2014年9月28日日曜日

御嶽山のことなど

木曽御嶽山の噴火でかなりの数の死傷者が出ているらしい。よく晴れた秋の一日を山頂で楽しもうとした人々に落ち度はない。火山とはそういう場所だと思う他ない。

噴火ではないが御嶽山では私もちょっぴり危ない目に会ったことがある。三十歳代中ごろ、やはり秋に友人と二人で御嶽山に出掛けた。木曽側から登り飛騨側に降りる予定で頂上に着いたが、天候が急変した。雨と霧の中で飛騨側の下山口に向け小一時間歩いたら山頂を一周して出発地点に戻っていて愕然とした。これ以上動くことは危険だと判断し、無人の頂上小屋で泊まった。翌日は飛騨側に向かう気力も失せ、そのまま往路を逆戻りした。

多分思い過ごしだが、遭難の文字がちらついた登山がもう一回ある。白馬山荘に一泊し翌日黒部渓谷の祖母谷温泉に向かった。数年前に逆コースでアップアップながら高度差約二千メートルを登った経験があり、下りならと油断したのだが、友人との二人( 三人?)登山と女性二人を含む数人での登山は下山とはいえ別物だった。途中から雨天となり、さらに夜になったが目的地に着けず、途中で雨中ビバーク( 緊急の天幕泊 )する他なかった。翌日下山を始めたら祖母谷温泉は目と鼻の距離だった。

御嶽山で一緒に怖い目に会った友人は、その一、二年後米国中部( カンザス州? )の大学に留学し、そこで間も無く落馬して亡くなった。なぜか説明はつかないが私は申し訳無い想いに捕らわれた。幸い夫人は遺児四人( ? )を立派に育てられ、今でも世界を旅行されておられる。私には遂に叶わなかったチベット西部の聖地カイラス山を訪ねられたと年賀状にあった。

2014年9月26日金曜日

元寇の真実

「四百余州をこぞる十万余騎の敵、国難ここに見る弘安四年夏のこと。なんぞ怖れんわれに鎌倉男子あり。正義武断の名、一喝して世に示す。」
「元寇」というこの歌は私の世代の、少なくとも男性ならかなり広く知られており、多分歌うこともできる。今朝のテレビ「英雄たちの選択」は元寇と北条時宗を取り上げていた。

1274年の文永の役と1281年の弘安の役の二度の蒙古( と高麗 )の侵攻について通り一遍の知識は持っていたが、詳しくは知らなかった。「選択」によれば、文永の役では蒙古軍の武器や戦法に無知な鎌倉政府軍は多大の損害を蒙ったが、弘安の役では前戦役に懲りて防塁などで防備を固めており、侵入軍は一ヶ月間本格的上陸ができず、やがて襲ってきた台風のため壊滅的被害を受けた。あまりに劇的な結末だったため、我が国ではこの台風は「神風」と見なされ、しだいに日本は「神国」と見なされるようになった( 秀吉の国書に既に神国日本の用語例あり )。

上陸作戦が一ヶ月間も成功しなかったことは既に失敗していたと見ることもできるという。戦時中「神国日本」を信じ込まされ「神風」を本気で期待した日本人は多かった( 私も )。三十三歳で死んだ時宗は元寇のために命を縮めたのかもしれない。彼が結果として神国日本の神話に貢献したとしてもその責任は後世にある。一つの成功例を何かと一般化したくなるのは人間の常である。のち、日露戦争の勝利もかなり奇跡的だったのに無敵日本という神話を生んだ。歌詞ほどには現実は単純ではない。

2014年9月24日水曜日

放火は重罪!

私の住む多摩市でここ数日のうちに六件の放火事件があり、新聞やテレビでも話題になっている。施主や建築業者への怨恨ならば少なくとも理解はできるが、状況からするとそうではなく、むしろいわゆる愉快犯のようだ。不気味であり、一日も早い犯人逮捕を願っている。

というのも、六件の放火現場は半径2キロの円内にあり、我が家はその中心( の、やや上方 )にある。しかも現在隣家が解体新築中で、今月29日が上棟式と聞く。さらに斜面の途中にあり、駅周辺を見おろす位置にある我が家は、愉快犯にとっては理想的?な目標である。心配せざるを得ないが、警察の捜査活動に頼るしかない。

テレビで誰かが放火は重罪だと述べていた。その危険を犯してまでの放火はそれほど愉快で魅力的なのか。こればかりは自分でやって見なければわからない! もしかすると、やっても分からないかもしれないので私はやめておく! 我が家が焼ければブログどころではなくなる。それも困る!

その昔、隣家の小屋が焼けた。単なる火の不始末が原因だったようだが、警察に隣家の夫婦仲まで質問された。今回は我が家の夫婦仲が聞かれるのか? 疑いの目で見れば何でも疑わしい!

地震、津波、水害と我が国が災害大国であることは十分承知しているが、犯罪大国ではないと信ずる。一刻も早い犯人逮捕を祈る。冗談など言っている場合ではない!

2014年9月21日日曜日

分離独立の権利

少なくとも今回はスコットランド独立は実現しなかった。私は仮にも二年近く暮らした英国の衰退を見たくないのでホッとしたが、半数近くのスコットランド人が独立を望んだのには相応の理由があったのだろう。ともあれ、これだけの大問題を流血事件も無く、言論と投票で決着をつけたスコットランド人の政治的成熟には心からの賛辞を呈したい。独立派のサモンド党首の周囲に警護の人が見当たらないのは驚きだった。

ある国の一部に全体から分離する権利があるか否かは自明のことではないようだ。英国本土に反抗した十三植民地が米国を建国した。しかし、数十年後、リンカーン大統領は南部諸州の分離を認めなかった。南北戦争は奴隷問題での対立を底流としていたが、直接には南部の分離行動が発端だった( リンカーンは多大な流血ののちまで奴隷解放に同意しなかったし、奴隷解放宣言は当初は反乱諸州にしか向けられていなかった 。反乱に加わらなかった奴隷州もあった )。「87年前、私たちの父祖は......自由に育まれ、人はみな平等であるとの命題に捧げられた国家を打ち立てた」(  ゲティスバーグ演説 )と考える彼は、その大義にあらがう権利を南部同胞に認めなかった。

自分たちは分離の権利を行使しながら、ひとたび国を作ったら分離を許さないのは矛盾している。それを正当化するためには米国は自由の国であり、他国とは違うとする他ない。( しかし、独立宣言の言う英国王の圧制とは神話に過ぎない。植民地を怒らせた法律を作ったのは議会だった )。だが、米国が自由の国ならば英国も自由の国である。キャメロン首相の前途は未だ未だ多難だろうが、私は二年前?の彼の決断はもっと評価されるべきだと思う( 私はリンカーンを心から尊敬している。ただ、彼が米国神話の補強に結果として貢献した事実を指摘しているだけである )。

2014年9月18日木曜日

誤報の責任の取り方は?

今朝の新聞の折り込みチラシの中に「ご愛読のみなさまへ深くおわび申し上げます」との朝日新聞社の詫び状?が挟まれていた。購読解約者続出という週刊誌の報道は眉つばだろうと考えていたが、そうでもないのだろうか。

一ヶ月以上前に同紙の慰安婦問題検証記事への批判的感想を当ブログに書いたのちに、池上氏のコラムの掲載拒否問題、ついで吉田原発所長の証言ねじ曲げ問題と、同紙の不始末とそれへの謝罪が続いた。私も無論それらに無関心ではあり得なかったが、他の批判者と異なる視点や事実がなければ私が書く意味は乏しいし、「水に落ちた犬を叩く」のは心ない行為のように思い、控えたかったのだが、当人たちが水に落ちたと思っていないとすれば........。

池上コラムの問題は自社への批判の抑圧という側面も重要だが、何より、批判も受忍するという出発時の約束を破った点が問題だった。当初の約束は個々の記事への批判の受忍のつもりだったのに、自社の姿勢自体への批判だったのでじたばたしたのだろう。見苦しいことではあった。これに対し吉田所長の証言の場合は明らかな事実歪曲記事であり、その上に他のメディアの指摘を逆批判した挙句の謝罪という点で見苦しい程度の事ではなかった。

私は過去の不始末( 慰安婦問題は大変な不始末だが )の責任をしばしば現在の責任者が取らされる日本的慣行?には疑問を持っているが、今回は現経営陣の行なった不始末である。記事執筆者を含め首脳陣は直ちに責任を取るべきであり、是正の筋道をつけた上で辞任などというのは事の重大さを自覚していないと言わざるを得ない。「解党的?出直し」が必要だろう。ただ、朝日新聞社には正義感を持ち恥を知る社員は多いと信ずる。私はまだ彼らによる自浄作用への期待を失ってはいない。

2014年9月14日日曜日

空の旅今昔

偶々、テレビで最近の旅客機事情のあれこれを放映していた。夕食時間とぶつかったので一部しか見ていないが、今昔の感を禁じえなかった。

私が初めて飛行機に乗ったのは三十二歳のとき。乗り物好きなのに初乗りが遅かった( 当時としては平均的? )のは、大学卒業後東京から鉄道で移動するのが適当な距離( 名古屋 )にしか転居したことがなかったから。したがって、ハバロフスクからモスクワまでのアエロフロート機が最初の飛行体験だった。四つのプロペラの大型機トゥポレフ( プロベラ・ジェット 機 )で、機体を震わせるばかりでなかなか離陸しない。やっと離陸したので思わず拍手したら、皆が一斉に拍手し大笑いとなった。私は初めてなので不安だったのだが、他の乗客( 日本人が約半数 )もソ連機に一抹の不安があったのかも。翌日、空港で独りロンドン行きのアエロフロート機に乗り換えたのだが、申し込み用紙はロシア語のものしかなく、途方にくれた。

英仏海峡は昔の人の旅行を追体験したかったのでもっぱらフェリー( 後年はホーバークラフトも )で往復したが、一度だけ格安航空便( LCC という名前はなかったが )を使った。英国の小飛行場( 大戦中多数急造された )からパリ北方のボーヴェ空港まで、DC3機に乗った。せいぜい三千メートル程度の高度を飛行するので地上に影を映しながらの飛行だった。

二度目の渡欧は九年後にやっと実現した( 当時はそんなものだった )。バンコック( ドンムアン )空港経由のタイ航空機で、当時はそれが最も格安便だったのだが、帰国時は空港でタイ航空機乗り継ぎのため早朝から夕方まで空港内に足止め。其の間二回ぐらい東京行きの日航機が出発して行き、格安便の悲哀をたっぷり味わった!

その後は航空運賃もしだいに低下したが、シベリア上空が開放されるまでは、アラスカのアンカレッジ経由便を誰もが利用した。日本食が待ちきれない人たちが空港のうどん食堂に並んでいた!運賃が低下したと言っても、それは帰国便の日付けが決まっている場合。パリの格安日本食堂には帰国まで食いつなぐため?通ってくるらしい同胞が絶えなかった。今日、パリのブランド店で買い物をする人たちのことを聞くたび、何故かがっかりする。

2014年9月8日月曜日

テニス界の王者は誰か?

夕方のテレビニュースを見たら、ほぼ全ての民間キイ局の最初のトピックが錦織圭選手のテニス全米オープンでの準決勝戦の活躍だった(無理もない)。その中で、解説役の神和住純元選手の三十何年ぶりの映像に接した。嘗ての甘い容貌は流石に過去のものとなっていたが、懐かしかった。

1970~80年代、日本男子選手の活躍の場は殆どデビスカップ戦だったと記憶する。同カップは( 三つの?)地域別に予選があったようで、当時の日本人の実力は本選出場を目指す段階が主だったかも? それ以前にも熊谷一弥、清水善造の両氏の活躍があったことは今回でも紹介されたが、彼等が有名大学出身の商社マンだったことが示すように、第一次大戦直後と現在のレベルはあまりに違う。それだけに、錦織選手の決勝進出は快挙の一語に尽きる。

それにつけても、沢松菜生子、伊達公子らが活躍した女子テニスも忘れて欲しくない。特に1996年のウィンブルドン準決勝での伊達選手のグラフとの闘いは、1対1で日没順延となり翌日、残りゲームでグラフが勝利。決勝でもサンチェスに楽勝し、テニス女王の座を守った。しかし、中止前、伊達は後半盛り返し、優勢だった。そのまま続行されていたら彼女が勝利したことはほぼ間違いなく、そうであれば彼女が日本人初の四大大会勝者となっていた可能性は大きい。私は大会の審判か運営委員長かは知らないが、グラフへの贔屓、人種差別意識のどちらかがあったと本気で疑っている。それほど伊達選手のテニスは素晴らしかった( 笑顔も!)。現在の40歳台での活躍はそれを証明している。

全米オープンの優勝賞金は3億円、準優勝でも1億5千万円とか。決勝で勝っても負けても悪くないなどと考える私は品性が低いのか!?

2014年9月6日土曜日

関西空港と成田空港

関西空港が開港二十周年を迎えたという。想定した発着数に及ばす今も一兆二千億円の借金を抱える万年赤字空港を持て余した政府は二年前に黒字の伊丹空港との経営統合を実現したが、それでも立ち直れず、今度は運営権の民間への売却を考えているという。運営権を売却した空港の例は世界で少なくないようなので一概に売却(  当然外資も名乗りを挙げるだろう)に反対するつもりはないが、赤字空港を作った責任をうやむやにして欲しくない。

そもそも関西空港の建設は、伊丹空港の騒音被害が大きいとして地元自治体が廃港を求めたことに始まる。頭上を超低空で離着陸する( 実感は頭上をかすめるに近い )大型機の映像をテレビなどで見て私などもこれは人道問題だと思った。ところが関西空港が開港すると、周辺自治体は一転して伊丹空港の廃止反対に態度を変え、今日に至った。現在、西航する機上からは、その後造られた神戸空港( これも赤字 )を含め三空港が同時に見下ろせる。とても経営的に三空港が併存できるとも思えない。

ジョン・F.・ケネディの大統領就任前の著作に「勇気ある人々 Profiles in Courage 」( 英治出版 2008、別の題名でずっと以前に邦訳本があった? )がある。実際はソレンセンがゴーストライターだったようだが、選挙民の圧力に抗して道理を貫こうとした政治家たちの列伝である( 未見 )。関西の自治体の首長にはそうした政治家は居なかったということか( 神戸空港の反対運動には田中康夫氏が加わっていた )。

関西の悪口を言うつもりは無い。関東でも多年、成田空港の発着数増加に反対してきた成田市ら周辺自治体は、羽田空港が国際化すると態度を一変させた。今は格安航空機の誘致に熱心なようだ。そのうち、あれほど反対してきた滑走路の増設にも賛成するかも。今はただ、国費投入を当てにしてくれるなと願うばかりである。

2014年9月2日火曜日

ラウンドアバウト導入は果たして有効か?

我が家から二百米足らず、住宅地の真ん中にラウンドアバウト( 環状交差点が正式名称だとか )が設置された。都内で最初( ということは日本最初? )の設置だという。昨日が正式な発足日で、雨のなか警官や警察のカメラ?が顔を見せていた。

そこは以前からロータリーと呼ばれていた場所なので実質上は大きな変化ではない。先にそこに入った車が優先するので( ロータリー時代は左方優先?)、変更点は新しく交差点に入る車は一時停止して方向指示器を左折にし、離脱する時も左折信号を出すことくらいである( と言っても暫くは警察の取締りが厳しいだろうが )。

英国で多用されているラウンドアバウトは通常もっと大きく、円内の他車( 常に右方から来る )が無ければ速度をギア一段分ほど落とすだけでストップせずに走り抜けられる。したがって信号式交差点より便利である。これからの日本の同類は少なくとも新設するならば、一時停止を求めては利点がなくなるのではないか?

フランスでも地方ではやはり環状交差点が多かったと記憶するが、パリでもドゴール広場( 凱旋門広場 )は巨大なラウンドアバウトであり、慣れたドライバーでなければ恐怖心を抑えきれない。( 何しろフランス人の運転は乱暴、良く言えば芸術的だから)  やはり英国や旧植民地のニュージーランドのように土地が平坦で広く、国民ものんびりしている国に適した交差点のように思う。はたして日本に適した交差点だろうか。