2016年2月29日月曜日

教育崩壊の責任

二十年ほど前、「学級崩壊」や「学校崩壊」がひとしきり話題を集めたが ( 河上亮一 『学校崩壊』草思社 1992 。著者を私は教えたことがある ) 、最近は「いじめ」が話題を集めている。私はどちらの問題も、教員の手を縛り過ぎて彼らの権威を低下させた結果という点で同根だと考えている。

今朝の『東京新聞』に隣市 ( 前回のブログの豆腐屋の所在地!)の56歳の中学教師が、「生活指導の信念失うな」と題した投書をしている。「最近は、親子の過剰な被害者意識、権利主張に辟易し弱体化した学校現場が激増している」一方、「昔の生活指導が今は体罰と呼ばれることもある」との指摘に私は全面的に賛成する。

戦後教育では子どもの人権の尊重が叫ばれてきた。その一半の原因は近代の欧米の教育理論の影響にもあるだろう。そうした理論はヨーロッパで長年にわたり子どもが半人前ないしそれ以下の存在として遇されてきた ( フィリップ・アリエス『子供の誕生』)ことへの反動、修正だったろう。それに対し幕末の日本を訪ねた欧米人は住民が子供を大切に扱うと一致して指摘している ( 渡辺京一 『逝きし世の面影』 第十章 子どもの楽園 )。今さら欧米の教育理論に従う必要はなかったのである。

モンスターペアレンツの理不尽な要求に対してはせめて教育委員会が毅然としているべきだった。しかし、私の見るところ各地の教育委員会は問題化以前は事態を隠蔽し、それが不可能となると一転して教員を厳しく罰することが多かった。どちらも事なかれ主義という点では同じである。親の「過剰な被害者意識」におもねるメディアに対して、現場を知らぬ無責任な批判と一蹴する教育委員会や教育長がこれまで少なすぎたのではなかろうか。私は現場の教員たちの苦境に同情を禁じ得ない。

2016年2月27日土曜日

昔ながらの豆腐屋

『朝日』の土曜版beのbetweenという読者の世論調査?に、湯豆腐VS.冷ややっこが載っている。記者と同様私も湯豆腐が楽勝と思ったら何と51%対49%。ほとんど相討ち?だった。

私自身は実はどちらも特別好みではない。やはり肉か魚の入らない鍋は淡白すぎる。偶然、余った元貨で成都空港で買ってみた四川名物の火鍋のルーで作った鍋は旨かった。淡白な人間は濃厚な味を好むのか!

それなのに一昨日豆腐屋でおからを買った ( 正確にはもらった )。私は最寄り駅の駅前の図書館で毎日新聞を読み比べているが木曜日は休みなので、土方歳三の生地が売りの隣市の図書館を利用する。そのとき車窓からすぐ近くに古臭いが趣もある豆腐屋の存在に気付いていた。もう何年もおからを食していないので、スーパーにはなくとも豆腐屋なら有る筈と立ち寄った。

今どきの豆腐店は夫婦二人で細々と営業していると思い込んでいたが、間口は狭いが奥には深い店で、驚いたことに四、五人の店員が忙しく働いていた (スーパーにでも卸しているのか?)。おからは無料で、店頭の桶から自分ですくうことになっていた。仕方なくついでに油揚げを買って格好をつけた。

国産大豆の使用を売り物にしているらしい店はあくまで古風な「三河屋」という店名だった。戦前の世田谷の我が家には三河屋が御用聞きに出入りしていたのでそれも懐かしかった。当時、豆腐はラッパを吹く行商人から買うものだったので、八百屋だったのだろうか。

便利さで言えば何でも手に入るスーパーに勝るものはないので、越してきた半世紀前にはあった個人商店は魚屋、肉屋、果物屋の順に姿を消した。いまや顔見知りの店員とやりとりすることも無くなった ( 理髪店ぐらい )。住んだ事はないがこれは米国流なのか。ヨーロッパとは少し違うように感ずるが。

2016年2月24日水曜日

米国の所得格差

最近、米国における富の極端な偏在がメディアにも取りあげられ、民主党のサンダース候補の人気の源泉ともなっている。。昨日、NHK BSの「世界のドキュメンタリー」のひとつ、「みんなのための資本論」の再放映を偶然途中から見た。

内容は主としてロバート・ライシュ氏 ( 米国の名門大学で教職を歴任し、現在はカリフォルニア大学バークレー校教授。クリントン政権で労働長官も務めた ) の講義の紹介だった。米国ではトップ400人の所得が国民の半数の所得に匹敵するとの指摘は格別新しくはないが (それにしても呆れる ) 、所得格差が最大になったのが大恐慌直前の1928年と、リーマンショック直前の2007年だったとの指摘は不気味である。リーマンショックは金融大緩和により大恐慌の時ほどの経済混乱は避けられたが、それは危機を先送りしただけとの疑惑は残る。

番組によると、所得格差拡大の原因の少なくともひとつは、最大時90%台だった所得課税がレーガン政権時代に30%台に引き下げられ、その後の民主党政権時代に少しは引き上げられたものの格差拡大に対しては無力だったという。政権交代に伴う振幅の大きさは米国政治の果断さや活力を示すとも言えなくはないが、これでは旧ソ連や現中国の支配層と庶民との隔絶ぶりを批判するのは難しい。

むろん米国では格差を批判しても罪に問われることも職を失うこともない点で上記諸国と比較すればはるかに健全だとは言えるが................。 ヒラリーは大統領就任の暁にはサンダースを政権で内政に当たらせると、サンダースは大統領就任の暁にはヒラリーに外交を担当させると宣言すべきである!   それは大統領選挙での民主党候補の勝利にも貢献するのではなかろうか。

2016年2月17日水曜日

ドストエフスキー的犯罪?

介護施設勤務の23歳の職員が三件の殺人を自白したという。『罪と罰』のラスコーリニコフを想起した人は少なくないのではないか。

なにしろ60年くらい以前に読んだだけなので記憶は確かでないし、私の理解力も不十分だったろう。しかし、貧乏学生ラスコーリニコフが金貸の老婆を、この世に生きている価値が無いと見做して殺害する大筋は間違いあるまい。金を借りていた?としても基本的には関係の薄い他人を殺害したラスコーリニコフと、介護担当者だった今回の職員とは立場に若干の違いはあるし、被害者数も違う。しかし他人 ( とくに老人 )を生存の価値が無いとして殺人に走った心理は共通していると思う。

窃盗犯でもあったらしい今井隼人被疑者のケースを一般化するのは問題かもしれないが、親子や夫婦といった関係でも認知症などで人格まで一変した場合、実行するか否かは別とし、殺意が浮かぶこともあり得ることだと思う。そうした場合も含む介護の仕事に従事する人には感謝を欠かしてはならないし、具体的には介護報酬の引き上げは焦眉の急だと思う。自分の仕事が社会から正当に評価されているとの納得感、充実感はこうした犯罪の減少に資すると思うし、現代社会ではそれは金銭的評価で表わすしかないだろう。

そうであってもラスコーリニコフ的疑問に答えるのは最終的には宗教や道徳によらざるを得ないのだろうか。『罪と罰』を再読するしかないか! いつ被害者になるかわからないし...........!

2016年2月15日月曜日

瀬戸内の港町

広島県福山市の鞆の浦の埋め立てと架橋建設計画が最終的に放棄されることになった。立案以来30年ぶりの決着とかで、その間の反対住民の運動が稔ったということだろう。敬意を表したい。

かと言って計画が当初から妥当でなかったとまでは言いたくない。自動車交通など想像もつかなかった時代のメインロードは狭く、住民の不便は大きかったろう。埋立地に車道を新設するという計画は旧道を保存することにも通じていたと言えなくもない。しかし常夜燈を備え、目前に仙酔島が横たわる港町の景観は鞆の浦を瀬戸内有数の観光スポットにしており、近代的な横断橋との相性には大きな疑問があった。なによりも時代の価値基準が変わったということだろう。

私が鞆の浦に立ち寄ったのは尾道を訪ね一泊した翌日だった。もう記憶は曖昧だが、背後の福禅寺 ( 朝鮮通信使の宿だった ) からの眺めは美しく、江戸時代の人たちと同じ眺めを見ていると思うと感慨深かった。尾道と倉敷の間という地の利もある。一見を勧めたい。

その日のうちの東京帰着に十分余裕がある筈だったが、初めての消費税導入 ( 1989年 )の二、三日前だったので名神高速道の大型トラックの数は半端ではなく、途中一泊を余儀無くされた。しかし、尾道水道の波音を聴く宿での一夜の思い出とともに記憶力の減退に抗して快い思い出となっている。

2016年2月11日木曜日

政治家への「口利き」依頼

もう旧聞だが、甘利明氏が政治資金関連の疑惑を受けて大臣を辞任した。それに対し高村自民党副総裁を皮切りに「はめられた」との声が挙がった。確かに現金授受の場面を録音したり、『週刊文春』が証拠写真を撮っていたり、不自然なことは確かだし、がんらい相手は問題のある人物だったとも聞く。しかし大臣本人や秘書が現金を受け取り申告をおろそかにしていたのなら大臣辞任は止むを得ないだろう。

ところが問題化後の世論調査では内閣支持率は報道各社の予想とは逆に上昇している。その理由は何なのか。2月2日の『東京新聞』に明治学院大の川上和久教授が、辞任発表時の甘利氏の「潔さ」「無念さ」の演出を理由に挙げている。「政治心理学」者らしい見方だが私も同感である。甘利氏の頭髪が最近とみに白さを増したのもPTT交渉が原因とは断言出来ないが、同情を呼んだのかもしれない。しかし何といっても国民が驚かなかったことが挙げられよう。

今回は金銭授受が問題となったが、多くの政治家が関係しているらしい役所などへの「口利き」は金銭が絡まなくとも問題を含む。それも有権者の側の問題である。むかし愛知県選出の代議士の某氏は土建業出身とかで選挙にはめっぽう強かった。彼も高齢となり子息が後を継いだが一期で議員をやめてしまった。同氏の耳には氏が支持者の「口利き」依頼に十分応えないこと、果ては選挙中の後援者へ提供された弁当が粗末だった?などの不平が聞こえ、政治家稼業に嫌気がさしたのだった。父親に似ない誠実そうな?風貌を思い出す。

私も知人が初めて外国に行く際、選挙区の有名代議士に現地の領事館への「声掛け」を頼んだと聞いて呆れたことがある ( たぶん、後援会員だったのだろうが )。結婚披露宴への出席依頼から子弟の就職の「口利き」まで議員に依頼する選挙民が多いとは良く見聞する。政治家を非難するだけでは済まない現実がそこにはある。


2016年2月6日土曜日

高梨沙羅を守れ!?

高梨沙羅選手がスキー・ジャンプ競技の女子W杯で前人未到の8連勝を達成した。ここでストップするとも思えない。小さな彼女のどこにそんな力がと思いたくなるのは私だけではないだろう。しかし好事魔多し。ジャンプ競技団体が彼女に不利になるように競技規則を改める可能性がある。それは無いとは言い切れないのである。

かつて日本の男子ジャンプ選手が優勢だったとき、世界の競技団体 ( ヨーロッパ勢が中心だろう ) が体格とスキー板の長さ割合を変更したりしたと記憶する。より確実なのは、ノルディック複合競技の荻原健司選手が連戦連勝していたとき競技規則を変更され ( ジャンプと距離の比重の変更 ) 彼の全盛期に突然終止符が打たれたことである。

そんな馬鹿なと言いたいが事実である。理由は日本人が一人勝ちすると観客が減少するためだった。たしかに競技団体にとっては観客数は大きな関心事だろう。最悪の場合、存続にも関わるかもしれない。しかし変更が公正さに欠けることは否めない。現在の韓国並みにゴールポストを動かしたのである。自国選手 ( ノルディック複合の場合、北欧諸国出身者が多いようだ ) 贔屓はどのスポーツにもあるが、競技団体が競技規則変更までするのが世界の現実だった。あれから20年は経つ。今度こそ女子ジャンプ競技で競技団体は公正さを示してもらいたい。

2016年2月5日金曜日

宜野湾市長選の意味

もう先月のことになるが宜野湾市長選は佐喜真市長の再選という結果になリ、普天間基地の辺野古移転反対を唱えた志村氏の敗北となった。多くのメディアは佐喜真氏の「大差」の勝利と報じたが、六千票差ということは三千人の市民が意見を変えたならば結果は逆転しかねなかった訳で、私など予想より小差だったと感じた。また多くのメディアが佐喜真氏が辺野古移転問題への意見表明を避け、「争点隠し」をしたと報じた。その指摘は正しいが、志村氏が辺野古移転反対を強く訴えたのであれば佐喜真氏の沈黙が何を意味したかは明らかだった。「争点隠し」を同氏の勝因とするならば宜野湾市民の判断力を貶めることになろう。

他方、メディアによって差はあるようだが、宜野湾市民の57%は辺野古移転反対を表明したという ( 沖縄タイムス )。基地の騒音や危険を他所に押し付けることへの心苦しさが現れたと見ることもできるが、宜野湾市民も本土の身勝手さに不満いっぱいであると理解すべきなのだろう。                 

私が予想より得票差が少なかったと考えたのは、今回も報道映像を見るたびに基地を取り巻く形の宜野湾の市民は騒音と危険を逃れようがないと感じたからである。以前に当ブログで書いたように拙宅も上空を立川基地の自衛隊のヘリコプター編隊 ( といっても2機から4機ぐらい ) が通過する間、テレビの音声は聞こえず腹立たしかったからである。たかが年に数回あるかどうかの被害?で宜野湾市民と比較する気など毛頭ないが、それが毎日のべつに続くことへの同市民の苦しみと腹立ちを想像することはできる。それを考えれば宜野湾市民の選択をおろそかに考えたくない。

2016年2月1日月曜日

カサンドラの予言

米国共和党の大統領候補者指名争いは相変わらずトランプ氏が先頭を走っているようだ。トランプ人気の理由は、その発言が粗暴でも本音を貫いていることだろう。米国では人種や性別などで差別的な本音を語ることは政治的正しさ ( political correctness ) に反するとしてタブーとされてきた。しかしヨーロッパの移民問題も同じだが現実に移民難民の犯罪率が高ければ、それが貧困や高い失業率などによる面があるとしても、彼らと職業や居住地などが重なる白人庶民層の反発は高まる。米国では富裕層は高級住宅地や極端な場合ガードマン付き住宅地 guarded area に住み経済力で安全を買うことが出来るが、それも白人庶民層の不満をかき立てる。最終的に民主党候補が大統領選挙で勝つならトランプ氏の共和党内での優位を心配する必要はないのだが、それはまだ確実ではない。

カサンドラの予言という有名な言葉がある。神から予言能力を授かったギリシャのトロイの王女が自国の滅亡を予言するが市民に聞き入れられず予言が成就したとの神話的故事から「不幸の予言」を意味する。誰もが不幸の予言を信じたくないのである。

大衆文学の作家として大成した菊池寛の初期の短編小説群は文学として評価されていると聞く。その一つの『ゼラール中尉』は、第一次世界大戦の開始がドイツ軍の自国攻撃から始まると予言したベルギー軍の将校が、ドイツが中立国ベルギーを攻撃するはずがなく直接独仏国境を越えると考える同僚たちから疎まれる。しかし彼の予言は的中し、ドイツ軍はベルギーに殺到した。だが、彼の予言が成就した時は彼がドイツ軍の砲弾により死を迎えた時だった。中尉はやはり私は正しかったと虫の息で語りながら死ぬ。

私はトランプ氏の勝利をあり得るとも考えるが、カサンドラの予言をするといつかその成就を期待する気持ちが生まれると困るので予言はしない。一方、米国社会の病弊を鋭く批判するサンダース上院議員に共感を覚えるが、彼が最終的に民主党候補となれば本番の大統領選挙での共和党の勝利、つまりはトランプ大統領の出現を生む可能性が強まると考えると................。心配もいい加減にしろ!?