。宗教弾圧に抗して殉教した人はむろん偉いが、49年間 ( 在日は56年間 ) の孤独に耐えた人の偉さも並大抵ではない。「聖人」でなくとも「福者」に列せられてもおかしくない気がする。

2016年6月15日水曜日

不寛容社会と過剰反応社会

NHKスペシャル ( 6月11日 ) が、「炎上が相次ぐ   ニホン社会が不寛容に!?」とのタイトルで最近の世相の一端を切り取っていた。視聴者アンケートによれば 46%の人が日本が「不寛容社会」になりつつあると答えたという。

さる子供向け学習帳の表紙が46年前から昆虫の大写しの画 ( 写真?)を使用してきたが、気味が悪いとの反発を受け変更したとは聞いていた (  止めても自然界から昆虫がいなくなる訳でもないのに )。秋田の「なまはげ」も子どもを怖がらせるのはトラウマになり良くないとの批判があるとか。ある学校の二宮金次郎像は、歩きながら書を読むのではなく、腰かけて読む像に変えられた。何とも奇妙な金次郎像だったが、「歩きスマホ」が良くない以上、金次郎像も変わらなければということらしい。フォアグラ弁当は動物虐待の産物だとの反対があり、中止になったとか。

そうした「不寛容社会」の出現は裏返せば「過剰反応社会」の出現ということでもある。造る側や売る側が面倒を避けたがるのは商売である以上やむを得ない面もあるが、ある病気 ( ALSとか ) の患者支援のため有名人が頭から水を被る「アイスバケツ」というイベントが売名行為だとの非難を浴びたと聞くと論議なしに中止して欲しくないと思う。

インターネットの普及により誰でも匿名の批判が容易になり、無視できない圧力となりつつある。企業にとどまらず政治や行政もそれに引きずられる過剰反応社会は健全な社会ではないとの強い自覚が必要だろう。

2016年6月10日金曜日

映画「ズートピア」を見て

昨日、ディズニーのアニメ映画「ズートピア」を見た。一昨年?の「アナと雪の女王」ほど話題になっていないが、それでも上映期間が延長される程度の人気を集めていると制作の末端に名を連ねている長男は内容に自信ありげだった。

前作の超人気の理由がいまひとつ理解できなかった私 ( と家内 ) だったので今回それほど期待していた訳ではなかったが、登場人物 ( むろん動物だが ) が小悪人が案外善人だったり、善人のようで実は悪人だったりと意外性があったのは現実世界のようで前作より共感できた。

ズートピアとは無論ズー ( 動物園 ) とユートピア ( 理想郷。原義は何処にもない国の意とか ) からの合成語である。なぜユートピアかと言えば、草食動物とそれを食料とする肉食動物がそこでは仲良く共存しているから。確かに何処にもない国には違いない。

最近テレビで野生動物の生態を写したドキュメンタリー番組をよく上映している。そこでは残念ながら?草食動物や弱い肉食動物は必ず強い肉食動物の餌食となっている。自然界はそうして保たれていると言うほかない。いっとき、人間以外の動物は同種の仲間を殺しはしないと聞かされたが、事実に反するらしい ( 人間ほどに相互殺戮はしないと言われればその通りだが ) 。それでも我々は家畜家禽の肉を盛大に食しているし、私もベジタリアンになりたくない! 人間はせめて自分の罪深さを自覚する以上のことは出来ない。

2016年6月7日火曜日

ペルーの大統領選

南米ペルーの 大統領選は予告に反して7日午前現在も結果がわからない激戦のようだ。負けたとされる側の異議申し立てもあり得る。

およそ半世紀前、南米の国々ではクーデターは何ら珍しくなかった。その頃英国で同級だったアルゼンチン人の学生にそのことをからかったら、あれらはクーデターではなくmilitary paradeだと笑いながら反論された。じじつ流血の衝突に至ることは少なく、白人支配層の間の争いに過ぎなかった。言ってみれば南米流の政権交代の一パターンであった。

チリにアジェンデ政権が生まれた1970年代ごろから大衆の政治参加が顕著になると様相が変わった。ペルーのアルベルト・フジモリ大統領の出現もその流れの一端ではあった。今日フジモリ大統領時代の強権や独裁が非難されており、それが事実で無いとは言えないが、それ以前ペルーではゲリラのテロを恐れ裁判官は重罪判決を控えるようになっていた。法治国家は建前に過ぎず、放置すればペルーは破綻国家、失敗国家になる恐れがあった。「強権」がそれを阻んだのが実態だった。

アルベルト・フジモリ氏が大統領選挙に立候補を決意したとき、ペルーの日系人社会はそれが日系人排斥につながることを恐れた。幸いその危惧は現実とはならなかったが、白人支配層は自分たちの間のゲームを中断させられたことを未だに許していないように思われてならない。少なくとも強権や独裁をあげつらう資格が彼らにあるとは思えない。

2016年6月1日水曜日

公園か保育園か

東京の杉並区で公園を縮小して保育園を設置するとの区の計画に付近住民が反対し、区との話し合いが5時間にわたるも物別れに終わったとテレビが報じていた。保育園が騒音源になるからとの反対は各地で問題となっているが今回はそうした反対理由は少なくとも表面には出ておらず、住民の憩いの場であり子供たちがサッカーなどで遊ぶ場が奪われるというのが理由である。計画図によると「東原公園」はほぼ半分に縮小される。

発端は杉並区長が待機児童ゼロを目標に掲げたことにある。まことに立派な主張だが、それが公表されると翌年の待機児童数が2~3倍の百数十名となり、翌々年はそのまた2~3倍に増加すると予想されるという。増加は杉並区民の要望以外に待機ゼロ目標を聞き知った他区民の転入もあるらしい。その結果幾つかの公園に保育園が併設されることになった。

なぜ公園かというと設置が認可されるまで手続きに半年が必要で、一年以内に建設するためには認可不要の区有地の活用しか考えられないという。杉並区は他区に比べれば公園は多いようだが、先進国としては日本の都市は公園面積は少ないのでは。その意味では反対住民に味方したくなるが、待機児童を抱えた親たちの切羽詰まった心情にも同情する。待機児童ゼロ目標を公表した区長に現場の区職員は振り回されている印象だったが、だからと言って区長が悪いわけでもないだろう。  

ただ、反対住民の、区の計画案が地元に相談なしの突然の提案だったというのは、切迫した事情を考慮すると反対理由として無理があるのではないか。また、仮に切迫した事情がなかった場合でも、順序として先ず行政側が案を示すのはおかしいとは言えない ( 近年そうした反対理由が多い )。最終的にはやはり区民の代表である区議会の決定を待つしかないだろう。保育園は幼稚園ほど広い遊び場は必要ないなら駅に近いビルなどに設置しても良いのでは...........。